「買わないという選択肢はないやろ」とジャンボ宝くじの宣伝をしていました。そう言えば街を歩けば「ここから1等が出ました」とでかでか宣伝をしている売り場を見ますし、「ここは良く当たる」と評判の売り場があることを聞いたこともあります。
ところでもしも日本に宝くじ売り場が一箇所しかなかったら、「この売り場から必ず一等が出ます」と宣伝できますよね。するとみんなそこに殺到するのかな。
【ただいま読書中】『元素をめぐる美と驚き ──周期表に秘められた物語』ヒュー・オールダシー=ウィリアムズ 著、 阿部圭子・鍛原多恵子・田淵健太・松井信彦 訳、 早川書房、2012年、2800円(税別)
著者とその回りの人にとっては大切な謝辞というのは大体読者にとっては退屈なものですが、本書では人名がただただ2ページも羅列されています。これってもしかして周期表の羅列を意識してのことかな? 片仮名だとわかりにくいのですが、これ、基本的にアルファベット順になっていて、たまに例外があるようにも見えます。
「周期表」に魅せられた著者は「元素そのもの」の収集を始めます。天然で元素の形をしている者は少ないし著者は子供なので収集の手段は限定されていましたが、たとえば電池をバラして亜鉛と炭素を得たり、水銀電池からは水銀を。
ただ、本書は元素をめぐるがちがちの科学の本ではありません。元素と文化の関係を語る本です。
たとえば「国名と元素名」。19世紀にドイツのクレメンス・ヴィンクラーは発見した元素を「ゲルマニウム」、スウェーデンのラルス・ニルソンは「スカンジウム」、キュリー夫妻は「ポロニウム」と名付けました。しかし1901年に発見され元素は「ユウロピウム」と名付けられました。共同体主義が元素の世界にも持ち込まれたのです。そして20世紀末にはユウロピウムはユーロ札の偽造防止のために用いられることになります。周期表で不動の位置を占める元素と、流動的な文化の関係、これはなかなか魅力的な話題です。
「白金」ははじめは加工ができず、金鉱山では捨てられていた時代もありました。しかし時代が変わると「白金の価値」は変わります。まずは宝飾品として。戦争中は爆薬製造などに重要な触媒として活用されました。現代では金より価値がある象徴として「プラチナディスク」「プラチナカード」が存在しています。
「炭素」で取り上げられるのは木炭です。炭焼き窯の原理は万国共通のようですが、面白いのはイギリスで「炭をどこから掘ってくるのか?」と尋ねる人の存在。魚は切り身で泳いでいて、野菜は木に生っていると言う人もいますけれどねえ。炭素に関して「他の元素は燃えるとあとに酸化物を残すが、炭素だけはきれいに気体(二酸化炭素)になる」という興味深い指摘もあります。
周期表を作ったメンデレーエフを讃える印は、1955年に発見された元素が「メンデレビウム」と名付けられたことに残っています。そしてそれ以降、新しい元素は、ある程度まとまった量のものが見つけられるのではなく、この世に原子一つ一つの形で無理やり引きずり出されるものになりました。
水銀と錬金術、「明けの明星」と「おしっこ」の関係、「ラジウム夫人」であるマリー・キュリーが(人類史上で珍しいことに)化学と物理学の両方でノーベル賞を受賞していること、戦争や殺人で活躍する元素……この世の形あるもの(あるいは形が見えなくても物質として存在するもの)すべては元素でできているので、探せばいくらでも魅力的なエピソードは見つかるだろう、とは思いますが、その「探す努力」が半端ではない本でした。天から地下まで、過去から現在まで、これだけ視野が広いと、世界は魅力的に耀いて見えるでしょうね。
「生徒のなれの果て」と言ったら、ほとんどすべての社会人がそうですが、多くの教師の問題点は「学校を卒業したら学校に就職した」つまり「学校以外の社会をろくに知らない」点でしょう。
【ただいま読書中】『めっしほうこう ──学校の働き方改革を通して未来の教育をひらく』藤川伸治 著、 明石書店、2019年、1600円(税別)
教師の過酷な現場を改善するために、AI教師(人型のロボット、AIを搭載)が学校現場に導入され始めた時代の物語です。
もちろん「人間の教師」と「AI教師」は同じものではありません。ただ、AI教師の利点は様々あります。たとえば、疲弊しない、(プログラミングの範囲内で)生徒の人格否定などをしない、記録がきちんと残る、嘘をつかない。もしかしたら、人格的に駄目駄目な人間教師よりはAI教師の方が「自分が傷つかない」「他人を傷つけない」点で“良い教育"ができるかもしれません。
授業を受ける子供たちは、まず「アイ先生」に夢中になります。授業も面白い。でも、以前の熱心な人間教師の授業を覚えている子供は、どことなく物足りなさを感じます。情愛の欠如、かな?
