【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

人質の価値

2012-01-31 18:47:56 | Weblog

 人質の価値は、「殺すこと」にあるのではなくて「殺すぞ」と「脅すこと」にあります。だから、もしも「本当に殺すぞ」と言わなければならなくなったら、それは人質戦略を選択したことが失敗しているあるいは最適の人質の選定に失敗している可能性が大です。そして、自分が本気であることを示すために人質に傷をつけなければならなくなったら、それは間違いなく「失敗」でしょう。

【ただいま読書中】『十字軍物語3』塩野七生 著、 新潮社、2011年、3400円(税別)

 これでもか、と言うくらい分厚い本です。何しろ1187年の「サラディンの年」から始まって、第三次~第七次十字軍とその後の時代まで一挙に駆け抜けるのですから。分冊にしてもよかったでしょうが、どこで切るかがちょっと難しいですね。
 サラディンはパレスティーナ地方の海港都市を次々陥落させた後で、ついにイェルサレムを落としました。ヨーロッパのキリスト教徒は驚愕します。88年間「神によって守られていた聖地」がイスラムの手に帰したのですから。
 第三次十字軍の運動が始まります。やっと国の形をとるようになった(どころか、国王の結婚によってフランスの半分も支配するようになった)イギリス(“獅子心王”リチャード)、これまでの十字軍で常に主力だったフランス、神聖ローマ帝国皇帝「バルバロッサ(赤ひげ)」フリードリッヒ一世(ドイツ軍は、騎士数千歩兵数万、公称は十万の大軍です)。タレントは揃いました。
 十字軍国家をほとんど海に蹴落としてしまったサラディンは、今度は“防衛戦”を戦うことになります。しかも、シーア派とスンニ派の統合と各地の(これまでいがみ合っていた)太守たちの統合に成功したものの、当然その体制は不安定です。ちょっとした“躓きの石”で「イスラム世界」はばらばらになってしまうのです。そこでサラディンがかかげた旗印が「聖戦(ジハード)」でした。十字軍が「神がそれを望んでおられる」でまとまったのと同じです。ただし「熱狂」は長続きしません。重要な港町アッコンをめぐる攻防戦は膠着状態となっていましたが、そこに「ニュース」が。快進撃を続けていた神聖ローマ帝国軍ですが、小アジアで「バルバロッサ」が急死したのです。中世ならではの理由で軍は空中分解してしまいます。さらにフランス王もさっさと帰国。“獅子心王”リチャードはそれでも多国籍軍をまとめ上げ、イェルサレムを目指して進撃を続けます。それはつまりサラディンにとっては敗北の連続でした。キリスト教国軍がついにイェルサレム直前まで到達したとき、フランスがイギリス領に侵攻したとの報せがリチャードに届きます。リチャードはサラディンと講和を結びますが、それによる“平和”は以後26年間も続きました。
 第四次十字軍では、第三次で重要な脇役だったヴェネツィアが主役(の一人)になります。ヴェネツィアは、秘密裡にイスラムと平和協定を結びました。そのとき第四次十字軍のため大量輸送の依頼が。ヴェネツィアはそちらの契約も締結します。で、いろいろあって(笑)、十字軍の「目的地」は変更されます。ビザンチン帝国の首都コンスタンティノーブルへ。かくしてビザンチン帝国はラテン帝国に看板を掛け替え、ヴェネツィアは東地中海から黒海にかけてあちこちに重要な拠点を得ることになります。
 20世紀の視点では「何やってんだ?」です。キリスト教徒がキリスト教国を攻めたのですから。しかし当時の人々にとっては別に大きな問題はありませんでした。十字軍の目的は、本来は「聖地巡礼」です。そして、ヴェネツィアによって航路の安全が確保され、聖地周辺は第三次十字軍での講和条約でキリスト教徒にも安全が確保されています。つまり、「目的」は達成されているのです。(「異教徒は殺せ」の「原理主義」の人は別の感想を持つでしょうけれど)
 第五次十字軍はエジプトに上陸します。そこでの“敵”は内紛とデルタ地帯の洪水でした。ただしイスラム側にもいろいろ“事情”があり、スルタンは講和を提案します。しかしキリスト教側の“原理主義者”は、自分たちが有利であるにもかかわらず「そもそも異教徒との講和などあり得ない」と蹴り、結局退却することになってしまいます。
 次の登場人物はフリードリッヒです。イスラムの香りが残るシチリアで育ったフリードリッヒは、「バルバロッサ」の孫ですが、十字軍遠征の約束と引き替えに神聖ローマ帝国皇帝となります。フリードリッヒは法王の不興をかって二度も破門されましたが、「カノッサの屈辱」のようなことはせずに平気でそのまま出陣します。しかもやったのは戦闘ではなくて交渉。相手側のアル・カミールと見事な平和交渉を現実化してしまいます。イェルサレムは(東側1/3をイスラム地区とする以外は)キリスト教側に譲渡され、ベイルートからヤッファまでの海沿いの地域もキリスト教側となります。そして、巡礼と通商の安全が保証されました。
 この「平和」は不評でした。イスラムは「屈辱」と怒ります。聖都をあっさり譲ったと。ところがキリスト教側も激しい非難を浴びせます。異教徒を誰も殺さず相手を対等の人間として「交渉」すること自体が許されるべき行為ではない、と。フリードリッヒはずいぶん変わった人のようですが、もしかしたら無神論者だったのではないか、という疑いが本書には紹介されています。だとしたら、それだけで中世では「罪深い」ことになってしまいますね。
 1244年シリアの一部族が講和を破ってイェルサレムを占領します。それに対して第七次十字軍が組織されました。そもそもフリードリッヒの“功績”はなかったことにされていますから、何でもいいから口実さえあればよかったのでしょうが。そこで(ローマ法王庁の基準で)「理想的な君主」ルイ九世が出陣することになります。目的地はエジプト。ここでの戦闘で、マメルーク(奴隷出身の兵士)が大活躍をする(そして後に社会的地位が向上する)ことになります。なんと、緒戦こそ有利だった十字軍はほとんど全滅(死亡か捕虜)となってしまったのです。身の代金をかき集めては捕虜の解放、がルイの“戦後処理”となりました(なにしろ自分自身も捕虜で、王妃に財産をあらいざらい売却させて自分の身の代金を払う羽目になったのです)。
 1258年にモンゴル軍がバグダッドを陥落させます。スンニ派の信仰の拠り所だったアッバス朝の滅亡です。さらにモンゴル軍は西進。迎え撃つのは、マメルーク軍です。結局モンゴル軍は撤退し、マメルークの指揮者バイバルスはマメルーク朝を起こします。
 そこへルイ九世がしょうこりもなくまた十字軍を起こします。1270年のことです。目的地は、チュニジア。チュニジアをキリスト教化して側面からエジプトを攻めようという“戦略(または夢想)”です。上陸地点は、カルタゴ付近。しかし砂漠の過酷な状況で、十字軍は何もしないうちに大損害を受けてしまいます。結局大失敗に終わった十字軍ですが、ルイは聖人に列せられます。十字軍を2回も起こした“功績”が認められたのでしょう。
 法王の「権威」が絶対的なら、「破門」は不必要です。じろりとにらむだけで十分。それを「破門するぞ」と脅したり、あるいは実際に破門をしなければならなくなった、ということは、「権威」が落ちたと言えます。世俗の人間の力の増大、12世紀ルネサンスの知的影響、東西の交流、それらがすべて「宗教の権威」の足を引っ張ってくれたため、ヨーロッパの宗教的な面をまとめ上げるためにも十字軍が「必要」だったのかもしれません。
 ところで、現在ユダヤ教とイスラムが深刻な対立をしている「聖地」ですが、現在キリスト教徒には何か言い分はないのかな、なんてことも思ってしまいました。「異教徒との平和共存」は、神は望んでいないのかな、なんてことも。



