【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

薄めれば安全

2018-08-31 08:08:01 | Weblog

福島第一原発 トリチウム水の放出に反対意見多数 公聴会」(NHK)

 トリチウムは日本語では三重水素で、水素の放射性同位体です。化学的には「水素」と同じ性質なので酸素と結合したら「水」になります。だから「汚染水」から「トリチウムだけ」を除去するのは、今の科学技術では困難。だから「薄めて海洋投棄」となるわけです。
 で、福島での公聴会では
》「せっかく試験操業の実績を積み上げてきたのに、トリチウムの放出により、なし崩しにされることにおそれを感じている。さらに風評被害が上乗せされる」
》「われわれは風評の払しょくには想像を絶する精神的、物理的な労苦を伴うことを経験している。海洋放出は試験操業で地道に積み上げてきた福島県の水産物の安心感をないがしろにし、漁業に致命的な打撃を与える」

 と「反対意見」が続出したそうです。ここで私の目を引くのが「トリチウムが危険だから反対」ではなくて「風評被害がひどくなるから反対」が「反対の理由」であることです。
 ということは、国の有識者会議とやらは「福島」ではなくて「日本中の消費者」を相手に「風評対策の作戦」を展開しないといけないのでは? 「大丈夫ですよ」ときちんと全国を説明して回るの。でないと、また福島の人たち・産業が大打撃を受けることになります。説得しやすそうな所(福島)や自分が行きやすい所(東京)だけではなくて、自分が行きたくないところを行脚して回らないと、世界は良くならないように私には感じられます。

 ところで、トリチウムって生物濃縮は本当に起きないんでしょうね? でるのがベータ線だから低濃度のものが「外」にあるのなら気にしませんが、体内には取り入れたくないのでそこの所ははっきり安心感を得たい。

【ただいま読書中】『聞け! 風が』アン・モロー・リンドバーグ 著、 中村妙子 訳、 みすず書房、2004年、2800円(税別)

 リンドバーグ夫妻が1933年におこなった北大西洋調査飛行の記録です。この飛行の目的は、アメリカとヨーロッパをつなぐ商業航空路の調査でした。その6年前にチャールズ・リンドバーグがはじめて大西洋を横断したときにはその飛行は「冒険」でした。しかし同じ行為がとうとう「商業」になろうとしていたのです。考えられるルートは「北のグリーンランド・ルート」「南のアゾレス・ルート」「中央の大圏コースルート」の三種類。二人はそのすべてを調査飛行しました。本書にはその中から、アゾレスからアフリカに南下して赤道上を南米を目指した飛行について(半年間の飛行のうちの10日分だけが)まとめられています。
 スペインを出発して目指すのはポルト・プライア。フランスの大西洋横断空路の水上飛行機のための基地があるので、そこで燃料補給をしたらあとは12時間飛んで南アメリカへ。簡単な話に見えます。
 簡単ではありませんでした。
 荒波で着水に難航。出迎えの人は英語ができたりできなかったり。しかも基地の係員は高熱にうなされていて立っているだけでもしんどそう。そして基地はすでに閉鎖されてます。夫は気候の急変を心配してうろうろし、著者は社交儀礼をこなさなければなりません。風は吹き続け、時間は止まります。とうとう二人は、ポルト・ブライアからの大西洋横断をあきらめ、一度ダカールに戻ることにします。ところがダカールでは黄熱病が流行して隔離状態、と電報が。炎熱の日射と海水が飛行機の機体を腐食しようとしているように、自分も足止めを食らったこの島で腐食しつつあるのではないか、と著者は恐れを感じます。
 バサーストに一度戻って大西洋横断飛行に再挑戦ですが、13〜16時間の洋上飛行をいかに安全に完了させるか、の議論に二人は没頭します。夜間飛行は避けたい、だけどどんなタイムスケジュールを組んでもどこかに夜間飛行が入ってきます。だったら飛行過程のどこに組み込んだら一番安全? 離水と着水、搭載燃料の量、風の条件、月の満ち欠け、悪天候の可能性、積むべき備品の重さ、不時着陸や不時着水時の非常用品を減らすべきか……考慮するべき要素が複雑に絡み合います。
 朝3時半、ノックの音で夫妻は起こされます。出発の支度を始めるべき時間です。
 面白いのは、著者が(コットンのワンピースではなくて)飛行服を着たときに安堵感を感じることです。「旅に出たい」「飛びたい」の焦燥感ではなくて「さあ、出発だ」という高揚感がこちらにも伝わります。しかし、風と水面の状態と機体の重さが上手く揃わず、離水は失敗。「なら、真夜中に発とう」とリンドバーグ大佐は決断します。しかしそれも失敗。「ならもっと重量を減らそう」。そして「風」が変わります。
 飛行中著者は主に無線(モールス信号やアマチュア無線)を担当していますが、夫が天測をするときなどは操縦を代わります。ユーティリティープレイヤーですね。しかし、座席の下に開けられた穴から銅線を垂らしたものが「無線のアンテナ」だというのには私は驚きました。錆びて腐食することを防ぐために普段は格納しておく、ということなのかな? しかし着水の時には大急ぎで巻き上げる必要があるのですから、無線担当も大変です。離水してから15時間55分後、機はナタールに無事到着します。
 『翼よ、北に』でも感じましたが、著者の文章には「飛ぶこと」がたっぷり込められています。サン=テグジュペリが「彼女は飛行機について書いているのではなく、飛行機を通して書いているのだ」「十分なる高みにおいて書いているのである」と述べたわけも、本書を読めばわかります。
 なお本書の左下に「パラパラ漫画」があります。いや、「飛行のロマン」がここだけでも味わえます。実はこの漫画の内容も本書の内容と軽くリンクしています。余談ですが、本書がデジタル化されたとして、このパラパラ漫画はどう再現するんでしょうねえ。