そうそう、「AI教師」が登場するからといって、本書はSFではないです。現在の教師が送らなければならない非人間的な生活をベースとした「現在の日本(の一歩だけ先)の小説」です。
しかしまあ、ここに紹介される「激務」と「保護者からのクレーム」の数々、その非常識さと“圧"の強さはすごいものです。これらがすべて「ノンフィクション」だったら、頭がよい(クールでスマートな)人は最初から教師の道を選択しないでしょうね。子供や教育に何らかの熱い思いを持っている人と“でもしか"の人しか入ってこなくなるのではないかしら。そしていずれにしても、クレームと激務の攻撃によって疲弊していって、耐えられる人だけが生き残るサバイバルに。いつからか「学校はブラック企業」と言われるようになっていますが、それは嘘や大げさではなかったようです。
私自身、教師の知人がいますが、夜明け前に出勤して夜中に帰宅、休日はクラブの遠征に同行、という生活をしていることを外から見て知っています。どんなクレームを普段受けているかは教えてもらっていませんが。
昔「ゆとり教育」という言葉がありましたね。私はこれを復活させたら良いと考えています。ただし「生徒」ではなくて「教師」のゆとり、に。ゆとりの無い教師に良い教育はできません。ノルマを果たすだけで精一杯です。だけどゆとりがあれば、その中から良い教師が出現する可能性が出てきます。もちろん確率は100%ではないでしょう(駄目な教師は、忙しければ忙しい駄目教師で、ゆとりがあれば暇な駄目教師ですから)。だけど多忙によって心とゆとりを無くしている良い教師(あるいは良い教師になれる素質を持った人)は、ゆとりがあれば暇を生徒のために使う良い教師になれるはず(繰り返しますが、この確率は100%ではありません。だけどその確率は0よりははるかにマシなはず。こんな話の時「暇になったら碌なことをしないやつが必ず出現する」と主張してそもそもの話を全否定しようとする人間がよく出現するものですが、「そういったやつが必ず出現する」こと(個別例、部分の最適)と「全体としての利益」(全体としての最適)をきちんと比較する必要があります。そういったことができない人が、教師になったら駄目教師になるのでしょうけれど、広い視野での比較ができるようにすることも教育の目的の一つであるはずです)。
まともな国にするためには、医療と教育に力を注がなければならない、という政策を世界で早くからやったのは、私が知る限りでは古代ローマのユリウス・カエサルです。口で威勢の良いことは言っていませんが、彼がおこなった「奴隷制度の改革」は明らかに医療と教育をターゲットにしていました。それによって帝国の質を上げようとした、がそこから私には読み取れます。
では現在の日本の政治家は? どうも古代ローマよりも遅れた頭の人がやたらと多いような印象です。もしも知性があるのなら、ユリウス・カエサルからこっちの2000年分お利口になっていなければいけないのにねえ。
【ただいま読書中】『指導者が倒れたとき』ジェロルド・M・ポスト、ロバート・S・ロビンズ 著、 佐藤佐智子 訳、 法政大学出版局、1996年、2987円(税別)
これまでの政治指導者の研究で、側近との関係や指導者自身の能力低下の影響についてはあまり真面目に取り上げられてはこなかったそうです。しかし認知症などで判断力が低下した指導者が側近の言いなりになってしまった場合には、何が起きるでしょう? ただ、ほとんどの政治アナリストは医学に無知です。だからその要素を考慮に入れる能力がありません。そこで「精神医学・政治心理学・国際問題の専門家」と「職務能力を失った指導者に関心を持ち続けた政治学者」が手を組んで本書が生まれました。
イラン国王、アメリカ大統領、フランス大統領……いやもうこれでもか、というくらい「指導者の病気」が登場します。同時に「指導者の側近」「指導者の主治医」についても様々な問題があることが具体的に紹介されます。
