【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

温泉で「癒やされたい」人たち

2017-10-31 07:11:37 | Weblog

 「温泉で癒やされたい」と言う人は、つまりは疲れ切っている人です。あるいは、病弱の人、足弱の人、障害者、高齢者なども温泉で「癒やされたい」でしょう。では、そういった人が行きやすい温泉は、どこでしょう。行くだけで疲れるようなら困ります。元気な人なら平気でしょうけれど、そういった人は「温泉で癒やされる」必要はないでしょうね。そして、そういった「癒やされたい人」に同行する人も同時に「癒やされる」(お世話で疲れ切ったりしない)温泉は、どこ?

【ただいま読書中】『バリアフリー温泉で家族旅行』山崎まゆみ 著、 昭文社、2015年、1500円(税別)

 温泉ライターの著者が、「障害を持った自分の家族を連れて行ける」「高齢の親を温泉に連れて行きたい友人に安心して薦められる」を基準に選択した「バリアフリー温泉」が二十数軒紹介されています。
 「温泉の紹介記事」と言ったら定番は、泉質のデータ・女将の紹介・浴槽や料理の写真で、本書にもそういったものはありますが、何より大事なこと「障害者や高齢者とその介助者がどのくらい使いやすいか」が具体的に述べられています。単に施設が「バリアフリー」になっています(段差がありません)、だけでは不十分です。上にも書きましたが、往復や旅館内での移動や移乗などで付き添いの家族が疲れ切ってしまうのだったら「温泉で癒やされる」ではなくなってしまいますから。
 いろいろ知っておくと便利な情報も散りばめられています。たとえば「トラベルヘルパー」「バリアフリーツアーセンター」「ユニバーサルツーリズムセンター」「バリアフリー相談センター」など、相談の窓口が日本のあちこちにあります。また、嬉野温泉バリアフリーツアーセンターでは、無料で宿の選定の相談に乗ってくれるだけではなくて、有料ですが、入浴介助制度まであります。これは二人の入浴介助者が1時間ついてくれる、というもので、これだったら一緒に行った家族も安心して温泉を楽しめます。嬉野温泉がもっと近くにあったら良いのになあ。



クリミア戦争(2)

2017-10-30 06:58:33 | Weblog

 先日「クリミア戦争について思い出せるのはナイチンゲールくらい」と書きました。ところで「ナイチンゲールは看護婦だ」と思っている人が多いでしょうが(もちろん看護婦としての仕事もしていますが)、実は病院管理あるいは統計が彼女の「仕事」で非常に重要だった、というのを知らない人も多いのではないでしょうか。それくらいは知ってるぞ、とちょっとだけ(知らない人向けの)自慢をしてみました。

【ただいま読書中】『クリミア戦争(下)』オーランドー・ファイジズ 著、 染谷徹 訳、 白水社、2015年、3600円(税別)

 ドナウデルタでの激戦でロシア軍は撤退。そこで英仏は「和戦」に持ち込む手もありましたが、そのきっかけを失いずるずると追撃、戦争の焦点は「クリミア半島」に移ります。セヴァストポリの戦線は膠着し、両軍の兵士は悲惨な日々を過ごすことになります。さらに1854年の冬将軍が襲来。補給船の越冬用の補給物資の多くが失われます。特に英国の損害は甚大で、さらに「規則」(夏用の制服しか支給されていないのに、兵士は紳士たれ、と重ね着を禁止)が英国軍兵士を苦しめます(フランス軍では将校用の冬用外套が兵士にも支給され、重ね着も自由でした)。居住環境や食事の内容も、フランス軍と比較して英国軍のひどさは殺人的でした(文字通り兵士はそのひどさのためにばたばた死んでいきます)。糧食は、帳簿上は英国軍の方がフランス軍の倍以上となっていましたが、補給・配給・調理すべての「システム」の不備から、嬰国軍兵士の健康はひどく損なわれていきます。医療もお粗末でした。フランス軍とロシア軍は「戦場で治療を開始」を原則としていましたが、英国軍は戦場から500km離れたスクタリまで輸送してから治療を開始していました。だから船によっては輸送中に負傷兵の3人に1人が死亡していました。ナイチンゲールが着任したのはそのスクタリの軍病院です。
 全欧州が敵に見えたロシアは、アメリカに接近します。アメリカはロシアを警戒していましたが、英仏への牽制のために友好的な態度を見せます。アメリカがアラスカ買収の提案をしたのはクリミア戦争中のことでした。
 ロシアのニコライ一世が急死し、自殺や暗殺の噂が飛び交いますが、ともかく息子のアレクサンドル二世が後継となります。休戦の噂が流れ始めますが、実際にはクリミア戦線は拡大されつつありました。塹壕がどんどん掘られ、相互に夜襲が繰り返されます。
 19世紀だな、と感じるのは、その日の戦闘が終わると(襲撃側が撃退されると)「時間限定の休戦」が結ばれ、双方が陣地の間の無人地帯での死傷者収容を行っていることです。そこでは自然に相手との交流も行われ、「敵はただの野蛮人」というドグマが間違っていることを兵士は身をもって知りました。
 連合軍は砦への強襲に失敗し、ロシア軍は包囲網に突破口を作るための逆襲に失敗します。どちらも悲しいくらいの指揮官の凡ミスなのですが、それによって多数の人命が“消耗”されます。しかしついにセヴァストポリは陥落。やっと和平交渉が始まりますが、ここでも連合国間の思惑の違い(イギリスはロシアを徹底的に追い詰めたいが、主戦力だったフランスは損害のあまりの大きさに、もう手を引きたいと思っていました)がぎくしゃくと交渉の足を引っ張ります。
 ロシア国内では「ロシアは偉大な国」であったはずが実は「野蛮な後進国」だったことが明らかになったことへのショックからか「皇帝の責任」さらには「社会システムそのもの」を問う声が起きます。トルストイは、軍の上層部の無能と腐敗、兵士への野蛮な懲罰を問題視します。放漫経営のために借金まみれとなった貴族を救済するために、農奴解放が(部分的に)施行されます。これは「ロシアの(歴史的)大転換」でした。さらに、「西」に出られなくなったロシアは「東(=アジア)」に進出を考えます。バルカン半島では、トルコからの解放を望む勢力にひそかに後押しをします。つまり、日露戦争と第一次世界大戦の準備が着々と行われていたわけです。イギリスでも新聞が軍の首脳部批判を繰り広げ、その反動のようにナイチンゲールと「戦場の英雄(=兵士)」がもてはやされます。そして「世論」が戦争を起こすにも終わらせるにも影響力を示す時代がやって来たのでした。



