【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

主食

2011-04-30 22:01:24 | Weblog

 「主食」という概念は日本ではごく普通のものですが、これは副食が貧しかった事による産物かもしれません。「おかずを一口食べたら必ずご飯に戻る」と私は子供時代に躾けられましたが、おかずが質量共に貧弱で、ご飯を食べる回数と量を増やさないと食卓の上の食器の空き具合にアンバランスが生じてしまう、だから「ご飯がメイン(おかずよりも頻繁に箸をつける必要があるもの)」と位置づける必要があったのではないでしょうか。今は一汁三菜とかおかずがたっぷりとかが普通ですから、昔の食べ方をやったらこんどは茶碗が先に空っぽになってしまいます。さて、「主食」じゃなくて、別の概念(とマナー)が今の日本の食卓には必要なのかな?

【ただいま読書中】『ちゃぶ台の昭和』小泉和子 著、 河出書房新社、2002年、1500円(税別)

 私は「ちゃぶ台」で育った口です。二間の小さなアパートで暮らしていましたが、夕食が済んだらちゃぶ台を片付けて、押し入れから布団を出す(夏なら蚊帳を吊る)、という生活でした。
 本書は「昭和」という時代を「ちゃぶ台の上に乗っていたもの」「ちゃぶ台そのもの」という切り口で見ています。豊富な写真を見ていると、懐かしくてたまりません。
 著者は私の親の世代の人ですが、「戦前にご馳走はたいてい家庭でこしらえたものだ」として、その例としてあげられるのが「刺身」「天ぷら」「すき焼き」「五目ずし」「おはぎ」……ああ、共感してしまいます。私が育った地域では「五目ずし」ではなくて「ちらし寿司」と呼んでいましたが、本書に載っている写真とそっくり。それがご馳走だったのも、同じ。
 戦争中の代用食も「実際に食べた者」の強みでしょう、リアルな描写です。野草どころか、松の皮や松の花粉、藁など何でも食べて「まさに牛なみである」と言うところでは、笑ってしまいました。戦後の配給もひどいもので、昭和22年には欠配が20日、当然闇米が跳梁するので取り締まりのため列車には武装警官が乗るようになります。配給の内容もでたらめで、著者はサトウキビ(の長いまま)を隣組でリヤカーに積んで持って帰ったことがあるそうです。国民の平均摂取カロリーが1352Kcalという飢餓寸前の状態だったため、アメリカ軍の放出物資も配給されましたが、中には食品ではないもの、たとえば著者の家には缶詰のシェービングクリームが配給されたことがあるそうです。(当時の悲惨さから、日本人のタンパク源としてアメリカから勧められたのが、南氷洋の捕鯨だったと私は記憶していますが、本書では昭和27年にまず北洋漁業が再開されそれで鯨が食卓に上るようになった、とあります。ちなみに、魚肉ソーセージが本格的に生産されるようになったのも昭和27年)
 戦前から洋食はありましたが(カレーとかフライ)、戦後は家庭料理の洋食化が進みます。インスタント食品などの工業化も進みました。昭和40年代から鍋物が盛んに行なわれるようになります。このへんの記述や写真は「私の子供時代」そのものです。自分が、何をどこで誰とどんな風に食ってきたか。食事の洋食化とともに生活も洋風化し、食事をするお茶の間はダイニングへと変っていきます。そういえば私の家族もダイニングルームがある家に引っ越しをしてちゃぶ台ではなくてテーブルを置く生活になったのが昭和40年代のことでした。
 日本人がちゃぶ台を使うようになったのは、明治以降です。それまでの日本の伝統は「銘々膳」でした。各人の「身分」にふさわしいお膳を用いる制度です。「ちゃぶ台」は「卓袱台」とも書きますが、「卓袱(しっぽく)」はテーブル掛け(または中国風のテーブル)のことだそうです。卓袱料理は長崎で生まれ、享保年間には京や江戸にも卓袱料理屋が生まれましたが、それはあくまで“異空間”でした。ちなみに、幕末期に外国人使節を料理でもてなすとき、テーブルを用意しましたが、その上にさらに相手の“身分”に合わせた銘々膳を置いたそうです。明治に入って洋風化と同時に「テーブル」が導入されましたが、それが「ちゃぶ台」となって一般家庭に広まるのは明治30年代後半以降と著者は推定しています。「一つの食卓を皆で囲む」西洋文化と「畳に座って食べる」日本文化との折衷ですが、重要なのはそれが「庶民のもの」だったことです。庶民のものだからこそ、生活の根っこから日本文化を変革していったのです。たとえば一家団欒(銘々膳の世界では食事中は沈黙、がルールでした)、あるいは毎食ごとの食器洗い(銘々膳ではせいぜい3日に1回、あるいは月に3回洗うだけでした)。ただ「一家団欒」は、すぐにテレビに負けてしまいましたが。
 昭和30年から建設が始まった公団住宅は一戸あたり13坪。当時の住宅の平均より1坪大きいのを利用してダイニングキッチンを作りました。食寝分離です。公団住宅は当時の憧れの的。ダイニングキッチン(とダイニングテーブル)も日本に普及していきます。ちなみに「サザエさん」でちゃぶ台がテーブルに変るのは昭和44年のことだそうです。もっともお茶の間にちゃぶ台はそのまま残されて、お茶を飲んだりするのに使われていたそうですが。家が広かったんですね。
 本書には「マンガに登場するちゃぶ台」の章もあります。ちゃぶ台返しのシーンも登場します。いやいや、なつかしいなあ。