解雇

2012-01-30 18:40:10 | Weblog

 日本では「お前はクビだ」ですが、実際には「自己都合」での退職届になることが多いようです。首を切る方から言えば、会社都合よりも自己都合の方が退職金の割り増しが“節約”できるというメリットがあるからでしょうか。だけど、自分で首を切って「自己都合」の退職届を書かせるというのは、なんだか“都合”がよいなあ、とも思えます。
 その点、アメリカではすっきりと「お前はクビだ」ですね……と思ったら、「You are fired.」となぜか受身形。アメリカ人でも「I fire you.」とは言いにくいのかしら。

【ただいま読書中】『「僕のお父さんは東電の社員です」 ──小中学生たちの白熱議論! 3・11と働くことの意味』毎日小学生新聞 編 + 森達也 著、現代書館、2011年、1400円(税別)

 毎日小学生新聞に載った、「東電の責任」を追究する「東電は人びとのことを考えているか」という記事に「ゆうだい君」が「突然ですが、僕のお父さんは東電の社員です」で始まる手紙を書きました。その中身は、ぜひ実際に読んでもらいたいものですが、一方的に東電を擁護するものではありません。また「一億総懺悔」でもありません。「一方的に東電を非難すればそれでOK」という風潮に異を唱え、「自分は無関係だ」と考えている人に「自分も電気を使っていてそれは無責任な態度ではないか」と再考を迫り、最後に「ぼくは、みんなで話し合うことが大切だ、と言いたいのです。そして、みんなでこの津波を乗りこえていきましょう。」で終わる、小学生らしいところと小学生とは思えないところとが入り交じった、スケールの大きな手紙です。
 読者からは大きな反響がありました。小学生から大人まで、賛成意見・反対意見さまざまです。
 読んでいて「本当にいろんな意見があるものだ」と感じます。同じ反対意見でも、きちんと読んで理解してその上で「ここには反対」と言う人もいれば、きちんと読まずにとにかく自分の意見を開陳する人もいます。まあ、ネットでの“議論”と同じですね。しかし、その主張の内容もですが、いろいろ参考になる意見がたくさんあります。たとえば「東電が福島に原発を置いたのは、危険なことがわかっているから関東に置けなかったから」(小学校4年生)を読むと、これを自分で思いついたのだったらすごいぞ、とこの子の未来を応援したくなります。それと、対案や「自分にできること」を書く小学生が多いことに私は驚きました。これ、小学校の授業で習っているんですか? だとしたら、日本の未来は少し明るいかも。
 議論や考慮をするべき様々な「要素」があります。「責任者」は誰だ? 誰がなにをするべきだったのか?(良く登場するのは、政府・東電・マスコミです) エコ。電気の意味。生活の見直し。組織と個人の関係。自分の意見を持つことの重要性。これらがごちゃまぜになっているから、そのままではわかりやすい議論にはなりません。だけど、こうして「様々な意見がある」ことを知るだけで、議論にきちんと参加しようとする覚悟を決める役には立ちます。
 私が感じたのは「誰が悪いんだぁ」と“犯人捜し”をする人間は、その行動によって「自分は悪くない」と主張しているんだな、ということです。それと「自分の責任(問題)」と言った場合、どこまでが「自分」なのかの範囲が、人によってまったく違う、ということも。「自分」は「自分と呼べる個人に限定した範囲」ではありません。私の現在の感覚では「自分」が属していると実感している「共同体」(今流行っていることばを使うなら「絆」がどこまでたどれると想定しているかの範囲)もまた「自分の一部」と言って良いと思えます。単に全体主義ではなくて、「どこまでが自分か」は自分で決めることができる「(グラデーションの濃淡がある)自分」。だから「ゆうだい君」が「みんなの責任でもある」ということばがすとんと心に落ちたのです。だって「ゆうだい君」がその「みんな」の中に自分も入れていることは明らかですから。
 だけど「そんなの自分とは無関係」と思う人が多いことも事実。本書には水俣病が実例としてあげられていますが、沖縄とかヒロシマナガサキとかそういった「自分は関係ないモンね」の“実例”はいくらでもあるわけで、今回の大震災やフクシマやあるいはこれから出現するだろう関東や東北のヒバクシャについても同様に「犯人捜し(“自分”には関係ないモンね)」に没頭する人はいくらでも出てくるでしょう。もちろん「世界は一つ」なんて平気で言うのもうさん臭いけれど、「自分」がどこまで広がっているか、を考えるきっかけになる点でも本書は良い本と言えます。