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カメラが写すもの

2018-08-30 06:26:16 | Weblog

 「写真」とは「真実を写す」と読みたくなりますが、実際に私たちが見ているものは「紙(またはモニター)に定着させられた『光』」です。光を定着させる、とは、真実を写すことに負けず劣らず、すごいことです。

【ただいま読書中】『絶滅の人類史 ──なぜ「私たち」が生き延びたのか』更科功 著、 NHK出版新書541、2018年、820円(税別)

 人類に一番近縁の動物は、チンパンジーとボノボです。しかしヒトとチンパンジー(やボノボ)の間には“大きな溝"があります。それはなぜか。実は両者の間に25種類の「人類と近縁の種」がいたのですが、それがことごとく絶滅してしまったから“大きな溝"があるように見えるのです。
 ヒトが他の動物と大きく異なることの一つが「直立二足歩行」です。しかし、もしも「直立二足歩行」が「生存に有利」なのだったら、なぜ他の動物がそれを採用しなかったのでしょう(たとえば「飛ぶ」は、昆虫、鳥、コウモリなど複数の動物が採用しています)。それは「短距離走が遅い」という致命的な欠点があるからでしょう(カバでも短距離ならウサイン・ボルト並みに走れます)。ではヒトはなぜ“それ"を採用したのでしょう?
 ヒトが直立二足歩行を始めたのは約700万年前、頭が大きくなり始めたのは250万年前です。直立二足歩行をするホモ・エレクトゥスがアフリカから他の地域に移住をした後、アフリカではホモ・ハイデルベルゲンシスが発生。この種からのちにネアンデルタール人や私たちが進化したのではないか、と言われています。ヨーロッパのネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスとの生存競争に敗れて滅亡したことが、私たちの“負い目"のように語られることがあります。しかし、ネアンデルタール人もまたヨーロッパでは生存競争でホモ・ハイデルベルゲンシスを滅亡に追いやっていた過去を持っています。
 脳の容量は、ネアンデルタール人は1550ml、1万年前のホモサピエンスは1450ml、そして現在の我々は1350ml。巨大な脳を維持するためにはエネルギー(=食糧)が余分に必要です。ではネアンデルタール人は何のためにこの巨大な脳を維持していたのでしょう? 著者は「『言葉によらない発想』や『非常に優れた記憶力』など、証拠が残らないメリット」があったのではないか、と想像しています。「適者生存」と言いますが、他の「ヒト」がことごとく滅びて私たちが生き残ったのは「優れていたから」ではありません。「環境に適応して、他の種よりも多くの子孫を残せたから」です。その過程で、他の「ヒト」の遺伝子を取り込むことまで私たちの祖先はやっています。そして「私たちの未来」はどうなるのでしょう? このまま同じ生存戦略(他の種を滅ぼし続ける)でやっていくので良いのでしょうか?


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厚労省を調査するのは、誰?

2018-08-29 07:02:56 | Weblog

 民間企業に「障害者雇用をしろ」と旗を振っていたはずの中央官庁や全国の自治体が、自分たちは障害者雇用をちょろまかしていたそうです。で、“元締め"の厚生労働省が調査をしているそうですが、厚生労働省自身も「身に覚えがある」わけです。だとしたら、発表された「数字」の信頼性は、一体どのくらいなんでしょうねえ。今までの省庁の「伝統」から言ったらしばらく経って「実はまた別の書類が出てきました」になるんじゃないの?

【ただいま読書中】『米墨戦争前夜のアラモ砦事件とテキサス分離独立 ──アメリカ膨張主義の序幕とメキシコ』牛島万 著、 明石書店、2017年、3800円(税別)