クリミア戦争

2017-10-29 07:19:50 | Weblog

 この前黒海の歴史について読んでいたら当然のようにクリミア戦争が登場しました。しかし私はこの戦争で思い出せるのはナイチンゲールくらい。あまりに無知なので少し知っておこうと今日の本を読むことにしましたが、読む前からその(本と歴史の)厚みにめげそうです。

【ただいま読書中】『クリミア戦争(上)』オーランドー・ファイジズ 著、 染谷徹 訳、 白水社、2015年、3600円(税別)

 墓地の描写から本書は始まります。イングランドやフランスに点在する「クリミア戦争で死んだ軍人の墓」、そしてセヴァストポリの大規模な共同墓地。20世紀の世界大戦の陰に隠れてしまいましたが、クリミア戦争は19世紀では最大規模の戦争でした。少なくとも75万人の兵士が戦死・戦病死をしたのです(英国は約10万人派遣して2万の死者、フランスは31万人の派遣で10万人の死者、ロシアは50万人の死者)。この戦争は史上初の「全面戦争」でもあり、民間人も多く殺されました。「最初の近代戦争」でもあり、最新の武器・蒸気船・汽車・電報・軍事医学などが動員され、戦争報道記者と戦争写真家も初めて登場しました。工業力の反映として、塹壕戦も行われました。イギリスでは「世論と新聞によって初めて起こされた(そして「軍」が新聞に初めて激しく批判された)戦争」でもありました。
 戦争そのものは1853年に、オスマントルコとロシアの衝突としてモルダヴィア公国とワラキア公国(現在のルーマニアあたり)で始まりました。54年に英国とフランスがオスマンに味方して参戦。さらにオーストリアが反露連合に参加する動きを見せるとロシアはドナウ川下流域から軍を撤退させ、主戦場はクリミア半島に移ります。英仏海軍は、バルト海・白海さらには太平洋岸(カムチャツカ半島)でもロシアへの攻撃を行いました。「クリミア」戦争ではなくて、世界戦争(の小型版)だったのです。
 英国には「クリミア戦争は不必要な戦争だった」という固定観念があるそうですが、著者はそれに疑問を投げかけます。実は、歴史の重大な転換点だったのではないか、と。
 各国にはそれぞれの「動機」がありました。オスマントルコは、帝国の衰退を食い止め、内部に居住するキリスト教徒(東方聖教徒)庇護を口実に介入しようとするロシアに対して防衛をし、イスラム民族主義革命も食い止めようとしました。英国は、アジアでの競争相手のロシア帝国に一撃を食らわし、オスマントルコに貿易と宗教の自由化を迫るつもりです。フランス(皇帝ナポレオン三世)はナポレオン戦争後に落ちてしまった国威発揚と影響力向上を狙いますし、国内ではロシアに対する宗教戦争(十字軍)を主張する保守的なカトリック勢力も声高でした。ロシアでは、ニコライ一世が傲慢な自尊心に駆動されて領土拡張を狙い、さらにオスマン帝国内のキリスト教徒を十字軍を送って守ることがロシアの神聖な使命だと信じていました。こうして見ると、結構宗教的な「動機」が強いようです。帝国主義の対立と民族主義の紛争、そして宗教問題が「東方問題」を複雑に、かつホットにしていたのです。
 1848年は、ローマ・カトリック教会の復活祭とギリシア正教会の復活祭の日付が一致する年でした。そのためエルサレムの聖墳墓教会での儀式をどちらが先にするか、で紛争が起きます。司祭たちの口論に双方の修道士と巡礼者が加勢し、教会内で50人以上の死者が出ました。19世紀に入って交通機関が整備され、聖地への巡礼者は激増しました。その最大多数はロシアから。巡礼者の暴力的な熱意は、他の国のキリスト教者が見ても異様でした。そして彼らにとって「総本山」の聖墳墓教会は「聖なるロシア」の一部でした。しかしフランスは「西ヨーロッパで一番のカトリック国」の自負を示しロシアを挑発します。エルサレムの支配者であるオスマントルコはこの両者を天秤にかけていました。数百年貯まりに貯まった宗教的情熱が爆発するまで、あと数年です。