日本州

2012-01-29 18:46:09 | Weblog

 アメリカの「州」は、ほとんど一つの独立国です。軍事や外交は連邦政府にまかせますが、自分たちでもちゃんと州兵くらいは持っています。
 日本も、TPPに参加するかどうかでいがみ合っているよりも、いっそ「USAの州」になった方が、経済で“独自性”を発揮できるのではないでしょうか。「州になろう」は以前にも書いたことがありましたっけ? TPPのずっと前ですが。で、アメリカ大統領選挙に投票できるようになるのも、魅力的です。数千万の有権者って、影響力がすごくないです? “親日派”の大統領が選べるかも。そもそも「日本の総理大臣」の“選択”より「アメリカの大統領選挙」の方が、はるかに面白そうじゃありません?

【ただいま読書中】『北米大停電 ──現代版南北戦争の視点』山家公雄 著、 社団法人日本電気協会新聞部、2004年、900円(税別)

 2003年8月14日、北米で大停電が起きました。17日ニューヨークタイムズにはこんな投書が載ります。
 「俺たちニューヨーク市民の電気が、カナダから送られていたなんて誰が知っていた。五大湖のエリー湖をぐるりと回ってこちらに向かってたって? 誰が想像できた。65年と77年のニューヨーク大停電の後、二度と起こさないように手を打つと言ったのはどこのどいつだ。すっかり整備されたものと信じていたものを。専門家に言わせると、送電システムが脆弱だ、もっと投資すべきだと随分と前から警告していたそうじゃないか。……中略…… 政治家も右往左往、わけもわからず批判合戦し責任の擦り付け合いをしている。共和党は、民主党が環境重視を唱えるあまりインフラ整備を妨げてきた、と主張する。民主党は、共和党がエネルギー業界の利益誘導に忙しく停電対策を怠った、と言う。専門家と称する人びとも、意味不明の専門用語を駆使するが、要するに原因がわからずうろたえている……」
 なんだかどこかで見聞したことのある世界のような気がします。
 そして、この北米大停電に続いて、イギリス・デンマーク・スウェーデン・イタリアと大停電が続きました(イタリアはほぼ全国土が停電したそうです)。
 「電気」はひとつですが、発電手段は様々です。それは巨大なネットワークを構築しています。そして、消費者は気まぐれに電気を使います。必要なのは供給と需要の「バランス」です。そこに「自由化」がさらなる“負荷”としてネットワークに登場します。日本で「電気(電力会社)の問題」は、「なにで発電するか」ですが、アメリカではむしろ「送電ネットワーク(インフラ)」の問題が大きいのです。
 ことの発端は、オハイオ州北部のファースト・エナジー社です。送電状況が不安定となり、周囲の電力会社にドミノ倒し的に影響が及んでいきました。そのプロセスについては、本書で詳述されています。
 もちろん「犯人(直接の原因)」は厳しく批判されますが、問題は「なぜ拡大したのか」「なぜ早期に手が打てなかったのか」です。分析で見えてくるのは「コミュニケーション不足」「各電力会社と各州との複雑な関係」です。
 さらにここで「南北戦争」が登場します。かつての「北」は「電力自由化賛成」、「南」は「反対」ときれいに色分けされているのです。
 もちろん消費者から見たら「自由化」にはメリットがたくさんあり「独占」にはデメリットがたくさんあります。ただ問題は「自由化」にもデメリットがあること。たとえば「まとまりがなくなる」「儲からないところには投資されなくなる」。電力で言えば「インフラ整備」や「無効電力(“売り物”になる「有効電力」の電圧を見えないところで支える電力)」は“直接の儲け”にはなりません。だから軽視されてしまいます。さらに“関係者”が増えることによって電力網を流れる電力は複雑となり、そのコントロールの困難度は累乗化します。また「責任」と「権限」は不明確となっていきます。たしかに複数の電力会社が相互に接続して複数の州にまたがる電力網を利用していたら、「責任の範囲」を明確にするのは難しいでしょう。
 “犯人捜し”によって、はじめはグリッド・オペレーターのヒューマンエラーが“原因”という論調が強かったのですが、グリッド・オペレーターからの説得力のある“反論”によってその論調は静まっていったそうです。『僕のお父さんは東電の社員です』を思わせます。
 事故原因究明と再発予防策は、アメリカ・カナダ両政府によるタスク・フォースによって行なわれましたが、このこと自体が「政治から中立が保てない」と批判を受けました。実際に2003年に発表された中間報告は、秘密保持契約で情報は公開されず、“震源地”の会社にだけピンポイントに責任を負わせるもので、本当に根本的な対策が取れるのか、疑問があるものとなっています。航空機の事故調査の「再発予防」に重点を置いたやり方とは随分違って、どちらかと言えば“日本的”(「誰が悪いんじゃあ」と“犯人”を探すやり方)です。
 さて、今の日本では「東電憎し」から「東電解体」や「電力の自由化」が議論されるようになっています。ただ、「自由化」はメリットだけではありません。せっかくアメリカが体を張ってそれを教えてくれているのですから、そこから何らかの教訓を学んでおいた方が良いのでは?



