今朝5時半に電話で起こされました。間違い電話。まあどうせ今日は早起きをしなければならなかったので、それほど迷惑ではないのですが、今(18時過ぎ)脳みそは「そろそろ寝る時間じゃない?」なんて騒いでいます。個人的時差ぼけ状態です。
そういえば中学校の林間学校で、朝3時起きで登山をして頂上でご来光を拝む、というのをやりましたが、そのときも正午頃には脳みそが「もう夕方じゃない?」と騒いでいましたっけ。
「早起きは三文の得」なんて言いますが、強制的な早起きは健康にはよろしくないかもしれません。
【ただいま読書中】『ローマ亡き後の地中海世界(上)』塩野七生 著、 新潮社、2008年、3000円(税別)
東ローマ帝国の皇帝ユスティアヌスは、西ローマを支配する北方蛮族からイタリア半島と北アフリカを取り返し「大帝」と呼ばれました。しかし西暦565年に彼が死んで3年後にはイタリア半島はロンゴバルド族に侵入され、5年後にはマホメッドが生まれています。百年の間に中東と北アフリカは次々イスラム化されていきます。かつてはローマ帝国の「内海」だった地中海は、異なる勢力の「境界の海」に姿を変えました。そこで活躍するのは「海賊」です。北アフリカからシチリアへ散発的にイスラムは出兵を繰り返しましたが、イベリア半島征服が一段落し、海賊活動にますます拍車がかかります。海賊とは言っても、ディズニーの海賊とは違って、陸を襲い、財物や人を奪って引き上げる人々です。それがしょっちゅうやってくるのですから襲われる方は堪りません。
西暦800年、フランク国王シャルルはローマに入り、法皇レオ三世から神聖ローマ帝国皇帝の冠を授けられます。ローマ法王はビザンチン帝国とは不仲になり、「西」に頼れる味方を見つける必要があったのです。しかしそれもシャルル・マーニュの死で空中分解。そこでイスラム側は、シチリアに対する戦略を、海賊から征服に切り替えます。シチリアでは激戦が繰り返され、一部の勢力はイタリアに上陸してローマを目指します。遂にパレルモが陥落します。シチリアは公式にはビザンチン領で、だからか、イタリアやフランクからキリスト教徒側の援軍は一人も送られませんでした。
なんというか……どの勢力もドジをしています。イスラムもローマもビザンチンも。ともかくシチリアの西半分はイスラムのものとなり、そこを基地として海賊たちはイタリアの西海岸を広く襲うようになり、さらには東側のアドリア海にまで侵入するようになります。イタリアの側では防衛用の「サラセンの塔」を各地に建て、同時に住人は海岸から離れて山間地に住むようになります。イタリアにとっては「暗黒の中世前期」でした。
そして、東の要衝シラクサ(紀元前8世紀にギリシア人の入植で始まった歴史も分厚い街)が陥落します。キリスト教世界に衝撃が走りました。しかしシチリアはイスラム支配下で栄えます。その繁栄は200年後の1072年にノルマン人によってシチリアが征服されるまで続きますが、ノルマン人は少数派のため、教会をモスクにしたものが教会に戻され「2級市民」だったキリスト教徒が平等の立場になったくらいであとはあまり社会体制に変更が加えられませんでした。イスラム教徒とキリスト教徒の「共生社会」が実現したのです。建築様式にも「シチリア・アラブ様式」が生まれます。なお、後世十字軍遠征の中で唯一イスラム教徒を殺さずにイェルサレムを手中にしたフリードリッヒ2世(第5次十字軍)は、ノルマンとドイツの血を引いていますが、生まれ育ったのはシチリアだそうです。ただその“成果”(イスラムと“妥協”したこと)を法皇に責められ破門されキリスト教徒側から攻撃されてしまいますが。
イタリア本土も荒らされ続けますが、11世紀になってついにイタリア人も組織的に海賊対策を始めます。サラセン人海賊は、海上での戦闘は好みません。防衛の手薄な船を襲うか同じく防衛の手薄な町を襲うか、が好みです。そこで「海軍」での対決をイタリア側は選択しました。相手の弱点を突こうというのです。アマルフィ・ピサ・ジェノヴァ・ヴェネツィアなど海洋都市国家が成長し、交易と同時に海賊対策で成果を上げ始めます。