 ロシア帝国は当時の列強の中では最も宗教性の強い国家でした。コンスタンチノープルがトルコ軍に滅ぼされてから、モスクワはキリスト教東方正教会にとって「最後の首都」でした。そして、オスマン帝国内のキリスト教徒をイスラム支配から解放しコンスタンチノープルを奪回することが「ロシアの聖なる使命」だったのです。露土戦争が繰り返し戦われた地帯も宗教的に複雑です。ここはキリスト教とイスラムの「断層線(それも複雑にモザイク状となったもの)」でした。オスマンは、ドナウ・デルタ地帯と黒海をロシアとの「緩衝地帯」として使います。しかしオスマンは少しずつ劣勢となり、1783年にクリミアがロシアに併合されました。これはオスマンにとって、政治的・軍事的な打撃であると同時に宗教的な屈辱でした。クリミアに居住するイスラム教徒は弾圧をされます。オスマンはオスマンで、ギリシア独立のため蜂起したキリスト教徒を弾圧しました。ロシアは「ギリシア人」の支援を考えますが、当時の「会議システム(ウィーン会議で確立された、欧州列強が協調し交渉で問題解決に当たる原則)」の下では、ロシア以外の列強は「ギリシア問題」には冷淡な態度でした。自国の国益をまず重視するからですが、現在の国連で安全保障会議がなかなか有効に動けない場面とよく似ています。清は列強によって次々切り分けられていましたが、オスマントルコはもっと徹底的に解体処分をされようとしていました。それがなかなか進まなかったのは、列強がお互いに牽制をしていたからに過ぎません。
 エジプトはトルコに侵入し、ロシアはポーランドの独立運動(武装蜂起)を弾圧、ルーマニアとハンガリーの革命にも軍事介入します。そしてロシアの「カトリック弾圧」がフランスで「ロシアに対する恐怖」を駆り立てます。イスラムでもキリスト教徒は差別されますが、信仰の自由はありました。しかしロシアではロシア正教への改宗を強要されるのです。ロシアに対する反感が西欧では強まり、ロシアがついにドナウデルタに本格的に進出すると、オーストリア・プロイセン・英・仏は手を組むことにします。トルコを救うためではなくて、ロシアを押さえ込むために。
 ロシアのニコライ一世は、長兄アレクサンドル一世がナポレオンに勝利した1812年の戦いを自信の根拠としていました。そうそうロシアではもう一人、若い砲兵士官に著者は注目します。レフ・トルストイ、のちの文豪トルストイです。



十年

2017-10-28 07:05:22 | Weblog

 「十年一昔」と言いますが、その「逆」はどう言うのでしょう? 「十年ひと未来」?

【ただいま読書中】『江戸「東北旅日記」案内』伊藤孝博 著、 無明舎出版、2006年、1800円(税別)

 以前読んだ『芭蕉はどんな旅をしたのか ──「奥の細道」の経済・関所・景観』(金森敦子、 晶文社)によると、江戸時代の「東北の旅紀行」は、「奥の細道」(松尾芭蕉)によって始められたそうです。「お師匠様に続け」と弟子たちが次々東北旅行をするようになり、結果として街道や宿が整備され、それが「芭蕉の弟子」以外も引きつけるようになりました。
 今日の『江戸「東北旅日記」案内』には20の「東北旅日記」が収められていますが、やはりその先頭は「奥の細道」で、その中でも特に「象潟」が取り上げられています。他に私が知っている有名人としては、平賀源内、伊能忠敬、十返舎一九、吉田松陰、牟田文之助、イサベラ・バード……それぞれの人がそれぞれの時代のそれぞれの「東北」を記録に残しています。これらはすべて「歴史の断片」ですけど、「歴史」はそういった「断片」の集合体なので、その中から自分の好みの「ストーリー」を紡いでいけば良いでしょう。



2017-10-27 07:20:27 | Weblog

 「役人」には役に立つ人と役に立たない人がいます。
 「役者」にも役にはまる人とはまらない人がいます。
 ところで、「役行者」は?