利率

2012-01-28 17:43:24 | Weblog

 新聞にブラジル国債の宣伝が載っていました。利率は15年固定で年約10%! 10年持っていたらそれだけで元が取れてしまいます。バブルの頃の定期預金の金利も思いだします。あの頃には「満期になったら倍」が当たり前でしたっけ。
 で、もしも私がこの国債を売り出した側だったら、と考えました。どうやったら10%の利息を払えるだろうか、と。……考えつきません。もしそんな上手い手があったとしてもそれを15年間持続しなければならないわけです。よほど右肩上がりの経済成長を続けなければ、厳しいんじゃないかなあ。
 こういった、高利率とか右肩上がりとかを前提とした経済モデルは、そろそろ限界なんじゃないか、というのが私の感想です。ではそれに代わるものは、というとなかなか良いものは思いつけないのですが。資本主義の革新、と口で言うのは簡単なんですけどね。ただ、ネットの普及を合わせると、たとえば「ネット通貨」とか「ネットでの評判」とかを“通貨”にできたら、頭が柔らかい人には面白い社会になるかもしれません。実体経済に結びつくかどうかは知りませんが。(ちょうど今聞いている「ラジオマンジャック」の今日のテーマが「アバウト」なので、アバウトに考えてます)

【ただいま読書中】『職業アレルギー ──新しいアレルギー診療と社会医学の原点』中村晋・荒記俊一・宇佐神篤 編、永井書店、2011年、6600円(税別)

 私自身杉花粉症を持っているので、アレルギー疾患の辛さはある程度わかります。しかし「職業アレルギー」となると、つまりは「自分の職業(=飯の種)」がアレルギーの原因となるわけです。これは二重の辛さですね。その仕事を辞めてアレルゲンから遠ざからない限り、ずっとそのアレルギー症状(皮膚炎とか鼻炎とか気管支喘息とか)から逃れられないのですから。
 中身はばりばりの専門書なので医学の素人が精読するのはつらい文章ですが(というか、なんでこんな専門書が図書館の一般書棚に並んでいたんだろう?)、素人は素人なりの読み方をすればいいのです。たとえば「どんな職業の人のどんなアレルギーがあるのか」の興味本位の読み方。
 いくつか例を拾ってみましょう。
・「絹喘息」母親が絹糸で刺繍する内職に従事する家庭の高校生
・「ヒヨコ喘息」ヒヨコの孵化場長
・「バラ花粉症」バラ園芸研究所職員
・「ブタクサ花粉症」ブタクサ花粉を研究する大学教授
・「ピーマン花粉喘息」ビニールハウス内でピーマン栽培をする業者
・「トマト花粉喘息」ビニールハウス内でトマト栽培をする農家
・「コンニャク粉末で喘息」コンニャク製造
・「特定の粉薬のアレルギー」薬剤師
・「ローヤルゼリー喘息」ローヤルゼリー粉末をあつかう業者
・「セメント喘息」セメント製造工場勤務(セメントの中に含まれるクロムが原因だそうです)
・「超硬合金によるアレルギー性肺炎」旋盤・研磨業
・「アスペルギルス(カビの一種)過敏性肺炎」ホテルのベッドメイキング
・「フケ気道アレルギー」化粧品会社美容部員(客の髪の毛の手入れをすると、胸のあたりがフケで真っ白になるそうです)
・「ヘアダイ成分で皮膚アレルギー」美容師
・「ラテックス手袋で接触じんましん」歯科衛生士
・「エビ・カニ・イカで両手のじんましん」調理師

 「一体どうすれば良いんだ」という悲鳴が聞えそうなリストです。
 これは“他人事”ではありません。アレルギー疾患は、アレルゲンとそれに対して過敏な人との“出会い”によって生じますから、現在アレルギーではない(アレルギー疾患を発症していない)人もそれは単にまだ“出会い”がなかっただけかもしれないのです。

 職業アレルギーですから、集団発生もあります。その一例が本書にあげられている「ホヤ喘息」。牡蠣打ち(水揚げされた牡蠣をむき身にする作業)をするときに、牡蠣の殻についているホヤの体液が飛び散ってそれを吸い込んだ人(牡蠣の打ち子)の中から大量に喘息患者が発生したものです(一時期なんと36%の打ち子が喘息だったそうです。高濃度のアレルゲンに暴露されたためにアレルギー素因を持つ人が無理矢理発症させられた、といった感じだったのでしょう)。「治療」は、もちろん「各個人の喘息治療」が行なわれますが、それと同時に「職場の環境改善」も行なわれました。牡蠣をまず洗ってホヤを落とし、牡蠣の打ち方もいろいろなものが飛び散りにくいように変更されました。その結果喘息の発症は激減します。
 医学が「個人」だけではなくて「社会」も“治療”できるんだ、ということがわかります。



干物

2012-01-27 18:26:18 | Weblog

 日本人は柿や魚を干します。
 ロビンソン・クルーソーはブドウを干します。

【ただいま読書中】『十字軍物語2』塩野七生 著、 新潮社、2011年、2500円(税別)