13世紀、スペインではレコンキスタが始まっていましたが、地中海では「協定」が始まっていました。イタリアの海洋都市国家と北アフリカの間での「協定」です。海賊行為は残っていましたが、「貿易」が成長します。
本書の第三章は、拉致されたキリスト教徒の庶民たちを救出するために設立された二つの団体の物語です。庶民ゆえに身代金を払ってくれる人もおらず、「聖地奪還」のスローガンからも外れるから十字軍も派遣されない、そういった人々のためにまず作られたのは「救出修道会」でした。修道士マタは、スポンサーを募り奴隷を買い戻しフランスやイタリアに連れ戻す活動を行ないます。さらに、北アフリカ各地の奴隷収容所に付属病院を建築します。1199年の第一回救出行からマタの死の前年1212年までの13年だけで7000人の奴隷を救出し、以後500年で総計50万人を救出したという推計もあるそうです。これは「聖なる行ない」でしたが、同時に海賊たちには「奴隷を拉致するのは良い商売」ということを刷り込んでしまいました。
もう一つの組織は「救出騎士団」です。ただし「騎士団」とは言っても、使うのは武器ではなくて金です。本書には彼らの苦闘の、そして時には笑えるエピソードが紹介されていますが、驚くのはこの騎士団の最後の活動は1779年、フランス革命直前の時代であることです。その頃まで、沿岸から海賊に拉致されるキリスト教徒奴隷はいたのです。なお、修道会も騎士団も、金持ちや有名人は自力で身代金を払えるのだから救うのは無名の人と決めていましたが、例外はセルバンテスです。もっとも当時はまだ無名の若者で、買い戻されて帰国してから『ドン・キホーテ』を書いたのですが。
「権力者は庶民には無関心」とか「拉致と言えば北朝鮮」とか「救出という名の人身売買」とか、いろいろな読み方ができそうな章です。ただ、こういった「歴史の教科書」には載らないであろう観点から地中海を眺めると違った“風景”が見えるのはとても興味深いことに思えます。
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そういえば中学校の林間学校で、朝3時起きで登山をして頂上でご来光を拝む、というのをやりましたが、そのときも正午頃には脳みそが「もう夕方じゃない?」と騒いでいましたっけ。
「早起きは三文の得」なんて言いますが、強制的な早起きは健康にはよろしくないかもしれません。
【ただいま読書中】『ローマ亡き後の地中海世界(上)』塩野七生 著、 新潮社、2008年、3000円(税別)
東ローマ帝国の皇帝ユスティアヌスは、西ローマを支配する北方蛮族からイタリア半島と北アフリカを取り返し「大帝」と呼ばれました。しかし西暦565年に彼が死んで3年後にはイタリア半島はロンゴバルド族に侵入され、5年後にはマホメッドが生まれています。百年の間に中東と北アフリカは次々イスラム化されていきます。かつてはローマ帝国の「内海」だった地中海は、異なる勢力の「境界の海」に姿を変えました。そこで活躍するのは「海賊」です。北アフリカからシチリアへ散発的にイスラムは出兵を繰り返しましたが、イベリア半島征服が一段落し、海賊活動にますます拍車がかかります。海賊とは言っても、ディズニーの海賊とは違って、陸を襲い、財物や人を奪って引き上げる人々です。それがしょっちゅうやってくるのですから襲われる方は堪りません。
西暦800年、フランク国王シャルルはローマに入り、法皇レオ三世から神聖ローマ帝国皇帝の冠を授けられます。ローマ法王はビザンチン帝国とは不仲になり、「西」に頼れる味方を見つける必要があったのです。しかしそれもシャルル・マーニュの死で空中分解。そこでイスラム側は、シチリアに対する戦略を、海賊から征服に切り替えます。シチリアでは激戦が繰り返され、一部の勢力はイタリアに上陸してローマを目指します。遂にパレルモが陥落します。シチリアは公式にはビザンチン領で、だからか、イタリアやフランクからキリスト教徒側の援軍は一人も送られませんでした。