【ただいま読書中】『泳ぐイノシシの時代 ──なぜ、イノシシは周辺の島に渡るのか?』高橋春成 著、 サンライズ出版、2017年、1800円(税別)

 イノシシは「山の動物」というイメージですが、最近、島へ泳いで渡って生息域を広げる例が多く目撃されているそうです。本書に西日本の地図が載っていますが、琵琶湖の二つの島を含めて110の島で目撃報告があるそうです。そういった島で上陸の目撃や農作物の被害が報告されるようになったのは、大体1980年代ころから。最近では「泳いでいるイノシシ」の目撃例はそれほど珍しいものではなくなったそうです。
 もちろんイノシシは「泳げる動物」ではありますが、わざわざ湖や海を渡るには「理由」があるはずです。直接インタビューはできませんから「証言」は得られませんが、一体彼らがこんなに「泳ぐ」ようになった「理由」は何なのでしょう?
 琵琶湖では1kmくらい泳げば島に渡れますが、豊後水道は20kmくらいあります。それでも泳ぐんですね。イノシシが喜ぶのは、耕作放棄地です。宇和島西方にある日振島では、かつて半農半漁の暮らしで、段畑の作物や海岸に干す煮干しを大発生したドブネズミが荒らして大問題になっていました。ところが働き手が島外に流出して畑が荒れ煮干しを干すこともなくなるとドブネズミの生息環境が失われましたが、そのかわりのように海を渡ってきたイノシシが跋扈するようになりました。著者はイノシシのDNA分析を行って、どこからやって来たかも特定しようとしています。
 飼育されていたイノシシやイノブタが逃げ出した、という例もあります。イノブタも野生化が進むとイノシシとそれほど変わらない姿になるそうです。
 ニホンイノシシだけではなくて、リュウキュウイノシシも泳いでいます。それどころか、世界中でイノシシは泳いでいるそうです。イノシシはユーラシア大陸とその周辺の島嶼部に広く分布していて、あちこちで泳ぐ姿の目撃報告があります。アメリカや南アフリカには狩猟目的でイノシシが移入されていますが、それが野生化して、さらにすでに野生化していたブタと交雑して広まりました。そして、彼らも元気に泳いでいます。
 日本でイノシシが泳ぐ理由はいくつか推定されています。明治からイノシシの生息地は日本では拡大していますが、暖冬化がそれを後押ししているのではないか、と言われています。また、過疎化と耕作地の変化。山の奥に押し込まれていたイノシシが海岸や湖岸にまで進出し、そのまま島に渡って生息地を拡大しているのではないか、と見られています。狩猟者の減少や高齢化もイノシシの生息地拡大に手を貸しています。イノシシ猟では、イノシシは山の下の方に駆け下りて逃げるそうです。するとそのまま水辺に到達したそのままイノシシが水に飛び込んで泳いで逃げる例があるのかもしれません。
 イノシシは農作物に甚大な被害をもたらします。ただ、彼らも、意図的に人間に喧嘩を売っているわけではなくて、単に環境の変化に適応しようと必死なのでしょう。その「環境の変化」の一部には「人間生活の変化」もあるわけで、するとこんどは人間の方が「イノシシによって変化させられた自分たちの環境」に適応するために必死にならなければならない、ということに?



つまらなくない争い

2017-10-26 06:51:00 | Weblog

 「雨ニモ負ケズ」ではありませんが、喧嘩の場合「そんなつまらないことは、よせ」と言ったらその言い分が通る可能性はゼロではありません。しかし戦争の場合にそんなことを言ったら「つまらないとは何だ!」と戦争をしている両方から挟み撃ちの攻撃をされてしまいます。

【ただいま読書中】『剣術修行の旅日記 ──佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む』永井義男 著、 朝日新聞出版、2013年、1600円(税別)