 わずか3年で「聖地奪還」「聖都解放」を実現した十字軍にヨーロッパは熱狂します。しかし現地では、「第一世代」の諸侯はすべて(帰国したり死亡して)いなくなり、残された数少ないキリスト教徒の“(武装)巡礼”には「国家の維持」という難題が課せられていたのです。シリアからイェルサレムまで細長く並んだ、エデッサ伯領・アンティオキア公領・トリポリ伯領・イェルサレム王領、は「防衛」に専念します。
 そこに「助力の申し出」があります。わずか9人の騎士ですが(もっとも、騎士一人に歩兵数人と馬丁や召使いもいますから、実際には数十人の部隊)、彼らを核として主にフランス人騎士が集結して「テンプル騎士団」となります。目的は異教徒の殺戮。もう一つ宗教騎士団が登場しました。こちらはイタリア商人によって設立されたヨハネ騎士団。こちらはもともと病院での活動のための騎士団でしたが、いつしか武器も持つようになります。
 まとまりは悪いが数では圧倒的に勝っているイスラムは、少しずつ十字軍国家を圧迫し始めます。そのときヨーロッパで立ったのは、「クリーヴァーのベルナール」でした。修道僧のベルナールは、そのことばで人びとを(法王さえも)動かし、第二次十字軍を組織します。ただし、第一次とは違って、ベルナールは「国王」を動かしました。まずはフランス国王ルイ7世。ついでドイツ皇帝(まだ正式には神聖ローマ皇帝にはなっていない)コンラッド。1147年まずコンラッドが出陣します。騎士2000以上。それから、ベルナールの説法に感激したドイツの農民たちが数え切れないほど。1箇月遅れでフランス王も出陣。こちらは王妃同伴ですが、単なる飾りではなくて武装した女性部隊も加わっていました。ここでビザンチン帝国は外交上の失態を演じます(実は、第一次の時のリフレインですが)。これが第4次十字軍の“伏線”となります。
 小アジアでトルコのゲリラ部隊に散々な目に遭い、やっと十字軍国家に到着してもまずは巡礼。それから見当違いのダマスカスを(攻城兵器なしに)攻めて第二次十字軍は大敗北を喫します。それを知ったベルナールは言います。「神が良しとされない者たちが行ったのだから、失敗に終わるのもしかたがなかった」。おやおや、冷たいのね。あまりにみじめな敗北だったため、ヨーロッパでは十字軍熱は冷めてしまい、第三次まで40年かかることになります。それでは、十字軍国家はなぜ200年も保ったのか。防衛に特化した宗教騎士団と城塞ネットワークの活用、というのが公式の見解です。著者はそれに、経済力と海軍力を付け加えます。ただしその主力は「十字架のため」ではなくて「自国の利益のため」に動いた(だからイスラムとも平気でビジネスをする)イタリア商人でした。だから西欧での研究者にはこの方面が軽視されているのではないか、というのが著者の推測です。
 運命の“天秤”は、イスラム側に傾きます。イスラム側には、ヌラディン、そして、サラディンが登場するのです。ヌラディンは大地震で崩壊したダマスカスを繁栄させます。高等教育も盛んになりますが、その恩恵を受けた一人がサラディンでした。さらにヌラディンはエジプトを支配下に置きますが、いろいろあってそこの宰相に就任したのは弱冠31歳のクルド人、サラディンでした。
 「/」が目立ちます。「宗教/政治」「宗教/経済」「キリスト教/イスラム」「カソリック/ギリシア正教」「スンニ派/シーア派」「原理主義/穏健派」……しかも「/」で単純に分けきれないものもいろいろあります。ああ、ややこしや。
 そして、ついに「聖戦(ジハード)」が始まります。



www

2012-01-26 20:45:36 | Weblog

 すっかり「日本語」になってしまった単語で、テレビの画面にはしょっちゅう登場するし、ラジオでもしょっちゅう耳にします(新聞ではあまり見ませんが)。で、ラジオでの読みあげ方が人によってとても個性があるのが面白い。さらっと流れる水のように流暢に言う人もいれば、まるで苦手な早口ことばであるかのようにぎこちなく言う人も。
 私が気に入っているのは、土曜の夕方、NHKーFM「ラジオマンジャック」で、女優・声優の雨蘭咲木子さんが唱える「WWW」です。「だぶ・りゅだぶ・りゅだぶ・りゅどっと」と、ずっこけ3mm手前を上手く回避しているような口調で毎回言われると、思わず聞き入ってしまいます。いやあ、スリル満点なんですわ。で、上手く言い終えたときの「どう、上手でしょう」の得意そうな声の響き。いやあ、役者やのう。

【ただいま読書中】『死の病原体プリオン』リチャード・ローズ 著、 桃井健司・網屋慎哉 訳、 草思社、1998年(2001年16刷)、1900円(税別)

 非常に読みやすい本です。ニューギニアのフォア地区の奇病「クールー」、クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)、羊の奇病「スクレイピー」が次々簡明に紹介され、関連づけられていきます。共通のキーワードは「脳のスポンジ状の変性」「致死性である」、それから「原因不明」。
 まず「スロー・ウイルス」ということばが登場します。潜伏期が異様に長い、感染してから何年も経ってから発病するタイプのウイルスが原因ではないか、と。
 原因がウイルスであれそうではないものであれ、潜伏期が長いことはたしかです。ともかく研究が始まりますが、当然すぐには結論は出ません。そこに「ミンクのスクレイピー(感染性ミンク脳症)」があることが知られます。それも、野生のものではなくて飼育されているものにだけ。原因は飼料? ともかく1963年には詳しい動物実験が始まります。
 ここまで非常にわかりやすく話が述べられています。世界のあちこちで同時進行している話をここまで整理して書くことができるとは、著者はなかなか巧みな書き手です。
 しかし現実世界は混乱していました。クールーやスクレイピーには「感染性」があります。したがって「病原体」が存在するはず。しかし、そのような細菌は見えません。核酸を破壊する紫外線や薬品を使っても感染性は低下しませんが(だから原因はウイルスでもなさそう)、タンパク分解酵素を使うと感染性が低下します。すると、「感染性のある蛋白質」が原因?  そんなものは生物学のセントラル・ドグマ(遺伝情報は「核酸」で伝えられる)に対する“挑戦”です。1960年代にはあれやこれやの議論が行なわれました。意外なことにそこに「数学者」まで参戦します。1967年の「ネイチャー」にベドフォード大学(ロンドン)の数学者J・S・グリフィスが「純粋に論理的な解析から、ある環境下では蛋白質が自己複製能力を発揮する可能性がある」ことを証明する論文を発表したのです。グリフィスは3つの仮説を提唱し、そのうちの2つには可能性がある、と認められました。
 心に残る挿話があります。クールーが“伝染病”であることを証明したガイデュシェックは1976年にノーベル賞を受賞します。賞金はなんと8万ドル足らず。ガイデュシェックはそれを、ニューギニアから引き取っていた何人もの里子たちの教育費に充てることにしました。
 「病原体」は少しずつその正体がわかってきました。「異常な蛋白質」ですが、それを作る遺伝子は「正常な遺伝子」です。ではどうやってその「異常性」を獲得するのか? アミノ酸が結合された後に蛋白質は立体的にたたまれますが、その立体構造に異常があるのではないか。科学者たちは全力疾走を続けます。「プリオン」という名前が提唱されます。
 その頃、医学の分野では、人体から抽出したホルモンや硬膜による感染性のCJDが問題となっていました。そしてもう一つ、食品分野でも、大きな問題が進行中でした。狂牛病です(BSE)。
 人が人を食い、牛が牛を食い、人が牛を食います。その“輪廻”の中で、これまで私たちが知らなかった病気がゆっくりと社会に浸透していきます。そういった「大きな物語」と、病気を解明しようとする人びとの「個人とグループの人生の物語」とが複雑に絡み合って本書を構成しています。情報そのものは少し古くなりましたが、「物語」は古くはなっていません。未読の方は、ぜひご一読を。



赤字の行き先

2012-01-25 19:14:49 | Weblog

 東電は電力料金の値上げ。政府は増税。わが家の赤字はどこに回せと?