 「アメリカには3つの『リメンバー』がある」と本書は始まります。「真珠湾」は私も知っていますが、残りの二つは「アラモ砦(1836年)」と「メイン号爆破(1898年)」だそうです。
 私にとって「アラモ砦」は「デイビー・クロケット(の歌)」くらいしか思いつけないし、「メイン号」はキューバの歴史の本でそんな名前が出てきたなあ、程度の教養しかないので、とりあえずアラモ砦について知ることから始めることにしました。
 1821年スペインから独立したメキシコは、面積ではUSAよりも大国でした。領土のテキサス(当時はただの荒野)を開発するためにアメリカからの移民を大量に受け入れましたが、やがて入植者は分離独立運動を始めます。それに対する弾圧の“記念碑"となったのが「アラモ砦」です。
 アメリカ独立期、連邦派と州権派の対立がありました(これがのちの南北戦争の遠因となります)。「ホワイトネス」(白人の優秀性とそれに付随した人種差別思想)が興隆し「野蛮人(アメリカンネイティブ)」は「征服」「教化」の対象でした。そこでミシシッピー川以西に白人が進出し、それによって「白人国家」が強くなることで連邦制を維持しようとする動きが生じます。しかし1819年アダムズ=オニス条約で、米国はスペインからフロリダを割譲されるかわりにテキサスへの進出を断念することになっていました。また、衰退するスペインに代わって中南米支配を英国が目論んでいました。アメリカとしてはメキシコはともかく英国との正面対決は避けたいところです。
 しかしテキサスには進出をしたい。そこで「国」としてではなくて「民間人」が進出することにします。「アメリカ」では望めない広大な土地が得られる魅力が、多くのアメリカ人をテキサスに引きつけました。しかし急激な「アメリカ人」の増加に危惧を抱いたメキシコは、1829年に奴隷制の禁止、ついで30年にアメリカからの移民を禁止します。しかしアメリカからの不法入国者はどんどん増えていきました。
 メキシコでは、1824年に立憲君主制から連邦制に基づく共和制国家となりましたが、当然のように国内は政治的に大揺れに揺れていました。テキサスの独立運動はその「揺れ」の一つ、と見ることも可能です。ただ、USAとメキシコという、お互いに“若い"共和国の“境界"に位置していたことが、テキサスの運命を左右することになります。
 メキシコから見たら、テキサスは単なる“僻地"で特に魅力はありませんでした。しかしその分離独立運動は「反政府運動」ですから、弾圧の対象となります。さらに政権の基盤は脆弱で、大衆迎合的な政治となり、ついに連邦制は廃止が決定されます。しかしそれは、テキサスに直接の影響を及ぼすことになりました。「中央vs地方」「地方の軍閥の対立」「地方の政府支持派と反政府派」などが絡むのでもう何が何だかわかりません。しかし混乱しきった状況は、テキサス独立を目指す「アメリカ人」には絶好の機会でしかありませんでした。騒動は暴動に、暴動は蜂起へとエスカレートします。
 テキサス人民軍(入植者からの志願兵と不法にやってきた義勇兵)は、鎮圧に来たコス将軍の軍を破り、コス将軍はアラモ砦から撤退しました。テキサス軍はそこからマタモロスに遠征を試みますが、アラモ砦の守備は手薄となりました。そこにメキシコ軍が再度やって来ます。テキサス軍の指揮官はアラモ砦の爆破を命令しますが、現地の守備隊はそれを拒否。メキシコ軍が第一の目標としているのがわかっていて、そこで頑張ろうとしたのです。
 アラモ砦の籠城者たちは、アメリカの歴史では神格化されています。うっかり“悪口"を言ったらエラいことになるでしょう。しかし、その実態はどうだったのか、と研究は当然されています。それによると、アラモ砦を最後まで防衛して絶命した180余名のうち4割程度が不法戦士だったようです(ニューオーリンズで登録してからテキサスに入った人が多くいました)。しかし、2000人以上のメキシコ軍に対して、あまりに寡兵です。再三の援軍要請は無視されましたが、これって、見殺しってこと? さらに、籠城した戦士たちの背景に「それまでの人生での大きな失意」がちらちら見えます。アラモ砦では「メキシコ軍が虐殺をした」が普通の見方ですが、籠城側は最初から死を覚悟し味方はそれを見殺しにしたのかもしれません。
 なお「砦」と言いますが、もともとは伝道所、のちに爆薬庫として使用された駐屯地で、「城」でも「砦」でもありませんでした。そこに「籠城」するのは、戦術ミスと言えるでしょう。実際、戦闘開始から1時間で決着はついています。
 戦いのあと、アメリカでは、アラモ砦で「虐殺」をおこなったメキシコの大統領・最高司令官のサンタアナの非人道的な「残虐性」が喧伝され定着しました。さて、実際のサンタアナはどんな人? 実は彼は、奴隷解放論者で、実際にテキサスでの奴隷売買も禁止していました。アラモ砦に籠もった白人が、奴隷を所有し先住民を虐殺していたことを思うと、私の頭の中にはでっかい疑問符が生じます。ついでにサンタアナの立場からこの事件を見ると、「義勇兵の虐殺」は「不法武装入国者や国家反逆をした人間の即決処刑」になります。私は別にサンタアナの弁護士をするつもりはないので、これくらいにしておきますが、当時の白人から見たら「メキシコ人」が何か言ってもそもそもその人は「真っ当な人間」とは扱うべきではない、ということだったのかもしれません。おっと、過去形ではなくて、トランプ大統領などは現在進行形でそう考えていそうですね。
 のちにサンハシント(英語ではサンジャシント)の戦いで「アラモを忘れるな」のテキサス軍の「報復」によって630人のメキシコ兵が虐殺され、テキサスは独立して「テキサス共和国」になりました。すぐ「アメリカ」にならなかったのは、スペインとの条約を形式的に守るためかな。そして9年後にアメリカに併合、それからアメリカはテキサスよりさらに西の広大なメキシコ領を狙っての米墨戦争を起こします。そのときも「アラモの砦」は一種の「神話」として機能しました。
 そういえばハワイ王国でもたしか最初は「アメリカ人の移民」が入って、そして……というやり口でしたね。だから逆に「他国からの移民が個人的なものならともかく、組織的なものは排斥する」のかもしれません。自分たちがやったことを自分たちにされるのは、これは嫌でしょうから。



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ほぼ確定した未来

2018-08-28 06:53:51 | Weblog

 子供には過去はないが未来があり、老人には未来はないが過去はある、と言うことはできますが、本当でしょうか? 「子供の未来」は確率的に老人の未来よりたくさんありますが、内容はまだ確定していません。老人にも未来はありますが、それはすでにほぼ確定しています(病気の確率が高まること、年金は減るだろうこと、そして具体的な「死」)。
 その「確定した未来」から目を背けるために老人は過去に注目するのかもしれません。

【ただいま読書中】『中尊寺と平泉をめぐる』菅野成寛 編、小学館、2018年、1300円(税別)

 奥州藤原氏は、「京(みやこ)の真似」ではなくて、平安仏教文化を独自のビジョンで取り込み、地方社会で初の仏教都市を現出させました。その「平泉文化」について紹介する“ガイドブック"です。
 中尊寺金色堂は天治元年(1124)に上棟された三間四方の阿弥陀堂ですが、内外の壁すべてに金箔が押されて極楽浄土の再現を試みています(これは日本では唯一の建築遺構です)。
 「蝦夷」討伐によって東北は中央政府の支配地となり、平泉に赴任した藤原清衡は天台宗をベースとして中尊寺を建立します。その建物群で現存するのは金色堂だけです。ちなみに江戸時代にここを訪れた松尾芭蕉は「五月雨の振りのこしてや光堂」という句を残しています。(「夏草や兵どもが夢の跡」の方が有名かもしれませんが)
 三代目藤原秀衡は、無量光院とその借景としての金鶏山とが一体となって現世と来世を表現するようにしました。自然景観と宗教空間の融合は史上初のユニークな試みだそうです。私のような不調法な人間が写真を見ても「なんだかすっきりきれいだなあ」と感じるので、本物を見たらどう感じるのかな、すっかり“ガイドブック"に乗せられてしまったような気がします。