なんというか……どの勢力もドジをしています。イスラムもローマもビザンチンも。ともかくシチリアの西半分はイスラムのものとなり、そこを基地として海賊たちはイタリアの西海岸を広く襲うようになり、さらには東側のアドリア海にまで侵入するようになります。イタリアの側では防衛用の「サラセンの塔」を各地に建て、同時に住人は海岸から離れて山間地に住むようになります。イタリアにとっては「暗黒の中世前期」でした。
そして、東の要衝シラクサ(紀元前8世紀にギリシア人の入植で始まった歴史も分厚い街)が陥落します。キリスト教世界に衝撃が走りました。しかしシチリアはイスラム支配下で栄えます。その繁栄は200年後の1072年にノルマン人によってシチリアが征服されるまで続きますが、ノルマン人は少数派のため、教会をモスクにしたものが教会に戻され「2級市民」だったキリスト教徒が平等の立場になったくらいであとはあまり社会体制に変更が加えられませんでした。イスラム教徒とキリスト教徒の「共生社会」が実現したのです。建築様式にも「シチリア・アラブ様式」が生まれます。なお、後世十字軍遠征の中で唯一イスラム教徒を殺さずにイェルサレムを手中にしたフリードリッヒ2世(第5次十字軍)は、ノルマンとドイツの血を引いていますが、生まれ育ったのはシチリアだそうです。ただその“成果”(イスラムと“妥協”したこと)を法皇に責められ破門されキリスト教徒側から攻撃されてしまいますが。
イタリア本土も荒らされ続けますが、11世紀になってついにイタリア人も組織的に海賊対策を始めます。サラセン人海賊は、海上での戦闘は好みません。防衛の手薄な船を襲うか同じく防衛の手薄な町を襲うか、が好みです。そこで「海軍」での対決をイタリア側は選択しました。相手の弱点を突こうというのです。アマルフィ・ピサ・ジェノヴァ・ヴェネツィアなど海洋都市国家が成長し、交易と同時に海賊対策で成果を上げ始めます。
13世紀、スペインではレコンキスタが始まっていましたが、地中海では「協定」が始まっていました。イタリアの海洋都市国家と北アフリカの間での「協定」です。海賊行為は残っていましたが、「貿易」が成長します。
本書の第三章は、拉致されたキリスト教徒の庶民たちを救出するために設立された二つの団体の物語です。庶民ゆえに身代金を払ってくれる人もおらず、「聖地奪還」のスローガンからも外れるから十字軍も派遣されない、そういった人々のためにまず作られたのは「救出修道会」でした。修道士マタは、スポンサーを募り奴隷を買い戻しフランスやイタリアに連れ戻す活動を行ないます。さらに、北アフリカ各地の奴隷収容所に付属病院を建築します。1199年の第一回救出行からマタの死の前年1212年までの13年だけで7000人の奴隷を救出し、以後500年で総計50万人を救出したという推計もあるそうです。これは「聖なる行ない」でしたが、同時に海賊たちには「奴隷を拉致するのは良い商売」ということを刷り込んでしまいました。
もう一つの組織は「救出騎士団」です。ただし「騎士団」とは言っても、使うのは武器ではなくて金です。本書には彼らの苦闘の、そして時には笑えるエピソードが紹介されていますが、驚くのはこの騎士団の最後の活動は1779年、フランス革命直前の時代であることです。その頃まで、沿岸から海賊に拉致されるキリスト教徒奴隷はいたのです。なお、修道会も騎士団も、金持ちや有名人は自力で身代金を払えるのだから救うのは無名の人と決めていましたが、例外はセルバンテスです。もっとも当時はまだ無名の若者で、買い戻されて帰国してから『ドン・キホーテ』を書いたのですが。
「権力者は庶民には無関心」とか「拉致と言えば北朝鮮」とか「救出という名の人身売買」とか、いろいろな読み方ができそうな章です。ただ、こういった「歴史の教科書」には載らないであろう観点から地中海を眺めると違った“風景”が見えるのはとても興味深いことに思えます。
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