【ただいま読書中】『十字軍物語1』塩野七生 著、 新潮社、2010年、2500円(税別)

 1066年ノルマン人によるイングランド征服。1072年別のノルマン人部族による南イタリアとシチリアの“解放”。1077年「カノッサの屈辱」(とその後の神聖ローマ帝国によるローマ法王への武力行使)。1085年トレドの解放(イスラム勢力下のイベリア半島でのレコンキスタ)。
 1095年クレルモンで開催された公会議で、法王ウルバン二世は「神がそれを望んでおられる」と東方への進軍をアピールしました。人びとは熱狂します。キリスト教徒同士はただちに「神の休戦」に入り、赤い布製の十字の印を縫いつけた部隊が結成されました。厳密にはこれは「戦争」ではなくて「巡礼」です。武装した巡礼ですが。スローガンは「聖地奪還」「聖都解放」。
 法王はきちんと組織された軍勢の派遣を考えていました。しかし熱狂した人びとは勝手に動き始めます。「貧民十字軍」です。まるで江戸時代のお伊勢参りのように、思い立ったら、食糧や路銀などの準備もなしにすぐに出発です。貧民ですからそもそも路銀なんか最初から持っていないのではありますが。すると、お伊勢参りのような「情け」が受けられなければ、「現地調達」となります。それも武力で。まず災難にあったのは、神聖ローマ帝国のユダヤ人たち(1000人くらい殺されたそうです)。ついでハンガリーのキリスト教徒たち。もちろんひどい目にあったのは貧民十字軍の側も、です。はじめは10万だった「十字軍」はビザンチンに到着したときには半減していたそうです。
 「正規軍」は、諸侯の寄せ集めでした。諸侯と言ってもピンからキリまで。公称「騎兵1万と歩兵3万」(実体はその半分ではなかったか、と言われているそうですが)のロレーヌ公から部屋住みの人間までいます。ビザンチン帝国と死闘を繰り広げていた地中海のノルマン王朝アルタヴィッラ家のプーリア公ボエモンドも精鋭の騎兵1万と歩兵2万(実体はその半分と言われています)を率いて参加します。総計10万の(後世の研究ではその半分と言われる)第一次十字軍は、ばらばらに東を目指します。とりあえずの目的地は、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノーブル。
 まずコンスタンティノーブルに到着したのは、貧民十字軍でした。詳しい人数は不明ですが、ともかく数万のぼろぼろの群衆です。皇帝アレクシオスは呆然とします。イスラムを攻撃するためにローマ法王に頼んだのは「軍隊」であって「群衆」ではなかったのですから。ともかくさっさと彼らを小アジアに送り込んでしまいます。待ちかまえるのは、イスラムでも勇猛で鳴るセルジューク・トルコの兵士たち。貧民十字軍はあっさり消滅してしまいます。それからしばらくして、諸侯の軍勢がばらばらにビザンチンに到着します。
 当時のビザンチン帝国は、常設の軍隊を持たず、傭兵に頼っていました。その主力は、イギリスでノルマン人に追われたサクソン人。そこに登場した「西」の正規軍は、ビザンチン帝国の目論見(“傭兵”を上手く使ってイスラムを圧迫し、かつては「自分のもの」だった小アジアに自領を拡大する)とはまったく違った姿でした。
 当時のイスラムから見たら、ビザンチン帝国にいるのが「ローマ人(人種的にはギリシア人)」で、(かつての)西ローマ帝国側にいる人間は全部「フランク人(人種はいろいろ)」でした。まだ「ヨーロッパ」という概念はなかったのです。逆に「フランク人」から見たらイスラム教徒は(アラブもクルドもトルコも)すべて「アラブ人」でした。
 まずはニケーアを落とした十字軍は、ビザンチン帝国側の案内によって小アジアの進軍を開始します。迎撃するのはセルジューク・トルコの大軍。「ローマ人」からは領地奪還、十字軍からは聖都解放のための正義の進軍、「アラブ人」から見たら侵略に対する正義の防衛戦争です。トルコの騎兵は主力武器は弓矢。対する十字軍の重装騎兵の武器は大槍と長剣ですが、鎖かたびらと鋼鉄製の甲冑で防御を固めています。最初はトルコ側が優勢でしたが、最後はトルコ側の大敗に終わりました。そこでトルコ側は、「負けなければ勝ち」のゲリラ戦と焼土作戦に戦法を変更します。
 とりあえず手探りで進軍していった十字軍側は「教訓」を得ます。一致団結・相手の情報・ロジスティック・海運などがいかに重要か、を知ったのです。これは第二次以降の十字軍に変化を与えることになります。イスラム側も「教訓」を得ます。キリスト教側が手強い敵であることを知ったのです。さらに、各部族の間のいがみ合いが敵に対する弱点のさらけ出しになる、ということも知ったはずですが、これは結局改善にはつながらなかったようです(「アラビアのロレンス」もそれで悩みますし、現在のイスラム世界も結束が堅いとはとても言えませんね)。
 シリアに入った十字軍はアンティオキアの包囲戦に入ります。膠着状態の中、エジプトからの使者が。バグダッドのスンニ派のカリフに対抗する、カイロのシーア派のカリフから、手を組もう、という申し出です。会談は結局物別れに終わりますが、それにしても「敵の敵は味方」というのは、コワイことばですねえ。
 一章ごとに本一冊分くらいの情報が詰め込まれていますが、著者の語り口は絶妙で、「事実」だけではなくて「事実の意味」を考えながら、さくさくと楽しみながら読めます。
 そしてついにイェルサレムの陥落(と直後の虐殺)。そのあとは、少しずつ減っていく戦力に悩みながらも、十字軍はしぶとく勢力圏を維持し続けます。
 それまでのキリスト教とイスラムの“衝突”は、基本的に領土戦争と言えるでしょう。世界中に例がありますが、場所が同じことで言うならローマ帝国が蛮族の侵入を受けたのと基本構造は似ています。しかし、十字軍によって「宗教戦争」という新しいジャンルが歴史に登場しました。一神教同士の対決です。そしてその「新しい戦争」は、両方の社会と宗教にも深い影響を与えることになります。


