【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

盛りだくさん

2010-03-31 19:48:59 | Weblog
 小学校の教科書が来年からぐっと分厚くなるそうです。でも、授業時間は増えないんですよね。どうやって“消化”するつもりなんでしょう?
 「あれもこれも」と盛りだくさんに詰め込まれたカリキュラムで教えられても結局「全部を使い切れないよう」と呟く人でこの世が充満するだけじゃないか、と私には思えます。ちょうど私が携帯電話の機能のすべてを使い切れていないのと同様に。

【ただいま読書中】『東方見聞録2』マルコ・ポーロ 著、 愛宕松男 訳注、 平凡社(東洋文庫183)、1971年、2800円(税別)

 河北省では製塩が盛んですが、塩が専売制であることがさりげなく紹介されています。この前読んだ『塩鉄論』のことを思い出します。さらに「マルコは3年間ヤンジュー(揚州)を統治した」と、これまたさりげなく。いくら色目人が優遇される元朝とはいえ、ふらっとやって来た商人が重要な街を統治? サーニャンフ(襄陽府)攻略戦では、あまりの守りの堅さに攻めあぐねているカーンの軍に対して、ニコロ・マテオ・マルコ三氏は「巨大投石機の作り方を伝授しよう」と申し出ています。それで重さ300ポンドの巨石を城内に打ち込むと都市はあっさり降伏しました。
 カタイ人は、花嫁の処女性をあまりに重んじるために、結婚直前に両家の代表が集まって花嫁の処女の確認を行なう、なんて風習がちょっとあきれた風で紹介されています。だからそこでは未婚の女性は歩くときも(処女膜に傷が付かないように)ちょこちょこ10センチくらいずつ小股で歩くんだそうです。しかし……きっちり確認するために指を突っこんで出血を確認って……それじゃもう処女ではないような。ちなみにタルタール人の女性は普段から馬に乗っているので、無傷の処女膜なんてものにはこだわらないそうです。(ただこれは生半可な噂と、たまたま見かけた纏足の女性の歩行とが組み合わさった結果のマルコ・ポーロの誤解のようです。というか、纏足そのものの描写がないということは、著者は色目人とタルタール人とは交際をしたが中国人とはある程度以上の関係を持たなかったということなのでしょうか)
 さて、チパング。黄金の島で、宮殿は純金ずくめ、さらに真珠も豊富で、土葬する場合には口に真珠を一つ含ませるのだそうです。どこの国のこと? クブライ・カーンは征服軍を送りましたが暴風雨のため失敗(これは日本側の記録と合致します)。孤島に数千(ないし数万)の兵が遺棄されましたが、本書では彼らは日本側の隙を突いて日本本土に進行して都市を占領した、とあります(日本側の記録および元史では、日本軍の追撃ちでほとんどは島で殺されています。高麗軍の一部は長門に上陸していますが)。なお、チパングに住むのは「偶像教徒」で、頭が3つとか手が千本の偶像をありがたがっているそうです。仏像もこう書かれるとまるで魔教のようですね。また、チパング諸島が面している海は「チン海(秦海)」だそうですが、本書の記述を素直に読むと今の「東シナ海」のことです。魏志倭人伝の時代から、中国から見たら日本はつまりは九州のことで、それ以外は九州の後背地という扱いだったのでしょうか。
 ジャヴァ(スマトラ島)では、北極星も北斗七星も見えない、と驚きを込めて書かれています。そうそう、こういったことをたくさん書いて欲しいのですよ。マルコ・ポーロは、あまりに多くの驚異を見聞しすぎて、どれもこれも伝えようとまるでカタログ制作のような態度になってしまいました。私個人としては彼自身の“物語”をもっと深く知りたいとも思いますが、それを求めると今度は各王国や各地方の“データ”が落ちてしまうかもしれませんし、これはなかなか難しいところではあります。ただ、「歴史」とは単に「勝利者が書いたもの」だけではなくて、こういった民間人が書き残したものにもその断片が光り輝いていることは明らかです。ただ、マルコ・ポーロが中国で行なった活動についてもっと詳しく知りたいし、帰りはなぜ海路にしたのか、そのへんの事情についてももっと知りたいなあ。読み終えて、ちょっと欲求不満が残っています。



英雄

2010-03-30 18:34:46 | Weblog
 マケドニアからインドまで到達したアレクサンドロス大王やパリからエジプトやモスクワまで到達したナポレオンを英雄とする人は、秦の始皇帝や漢の武帝やチンギス・ハーンのことはどう評価しているのでしょう? インカやマヤの祖は?