 剣術修行と言ったら宮本武蔵がやったような「道場破り」と私は反射的に答えそうになります。本書の著者もそうだったそうですが、実際に日本中(現在の都道府県で言ったら31都府県)を2年間修業して回った武士の日記を読んで、認識をあらためたそうです。さて、その実情はどんなものだったのか、私も読んでみることにします。
 江戸時代の「武士の教育」は基本的に「家庭まかせ」でした。だから「文」にしても「武」にしても個人差(家庭差)がとてつもなく大きくなっていました。それをなんとか標準化しようと江戸後期になって各藩が開設したのが「藩校」や「藩校道場」でした。(幕府はまったくそういった努力をせず、幕臣の子弟のための道場を開設したのは、黒船来航3年後のことでした)
 佐賀藩の牟田文之助は天保元年(1830)に生まれ、鉄人流の剣術を学びました。これは二刀流で、おそらく宮本武蔵の流れを汲むものでしょう。文之助は免許皆伝となり、嘉永六年(1853)藩より諸国武者修行の許可を得ます。諸国武者修行は藩の方針で、文之助には4人の藩士(少なくとも一人は先年に諸国武者修行の経験済み)の付き添いがつきました。付き添いは久留米までで、そこからは単身の
「修業」が始まります。
 泊まるのは、それぞれの藩公認の修業人宿。すると使者が次々やって来て稽古の申し込みがあるので「明日はこちらの道場、明後日はあちらの道場」とスケジュールを決めています。「頼もう」の道場破りではありません。稽古も和気藹々、夜は宿で皆で情報交換や酒宴です。
 剣術の稽古は、江戸時代はじめは刃を引いた刀か木剣で行われていましたが、これで本当に殴ったら死ぬか大怪我になるため、型の練習がメインでした。江戸中期に竹刀や防具が普及し、実践的な稽古が広く行われるようになります。「スポーツ」としての剣術の登場です。庶民も含めて稽古志望者がわっと増えます。そこで「宣伝」のために「流派」が細分化されるようになりました。室町時代には4派くらいだったのが、江戸後期には700くらいに流派が増えたそうです。武士階級はその傾向を苦々しく見ていて、幕府は「農民の剣術稽古禁令」を何度も出しています。しかし「剣の名人」は身分が生み出すわけではありません。農民出身の剣の名人として新撰組が有名ですが、千葉周作(北辰一刀流)や斎藤弥九朗(神道無念流)など錚々たる名前の人たちがいくらでもいます。そして、高名になると「藩校道場の師範」という「ポスト(と武士の身分)」が彼らには用意されていました。
 もともと「他流試合」は多くの道場で禁じられていました。しかし「ビジネス」のためにはそんなことは言っていられなくなり、天保末年ころからほぼ日本中で他流試合が解禁されました。そのため諸国武者修行が流行することになりました。藩公認の武者修行は「公務」で、旅費が出ました。ただし交際費や剣術道具運搬の人足費は自腹です。修業人宿は藩の公認で、各藩が「お互い様」ということなのでしょう、他藩の修行者を無料又は割引で宿泊させ、ときに料理の差し入れもあり、道場への訪問も斡旋してくれていました。だから文之助は、宿場の宿の場合は宿賃を日記に書いていますが、修業人宿では宿賃を書いていません。ただ、道場に申し込んでも調整が不調に終わって稽古ができなかった場合、文之助はただの「旅人」扱いとなり宿賃の自己負担が発生しています(膳所(滋賀県大津市)などで文之助はそういった目に遭っています)。そもそも「他流試合」の申し込みにも、紹介状や宿からの斡旋が必要です。そういった「公式の手続き」を踏まないと「試合をした」証明書(お寺巡りの朱印状のようなもの)がもらえませんし、これがないと藩の公務となりません。
 「他流試合の立ち会い」は、実は「試合」ではありません。「地稽古」と呼ばれる、柔道の乱取りのような、主将が「やめ!」と声をかけるまで相手と適当に打ち合い次いで相手を替えてまた打ち合う「稽古」でした。だから「勝敗」はありません。他流派の者が隅っこに混じった合同練習です。これでは「遺恨」は生じにくいですね。というか、遺恨を生じさせないためにこんなシステムを使っていたのでしょう。だから稽古が済んだらその夜は「ともに汗を流した」皆で集まっての酒宴が始まるわけです。なお「方言」によるコミュニケーション障害はありません。江戸時代の堅苦しい「武家言葉」はそういった障害を取り除くために開発されたものだったからです。だから江戸でもどこでも、文之助は他藩の武士たちと盛んに交流(稽古や情報交換や酒宴)を行っています。
 安政元年、ペリーが再度来日します。幕府は大騒ぎとなりますが、庶民は行楽気分で見物に出かけます。文之助もまた、そういった気楽な見物人に混じっていました。
 江戸に四箇月滞在して、文之助は江戸で親友となった上田藩士の石川と二人連れで関東〜東北への武者修行に出発します。一度は北海道を目指しますが断念。村上藩では大歓待でなんと2箇月の長逗留。江戸では藩邸の門限が暮れ六つで何かと不自由だったのに、こちらではそんなことはありませんからとても楽しかったようです。
 一度江戸まで戻ってから藩に帰るのですが、文之助は中山道を選択します。上田に帰った石川に会いたかったのでしょう。
 文之助はどこに行っても歓待をされますが、それには彼の人柄も大きく与っていたようです。宿の主人が早とちりをして失敗をしてもそれを笑いのネタにしたりしているのですから。立ち合っても一緒に飲んでも気持ちの良い人だったのでしょうね。行く先々で知り合った人たちは特別な便宜を図ってくれています。腕も相当立ったようで、噂を聞いた見物人が続々集まっています。帰藩後、戊辰戦争では官軍の小荷駄方だったため剣術は活かせず、佐賀の乱では反乱軍に加わったため懲役三年。せっかくの武者修行は「無駄」になってしまったようです。ただ「日本」の観点からは、こういった諸国修行者が日本中でネットワークを作っていてくれたから「日本」という概念を維新以降に定着させやすかったと言えそうです。明治維新は「江戸時代」が作ったのでしょう。