運命のくじ

2012-01-24 18:52:46 | Weblog

 裁判員がくじ引きで選ぶことができてそれで「死刑」だって決めることができるのなら、たとえば地方議員もくじ引きにしたらどうでしょう。意外にうまくいくかもしれません。少なくとも議会が「有権者の質」にふさわしいものにはなるでしょう。どうしても「プロ」が必要なら、半分は選挙、半分はくじ引き、なんて手はどうでしょう?

【ただいま読書中】『絵で見る 十字軍物語』塩野七生 著、 ギュスターヴ・ドレ 絵、新潮社、2010年、2200円(税別)

 オペラの「序曲」では、音によってそのオペラの「全体像」がまず示されます。著者は本書を『十字軍物語』の「序曲」である、と言います。まずは「十字軍」という巨大な「物語」を、この一冊でざっと見てしまおう、と。そこで利用されるのが、19世紀前半にフランソワ・ミショーが文章を書き、19世紀後半にギュスターヴ・ドレが100枚もの挿絵をつけた『十字軍の歴史』です。
 変わった構成になっている本です。本を開くと、左側のページにドレの絵(非常に精密な木版画です)、右側ページの上半分に地図(絵の舞台がどこかがわかるようになっています)、下半分に簡単な解説。この繰り返しで、さくさくと“序曲”は進みます。
 意外だったのは(著者が前書きでも書いていますが)、キリスト教徒が書いたはずの本なのに、けっこう「フェアな態度」であることです。イスラム教徒の善行(聖地巡礼途上で難事に遭遇したキリスト教徒にイスラム教徒が助けの手をさしのべる)とか第一次十字軍の蛮行(ニケーア攻防戦で、攻めるキリスト教側が、イスラム兵の首を切って市内に多数(一説には1000)投げ込んだ)も平気で描かれています。
 おやおや、舞台はコンスタンティノーブルからいつのまにか小アジアを横切っています。第一次十字軍は多数の犠牲者を出しながら城塞都市をつぎつぎ陥落させ、そこでは大殺戮の饗宴です。そしてついにイェルサレムも陥落。ここでも当然イスラム教徒に対する殺戮が花開きます。この行動によってイスラムには「十字軍=皆殺し」が刷り込まれ、イスラムの反撃が始まります。
 そこで第二次十字軍。諸侯が中心だった第一次に対して、こちらはフランス王とドイツ皇帝がそれぞれの軍を率いています。それをまとめたのが修道僧のベルナールで、その功績で彼は聖人に列せられたそうです。
 なにしろ「正規軍」で、兵站の概念を欠いていた第一次とは違って、イタリアの海洋都市国家が補給を担当します。万全の体制、と思えますが、“伏兵”がいました。ビザンチン帝国です。第一次十字軍に協力したのになにも見返りがなかったことに苛立った皇帝は、第二次十字軍に対してサボタージュをしたのです。そのためドイツ軍もフランス軍も小アジアで道に迷い、トルコのゲリラ部隊にいいようにされてしまいました。結局第二次は失敗に終わります。
 部族ごとにいがみあっていたイスラム教徒側ですが、サラディンが登場します。彼は「ジハード(聖戦)」を叫ぶことでイスラム諸勢力を統合しました。目標はイェルサレム。巧妙な戦術でサラディンは88年ぶりにイェルサレムを奪還します。それに対して、「聖都奪還」を旗印に第三次十字軍が結成されます。ドイツからは「バルバロッサ(赤ひげ)」の呼び名で有名なフリードリッヒ一世。フランス王フィリップ・オーギュスト。イギリスからは「獅子心王」リチャード一世。しかし、バルバロッサはすぐに死に、緒戦で勝利したらフランス王はさっさと帰国。残った獅子心王とサラディンの一騎打ちです。
 第四次十字軍ではやはり「コンスタンティノーブル入城」ですね。「十字」軍ではないか、とは思いますが、「キリスト教徒」といっても一枚岩ではない、ということです。そうそう、少年少女の十字軍の絵もあります。ああ、かわいそう。
 第五次はエジプトに向かいます。一番の強敵は「ナイル川」。
 第六次十字軍は、一滴の血も流さずに“目的”を達成しました。外交交渉だけで、イェルサレム・ナザレ・ベツレヘムを獲得したのです。さらに(10年間の期限付きでしたが)キリスト・イスラム不可侵条約まで締結しています。誰にとっても聖地への巡礼は安全にできるようになったのです。ところがヨーロッパではこの十字軍は“不評”です。イスラム教徒を一人も殺さなかったのが、ローマ法王(や多くのキリスト教徒)のお気に召さなかったようなのです。
 さて、たしかにこの「序曲」で“準備”はできました。では明日から『十字軍物語』(1~3)を読み始めることにいたします。



節水トイレ

2012-01-23 18:59:12 | Weblog

 節水型のトイレがどんどん開発されているようですが、昔ながらのぽっとんトイレをもう少し快適にしたタイプのものはどうでしょう。あれは究極の「節水」トイレだと思えるのですが。実は田舎住まいのときに、ぽっとんの上に設置した簡易水洗トイレを使ったことがあって、あれはあれでけっこう使えたのです。

【ただいま読書中】『江戸の上水道と下水道』江戸遺跡研究会 編、吉川弘文館、2011年、5500円(税別)