【ただいま読書中】『東方見聞録1』マルコ・ポーロ、 愛宕松男 訳注、 平凡社(東洋文庫158)、1970年、2800円(税別)

 ニコロ・ポーロとその弟マテオが行なった商売(と冒険)の旅は偶然や必然によってクブライ・カーンのもとに導かれました。教皇へのカーンの使節とともに帰国したニコロは、妻はすでに死に、息子のマルコが15歳になっていることを知ります。教皇からの親書を携え兄弟は再びカーンのところに戻りますが、マルコを同行させることにします。さて、東方見聞録の、はじまりはじまり。
 道中は、宗教と人種のるつぼです。キリスト教(ただし著者は「ローマ教会のそれではなくて様々な点で邪道に陥った教法」と言っています)・イスラム・ペルシア教など、そして様々な人種が入り乱れて交易を行なっています。ここでマルコは言語の才能を示した様子です。
 旅の道筋の様々な珍しいものが紹介されますが、通過する諸国でマルコ・ポーロがまず興味を持つのが、宗教、産物、地勢、そして水です。水のせいで下痢をするとか、水のために風土病として住人の甲状腺が腫れているとか、けっこう細かい描写が続きます。
 興味深いエピソードとしては……若者が〈山の老人〉の用いる大麻(ハシシュ)によって刺客に仕立て上げられる過程があります(暗殺者assassinの語源はhashish)。心理学の悪用ですな。マルコ・ポーロの時代にはもう〈山の老人〉は討伐されていたのですが。あるいは「サラマンダー」。これはヨーロッパでは動物の名前になっていますが、本来は鉱物である、と著者は述べます。描写からすると石綿ですね。そして「プレスター・ジョン」の登場です。
 プレスター・ジョンから話はチンギス・カーンへ、そして「タルタール人(モンゴル帝国の住人たち)」へと話題は移行します。文字で旅をしているようで、なかなか巧妙な道筋です。葬儀や婚姻についてもいろいろ紹介されていますが、その中に「従姉妹を妻とすることができる」とわざわざ書いてあると言うことは、当時のヨーロッパ(少なくともイタリア)では従姉妹との結婚はタブーだったんですね。
 妖術や魔法についても“実在するもの”として書かれていますが、マルコ・ポーロは実際に見たのでしょうかねえ。
 彼が実際に見た偉大なものとして、クブライ・カーンがいます。本書では「アダムより以来今日に至るまで、かつてこの地上に実在したいかなる人物に比べても、はるかに巨大な実力を具有している」と書かれています。
 太陽暦での2月には元旦節の盛大な祝典が行なわれます。集う重臣は12000人。カーンにお祝いとして献上されるのは白馬10万匹(献上者は九の九倍、つまり81匹を揃えないといけないそうです)。尊ばれる色「白」の衣装を全員身につけ「白色の朝賀」(祝いの饗宴)が執り行われます。カーンからは集う重臣たち全員に13組の色違いの宴服(1年13ヶ月の各月の儀式のためのもの)が賜与されます。総計10万6千着、とマルコ・ポーロは嬉しそうに計算して見せます。……あのう……計算が合ってないんですけど……それとも本の方の誤植かな?
 首都カンバルックは、一説には100万都市だったそうです。マルコ・ポーロは家や人口を数える努力は放棄していますが、娼婦は2万人という報告はしています。娼婦や各地から集まる商人は城外に住みますが、城内よりは城外の方が人口は多いそうです。そこで流通しているのはなんと紙幣、とマルコ・ポーロは驚き「カーンこそ、錬金術師」と断言します。カンバルックから各地方には公道があり、駅伝制度が整備されています。(宿駅が25~30マイルごと、へき地では35~40マイルごとにあって、宿泊と馬の交換ができる) 飛脚は3マイルごとに配置され、普通は10日行程のところを1日で文書や軽い荷物を首都に届けます。
 「薪のように燃える石」も登場します。石炭ですね。
 マルコはクブライ・カーンのお気に入りとなり、元朝に仕えることになります。最初は雲南省への使節です。その道中もこれまでと同様、淡々と途中の地方のことが語られます。この「淡々」がくせもので、せっかくの「別世界の見聞」なのに、まるで気のないガイドがお客を「はいここは○○堂で××年に建立です。写真を撮りましたか。では次に行きます。こんどは□□の門。高さは5メートル幅は10メートルです。では次に行きます」とおざなりな仕事をしているかのような感じで、ちっとも臨場感が盛り上がりません。面白そうなエピソードが登場しても「オチ」なしで「この話はここまで」と次に行ってしまいます。この「淡々さ」は本書の発表当時にも問題になったようですが、解説では、まだ散文体が確立していない時代だから、と弁護されています。ともかく、本書を楽しむためには、相当想像力と注意力と過去の知識が必要です。
 「黄金の国」の登場は、下巻です。
 


本日の名言

2010-03-29 18:38:57 | Weblog
 正義は神々の手の中にある/人の手の中にあるのは、慈悲と剣のみ(いにしえの詩句)
             ──『パワー』ル=グウィン
 そうそう、運の神が人の願いに対して向けている方の耳は実は聞こえなくて、聞こえる方の片耳は宇宙の進行に向けられている、なんて意味の言葉もこの本の別のところで何回か登場します。

【ただいま読書中】『パワー ──西のはての年代記3』ル=グウィン 著、 谷垣曉美 訳、 河出書房新社、2008年、2100円(税別)