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精神力

2018-08-27 07:09:49 | Weblog

 スポーツの世界で「精神力」を力説する人がいますが、私はそれに対して否定的な見解を持っています。もし精神力ですべての勝負が決まるのなら、肉体的な鍛錬なんか不要になっちゃうでしょ? 筋肉トレーニングや動体視力のトレーニングなどは無駄で、寺で座禅でも組んだ方が金メダルに近くなる。
 ただ「例外」が二つある、とも私は考えています。
1)体力や技術が互角で試合がぎりぎりまでもつれている場合。この場合には精神力の差が勝負を決めるでしょう。
2)チーム競技で、個々の力では劣っていてもチームワークによって勝負をする場合。
 ……他にあるかな?
 どちらにしても「体力・技術」は各個人の許容範囲一杯まで上げておくこと、は大前提ですが。

【ただいま読書中】『敗れても敗れても ──東大野球部「百年」の奮戦』門田隆将 著、 中央公論新社、2018年、1600円(税別)

 昭和20年1月、最後の官選知事島田叡は大阪から沖縄に赴任しました。地上戦が始まる直前のことです。戦場となった沖縄で、県民を守るために食糧確保などに奔走し、台湾や沖縄北部への疎開を進めて20万人の命を救ったと言われています(対馬丸撃沈などを受けて軍が止めていた九州への学童疎開も再開させました)。そして6月、摩文仁の激戦地で消息を絶ちました。遺骨は見つかっていません。彼は「沖縄の島守」と今でも慕われているそうです。(ちなみに前任の知事は、那覇の大空襲後、自分自身に本土への出張を命じ、その出張中に香川県知事を拝命しています。つまり、一人だけとっとと逃げたわけ)
 負ける(死ぬ)とわかっていて、なぜ赴任し、なぜそこで全力を尽くしたのか。著者はまずそのことに疑問を抱きます。そして島田が東京帝国大学野球部で活躍していたことを知り、著者の興味は「東大野球部」へと向かいました。東大野球部もまた「負ける」とわかっていて全力を尽くし続けています。「何か」が“そこ"にあるのかもしれない、と。
 島田は神戸二中で俊足巧打の外野手として鳴らしていました(陸上部の助っ人として大会に短距離の選手で出るくらい足が速かったそうです)。第三高等学校(現在の京都大学教養学部)、東京帝大でも一目置かれる野球選手でした。そして高等文官試験に挑むため退部を申し出たところ、回り中が「君に辞められたら部が成り立たない」と説得。というのも、当時東京「五大学リーグ」が最後の「六校目」をどこにするか検討中で、参加の条件が「対外試合の成績」だったのです。島田が抜けたら東大の成績ががた落ちになることは明らか。そこで島田は、高等文官試験の受験を1年延ばして、野球に専念することにします。大正13年10月23日、京都帝大(学生、実業団の中でも強さを知られた強豪チーム)との試合で島田は決勝点を奪い、翌年東京帝大は五大学連盟への加盟が認められました。卒業後島田はまず下級官吏として仕事をしながら受験勉強をし、結局試験に合格して内務省に入っています。
 沖縄で、島田は県民たちに「生きろ」と命じます。そして、壕の中に折り重なる死体のそばを通る度に合掌を忘れませんでした。義と勇の人、という印象です。
 「野球」は東京開成学校で始まりました。この学校はのちに東京医学校が合併して東京大学となりますが、その予科として創設された第一高等学校でも野球は盛んに行われました。明治半ばに「野球最強」は一高べーすぼーる部(ひらがな表記が正式名称)だったのです。忘れてならないのは、当時の「エリート」は同時に「バンカラ」でもあったことです。血の気の多い選手や応援団によって試合は果たし合いの様相を示し、時に血を見ることもあったそうです。ちなみに正岡子規も「ベースボール部」に所属していて「野球」の命名者と誤解されていますが、実際に「野球」と翻訳したのは中馬庚(ちゅうまかのえ:やはり一高べーすぼーる部所属)だそうです。なお中馬は命名者としての功績で昭和45年に野球殿堂入りをしています。
 しかし、早稲田や慶応なども野球に力を入れるようになると、相対的に一高の「強さ」は減退、さらに東京帝大に進んだものは学業の厳しさからほとんどが野球から離れます。ときどきすごい選手が入部してきて、その間は他の大学相手に善戦をするが、長続きはしない、という状態が続きました。昭和21年春、まだどの大学も陣容が整わない中で再開されたリーグ戦は、各カード1戦のみという変則的なものでしたが、東大は4連勝。最後の慶応戦に勝てば初優勝、でしたが、残念ながら0対1で敗戦、準優勝。惜しい。
 そこから東大野球部は長い低迷期に入ります。昭和32年に岡村甫(はじめ)というひょろっとした投手が入部してくるまでは。当時の六大学は、エース杉浦忠、サード長嶋茂雄を擁する立教の天下でした。岡村は「甲子園には出られなかったが、東大ならレギュラーにすぐなれるだろう」と甘い期待で入ってきましたが、東大野球部が頭を使ったきわめて高度な練習をしていることに驚きます。のちに岡村は「東大野球部始まって以来の大投手」と呼ばれるようになり、のちに野球部の監督も務めますが「10年に一人は優秀な投手が入ってくるから、それに備えてチーム力の整備を」とチーム作りをしたそうです。
 そして昭和56年春神宮球場に「赤門旋風」が吹き荒れます。立役者は「普通の投手」の大山雄司。「六大学で野球をしたいが、東大だったらレギュラーになれるかも」と東大を志望した人ですが、彼が入学した昭和53年に東大は35連敗。ただ、大山の同期には「野球がやりたいから頑張って東大に入った」選手が数多くいました。そしてこの学年が力をつけるにつれ「何か」が起き始めます。なお、この世代のレギュラーの野手のうち6人が卒業後社会人で野球をやっています。つまりこのとき東大野球部は「大学野球のレベルでは強豪チーム」になっていたのです。相手をする方は大変です。「東大に負けたら恥」「東大に負けたら優勝できない」状況に追い込まれてしまったのですから。「初優勝」がちらつき始めた立教戦で東大の前に立ちふさがったのが立教のエース野口で、「初優勝」は夢と消えてしまいます。現在NHKのキャスターをしている大越健介は、この赤門旋風の年に入学して「東大野球部は“強い"」と刷り込まれ、主戦投手として8勝(27敗)を上げることになります。
 しかし平成には80連敗も。在学中の4年間、1勝もできなかった人もいます。甲子園のスター(やプロ野球選手の卵)がずらりと揃う他のチームに実力では明らかに劣っていて、それでも「勝つための努力」を続ける人たち。「勝つための重圧」と当時のキャプテンは言っていますが、普通の精神力ではたぶん耐えきれないくらいの精神的な重圧だったことでしょう。連敗記録が86となり「100連敗したら東大は六大学リーグから脱退」なんて噂まで囁かれるようになったとき、新キャプテンは「勝ち点3を目指す」とチーム方針を打ち出します(そのためには最低6勝が必要)。部員はみな驚きますが、同時にその目標を達成するためには何をしたら良いだろう、と考え始めます。そういえば桑田さんが特別コーチで東大チームを指導したのはこの時期だったのを私は覚えています。
 平成27年94連敗で迎えた法政戦。本書ではまるで実況中継のように試合経過を描きます。はらはらドキドキの試合展開を読んで、私は静かに興奮します。
 強豪私学のチームは「1勝」で興奮や狂喜乱舞はしません。ならば東大野球部が“それ"にそんなに重きを置くのは、なぜでしょう? おそらくそれが「野球」なのでしょうね。野球の魅力の「原点」を、私は本書で再確認できたように思います。