そういえば日本でも小渕首相が倒れたとき、救急車を呼んだら大騒ぎになる、という“配慮"によって自家用車が手配されて入院が遅れたと聞いた覚えが当時あります。たぶんその第一報を聞いた側近は「すぐ救急車を」とは言わずにまず関係各方面への根回しを優先して考えたのでしょうね。
本書はきちんとした公表データに基づいてまとめられていますが、だからこそ「本人」と「周囲」のとても適正とは思えない行動の異常ぶりが際立ちます。「権力は腐敗する」とはいいますが、「権力者が病気の時」に腐敗臭はさらに高まるのかもしれません。真面目な読み方だけではなくて、政治的なゴシップ集としても楽しめる本です。どう読むかは読者本位でどうぞ。
私は「ロボット」と言われたら「人型(二足歩行)」と言いたくなるのですが、もうすぐ実用的になりそうな「自動運転自動車」は人型ではありませんが立派な「ロボット」と言って良いのではないです? つまりもうすぐ私たちは「目に見えるロボットと共存する社会」に生きることになるのです。
【ただいま読書中】『銀河帝国は必要か? ──ロボットと人類の未来』稲葉振一郎 著、 筑摩書房(ちくまプリマー新書)、2019年、860円(税別)
人工知能・ロボットの開発に関して「応用倫理学」の必要性が強く言われているそうです。著者は「人工知能・ロボット」の歴史を概観するときに、「SF」が役に立つ、とちょっとびっくりの主張をします。SF好きの私には嬉しい主張ですが、さてさて、どんな展開になるのでしょう。
ロボットに関して、フィクションと実際の開発の歴史は、微妙な関係を常に保っています。たとえば日本人のロボット開発者には二足歩行ロボットに対する強いこだわりがありますが、それは「鉄腕アトム」「鉄人28号」「マジンガーZ」「機動戦士ガンダム」といった「人間型ロボットに関するファンタジーの系譜」を日本人が共有しているからでしょう。
これからの未来でロボットや無人機械がどんな局面で一番活躍を期待されるか、と言えば、宇宙探査です。推論を重ねてこの結論が出たことに、著者もちょっと驚いています。
ロボットSFの大御所はアイザック・アシモフです。「陽電子ロボット」とか「ロボット工学三原則」とか、今から見たら「ちょっと古い」と感じられますが、彼が語ろうとした「人間のためにロボットが存在するとして、『ため』とはどのようなものか」「そもそも『人間』とは何か」といった、機械倫理学的なテーマは、実は現代社会でもまだきちんと検討されていないものでした。
20世紀のSFでは「人類は今の人類のままで宇宙に進出し、そこでエイリアンに出会う」というのが基本発想でした。しかし現在の私たちは「宇宙に出たら人類は変容するだろう(あるいは、変容しなければ宇宙には住めないだろう)」「宇宙に出てもエイリアンには会えないだろう」と思っています(SFもそのように変化してきています)。エイリアンについては確言はできませんが、変容については、たとえば「日本人がアメリカに移民したら日系アメリカ人になるように地球人が宇宙に移住したら地球系宇宙人になるだろう」なんて推定はたぶん外れないはず。
本書の著者の本で『宇宙倫理学』を以前読んだことがありますが、あちらでは本書ほどにはSFは多く取り上げられてはいませんでした。むしろ「現実」としての宇宙開発を地上からどのように考えるか、が著者のスタンスだったように記憶しています。しかし本書では「SFの歴史」をひとつの“補助線"として、人類の未来を倫理学的に俯瞰しようとしています。いやあ、なかなかスリリングな手つきです。
ただ本書は、結局「アシモフ賛歌」のための本、とも言えそうです。たしかにアシモフの作品は魅力的でしたもの。
「流浪の民」を初めて歌ったのは私は小学生の時ですが、歌詞がやたらと難しいのになんだかその言葉の調べの雅かさに惹かれた覚えがあります。まああの頃の歌は、たとえば「越天楽」にしても「我は海の子」にしても、歌詞はやたらと難しいものでしたけれどね。