 都市国家群のエトラ。奴隷の少年ガヴィアは、完璧な記憶力とともに「思い出し」の能力を持っていました。まだ起っていない未来の記憶を思い出すことができるのです。だから彼にとっては、過去も未来も“地続き”なのです。
 エトラでは奴隷も自由市民と同じ教室で教育を受けることができ、安全と保護が与えられています。でも、奴隷は奴隷。不平等で理不尽な扱いをガヴィアは受け続けます。ただ彼はまだ子どもで、それ以外の世界を知らないから、心にモヤモヤしたものを抱えながらも「世界はこんなものだ」と思っているのですが。
 ゆったりとガヴィアは成長し、思春期を迎えます。まるで彼への特別なギフトのようだった“一瞬の夏休み”の描写は、地平線の向こうに将来待っているであろう悲劇の予感の中で、緊張感の中に痛々しいほど新鮮な美しさを湛えています。
 戦争の勃発。包囲された都市の中で“禁じられていた詩”と出会い、ガヴィアは「自由」という言葉を初めて知ります。こうしてガヴィアは、自分の人生に(言葉によって初めて獲得される)「意味」があることを知ります。
 そういった「意味」を破壊する理不尽な暴力によって最愛の人を奪われ、ガヴィアは逃亡奴隷となります。そしてそこからの「旅」は、一見荒々しいものですが、実は内省的でガヴィアが何かを得ると同時に何かを失っていく過程です。「ことばの意味」「物語るという行為の謎」がガヴィアの足跡によって少しずつその形を現していきます。ガヴィアは少しずつ北を目指します。このシリーズははじめ「西のはて」の北で始まり、次に南に舞台を移しました。そしてガヴィアがそれをまたゆったり北へと移動させていくのです。オレックが“待つ”大学へと。
 第Ⅳ部14章のあたりで、私は読むのを止めたくなります。いつのまにか400ページ読んでしまって、残りがもう数十ページしか残っていないのですから。
 そして……オレックとの出会い。すでに「詩を読むこと」で何度も出会い、「思い出し」でも何度も出会っているオレックと、ガヴィアは出会います。これは運命だ、と彼は悟ります。で、ラストで「泣いちゃだめ」って言われてもねえ……

 『ギフト』『ヴォイス』『パワー』はすべて「主人公が大人になってから子供時代を回想する」形式で記述されています。それは老境に達した著者が、自分の過去を振り返り何かを「思い出し」ている姿と重なります。ただしその「思い出し」の対象は、異世界のできごとなのですが。『ギフト』『ヴォイス』も秀作でしたが『パワー』では特に著者の筆には力がこもっています。だからでしょうか、三冊中では最も分厚くなっていますが、決して散漫にはなりません。読者の心を引き込んで話は粛々と進みます。
 瑞々しく素敵な言い回しがいくつも散りばめられていますが、その中から一つだけ引用します。
 「もし永遠というものに季節があるとすれば、それは真夏だろう。秋、冬、春は常に変化しつづける。それらは通り道だ。だが、夏の盛りで、一年は立ち止まる。それもすぐに過ぎ去る瞬間でしかないけれど、その瞬間が通りすぎようとする最中にも、心は知っている。それが決して変化しないことを。」と著者は歌います。これは単に四季のことを言っているだけではありません。常に変わりゆく人生にも「永遠の一瞬」があることを言っているのです。そして、そこを“基準”に、人は生きていくのだ、と。
 私自身がそういった「永遠の一瞬」を持っているだろうか、と自分の心を覗いてみました
 ありました。



読書三昧

2010-03-28 17:40:52 | Weblog
 久しぶりに完全休日が得られたので、朝から晩まで本を読んで過ごしました。普段は細切れ読書(ちょっと読んでは別のことをやり、それが一段落したらまたちょっと読書)、ながら読書(何かをしながらの読書)や平行読書(何冊かを平行して読む)ばかりで落ち着いて読めた、という満足感が少ないため、携帯電話のスイッチを切って本を数冊脇に積んで、本の最初から最後までの一気読みです。
 これはいいや。至福の一日。久しぶりにきっちり「読書」をしたという満足感が得られました。
 問題は、何冊も読んでしまったために、この読書日記の原稿が数日分在庫になってしまったこと。ま、これからしばらく仕事が忙しいので本を読む時間も減るから、たぶん順調に“消化”できるでしょうけれど。

【ただいま読書中】『江戸参府旅行日記』エンゲルベルト・ケンペル 著、 斎藤信 訳、 平凡社(東洋文庫303)、1977年、2800円(税別)