コーチ

2017-10-25 07:12:17 | Weblog

 コーチによって名選手が生まれたとき、それを鼻にかけるコーチはいます。しかし、コーチによって「金の卵」が潰されたとき、その責任をとるコーチはいません。

【ただいま読書中】『プロ野球スカウトの眼はすべて「節穴」である』片岡宏雄 著、 双葉社、2011年、800円(税別)

 著者自身が元ヤクルトのスカウト部長なのに、ずいぶん刺激的なタイトルです。
 2010年秋のドラフトで、かつての「ハンカチ王子」斎藤佑樹(早稲田大学)に4球団が競合しました。それを見ながら著者は「斎藤は球界を代表するピッチャーになる可能性は低い。ただ、その知名度を活かしてこれからのスカウティングが楽になる(有望選手が「あの斎藤がいる球団だったら」とスカウトの話を聞いてくれるようになる)可能性は大きい、と考えていました。この“見立て”が正しかったかどうか(著者の目が「節穴」だったかどうか)は以後の数年間を見たら明らかです。
 1993年、ドラフトに「逆指名制度」が導入されました。大学・社会人の二人だけ、契約金の上限は1億円(+5000万円の出来高払い)でしたが、即戦力の有望選手が二人取れるのだったら「逆指名」を取り付けるのに最も手っ取り早いのは「裏金」です。97年のドラフト直前、ヤクルトは高橋由伸選手を獲るために5億を用意しました(著者は「33年のスカウト人生で出会った中で最高の打者」と高校〜大学時代の高橋を実に高く評価しています)。ところが大学の監督は「実は彼の父親の土地が焦げ付いていて……」と意味深なセリフを。その金額は60億。ヤクルトにはそこまでの金は用意できませんが、さらに5億を上乗せしました。高橋自身もヤクルト入りを希望します。ところが深夜に「家族会議」が開かれ、その直後高橋選手は「巨人を逆指名します」と発表しました。
 著者は「メンタルの弱さ」が原因でプロとして通用しませんでした。その挫折体験からスカウトの基準を「メンタルの強さ」に置いています。単に「優秀な選手」だけではダメなのです。著者とは別のスカウトはおそらく別の基準で選手を選別しているでしょうが、その場合でも単に「球の速さ」とか「打撃力」だけではなくて「今のチームに必要な戦力か」「将来のチームに必要か」なども勘案しているはずです。
 著者のスカウト作業は「古い」ものです。スピードガンどころかメモも取りません。投手なら一イニング、打者なら一打席、すごい場合はユニホームで立っている姿をちらっと一目見たらそれでおしまい。でも「素質」を見抜くにはそれで十分だそうです。本書で面白いのは「大成する選手を見抜いた」成功例だけではなくて、失敗例(獲ったけれど大成しなかった、素質を見抜けなかった選手)も書いてあることです。掛布(ミスタータイガース)や落合博満を低く評価して獲らなかったことを正直に書いてあります。いやいや、人を評価するって、難しい仕事なんですねえ。
 ここまでは「スカウトの表の話」。高橋由伸選手の所にも登場しましたが、「裏の話」もけっこう露骨に登場します。たとえばアマチュア選手への「栄養費」。逆指名時代の裏契約金。金を要求する高校・大学・社会人の監督。多額の金をどんと使えるのは、巨人・西武・ダイエー。西武は「寝技」と「マネー」で有望選手を次々獲得し、その多くは入団後に活躍しています。巨人とダイエーも大金で有望選手を獲得していますが、実はその活躍ぶりはそれほどでもありません。何が違うんでしょうねえ。
 著者は選手をスカウトするとき、「チーム」との相性を考えます。即戦力だったら一軍の監督とコーチ、育てる選手だったら二軍。スカウトはそういった人たちの指導方針に口を挟めません。だからこそ「相性」を重視するのです。ここでも著者は、ご自分の経歴の影響でしょうか、成功体験しか持っていない人よりも挫折から這い上がったコーチの方を信頼しているようです。ただ、一軍監督は「短期的な結果(目の前の1勝)」を求めます。しかしスカウトや二軍のスタッフは数年後のことを考えています。そのギャップが悲劇を生む場合もあります。その典型が、「再生工場」で有名な野村克也監督だそうです。いやもう、著者の言い分だけ聞くと、ひどいエピソードがてんこ盛り。本当は両方から意見を聞かないといけないんですけどね。



開戦理由

2017-10-24 07:23:49 | Weblog

 イラク戦争の時には「大量破壊兵器」が口実として使われました。では、もしこれから北朝鮮相手の戦争が起きるとしたら、その「開戦理由」は何になるのでしょう?