「言葉の意味がわからないまま歌う」と言えば、当時の昭和歌謡(たとえば「あなたが噛んだ小指が痛い」)でも、小学生はわけがわからないまま歌っていたわけで、江戸時代の「漢書の素読」に似た言語トレーニングを私は歌でしていたのかもしれません。
【ただいま読書中】『ジプシー』ヤン・ヨァーズ 著、 村上博基 訳、 早川書房、1967年、430円
「ジプシー」で私がすぐに連想するのは「流浪の民」「チゴイネルワイゼン」「占い」「ヒトラーが弾圧」です。
もっとも私のことを鼻で笑える人は世界にあまりいないでしょう。学者たちも大したことを知ることができず混乱していますし、ジプシーの姿を実際に見ている人たちも誤解と偏見に支配されていますから。さらにはジプシーたち自身も、過去の詳細な記録は持っていません。持っているのはせいぜい数代前までの記憶だけです。人口さえ不明です。スペインのジターノ、イギリスのジプシー、ドイツのシンティ、ルーマニアのルダリ、ハンガリーのミュージシアン……彼らは半定住生活に入っているのでまだ認識しやすいのですが、ソ連・USA・ヨーロッパ・マラヤ・南アフリカ・ブラジルなどを放浪している「ローム」を数えるのは、とても困難です。
ヒトラーは50万人のジプシーを殺したそうですが、ジプシー弾圧はもっと古くから広範に行われています。悪名高いのは、たとえばイギリスのヘンリー八世とエリザベス一世、スペインのシャルル三世、ドイツのフレデリック二世、オーストリアのマリア・テレサとヨーゼフ二世。ヨーロッパ人はユダヤ人差別を熱心にやってましたが、ジプシー差別も大好きだったんですね。
町をジプシーの集団が通りかかったとき、12歳の著者はふらふらと彼らのキャンプに参加します。そして、そのままぶらりと町から旅立ってしまいました。ただし「ロマ(人、男)」にすぐなれたわけではありません。何年も経って彼らの言葉を完全に習得し、「われわれロームは」と考えるようになって初めて「ガージョ(よそ者、百姓)」では無くなったのでした。
ガージョはジプシーを毛嫌いしています。著者はその敵意に驚きますが、ジプシーが正体不明のよそ者であることが不安の源泉であるだけではなくてジプシーが盗みをするという実害があることも敵意を生み出していることを知ります。しかしジプシーの側は「ガージョのもの」は一種の公共財(森に入って枝を拾ってくるのと同等のもの)と見なしていることを知ります。なんだか映画の「万引き家族」で万引きを正当化していた父ちゃんの理屈とちょっと似たところがあります。だけど、盗まれる方は堪りません。ただし「敵対」は生じません。ジプシーは「どうして罰せられるのだろう?」ときょとんとするだけで敵意は発生させませんから。
数箇月経つと著者はアントワープの自宅に帰ります。両親は失踪と帰宅をさりげなく受け入れます。そして数箇月後、また著者はジプシーに参加したくなります。“帰ってきた"著者をジプシーはさりげなく受け入れます。そういった生活を著者は何年も繰り返し続けました。
著者が文化人類学者だったら、ある意味理想的な参与観察をしていたことになります。しかし「2つの世界」を往復しながら思春期を過ごした場合、アイデンティティにはどんな影響が出るのでしょう? 本書で紹介される「ジプシーの生活」は実にリアルで興味深いものですが、著者の人生もまた私にとっては興味深いものでした。
江戸のお祭りの中継で、御神輿に人が乗っているのを見たことがあります。あれ、ものすごく違和感がありました。だって「御神輿」ですよ。字を見たらわかりますが、神の乗り物です。人が乗って神聖な結界を犯してはいけないでしょう。それともあの人は「神人」なのかな? もしそうだったら失礼しました。拝まなくては。
【ただいま読書中】『神輿大全 ──基礎知識から、歴史・製作・保管・修繕までを網羅した決定版』宮本卯之介 監修、誠文堂新光社、2011年、3400円(税別)