 大名小名が参勤交代をするように、オランダ東インド会社の代表も将軍に参勤して臣従の礼を表す必要がありました。著者は1691年(元禄四年)とその翌年の2回この旅行に参加しました。
 馬が蹄鉄ではなくて藁靴を履いていること/荷物は振り分けで馬にも鞍にも固定しないこと/駕籠での上等なものは「乗物(Norimons)」と呼ばれるが下々が使う粗末なものは「駕籠(Cangos)」と呼ばれる、など、著者は細かく興味深いことを記述しています。
 長崎から小倉までは陸路5日(荷物は船で別送)、小倉から大阪までは海路で大体1週間(風による)、そして主に東海道を陸路江戸まで2週間。
 街道には多くの人がいます。旅行者、客引き、飛脚、草鞋や菅笠などを売りつけようとする子どもたち、物乞い(ここでは驚くほど多くの種類の物乞いが紹介されています)、それから売春婦。これまた数が多い。当時の中国では売春は禁止されていたので、“それ”を求める中国人は日本まで銭を握ってやって来た、なんてことが書いてありますが、本当? 
 東海道を通る大名行列で大規模なものは2万人。全員が通過するのに3日もかかる、と聞くと、その経費の膨大さに私は頭がくらくらします。このオランダ人の一行はさすがに小規模ですが、それでも東海道は150人規模です。荷運びが50人以上、他に馬丁や護衛、通詞、通詞の助手、権力者の縁故関係……放置すると人数はどんどん膨らんでしまいます。肝心のオランダ人は数人なのですが。1回の参府旅行に会社が要するコストは2万ライヒスターラー(別のところに「500ライヒスターラーが300両」とありましたので、つまりは総計1万2千両! どんな使いっぷりかはぜひ本文をお読み下さい。小判がぽんぽん飛んでいってオランダ人が気の毒になってきます。彼らはそれ以上の利益を対日貿易で上げてはいるのですが)。
 食事は1日3回。間食もあります。旅程はけっこうハードで、1日に10~13里進みます。夜明け前に出発して日が暮れても歩くなんてことも稀ではありません(前触れでどこに泊まるかは決めていますから「もうこの辺で休もう」は許されないのです)。『奥の細道』でも初老の芭蕉が平気で10里以上歩いていましたが、当時はこれが“ふつう”だったんですね。
 著者は「日本人の礼儀正しさ」「行き届いた掃除」「清潔でたとえ質素でも様々な飾り付けがされた住居」を絶賛しています。このへんの描写で私は“異国情緒”と“わが国の伝統”の二種類の感情を味わいます。
 「ここには写真が欲しい」と言いたくなるところには、著者のスケッチが挟まれています。細密に描き込まれた旅行地図もありますが、京都の市街図はこれはたぶん何かからの丸写しでしょうね。路地が全部載っているのですが、著者がそのすべてを歩いて見たとは思えませんので。ただし、街道沿いの刑場のスケッチはありません。(腐りかけた人間の死体を野犬やカラスが食べている図、はあまり見たいとも思いませんが)
 江戸では将軍(綱吉)に拝謁します。そのための手続きの繁雑なことと言ったら。ところが謁見そのものはカピタンが呼ばれて進み出て平伏してそれでお終い。なんともあっけないものです。
 『蘭学事始』では、日本橋の旅館「長崎屋」に止宿したオランダ人一行を物見高い文人たちなどが見物(ないしは会話の試み)にどっと押しかけるシーンが書いてありましたが、こちらではまだオランダ人は“隔離”されていて、定められた日本人以外には会ってはならないようです。窮屈です。将軍や大奥の女性は“変わった見せ物”として一行を扱い、ケンペルなど皆の前でドイツ語の歌を歌ったり踊りをさせられています。この謁見の広場での踊りのシーンも著者はスケッチにしています。
 大通詞と著者たちはよく衝突をしています。本書では「憎悪」とか「悪意」と表現されますが、大通詞としては「異国の言葉を喋る」ということだけで同胞からは胡散臭く思われてしまうのをおそれてことさらケンペルたちに辛く当たっていたのかもしれません。ただ、そんな態度だと、語学力は向上しませんよねえ、なんて思って注を見たら、なんと楢林鎮山ではありませんか。『蘭学事始』の最初に登場する楢林流外科の祖(さらに、フランスの外科医パレの本のオランダ語訳を日本語に抄訳した『紅夷外科宗伝』を出した人)です。こんなところに「蘭方」の根っこが。
 道中の話も面白いのですが、日記で触れられる普段の生活も興味深いものです。江戸ではしょっちゅう火事が起きています。長崎ではしょっちゅう密輸の罪で人が捕えられ処刑されています。鎖国をしているはずなのに、中国のジャンクはけっこうな頻度でやって来て港はにぎわっています。日本では七夕の前夜は夫婦が睦まじく過ごす風習があるそうです(バブルの時期の「ホテルでのクリスマスイブ」の先取り?)。犬は大事にされ、飼い犬が死んだら役人に届け出る義務があります。何をするにも贈り物が非常に重要な役割を果たしています。
 本書の「異国人が見た日本」には、見る側にも見られる側にも「時代」のフィルターがかかっています。「日本」というレッテルを貼ることは可能ですが、まるで今の日本とは違う国で、でも明らかに同じ国です。個人的には、蘭学事始の時代のオランダ人が書いた日本見聞録を読みたくなってきました。



悪戯

2010-03-27 17:59:10 | Weblog
 「悪戯を楽しむ」人間は、他人に対して悪戯を「する」だけではなくて「される」ことも楽しくなければ、うそでしょう。

【ただいま読書中】『火を熾す』ジャック・ロンドン 著、 柴田元幸 訳、 スイッチ・パブリッシング、2008年、2100円(税別)