政治家ごっこ

2011-04-29 19:20:47 | Weblog

 しかし今の国会、「被災現場での支援には役立たずの政治屋」が舌をいかに熱心に動かすかを競い合っている(「政治家ごっこ」をやっている)だけのようにも見えます。もちろんそういった人間に現場に来られては大いに迷惑ですが、でもそういった人間が「現場の未来」を“上”で決定しているんですよねえ。

【ただいま読書中】『最後の100日 ──ヨーロッパ戦線の終幕──(下)』ジョン・トーランド 著、 永井淳 訳、 早川書房、1966年、430円

 ウィーン攻防戦で本巻は始まります。そういえばオーストリアは枢軸側でしたね。攻めるのは赤軍、守るのは独軍、その足を引っ張るのがオーストリア抵抗組織です。ヒトラーは、手薄になった防衛線から3個師団を引き抜いてウィーンに派遣します。しかし抵抗組織の手引きで赤軍は“裏口”からウィーンに侵入。ドイツ軍司令官は古都を破壊することに耐えられず、死守せよ(文字通り全滅するまで戦え)とのヒトラーの命令に反して軍を撤退させようとします。しかしウィーンは火の海に。これには市民の蜂起の方が責任が重かったように本書には記述がされています。
 アイゼンハワーとブラッドレーとパットンがそろってオールドルフ・ノルド強制収容所を訪れるシーンも挟まれます。強制収容所の実態に触れたときの反応に、将軍たちの人間性が垣間見えます。
 この「最後の100日」に多くの人が死にました。その中で誰もが知っている“ビッグ・ネーム”を3つ上げろと言われたら、ヒトラー、ムッソリーニ、そして、ローズヴェルトでしょう。
 ローズヴェルトの死を知って、ドイツの中枢はにわかにお祭り気分になります。これは何らかの天啓だ、と。たしかにヒトラーが急死したらそれはナチスドイツの終りを意味するでしょう。しかしローズヴェルトの死は、アメリカを悲しみに浸らせましたが、アメリカ軍の行動には何の変化も出ませんでした。ドイツの都市は一つ一つ陥落していきます。
 心温まるエピソードもあります。ブランデー二本を食糧と交換しようと持ちかけた若いドイツ女性に、アメリカの戦車兵がブランデーを受け取ってから「スカーフをぬぎな」と言い、そのスカーフにキャンディ・石鹸・C型携帯口糧などをいっぱいに包んで、その上にさっきのビン二本を乗せて彼女に返した、とか。赤軍兵士の所業とはずいぶん違っています。もちろん人間性を保った赤軍兵士も、失った米軍兵士もいることはいるのですが。
 歴史に刻まれるべき米軍兵士ととソ連軍兵士の“出会い”について、真実とは違う「神話」が流布されます。硫黄島山頂での国旗掲揚でも「神話」が流布されたのと同様に。どこでも「都合の良い話」を喜んで流す人がいるものだと感心します。
 独軍は瓦解を始めます。公然と命令違反や反逆が起き始めます。イタリアに進駐していた独軍の司令官ヴォルフなど、総統命令を無視して勝手に連合国軍と停戦交渉を始めたりしています。しかしそれでも、総統地下壕では希望を捨てていません。希望というか、奇跡願望なのですが。
 それにしても、ヒムラーの「即座に米ソ戦が始まるから、ドイツはそこでキャスティング・ボードを握れる」という主張には、頭がくらくらします。そこまで「現実」をまげて見ることができるのか、と。本書には「現実をまげて見る」人間が多く登場します。ゲッペルスも相当なものですが、それは“敗者”の側だけに存在しているわけではありません。
 ムッソリーニはパルチザンに捕まって殺され、ベルリンは赤軍に包囲されます。ヒトラーはエヴァと結婚。捕虜収容所から“解放”された捕虜たちは、収容所の外で恐ろしい「現実」と出会うことになります。ムッソリーニの死体が傷つけられさらし者にされたことを聞いていたからか、ヒトラーは自分の死体を焼き尽くすことを命じてから自殺しました。ギュンシュ、ケムカ、リンゲの三人は、ヒトラーとエヴァの死体を浅い窪みに横たえそこにガソリンを注ぎ込んでから火をつけます。それから3時間、3人はこの窪みにガソリンを注ぎ続けたそうです(用意してあったがそりんは170リットルでした)。問題は、総司令官ヒトラーの“退場”によって、ドイツが一体として降伏することが困難になったことです。各将軍はそれぞれの主張をぶつけ合うだけで、まとまりが無くなってしまったのです。負けるにしても「きちんとした負け方」があるんですね。多くのドイツ人が「独裁者」の弊害に気がついたはずです。ただ、それを世代を超えて語り継ぐことができるのかどうか、それはドイツ人の問題でしょう。日本には、ドイツとは違う日本人の問題があったはずですが、それがきちんと多くの日本人に共有されているのかどうかは、私にはわかりません。