神輿の頂には四角い箱状の「露盤」があり、多くはそこに鳳凰(時に擬宝珠)が据えられています。かつての帝の輿は「鳳輦(ほうれん)」と呼ばれる四本柱を立てた屋根つきの輿で屋根の上に鳳凰が乗っていました。その名残が神輿の屋根の上に残っているわけです。
神輿に釘は一本も使われず、すべて組み木細工です。それを飾り紐ががっちりとしめつけるので、激しく揺さぶられる関東の荒神輿でも簡単には壊れません。
下からは見えにくい屋根の上の写真がありますが、どの神輿も実に細かい細工がほどこされ、きれいな金具がつけられています。職人の心意気ですね。
塗られているのは漆(海外では「ジャパン」)。なお、仕上げ塗りの研磨には、かつては鹿の角の粉末を使っていたそうです。鹿の角を手に入れそれを粉末にするだけで手間がかかりそうですが、最近は工業用の研磨剤が用いられているそうです。やはり手間だったのでしょうね。
錺金具は彫金の技法が駆使されています。アップで見るとその細かさに老眼がくらくらします。
江戸時代、江戸では神輿よりは山車の方がメインだったそうですが、明治になって電線が張り巡らされるようになると巨大な山車は引っかかるため、神輿(それも宮神輿ではなくて町神輿)がたくさん出現するようになったそうです。
神輿は大切に使いメインテナンスをまめに行えば、百年以上保たせることも可能だそうです。「これは100年以上前に作られ受け継がれてきた御神輿だぞ」と言われたら、ありがたさが倍増しそうです。
昭和40年代、「戦争を知らない子供たち」という歌がヒットしました。平成令和と、今は「戦争を知らない孫たちひ孫たち」の時代に変わっています。だけど、自分は戦争を知らなくても、自分の祖父母・曾祖父母は戦争で殺されずにすんだ(だから自分が存在できている)わけで、知る知らないに関係なく「自分は戦争とは無関係」とは言えないはずでは?
【ただいま読書中】『ぼくの町は戦場だった』BBC 編、山中恒 解説・監訳、平凡社、1990年、1602円(税別)
目次:「バナナと戦争」(イギリス、ルイス・チェスター)「夜空に星が光ってた」(イギリス(ウェールズ地方)、タウイン・メイスン)「少年兵士の勲章」(ドイツ、ヘルムート・ゾンターク)「みんないつも腹ペコだった」(フィンランド、リッタ・カリコスキーチョーダ)「さびた自動車」(南アフリカ、デニス・ハーブスタイン)「少年レジスタンス」(ポーランド、ヤン・チェハノフスキー)「母の奇跡」(フランス、マリー=クリスチーヌ・グアン)『ドイツ兵、オットーとクロッケル」(イタリア、イセッタ・マラゴーリ)「村に戦争がやってきた」(アイルランド、ヒュー・レナード)「ロッテルダムが燃えた日」(オランダ、ヨアンナ・クロウツ)「独立への道」(インド、プレミラ・ディーヴァ)「『あの日』が私の出発点」(日本、高橋昭博)
「子供の時の戦争体験」が世界各地から12編集められています。国によってあるいは状況によってその体験は実に様々です。同じ日本でも「あの日」を北海道で迎えたか広島で迎えたかで全然運命が違った、ということは本書の解説にも書いてあります。まして世界中では人の数だけ「体験」の数はあるでしょう。
最初の「イギリスでの学童疎開」で私がまず連想したのは『ナルニア国物語』でした。ロンドン空襲を避けて田舎に疎開した兄弟姉妹たちがファンタジーの世界で戦争をする、というなんだか考えさせられてしまう設定でしたっけ。
日本の集団疎開児童とイギリスの疎開児童と、寂しさ・空腹・いじめなど共通の要素を見つけることができます。ただ、イギリスでは「疎開者を迎える側」の物語もありますが、日本ではあまりそちらの側からの物語を読んだことがありません。ちょっと探してみなくては。