 カバーでは、著者よりも訳者の名前の方が上に置かれています。なんでそんなことをするのか、ちょっと不思議な気分です。
 表題作の「火を熾す」で登場するのは、一人の男と一匹の犬、それと、空気まで凍らしてしまいそうな寒気とその中でちょっと熾されては消える火。それだけです。あらすじは……やろうと思えば10字以内に要約できそうです。もっともあらすじを知ってもこの短編の何を知ったことにもならないのですが。
 それ以外に収載されているのは「メキシコ人」「水の子」「生の掟」「影と閃光」「戦争」「一枚のステーキ」「世界が若かったとき」「生への執着」ですが……これは訳者の好みによってでしょう、とてもバラエティに富んでいます。ボクシング(と革命)や釣り(と伝説)というヘミングウェイが喜びそうな題材もありますし、不可視人間のアイデアストーリーもあります。あ、この不可視人間、単なる透明人間のお話じゃありません。透明人間もありますが、もう一つ、人を不可視にする手段が登場します。ジャック・ロンドン流のはちゃめちゃ小話、といったところです。
 「一枚のステーキ」は切ない物語です。老いたボクサーが「一枚のステーキさえあれば」と繰り言を言い続けるのですが、本当の問題はステーキではないことは、本人も含めてみながわかっているのです。それでも言いたくなるんですよね。一枚のステーキさえあれば、と。
 「世界が若かったとき」は……ホラーにでもSFにでも犯罪小説やユーモア小説にでもできる題材ですが、なんというか、恐怖で始まり恋愛のパウダーがかかって最後はへなへなと終わります。まあこんな展開も私は好きですが。
 20世紀初めの世界のにおいがぷんぷんするようで、当時の世界を知らない私ですが、なぜか懐かしい思いに浸ってしまいました。



鬼ごっこ

2010-03-26 18:22:20 | Weblog
 「逃走中」という番組は、子どもが見ていたのではじめのあたりをちょっと一緒に見ましたが、これはあまりルールを複雑にするとつまらなくなるし、といって単純だと単調になって長い時間が保たないし、けっこう製作する側にも緊張を強いるもののように思えました。見る側としてはなるべくはらはらどきどきが楽しめればいいのですが。
 で、板野友美さんという人(ファンの人には、ごめんなさい。どこで何をやっている人か、存じません)が「自首」戦略をとって結局失敗した、ということで彼女のブログが大荒れになっている……って、なんで? ルール違反でもないし卑怯なこと(一緒に逃げている人を突き倒してハンターに捕まえさせて自分は逃げのびる、とか)をしたわけでもないし……テレビの「絵」的に面白くなかった、ということ……でもなさそうです。
 もしかしたら「自分が出たかった」という不満か「お前なんか嫌いだ」という感情の発露なんでしょうか。それとも「番組参加者はこのように行動するべし」という「俺様コード」に彼女の行動が触れてしまった? だけどそんな「べし」ですべてを規定するのは、頭の固さか精神年齢の低さを露呈しているだけのようにも思えるんですけどねえ。

【ただいま読書中】『「ご冗談でしょう、ファインマンさん」2』リチャード・ファインマン、ラルフ・レイトン 著、 大貫昌子 訳、 岩波書店、1986年、

 ブラジルの物理学研究所に客員教授としてでかけた著者は、カルナバル(カーニバル)に参加しようと現地のサンババンドに加わってフリジデイラ(直径15センチくらいのフライパン型パーカッション楽器でスティックで叩く)の演奏を会得します。
 しかし、ブラジルに行くとなるとポルトガル語の練習をして、とにもかくにも会話ができるようになるし、日本での国際理論物理学会議に参加するとなると日本語や箸の使い方を練習するとは、この人の心は本当にオープンにできているんだな、と私は感心します(ただし、日常会話レベルまでで、敬語のところで挫折していますが)。で、日本に来たら帝国ホテルで西洋式のサービス。著者は「日本式の旅館に泊まりたい」と係員と押し問答を小一時間。やっと案内された旅館の浴室でぶつかったのが湯川教授。ちなみにこのときのファインマンの発表演題は「液体ヘリウムの超流動を量子力学で説明すること」でした。そういえば著者がノーベル賞を受賞したのは、朝永さんと一緒でしたね。
 音楽、言語、の次は絵画。ファインマンさんは画を習い、何枚かの画を売り、とうとう個展まで開いてしまいます。さらにはマヤの数学の解読まで(彼にとっては、子供時代から大好きな「パズル」の一種でしかなかったのです)。まったく、なんちゅうお人だ。
 ファインマンさんが好きなものはたくさんあることがわかりますが、嫌いなものもたくさんありますね。特に「偽善」「不誠実」「威張りんぼ」。なんだかその生き方に魅力を感じます。自分ができないことだからそう感じているだけかもしれませんが。
 なお、本書には、難しい物理学や華々しいノーベル賞の話はほとんど登場しません。読みながらただひたすら「ご冗談でしょう、ファインマンさん」と言えばよろしいのです。