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カーボンニュートラル

2018-08-26 07:58:16 | Weblog

 石油や石炭を燃やして二酸化炭素が発生したら、それは「新たに付加された地球温暖化ガス」だからまずいけれど、木材を燃やして二酸化炭素が発生しても、それはもともと大気中にあったものをまた大気に返すだけだから「カーボンニュートラル」で問題なし、なのだそうです。
 だけどこの表現には、微かな欺瞞が含まれているように私には思えます。木材を燃やしても、それと同じだけの木材を育てる(つまり大気中の二酸化炭素を吸収させる)のだったら帳尻は「ニュートラル」になるでしょう。しかし、切って燃やす一方で植樹をしなかったり森林の成長をさせなければ、結局大気中の二酸化炭素は増える一方になってしまいません? 木材を燃やしている人たち、その分だけせっせと植樹や森林の手入れをしています?

【ただいま読書中】『考古学のための法律』久末弥生 著、 日本評論社、2017年、2600円(税別)

 明治維新によって日本の文化財は危機的状況におかれ、それに対して明治30年(1897)「古社寺保存法」が制定され、ここで「国宝」制度と自力で維持困難な社寺への補助が始まりました。「古社寺保存法」は名前の通り「社寺」という有形のものを保護する法律で、遺跡・名勝地・動植物などの保護は、大正8年(1919)の「史跡名勝天然記念物保存法」からです。この法律の背景には、国土開発による史跡などの破壊がありました。社寺以外が所有する有形文化財については昭和4年(1929)に「古社寺保存法」が「国宝保存法」にかわりました。この法律では国宝の輸出を禁じましたがそれが守られないため昭和8年(1933)「重要美術品等の保存に関する法律」が制定されました。1950年に「文化財保護法」が制定されましたが、これは前年の金閣寺消失が契機となったそうです。
 文化財が「危機」に陥るたびに後手で法律が制定される、という流れのようですが、たとえ後手でも守ろうとするのは良いことと言えるでしょう。ただ、「文化財保護法」に「発掘の費用負担」についての明文規定がないのはいただけません。開発業者が地面を掘ったら文化財が出てきたら、届出義務があります。すると行政からは「発掘調査をするように」という行政指導がされます。しかしそのコストは業者持ちです。法的には「国が出す」とは書いてない。しかし行政指導を業者が受け入れたのだから、受け入れた業者がその「責任」で費用を出すべきだ、という判決文を読むと、その屁理屈ぶりに頭が痛くなります。ついでに、こんなことばかり言っていたら「届け出たら損をするから、見なかったことにしよう」と遺跡破壊が進行するばかりではないか、という危惧も私は覚えます。国は「文化財は大切にしたくない」と主張しているように私には見えるのです。だって「文化財を大切にしない人間」の方が“得"をするように法が整備されていませんか?
 博物館には博物館で別の法制があります。「博物館法」「教育基本法」「社会教育法」などの国内法制に加えて、ユネスコの下部組織の国際博物館会議(ICOM)の規約にも大きな影響を受けます。ちなみにICOM規約では「博物館」は「ハコモノ」ではなくて「機関」だと定義されています。金と権力が最優先の「えらい人」には理解できない概念かもしれませんが。
 各国の博物館の法制についても本書で紹介されていますが、「アメリカには博物館法がない」のには驚きました。私有財産の保護が最優先なんですね。
 考古学と都市計画、考古学と公有地の関係を調整するにも法律が必要です。ただ、学術と文化と(資本主義)社会をうまく調整するのは、なかなか大変そうです。まずは国会議員に教養をたたき込むところから始めないといけないのかな? できたら義務教育でそういったことをやっておくと良いのかもしれません。