【ただいま読書中】『総統は開戦理由を必要としている ──タンネンベルク作戦の謀略』アルフレート・シュピース、ハイナー・リヒテンシュタイン 著、 守屋純 訳、 白水社、2017年、3000円(税別)

 ドイツ敗戦後の膨大な裁判記録から「タンネンベルク作戦」にかかわった人たちの証言を丹念に拾い集めて調査した結果が本書です。
 ポーランドへの侵略を正当化する口実を得るため、ヒトラーは「ポーランドとの国境で偽の紛争を起こせ」とSS国家長官ハインリヒ・ヒムラーとSS保安部長ラインハルト・ハイドリヒSS中将に総統命令を発しました。ハイドリヒはSS准将メールホルンにそれを丸投げしようとしますが、メールホルンは「絶対にばれてドイツの名誉を汚す」と抵抗。そのやり取りはSS少佐エマヌエル・シェーファーによっても裏付けられています。反論に対してハイドリヒは「総統は開戦理由を必要としている」とぴしゃり。会議が開かれ、作戦の秘匿名は「タンネンベルク作戦」と決定されます。
 ポーランド語が堪能なSS隊員が選抜されます。任務は、ポーランド国境付近のグライヴィッツ放送局への襲撃をポーランド人が行ったと見せかけること。同様に、ホーホリンデン税関とピッチェン営林署への襲撃も計画されました。税関を襲うのは偽ポーランド国境警察部隊と偽のポーランド人暴徒ですが、それを迎え撃つドイツ警察中隊はプレッチェ国境警察学校の制服を着たSS隊員でした。メールホルンはお粗末な茶番が本当に悲劇(住民を巻き込んでしまう)になることを恐れ、営林署襲撃は森番が休暇で無人となっている営林小屋を「ポーランド人強盗団」が襲撃するように計画を変更させます。
 1939年8月、ベルリン近郊のSSフェンシング学校に秘密裏に多数の警官とSS隊員が集められ、ホーホリンデンとピッチェン襲撃のための軍事訓練が始まります。その中にはポーランド軍の服務規程の学習やポーランドの歌の練習も含まれていました。隊員に作戦の詳細は一切知らされませんでしたが、それでも機密保持の誓約を義務づけられました(誓約書には、機密保持を破ったら親族全員が連座、とありました)。
 放送局襲撃には、もう少し難しい事前準備が必要でした。勝手がわからない放送局に押し入って占領、ポーランド語でのラジオ放送をしてから撤退しなければならないので、放送機材の操作が必要だったのです。
 「死体」も準備されました。ポーランド人暴徒がドイツを襲撃して撃退され、その時一部が戦闘で死んだという「動かぬ証拠」のために、強制収容所の囚人が移送されたのです。これは「缶詰」作戦と呼ばれましたが、「缶詰の中身」は囚人(の死体)という意味なのでしょう。ザクセンハウゼン収容所では10〜12名の候補者が選定されますが、「缶詰」はホーホリンデンにだけ横たえると計画が変更になり、少なくとも4名はのちに収容所に(生きて)戻されました。放送局は国境から何キロも離れているため、その地区の「ポーランド・シンパ」として知られている人間が選定され、偽襲撃の30時間前にゲシュタポによって拘束されました。
 偽襲撃を上手く行うためには、国防軍・国境警察・国境監視員・税関警備員などと衝突を起こさないことが大切です。そのための調整も精密に計画されました。秘密を漏らさないために、国境の一部を数時間だけ“偶然”空けておくようにするわけです。
 しかし、現実は計画通りにはいかないものです。一部の部隊がフライイングをしてしまってポーランド軍(本物)に発砲。その影響で計画は直前に大幅な変更を余儀なくされてしまいます。それは、タンネンベルク作戦そのものに否定的な態度を隠さない指揮官の解任も含んでいました。
 そしてついに“本番”の夜がやってきます。
 この「作戦」は、結局、ヒトラーが望んだほどのインパクトを残しませんでした。ドイツ人の危機感をあおって開戦の心準備をさせるには不十分で、国際世論への影響も限定的でした。結局ヒトラーは「開戦理由」抜きで開戦をすることになります。ただこの「作戦」からは、ナチス指導部の「良心の犯罪的なまでの欠如」はしっかり見えます。だけどこれは「ナチス」に限定できるものなのでしょうか? でっちあげの「開戦理由」は、歴史上ほかにもありません?



ふるさと投票

2017-10-23 06:37:21 | Weblog

 私の選挙区の候補者は、なんとも“面白くない(当落が最初から決定的な)”ラインナップだったので、投票意欲が減退してしまいました(投票日は仕事だったので、期日前投票はしましたけどね)。税金の「ふるさと納税」と同様に、「自分が選んだ他の選挙区に投票できる」なんて制度は無理でしょうか? 「1票」が無理なら「半分ずつ」でも良いんですけど。国政選挙だから「日本の政治家」で応援したい人もいるんですけどね。

【ただいま読書中】『鰻のたたき』内海隆一郎 著、 光文社、1993年、1456円(税別)