カフェイン抜き

2010-03-25 19:03:27 | Weblog
 映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」で過去に戻ったマーティが「ペプシのカフェイン抜き」を飲もうと「フリー」と注文したら「フリー(無料)のなんて、ねえよ」と返されるシーンを急に思い出しました。私は映画館で「カフェインフリーのコーラなんてのがアメリカにはあるんだ」とそちらのほうで感じ入っていましたが。
 私自身はカフェインには軽度の中毒なのでわざわざ「抜き」のを飲もうとは思いませんが、最近はコーヒーや紅茶にもカフェイン抜きのものがあるんですね。どうやって抜いているんでしょう? 実は今日からわが家で飲み始めた紅茶が「特殊製法でカフェイン抜き」なのです。インスタントコーヒーだったらまだなんとなく化学処理かな、なんて思いますが、コーヒー豆や葉っぱからカフェインだけ抜くって、まるで手品みたい。

【ただいま読書中】『「ご冗談でしょう、ファインマンさん」1』リチャード・ファインマン、ラルフ・レイトン 著、 大貫昌子 訳、 岩波書店、1986年、

 物理学者ファインマンの自伝です。
 既読の方はご存じでしょうが、この本は人前では読まない方が良いです。爆笑の連続となりますから。久しぶりの再読ですが、わかっていても笑っちゃうことが何度もありました。
 少年期の真空管ラジオのエピソードから、すぐに大学(MIT)に話がとびます。寮での生活や学校での抱腹絶倒のエピソードのあと(ちらっとだけ、ファインマンがリーマンのゼータ関数について業績をあげたことも紹介されますが。本当にちらっとだけ)、さくさくと話は進んでプリンストンの大学院に進学。ここでもまあ、爆笑の連続。ただ、電子に関する論文をゼミで発表することになったとき、ラッセル(世界的な天文学者)、フォン・ノイマン(偉大な数学者)、パウリ(世界的な物理学者)、アインシュタイン(説明不要)がぞろぞろと「面白い話が聞けるんだって?」と教室にやってきてファインマンが真っ青になってしまうのには、こちらは笑いながら「ファインマンは本当に優秀だったのね」と呟いてしまいます。
 しかし、あまりに冗談ばかり言っているものだから、イタズラをして「犯人は自分だ」と白状しても「また、冗談を」と本気にしてもらえない、という“不幸”も味わっています。
 学位を取るなりファインマンはマンハッタン計画に参加します。計画は実験と理論的研究の二本立てで進みますが、ファインマンは理論の方に回されます。そこでせっせとお仕事をしますが、それと同時に金庫破りの修行(とイタズラの数々)。もうこの人は、と棒読みで言いたくなります。

 哲学の授業を取って混乱を起こしたり、なぜか生物学の研究(ファージの研究)をしたり、さらにはプラスチックにメッキをする会社に就職して、それまで「プラスチックにはメッキはできない」とされていた常識を覆して、様々な前処置によってそれが可能にするという「化学者」の仕事をしてみたり、ファインマンさんは本当に多芸多才です。何かで優秀な人は、他の分野でもそれなりに優秀な仕事ができる、ということなんでしょうね。
 まあとにかく、イタズラのオンパレードです。意識してやったのはもちろんですが、意識せずにやったことまでもが立派なイタズラになっているのですから、あっぱれ。



国際電話

2010-03-24 18:35:31 | Weblog
 ちょっとアメリカに電話をする用がありました。20年くらい前には自宅の電話をKDDにあらかじめ登録しておく必要があったと記憶していますが、今回は何も考えずに「001」から番号を打っていったらまったく何の問題もなく通じました。(ただ、先方の自宅の固定電話はすぐファックスに切り替わってしまったので、結局携帯にかけることになりましたが) 呼び出し音の間隔が日本の倍くらいのんびり鳴ること以外、通話自体には日本国内と全然差を感じません。
 そういえば40年くらい前には、市外通話でさえも、交換手を通して相手を呼び出してもらっていましたっけ。文明の進歩はオソロシイものがあります。