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2×2

2018-08-25 07:26:42 | Weblog

 「尊敬する/軽蔑する」と「好き/嫌い」とは、それぞれ別の独立した事柄です。つまり「尊敬するが嫌い」や「軽蔑しているが好き」もあり得ます。

【ただいま読書中】『コンスタンツェ・モーツァルト ──「悪妻」伝説の虚実』小宮正安 著、 講談社(選書メチエ)、2017年、1850円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4062586479/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4062586479&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=c0f9619530003053afbbb9fbfc02eab2
 モーツァルトの妻コンスタンツェは「悪妻」として知られています。しかし、それは、本当のことなのでしょうか? 著者はその疑問を掘ってみることにします。
 たとえば「モーツァルトの墓所は不明だが、コンスタンツェは立派な墓に入っている」ことが悪妻の証拠の一つとされます。本当に?と著者は調べ、実はそれが何の証拠でもないことを明らかにします。
 コンスタンツェの父はフランツ・フリードリン・ウェーバーで、その弟の子の1人がかのカール・マリア・フォン・ウェーバー(オペラ「魔弾の射手」や「舞踏への招待」を作った作曲家)です。大学の法学部を出て地方役人として勤めていましたが、雇用主である男爵と訴訟沙汰になってマンハイムに出てきて宮廷劇場で音楽家(脇役クラスの歌手、プロンプターや写譜係)として勤務しましたが、その娘たちはいずれも語学と音楽の才能が豊かな人ばかりでした。モーツァルトの父レオポルトも大学で法律を学んでから音楽家になった、という点でフランツ・フリードリンと似た経歴と言えそうです。
 常にモーツァルトに同行していたレオポルトではなくて母が同行してマンハイムに求職運動にやって来たときに、モーツァルトとウェーバー家は出会いました。モーツァルトは次女のマリア・アロイジアを恋するようになります。それを知ったレオポルトは激怒。ウェーバー家に対する嫌悪を抱き、モーツァルトにはパリに行くように命令をします。パリでモーツァルトの母は死去。アロイジアはミュンヘンの宮廷劇場で売れっ子の歌手となりモーツァルトとの仲は破局(真相は、2人とも明確に語っていないため、謎です)。アロイジアはウィーンの宮廷劇場の第一宮廷歌手に抜擢され一家はウィーンに移りますが、そこでフランツ・フリードリンが死去。アロイジアは結婚。残されたフランツ・フリードリンの妻のチェチーリアは「下宿屋」を始めますが、そこの住人になったのがモーツァルトでした。失恋したあとでもモーツァルトはアロイジアの歌手としての才能を高く買っていて、彼女のためのアリアを何曲も書いたりして、ウェーバー家との繋がりを維持していたのです。そして、レオポルトの反対を押し切って、四女のコンスタンツェとの結婚をしてしまいます。次女との恋が駄目だったから、四女と? ともかくレオポルトはますます頑なにコンスタンツェ(とウェーバー家)に対する否定的な感情の塊となってしまいました。そして、レオポルトの手紙(実に豊富に残っています)には「コンスタンツェに対する不信感」が充満することになってしまいました。
 では「実際のコンスタンツェ」はどのような人だったのでしょう? ここでネックになるのが一次史料の貧しさです。モーツァルトとレオポルトがやり取りした手紙には「コンスタンツェ」がたびたび登場しますが、一方は「肯定」もう一方は「否定」のバイアスがかかっていますから、どこまで手紙の内容を信頼して良いのかが難しい。
 コンスタンツェには「主婦」としての能力がない、という意見についても著者は疑問を持ちます。当時のモーツァルトの生活は、使用人を置き家庭で演奏会や舞踏会を開催するというものでした。そこで要求される「主婦」の能力は、使用人を管理し、演奏会や舞踏会で女主人として客をもてなすものです。また「金銭感覚」は、当時は「無い(宵越しの金は持たない)」が普通でした。コンスタンツェの父も祖父も、金銭感覚が無い男爵との係争に疲れ切る人生を送っています。
 早すぎるモーツァルトの死のあと、コンスタンツェは残された莫大な借金返済義務を負い、残された家族を守らなければなりませんでした。そこで見せたしたたかな態度が「悪妻伝説」をさらに盛り上げることになります。ただ、膨大な直筆楽譜を上手に「商売」にすることで「優れた作曲家の一人」でしかなかったモーツァルトを「偉大な作曲家」に押し上げた手腕は、実に大したものです。モーツァルトの才能と楽曲の素晴らしさに深い理解を持っていなければ、できなかったことでしょう。さらに「歌手」としてモーツァルトのオペラなどの普及にも尽力しています(1795年には有名歌手の姉アロイジアと共演でドイツ各地に演奏旅行に出かけています)。この「モーツァルトで金儲けをした」ことも「悪妻伝説」の一つの材料です。
 1797年に、デンマーク公使館付き書記官のニッセンと出会ってそれから10年後に再婚したことも「悪妻伝説」の一つの材料となっています。しかし、1802年に描かれたコンスタンツェの肖像画で、彼女が手に持っているのは「モーツァルト作品全集」です。
 ところで「悪妻」とは、何でしょう? 「ひどい妻だ」と夫が嘆き悲しんでいるのだったらわかりますよ。だけど、他人が「あの女はあの男にはふさわしくない」と断言できるのは、なぜ? いや、「証拠」があるのだったらまだ良いです。その証拠さえ無くて思い込みで主張した場合、その「他人」は「モーツァルト」に対して、何を主張しているのでしょう? もしかして「モーツァルト」について意味のあることを十分に語れないから、「語りやすい悪妻」について語っている、とか?
 本書には次の一文があります。「コンスタンツェをいかに語るかという姿勢のなかには、それを語っている当人の本性が必ずや滲み出ている」。


地球平面説

2018-08-24 08:10:55 | Weblog

 いまだに「地球は平面だ」と信じている人がいるのが私には不思議ですが、考えてみたら「地球平面説」の人はある意味「物知り」なのかもしれない、と気づきました。だって「自分の家の周囲しか知らない人」の場合「平らかどうか」以前に「世界」という概念も持っていないでしょう? つまりその人にとっては「地球は平面かどうか」でさえ、意味がわからない立問になってしまうわけです。ということで、「地球平面説」の人は、「地球」「世界」「平面」という概念を獲得している点で、大したものだ、と言えそうです。ただ、地球が平面だったら、たとえば「月食」がどうして起きるのかをわかりやすくきちんと説明してもらいたいのですが(他にも説明してもらいたい事柄はいくつかありますがとりあえずこれだけでも良いです)。