ドイツの少年兵は、高等中学(ギムナジウム)在学中に15歳で志願し、実戦で戦車に足を轢かれて重傷を負っています。そういえば私の父親も当時旧制中学に在学していましたが、上級生から順々に「志願」していき、もう半年もしたら俺たちの番だ、というところで敗戦を迎えました。もうちょっと日本軍が粘って本土決戦があったら、親父も死ぬか重傷か、で運命が変わり、私はこの世に存在できなかった可能性が……
「戦争を知らない世代」が日本に満ちているのは、ありがたいことではありますが、危うさも感じます。また戦争を起こさないように、せめて戦争で自分たちあるいは自分たちの子孫に何が起きるのか、ちょっと過去から学んでおくのは無駄ではないでしょう。
私が通った高校には、遠くからの入学生のために寮がありました。ただし私が入学したときにはすでに廃止されていましたが。で、廃止の理由が「いろいろな問題を学生が引き起こしたから」。さて、どんな問題なんだろう?と私は想像をたくましくしましたっけ。
私は大学では学生寮に入りましたが、そこで「寮で学生が起こす問題」は、想像から現実になりました。いや、確かにいろんな問題がありますわ。
ちなみに、『どくとるマンボウ青春記』では、旧制松本高校の学生寮でのドタバタが実に詳しく描かれていました(ただし私が高校の時に読んだ記憶ですので、詳細はもうぼやけています)。昔から「そんな人間」が集まると「そんな問題」が起きるもののようです。
【ただいま読書中】『東大駒場寮物語』松本博文 著、 角川書店、2015年、1800円(税別)
下関出身の著者は1993年に東大に合格、駒場寮に入りました。驚いたのは部屋の広さです。一部屋24畳くらいで、かつては6人入っていたそうですが、著者の時代には3人部屋になっていたそうです。私が入った寮は個室でしたが4畳くらいで狭苦しかったんですよね。
肝腎の寮生活ですが……これは「留年するのは当たり前」と言いたくなる寮生がごろごろと登場します。駄目人間、というか、駄目駄目人間の巣窟です。だけどこういった生活とその結果は(正しい意味での)「自己責任」。なお、麻雀ばかりしていた東大生の生活については『ホリエ戦記──ホリエモン鬭牌記』(堀江貴文 原作、本そういち 漫画、竹書房)に詳しいそうです。
学生寮の中は「自治」が生きていました。しかし「学生の自治」が気に入らない人たちがいます。特に文部省に。1980年代に「自治を骨抜きにするか、廃寮にするか」を多くの大学が文部省に迫られ、廃寮が全国の大学で相次ぎました。駒場寮でも、文部省の意向に従った大学当局と「どのように対決するか(真っ向から闘うか、条件闘争をするか)」の路線闘争でまず寮委員長選挙が燃え上がります。取りあえずは妥協案が成立。しかし大学はさらに一歩踏み込みます。駒場寮の廃止です。寮生たちは反対運動を起こします。運動の中で気分がささくれ立っていた著者は、将棋部に救いを求め、団体戦のメンバーとして全国優勝を勝ち取ります。あ、その緣で卒業後に将棋の仕事(書籍の編集やネット中継など)に就いたんですね。
やがて大学は寮生を強制的に追い出すために「自力救済」(電気を止める、ロックする、壊す、といった家主がやってはならない違法行為)をやり始めます。本書には「居直った人間たちが見せる、逆ギレ気味の威圧感」なんて言葉がありますが、威圧どころか殴る蹴るまで実行するのですから、居直った権力者に対抗するには「泪」を使うしかないのかな? 「泣く子と地頭には勝てぬ」なんて言いますから。しかし政府の意向に従って「学生の自治」を押しつぶす大学当局に「学問の自由」を主張することは望めないでしょう。そして、学問の自由がない(官僚や政治家の管理内でだけ学問をする)国には大した未来は待っていない、と私は予想します。だって「人が管理できるもの(=既知のもの)の枠にはおさまりきらないこれまでにないもの」に挑戦するからこそ、学問は進歩するのでしょう? 平たく言うなら「ノーベル賞にかすりもしない人間に、ノーベル賞が取れる可能性がある人間を管理させるな」です。もちろん「ノーベル賞」は別のものにいくらでも代替可能です。