【ただいま読書中】『塩鉄論 ──漢代の経済論争』桓寛 著、 佐藤武敏 訳注、 平凡社(東洋文庫167)、1970年

 著者は前漢の宣帝(前73-49)の時代の人で、その前の昭帝(前86-74年)の時代(始元六年(前81)に行なわれた論争を記録しています。帝が、民間で苦しみ悩んでいることを尋ねたのに対して、賢良・文学は「民が苦しんでいる元凶である塩・鉄・酒の専売を廃止し、商業から農業に国の基幹産業をシフトすれば国が豊かになる」と述べたのに対して、御史大夫は「匈奴の侵入に対する軍備を必要とした武帝が、専売によってそのコストを捻出した。専売制を廃止したら、国庫は空になり匈奴への備えもおろそかになり、結果として国が滅びる」と反対をしました。論争はそこから始まります。
 文学はどちらかというと「昔は農業中心で安定していたのだから、過去に戻れ」という主張で、その根底には儒家の思想が坐っています。対して御史大夫は現実主義者で「政治」「外交」「貿易」「軍備」「治安」などの“現実”を主張の根底に置いていますが、昔への言及でも文学に負けてはいません。教養豊かに神代の天帝の業績などもすらすらと“引用”してみせます。
 中国の長かった戦乱(春秋戦国)が秦の始皇帝によって強引にまとめられ、「中国」が成立してから100年以上。武帝によって国威は発揚し、漢は一大帝国としての繁栄を謳歌していたはずの時代です。ところがほころびが生じていたんですね。内患外憂と言いますが、まさにそれです。当時の為政者たちは「このままではまずいことになりそうだ」という共通認識は持っていたはず。だからこその帝の面前での論争なのです。
 本書で行なわれているのは、今の世界に置き換えたら「大きな政府」か「小さな政府か」の論争、とでも言えそうです。ただそこで問われているのは単なる数字に還元できる政策だけではなくて、もっと大きな「国としていかにあるべきか」の基本ポリシー(国の枠組みや国家の品格も含めたもの)もです。未来を指向するかそれとも過去か。どちらを指向するとしても、では次にどのような「未来(あるいは過去)」を目指すのか。そのために具体的な施策で何ができるか/何ができないか。利益を求めるとして、それは短期的な利益か長期的な利益か。どこまで“身銭”を切ることができるのか(文学は「溺れる者を救う者は濡れなければならない」というたとえを使っています)。また「苛政」の功罪も論じられます。怠ける人間に労働や納税を強制するべきか、それとも寛大な政治で喜んで働くようにさせるか、この部分は帝の政治を下手すると批判することになるので、けっこう論者も言葉を選んでいますが、論じていること自体は真っ当なことをお互いに言っています。
 今の政治を見ていると、この2000年以上前の政治家と比較して、少しは進歩しているのか、と思ってしまいました。少なくとも“教養”の点で退歩しているのは間違いありませんが。

 こういった本は、その内容以前にまずは「そんなものが存在すること」に私はインパクトを受けます。同時代の本で私が読んだことがあるものとして『ガリア戦記』(ユリウス・カエサル)を思い出しますが、あれとはまた違った面白さが充満しています。



いつも冷静

2010-03-23 19:24:17 | Weblog
 いつも沈着冷静であなたのことを怒鳴りつけたりしない人は、あなたが泣いているときにもやはり冷静沈着で親身にはなってくれないかもしれません。「いつも」冷静なのですから。

【ただいま読書中】『一度は拝したい奈良の仏像』山崎隆之 著、 小川光三 写真、学研新書051、2009年、880円(税別)

 単なる奈良仏像のガイドブックではなくて、著者の好みでセレクトされた仏像を、その由来、製作技法、できてからの歴史(あるいは修理歴)、デザインの意味などを“プロの眼”で紹介してくれる本です。
 たとえば東大寺法華堂(三月堂)、本尊の背後に安置される執金剛神像の場合、拝する“特等席”は、正面ではなくて向かって右斜め下、と著者は教えてくれます。日本には稀な「手前から奥への激しい動き」を感じさせてくれる絶好のスポットなんだそうです。この執金剛神像は塑像ですが、それと同様の「肉体のねじれ」を感じさせる仏像は、興福寺の仁王像。こちらは木彫り像ですが、木組みが特殊で、上部は前後二材・下部は左右二材となっています。著者は、このような特殊な木寄せの技法を開発したのは東大寺の執金剛神像に刺激を受けたからではないか、と推測をしています。
 東大寺法華堂本尊は、脇侍像よりも小さくアンバランスとなっています。さらに光背が本来の位置よりも下げられています。これは宝殿などの設計ミスなのか、それとも別の意味があるのか、著者は謎に首をひねり続けます。
 光背といえば、唐招提寺本尊の光背のデザインから、著者は仏教思想の発露を読み解きます。東大寺の大仏のような「巨大さ」で「広大な世界観」を示すのではなくて、別の方法で「大きさ」を示す造型上の工夫があり、さらに光背の意匠にも仕掛けがあるのだそうです。
 鑑真座像の章はウエットです。仏ではなくて生きている僧の“影”を像に写し取るという異例の行為の重さ、その細部に込められた像の作者(および当時の人々)が鑑真に寄せる思いの深さ。それが写真と文章から読者にひたひたと伝わってきます。
 木材資源が枯渇したことから、細い木材でも大きな仏像が作れるように、11世紀頃から寄せ木の技法が発達しました。
 こんど家族旅行で奈良にでも行こうか、という話がまとまりつつあるのですが、本書の著者のような仏像の奥まで見通すような眼で拝することができるかどうか……ただ、単なる物見遊山では終わらせないようにしようとは思っています。



有能

2010-03-22 17:44:32 | Weblog
 会社では有能な人間は仕事ができて無能な人間は仕事ができない、と単純に考えていましたが、最近考え方が変わりました。無能な人間の中には「他人に自分の仕事をさせること(たとえば「自分にはとてもできない」などと、他人に自分の仕事を押しつける口実を見つけること)に有能な人間」がけっこうな割合で混じっているのではないか、と。でないと、あそこまで“無能”にあぐらをかけるわけがわかりません。

【ただいま読書中】『在郷軍人会 ──良兵良民から赤紙・玉砕へ』藤井忠俊 著、 岩波書店、2009年、2800円(税別)