【ただいま読書中】『われわれは孤独ではない ──宇宙に知的生命を探る』ウォルター・サリヴァン 著、 上田彦二 訳、 早川書房、1967年、450円

 まず天動説についての説明から本書は始まります。著者にとってはコペルニクスは地動説ではなくて「天動説の学者」です。私は半分はその意見に賛成です。コペルニクスは当代きっての「天動説の第一人者」でしたから。ただ、「宇宙の中心」を「地球」から「太陽」に移しただけです。ただ、その「だけ」が実はとても大きな知的冒険だったのです。
 こういった「常識」を深く知った上で知的冒険をする態度、が、本書に登場する「宇宙に知的生命を探る」学者たちの態度に共通しているように私には感じられます。本書出版はまだ昭和の半ば、アポロがまだ月に到達していなかった時代に「その向こう」を眺め、そこに知的生命の痕跡を探ろうとする態度には、知性と情動がきれいにミックスした興奮を感じます。
 天動説がじわじわと地動説に置き換わっていた時代、16世紀にドミニク派のジョルダーノ・ブルーノが「宇宙は無限だ」「地球の外にも生物がいる世界がある」と主張して宗教裁判にかけられ異端者として追放されそして最後には火刑に処せられました(「神は人のために地球を造った」が聖書の大前提だから「他の知的生命」の存在を主張するのは神(というか聖書)に対する異議申し立てになるからでしょう)。
 天文学の発達により「地球が宇宙の中心」は「太陽が宇宙の中心」、さらに「太陽系は銀河系の外れにある」、さらに「宇宙には無数の銀河があり、我々の銀河はその中の一つに過ぎない」と概念はどんどん拡張されていきます。それに従って「我々の重要性」はどんどん低下していったようにも見えます(実際には天文学者はそんなことは主張していないのですが。「人間が宇宙の中心にいる」と思いたい人が「我々の重要性が下落した」と主張しているだけです)
 「地球に生命が発生した」のは確かな事実なので、宇宙に地球型の惑星があればそこにも生命が発生している可能性があります。ただ20世紀半ばには「太陽系外の惑星」はまだ観測できなかったので、「地球型の惑星が周回している可能性が高い恒星」についての考察がされていました。
 「生命がいかに発生したか」についても、論争がおこなわれていました。なにしろ再現実験が非常に困難ですから、思考実験が主になり、すると「論争」がいくらでも起こせることになります。「原始地球の環境」を再現して放電実験をしてみたり、隕石をスライスしてその中に生命の痕跡を探したり、の「実証実験」も同時におこなわれていましたが、“決定打"はなかなか見つかりませんでした。
 「火星」も「生命」探求のターゲットとなり「火星の運河」が唱えられるようになります。いや、知的でなくても良いですから火星に本当に生命がいてくれたら、これは地球の生命の起源についても相当インパクトのある知見となるはずです。いて欲しいなあ。
 1959年「ネイチャー」に「電波望遠鏡で、知的生命体が発している電波を発見しよう」という論文が掲載されました。SFではなくて学術論文であることがキモです。かくして深宇宙からの21センチ波長の電波を受信する「オズマ計画」が始まりました。本書発行時にオズマ計画は「とりあえずやってみた」レベルでしたが、それは現在の「SETI」につながっています。
 「山の向こうには化け物が住んでいる」でも私たちは幸せに暮らせます。ただ「山の向こうはどうなっているんだろう?」と思うことは、思うだけでその人を成長させます。同様に「地球の“外"はどうなっているんだろう?」と思うことも、私たちには重要なはず。「そんな馬鹿なことを夢見ていないで、畑を耕して一生を終えれば良いんだ」なんてことを言わないでくださいね。



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発明の両親

2018-08-23 07:13:17 | Weblog

 「必要は発明の母」と言いますが、「父」はどこに?

【ただいま読書中】『不便から生まれるデザイン ──工学に活かす常識を越えた発想』川上浩司 著、 化学同人、2011年、1700円(税別)

 「便利/良い」「不便/悪い」は当然、と思えますが、著者は「便利/悪い」「不便/良い」にも注目するべきではないか、と発想をしています。「便利」は確かに何らかの「メリット」をもたらします。しかしそれは同時にネットワークでつながった世界の別のところで何らかの「デメリット」を発生させていないか、そしてその「デメリット」が「メリット」を越えていることはないか、と著者は問います。
 そういえば、ドラえもんのひみつ道具は、たしかに一つの目的を達成するためにはとっても「便利」ですが、その結果何が起きるか、というのはなかなか示唆的ですねえ。
 さまざまな日常的な「不便の便益」が本書に登場します。中にはちょっと無理筋のものも混じっていますが、著者の語り口から判断すると、それは敢えて無理筋のものも混ぜて、読者に考えさせようとしているのでしょう。「それはないだろう」と笑ったら次の瞬間「だったらアリは何だ?」となりますから。
 心理学的には「自己肯定感の醸成」が重要です。「不便を楽しむ」「不便が何かの『益』を促す」ためには自己肯定が強く影響しているはずですから。ここから話は「パーソナライゼーション」から「汚れ」に至ります。さらに「C言語の(不必要に思える)複雑さ」も「汚さ」に分類されると、プログラム言語の不可解さにぶつぶつ言った経験を持つ私としては笑うしかありません。
 本書の半ばまで「不便は単に“悪い"ものではない」と説き続け、ついに「『不便』の工学的な考察」が始まります。ただその前に「『便利』って、何?」。これは難しい質問です。私自身「以前より便利になったなあ」と実感することはありますが、「『便利』の絶対的基準」を持っているわけではありません。あくまで「比較級」で考えています。
 ユニバーサルデザインもまた「不便の便益」の視点から検討できます。「すべての人は違うのだから『すべての人に便利』なんてあり得ない」という安易な結論に着地するのではなくて、もっと深い考察が必要なのです。また「すべてを予見(想定)することは不可能」なのだとしたら「個人の創発性を活かす」という方向もあります。逆に「自分はすべてを想定できる」というデザイナーだと「自分が見える(気づいた)範囲内での最適化」になってしまって、“それ以外"の状況や人の場合にはその「ユニバーサルデザイン」が「バリアそのもの」になってしまいます。すると「不便益の視点」からは「ユーザーが能動的工夫をする余地」がそのデザインにあるかどうかが問題となります。
 「エコロジー」という言葉も本書では「不便益の視点」から俎上に載せられます。ただ現代の商業主義の世界での「エコロジー(または「エコ」)」は、本来の「生態学」とは断絶した存在となっているため、扱いには注意が必要です。しかし「対象商品を買ってエネルギーを消費したらエコポイントがもらえて、最初から買わずにエネルギーを節約したらエコポイントがもらえない」という指摘には笑ってしまいました。
 「不便」「便利」には「主観的判断」や「感情」が大きく絡みます。私たちはついつい「便利=良いこと」としてしまいますが(実際に「不便」が即「良いこと」とは言えませんが)、あまりに感情的な判断を優先させると世界のあちこちに迷惑をかけてしまうことがあるようです。ちょっとした不便だったら、それを「楽しむ」ようにしたら、人生が楽になりこの世界ももう少し長持ちするかもしれません。