藤井聡太七段が「タイトル挑戦最年少記録」を更新できるかどうかにマスコミの興味が集中しているような報道ぶりですが、大切なのは「タイトル挑戦」「タイトル奪取」「タイトル維持」であって、それが最年少かどうかは“付録"でしかない、と私には思えます。藤井七段については、対局が始まると「将棋めし」にすぐ話が集中するし、なんだか将棋に関係しているマスコミって「将棋」よりも別のものの方が大切なのかな? 本人に聞いていないから私の推測ですが「最年少記録を作ってやろう」と必死になっていると言うよりは、「目の前の対局に集中したい(勝ちたい)」と思っているのではないかなあ。
【ただいま読書中】『昭和の子ども図誌 ──戦後の遊びと生活』櫻井尚 著、 東洋出版、2019年、1800円(税別)
著者が経験した戦後(昭和20年代)の子供たちの遊びや生活の一シーンを絵と文章で一ページずつまとめたものです。「戦後」とありますが、私が昭和30年代に体験したものもけっこう含まれています。たとえば「MP」や「外食券食堂」は知りませんが、「練炭・豆炭」は我が家でも使っていました。ちなみに本書に登場する少年たちの恰好、坊ちゃん刈りと半ズボンは、私も同じでした。あの頃は可愛い少年だったんですけどねえ……
340ページ、ぎっしりと「懐かしさ」が詰まっています。「三丁目の夕日」よりももう少し前の時代を懐かしみたい人には、楽しめる本です。
鮎は川の魚、というイメージです。鰻は海。「生まれた川に帰ってくる」鮭は……両方。だけどこれらの魚、全員海と川の両方を生きている、という共通点があります。これ、専門用語で「通し回遊」と言うのだそうですが、そんな言葉、ポピュラーでしたっけ?
【ただいま読書中】『河と海を回遊する淡水魚 ──生活史と進化』後藤晃・塚本勝巳・前川光司 編、東海大学出版会、1994年、2987円(税別)
高校の生物で浸透圧という言葉を習いましたが、魚は常にこれと闘っています。体液の塩分は大体0.9%。しかし海水の塩分は約3%。従って海水魚は体に浸透してくる塩分を体外に捨てなければなりません。しかし淡水魚はその逆で、体から真水の方向に塩分が抜けるのを防ぐ必要があります。すると、通し回遊をする魚は、一体どのようにして体内の塩分濃度を維持しているのでしょう? 海と川で腎臓にはまったく逆の働きが期待されるわけですから。少なくとも私の腎臓は、そんな器用なことはできそうもありません。
渡り鳥も通し回遊魚も、進化は不思議な生物を生み出すものだと思います。
通し回遊をするためには、腎臓だけ機能すれば良い、という問題ではありません。長距離移動をする体力とナビゲーション能力、「回遊をしたい」という衝動も必要です。
甲状腺ホルモンのチロキシンは、オタマジャクシがカエルに変態する過程に関与しているそうですが、アユでは遡河行動に直接関係しているらしいのだそうです。というか、オタマジャクシや魚にも甲状腺があるんですね。
ちょっと変なことを思いつきました。淡水魚の遠い祖先は海水魚です。そこから淡水魚の祖先が生まれたわけですが、その最初の住み処は汽水域だったはず。そこは、潮の干満や河の流量によって塩分濃度はけっこう変動していて「淡水魚」は少々の塩分濃度の変動には対応できるように進化したはず。そしてそれがさらに川の上流に進出して「淡水専門」となったときに、先祖返りというか「海水と淡水両方に対応できます」の魚がいて、その中に「海の記憶」を忘れられないものたちが、通し回遊をするようになったのではないでしょうか。「海の記憶」って、なんだ?ですが。ただ、本書の最初に「回遊をしたいという衝動」なんて表現が出てきたものですから、それに刺激を受けてしまいました。
本書に登場するのは、ウナギ、ヤマノカミ、シラウオ、イワナ、ベニザケ、イトヨ、アユ、カジカ、ヨシノボリ、イサザ……さて、いくつご存じです?