 みごとにタイトルに引っかけられてしまいました。江戸に上水道があったのは常識でしょうが、下水道があったっけ?と思わず本を手に取ってしまったのです。もちろん「下水」は街には必要です。地面に浸透しきれない雨水や生活排水を導き、江戸湾に流すための堀がネットワークとして造られていました。もともと江戸を構築するときに、江戸城西側の外堀として、神田川や溜池の谷(赤坂川、汐溜川)を利用し、地形を様々に改変していました。そのとき、旧来の河川を「下水」として生かしていたのです。上水もネットワークとして構築されましたが、大雨の時などの増水対策として、下水とクロスするところに排水用の「吐口」が設けられていました。ということで「江戸の水」には、堀・上水・下水の三種類の「水系」があったのです。
 外神田の発掘では、焼土層と盛り土が繰り返し出現しました。「江戸の火事」は有名ですが、それは“証拠”からも確かなようです。火事によって武家地が町地に変更されたところは、それに従って上下水道も変遷します。寛政期にそれまで素堀りや(造船技術を応用した)木の樋だった下水の堀は石組みの溝になり、それまでの開渠が部分的ですが蓋石で覆っての暗渠となります。明治期になるとその下水溝は道路端から中央に移動され、さらにコンクリート製のヒューム管が敷設されました。このヒューム管は部分的に江戸期の開渠の石組下水と接続されています。明治維新では「江戸」は否定の対象だった印象がありますが、「たとえ江戸のものでも、使えるものは使う」だったんですね。
 道路端の開渠というと、私は育ったところの「どぶ」を思いだします。あれも道路端の溝でしたが、大雨の時にたまに溢れることはあってもふだんはちゃんと汚水を海へ流す機能を果たしていたんですね。小学校の時だったかな、コンクリの蓋をされて暗渠になってしまいましたが。今はただの道路ですが、見たら昔のことはわかります。
 飯田町遺跡(高松藩上屋敷)では、北側から神田上水を導水していたことがわかりましたが、屋敷内でも井戸が掘ってあり、そこからの水も「屋敷内上水ネットワーク」につながっていました。上水の使用目的はもちろん生活用水ですが、もう一つ、庭園泉水への供給があります。これは見て楽しむだけではなくて、水道の遊水池という実用目的があったのでしょう。もちろん下水も屋敷内にネットワークが造られていました。
 いろいろなことに思いを馳せることができる本です。
 古代ローマの水道橋のことも思いますが、もし私たちが鉄管とかコンクリート管とかが使えなくなったら、どうやって「水道」を確保できるでしょう? 古代人に勝てるかな?
 それと「水」のことも私は思います。今私たちは「飲める水」を水洗トイレに流しています。これって、「贅沢」とか、水資源を大切にという観点からはもしかしたら“犯罪的行為”なのでは?と。



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2012-01-22 18:21:24 | Weblog

 気象予報士って今人気の職業のようです。そう言えば「Weather」を組み替えたら「We are ht(height)」になりますね。

【ただいま読書中】『桶狭間は晴れ、のち豪雨でしょう』松嶋憲昭 著、 メディアファクトリー新書038、2011年、740円(税別)

 目次を見るだけで笑っちゃいます。6つの章立てになっているのですが、順に「博多湾で神風が吹くでしょう」「桶狭間は晴れ、のち豪雨でしょう」「壇ノ浦では潮の満ち干きにご注意ください」「季節風に乗って島津勢が来そうです」「二・二六は大雪に見舞われるでしょう」「異人さんは台風に泣くでしょう」
 どうです? 歴史好きだったらこのタイトルだけで「この本は読まなきゃ」という気分になりません?
 「元寇と神風」はセットで考える人が日本には多くいます。たしかに「弘安の役」で元の軍勢が台風でひどい目にあったのは間違いないようです。しかしその前の「文永の役」は旧暦十月二十日(新暦11月26日)。台風が日本に来るでしょうか? 統計データは「ネガティブ」と言います。著者はさらに京都で記された「勘仲記」という日記から京都の天候を再現し、そこから博多湾で暴風が吹いた可能性を絞り込んでいきます。すると、弱い低気圧が20日の夜から22日にかけて、九州の南海上から京都の南を通って北海道方面に進んだ可能性が浮かんできます。
 「高麗史」には、文永の役で高麗軍が激しい嵐に見舞われたことが記載されています。それはいつか? 著者は当時の天気図を再現し、高麗軍が日本撤退後17日目に壱岐か対馬の近くで強力な温帯低気圧に遭遇した、と推定しています。もしこれが本当なら、文永の役では「神風の後出し」だったわけですね。で、結局「突然の撤退の理由」はやはり謎のままですが。
 「桶狭間」では、いろいろな史料に現われる、車軸の雨・雹・激しい風などのキーワードから、著者は、積乱雲のクラスターとダウンバースト、という気象メカニズムを想像しています。突風分布日本地図(平成年間の分)が掲載されていますが、桶狭間あたりが突風の“名所”であることもわかります。さらに積乱雲クラスターの移動が、まるで織田軍のためであるかのように絶妙の方向でした。織田軍は先に豪雨に遭いますが、豪雨はそのまま今川軍を襲います。織田軍は10分ほど先に雨が止んだ状態となり、豪雨に降り込められている今川軍に気づかれずに肉薄できたのです。
 「壇ノ浦」で登場するのは、好きな日時・好きな場所の潮流が再現できる、海上保安庁のサイトの「潮流推算」です。それで計算すると、通説とは違って戦いの最中には潮の流れは東流(西の平家から東の源氏に向かっての流れ)でした。そこで著者は「通説の、追い風ならぬ追い潮流は船の集団戦には有利、というのは本当なのか?」という疑問を提出します。
 あとの三つの章も、単に「ある事件の時にはこんな天気だった」と言うだけではなくて、当時の日本がどんな状態だったかについても目配りが効いていて、それぞれ楽しめました。
 歴史が好き(で、自然科学も好き)な人は、この本は読まないと、いくらか“得”をし損ねますよ。