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百均古今東西

2018-08-22 06:42:57 | Weblog

 1ドルがまだ360円だった時代に「実際にアメリカで暮らしたら、1ドルは日本の100円くらいの値打ちだった」と聞いたことがあります。現在の日本では「百均」ですが、アメリカのワンコインショップは「1ドル(か99セント)」で、やはり1ドル=100円の感覚で良いようです。
 そういえば江戸時代には「四文屋」という「ワンコイン」ではありませんが「なんでも四文」という今の百均にあたる店があったそうです。するとその頃のアメリカの「百均」ではどんな値付けをしていたんでしょうねえ。1セントとか10セントかな?

【ただいま読書中】『殿様と鼠小僧 ──老公・松浦静山の世界』氏家幹人 著、 中央公論新社(中公新書1004)、1991年、621円(税別)

 泰平の江戸時代、江戸の大名屋敷の武家奉公人の多くは、大名の領国の家来から江戸での臨時採用に切り替わっていました。家来は一生奉公ですし江戸の往復の旅費もかかるから“コスト"がかかります。しかし江戸で1年とか半年の臨時採用をしたら、コストは抑えられます。しかし奉公人たちは奉公人で“組織"を作って好き放題をするようになりました。だって「コスト」でつながれた仲であって殿様への「忠誠心」などどこにもないのですから(金で忠誠心は買えません)。そのため、仲間内での競走に熱中して殿様の駕籠をひっくり返すような陸尺(駕籠かき)に対しても強いことが言えない殿様がごろごろと(腕の良いのに他家に移られたら困りますから)。
 本書は、平戸藩主松浦清が隠居して静山と号して著した『甲子夜話』をネタとして、江戸時代後期について実に面白く描写されている本です。
 まずは「隠居年齢」。静山は47歳で隠居しましたが、これは当時としては別に珍しい年齢ではありませんでした。ということで幕臣や大名の平均隠居年齢のグラフが本書に登場します。ただ、当時の平均寿命が50歳くらいと短いとしてもそれは乳幼児の死亡率があまりに高いことが原因で、50まで生きた人の平均余命はそれなりにあったはず(でないと1歳や3歳で死んだ人が下げた「平均寿命」を50まで持ってくることができません)。長い長い「老後」の時間をどのように暮らしていたのでしょうねえ、というか、静山は『甲子夜話』を書くことで時間を使っていたわけですが。他の大名旗本なども実に多彩な著述や作品制作をおこなっていますが、それについては『諸大名の学術と文芸の研究』を読むと良いそうです)。
 そして話は「鼠小僧次郎吉」に。大名や金持ちを懲らしめ、貧乏人に金をばらまいた、という「義賊伝説」がもてはやされました。実際にはそんな「義賊」ではなかったようですし、学者は「泥棒を礼賛するとは」と「義賊伝説を好む人」を非難していますが、庶民が鼠小僧に喝采したのは「泥棒行為を礼賛した」のではなくて「圧政や腐敗した官僚組織への怒りの表明」だった、と言えるでしょう。ただ、表だって怒りを表明するとそれこそ「圧政や腐敗した官僚組織」に罰せられてしまいますから「鼠小僧を喝采」してみせたわけ。だったら幕府がそこでするべきは「鼠小僧の禁止」だったのかな?
 寛政年間の葵小僧は、殺人を平気で繰り返していました。しかし天保三年に召し捕られた鼠小僧は流血を避けていました。これは「個人の主義」かもしれませんが「流血を嫌う世相」の反映かもしれません。江戸時代前期はまだ「戦国時代の名残」が色濃く残っていましたが、中期からは少しずつ「泰平」にと移行していたことは、他の文献からも読み取れるので、「人々の気持ち(何を受け入れ何を否定するか)」も変化していったはずです。すると盗人の側も「世間の風潮と照らし合わせて、「恥ずかしいことはしたくない」と意識するようになります(「盗むこと」自体の是非はおいて、ですが)。
 「小僧」はもともとは「小さな身体の少年」「巾着切り(掏摸)」のことだったようです。そこから著者は「殿様」と「小僧」の不思議な関係を考察し、とうとう『小僧の神様』『鞍馬天狗』などに「殿様と小僧」の“残像"を読み取り、さらに「コンピューター社会とウイルス仕掛け人」にまで話を到達させてしまいます。まるで「江戸時代」と「平成の日本」が“地続き"のようです。いや、本当に“地続き"なのかもしれません。


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