 在郷軍人とは、軍人が現役を退いて帰郷した存在で、西洋では「軍服を着た市民」と表現されます。では日本では?
 在郷軍人会では定期的に簡閲点呼が行なわれました。連隊区司令部の命令で召集される純軍事的行事ですが、初期に残された写真では軍服を着ている人は意外に少ないのです。明治末期、福井県西安居村には、軍服6・羽織袴21・羽織8・袴2・着流し10、という服装調査が残されています。羽織袴は当時の正装ですからよしとしても、着流し?
 田中義一大佐(のちに大将)は満州派遣軍の参謀として、後備師団(在郷軍人を召集した兵を主力に編成された師団)が常備軍に比較して弱いことに気づいていました(田中はロシアのその弱点を突いて勝利を得ていますが、同時にそこが弱いのは日本も同じと冷静に述べています)。しかし、今後の戦争では在郷軍人が主力になると彼は断言しています。そこで必要になるのは、訓練と戦意、そして国民の支持です。軍は在郷軍人会の強化に乗り出します。日露戦争(10万人の死者)からの帰還兵問題も重なります。(当時はこのことばはありませんが)「PTSD」をどうするか、です(モラルの落ちた帰還兵に対して当時「兵隊上がり」という蔑称が使われました)。さらに都市部と農村の関係もあります(当時強兵は農村部から得られていました)。社会主義への警戒感も高まります。米騒動で検挙された人間の1割が在郷軍人であったことは軍と在郷軍人会に衝撃を与えます。「良兵→良民」が否定されたのか、と。
 さて、全国に作られた在郷軍人会組織ですが、大正初期にそこで奨励されたのは「早起き、勤勉、時間を守る、質素倹約」などでした。在郷軍人は、軍や在郷軍人会の思うとおりに動く人ばかりではなかったということでしょう。その時代は「大正デモクラシー」とも重なっていました。普通選挙運動に代表される「市民」の誕生です。都市では労働争議も多発します。これは「農村を基盤とする軍」を是とする帝国には都合の悪いことでした。ところが農村では小作争議が起きていました。そしてシベリア出兵に対して国民の支持は近代日本の戦争の中で最低でした。
 軍は危機感を持ちます。在郷軍人会の活動にてこ入れを図り、同時に「国防思想」の普及に努めます。「顧客の創出」ではなくて「軍の必要性の創出」と言ったらよいでしょうか。そこには恰好の“敵”がいました。社会主義者です。さらに軍縮(職業軍人を失業させる世界的悪だくみ)を日本に強制する諸外国も。
 第一次世界大戦後の軍縮に対応するため、「国家総動員」が持ち出されます。現役兵の期間を短縮するかわりに平等に割り当てよう、と。また、余剰となった現役将校を現役のまま学校軍事教練にあてます。青年訓練は在郷軍人会が担当。「平等」があったせいでしょうか、大正デモクラシーの盛り上がりの中でもこの「国家総動員」はほとんど反対を受けずに成立しました。こうして「良民→良兵」のラインが作られます。
 昭和となり、国家総動員は少しずつ強固になり……ますが、その道筋は決して一本道ではありません。けっこう当時の日本人はしたたかで、お上の思うように一致団結して動く、といった感じではありません。それでも、満州事変が近づき、在郷軍人会は軍の下請けとして「国防思想普及運動」を行ないました。そこでは、新聞や映画も活用されました。こうして「銃後」が形成されていったのです。言うなれば「徴兵制」を維持するための“装置”(召集を受けた“後”の受け皿)として在郷軍人会が機能することを期待されていたのでしょう。
 満州国が建国され日本からの移民が募集されましたが、その先陣が在郷軍人による武装移民でした(ただしこれは結果としては失敗に終わり、日本政府は分村移民(日本の村を二分してその半分の村民を送り込む)に方針を転換します)。
 美濃部達吉の「天皇機関説」に対する攻撃は、出発点は「天皇」を「機関」とするとは不敬であるという感情論でしたが、大正デモクラシーと帝国大学に対する国家主義・国粋主義の“反撃”でもありました。在郷軍人会は国体明徴声明を発し、軍の代行のように政治運動を開始します。その頃から「国軍」は「皇軍」と呼ばれるようになり、「忠君愛国」は「尽忠報国」に変容します。これはやがて「天皇陛下万歳」につながっていきます。2・26事件は在郷軍人会には大きな影響はありませんでしたが、直後「勅令団体(=公的な存在)」への移行が行なわれます。それまでは地方自治体に根を下ろした団体でしたが、軍の直轄事業団体としての存在へと。
 1937年の大動員は兵93万人の規模でした。現役兵は33万6000で、残りのほとんどは在郷軍人の召集です。ところがこの応召兵が、軍紀の点で問題が多かったという指摘があるそうです。ともかく在郷軍人会は「送る側」から「送られる側」に位置をシフトし、「銃後」は国防婦人会が担当することになりました。

 文章に繰り返しが多く、読んでいてもどかしい思いをすることが多いのですが、取り上げられている資料は魅力的です。また、制度としての「在郷軍人会」と個人としての「在郷軍人」とを別々に捉える視点から見える世界も、単純に「帝国主義」でくくれないもので、非常に興味深いものです。沖縄戦についても興味深い記述があります。イデオロギーではなくて資料に密着した戦史ですが、日本は複雑な国だなあ、とつくづく思います。為政者は大変だ。