目次:「鰻のたたき」「板場の水」「赤い煉瓦」「正月前後」「親ゆずり」「朝の定食」「ポテトサラダ」「山菜摘み」「乳母がわり」「大事な客」

 小さな飲食店を舞台にした人情話の短編集です。店と登場人物は作品ごとに変わりますが、共通しているのは、カウンターが店内にあることと、何か欠落したあるいは崩壊しかけた家族が常に“背景”に存在していること。まあ、何の問題もない家庭を材料にしたら人情の出番は難しくなるからこれは仕方ない事情でしょうが。
 美味しそうな料理も次々登場します。私が食べたいと思ったのは、(松江の)鰻のたたき、絶品のポテトサラダ、朝摘み山菜の天麩羅。
 一番心に残った「人情」は、単身赴任のサラリーマンが「居場所」を求めて集う店の店主が、いつかは東京に帰っていく人たちに対して抱く心情でした。こういった市井の人情話は、日本の文学では一種の「定番」なのでしょうが、料理と同じで、定番には定番の良さがやはりあります。



実りの秋に台風がやって来る

2017-10-22 07:38:12 | Weblog

 数日前、知り合いの農家の人が収穫を急いでいました。台風が来る前に、ということだそうです。
 せっかく手間暇かけてやっと収穫、という直前に台風で荒らされたら泣くに泣けませんから、本当は数日後に収穫したかったんだけど、なんだそうです。狩猟採集よりも農業の方が安定している、という歴史的なイメージを持っていましたが、農業ってけっこう“博打”の要素も大きいのかな?

【ただいま読書中】『栗の文化史 ──日本人と栗の寄り添う姿』有岡利幸 著、 雄山閣、2017年、2800円(税別)

 人の食糧で大きな比重を占めるのは「澱粉質」ですが、ざっくり言って、縄文人は「木の実」、弥生人は「草の実」から主に澱粉を得ました。
 2万3000年前、地球は氷河期で海面は現在より100m以上低下していて対馬海峡は陸橋となり、大陸から人が日本に移住してきました。このころ沖縄まで針葉樹林でドングリはまだありません。1万5000〜1万2000年前ころから地球温暖化が始まり、九州から落葉広葉樹林が成立していきます。8000〜6000年前に日本海に対馬海流(暖流)が流れるようになり東日本にも照葉樹林が発達。6000〜5000年前の縄文遺跡からは東日本でも「胡桃と栗」のセットの木の実食が出土するようになります。縄文土器は、生の澱粉(β)を熱と水でアルファ化するために重要でした。
 縄文遺跡で栗の実が出るのは、西日本より東日本の方が多いのですが、栗の花粉の出土が少ないところは野山で集め、花粉が多い遺跡は周囲に栗林があった、という推定が本書で示されています。青森市の三内丸山遺跡では、縄文早期にはナラ林だったのが中期には栗の木が増え、中期末には栗の花粉が90%を占めるという“異常”な花粉構成になりました。縄文人はナラ林を破壊して栗畑にしたようです。
 稲作の普及によって栗の地位は低下しました。同時に建築部材としても、クリ材が減少してクヌギ材が多用されるようになります。ただ、ドングリはあく抜きをしないと食べられませんが、そういった準備が不用の栗は一定の人気を保ち続けました。儀礼や貢納品としての役割もあるし、搗栗(かちぐり)は「搗」を「勝ち」と読んで、室町時代から武士の出陣帰陣儀礼に用いられました(平和になった江戸時代には庶民の婚礼の膳に祝い物として乗せられるようになります)。
 江戸中期にクリ材は、堅くて腐りにくいことが好まれ、建築用材として注目されるようになりました。歴史は繰り返すんですね。そのため、藩によっては「七木(勝手に切ってはならない木のリスト)」に栗を入れるところがありました。
 奈良時代に中国から入った「唐菓子(もち米の粉、小麦粉、大豆、小豆などで作る菓子)」は江戸時代には単に「菓子」と呼ばれるようになり、果実は「木菓子」と呼ばれました。やがて江戸では果実を「水菓子」上方では「果物(くだもの)」と呼ぶようになります。享保三年出版の『古今名物御前菓子秘伝抄』には、栗の菓子のレシピが二つ(栗の粉餅と栗羊羹)が載っています。「カロリーを得るための食糧」だった栗は、お菓子になったのです。
 民話にも栗はいろんな役で登場します。栗の花と田植えについて、あるいは栗の収穫と田の作物の収穫の関係についての諺や言い伝えも日本各地にあります。かつての日本では栗は身近な存在だったようです。栗の食べ方もいろいろ紹介されていて、どれも食べてみたくなります。
 明治になってからクリ材は、鉄道の枕木として重宝されました。そのため、江戸時代に大切に保存されていたクリ林は大伐採をされてしまいます。さらに昭和16年ころからクリタマバチが全国に蔓延し、栗の木は次々枯れていきました。クリタマバチに抵抗力のある品種が見つかり、やっと日本の栗生産は再出発をすることができましたが、以前よりも収量は激減していました。
 栗のお菓子、栗ご飯、栗おこわ……どれも私は好きですが、皮を剥くのが大変なんですよね。我が家には栗の皮むきハサミがあるので包丁でやるよりはずいぶん楽なのですが、それでも数がたくさんあると握力が落ちてしまいます。体をもっと鍛えないと、ダメかな?