義勇兵(ボランティア)

2011-04-27 18:56:41 | Weblog

 1937年、スペインには「ファシズムを許すな」と各国から義勇兵が集まりました。彼らは市民戦線と呼ばれました。
 ソ連侵攻下のアフガニスタンにも、「ソ連を許すな」と義勇兵が集まりました。その一部はのちにアルカイダと呼ばれました。

【ただいま読書中】『最後の100日 ──ヨーロッパ戦線の終幕──(上)』ジョン・トーランド 著、 永井淳 訳、 早川書房、1966年、560円

 1941年1月末、かつてはヨーロッパほとんど全部と北アフリカを支配していたドイツ帝国の境界線は、ほとんどかつての「ドイツ」の大きさにまで縮小していました。ヒトラーは将軍の更迭を繰り返し長時間の会議を開きますが、打開策はありませんでした。
 東部戦線では連合軍の捕虜の西への移送が行なわれました。ただし、難民に混じって徒歩での移動です。その中で、意図的に赤軍に解放されることを目指した集団(ハーレー・フラー大佐が指揮)もありました。首尾良くヴュガルテン村で彼らは解放され、フラー大佐は感謝すると同時に村人への赤軍の暴行に強く抗議。そのため、ヴュガルテン村では、射殺される村人はいましたが、他の村とは違って女性への集団暴行は起きませんでした。少なくとも、その夜だけは。
 ノルマンディ上陸以来米軍は広範な戦線を維持して、9月にはかつてのドイツ国境に達していました。しかしそこで補給が限界に。3ヶ月間戦線は膠着し、その間にヒトラーは西部戦線を再構築し、さらに突飛な計画(バルジ作戦)を実施する余裕を得ました。(もしパリ解放を後回しにしていたら、そして戦線を絞っていたら、もっと早く戦争は終結していたかもしれませんし、ドイツの東西分割も無かったかもしれません。バルジに対する牽制として、スターリンは予定より早く大攻勢を始めたので、そうでなければベルリン占領は西側からだった可能性が大でしょう)  バルジで突出したドイツ軍は結局また国境にまで押し返されましたが、そこで連合国側に内輪もめが生じます。米軍内部での権力闘争、それに他の連合国(特にイギリス)の疑念が加わります。ドイツでも連合国でも「会議は踊る」だったのです。このあたりの描写は具体的でリアルです。著者の取材源のリストは、広範で詳細です。
 ヤルタ会談の予備交渉でも、連合国側の“亀裂”は明白でした。しかし、ローズヴェルトとスターリンはウマがあったらしく、出会ってしばらく経つと内緒話を始めたりしました。一同が揃うとスターリンが「テヘランのときと同じように、アメリカ大統領に開会のことばを述べていただきたい」と提案します。これは巧妙な戦術です。アメリカを立てるように見せてイギリスを軽んじ、かつ、自分が口火を切って“最初の発言者”を指名することで会議の主導権を握ろうとしているのですから。さらに戦後処理をめぐっての複雑な交渉が行なわれます。日本関係だと、日本の降伏は1946年と予定され、ソ連の対日参戦のための条件交渉が始まりました。ソ連は日露戦争で割譲した南樺太・旅順・大連の回復などを希望しますが、米国は中国のことを考慮して条件修正を提案します。ヤルタ会談での大きな議題の一つがポーランド問題でしたが、三カ国はそれぞれ妥協を重ね(スターリンでさえ、実はけっこう妥協しています)なんとか現状で最善と思われる案にたどり着きます(もちろんそれぞれ腹に一物ありますが)。このへんの交渉は、読んでいても胃がきりきりしそうです。当事者は大変だったことでしょう。
 ライン川渡河の「第一陣争い」のところでは、私は平家物語の宇治川先陣争いを思い出しました。平家物語では個人の争いですが、本書では将軍同士、軍略だけではなくて政治的な争いが行なわれるのです。高級軍人をやるのも大変です。しかしこの川は、昔はローマ帝国(ガリア地域)を守るための防衛戦としてユリウス・カエサルが定めたものであることを思うと、隔世の感があります……というか、たしかに隔世なのですが。
 「プライベート・ライアン」のような話もあります。パットンの強引な命令で、前線から60マイル向こうのハンメルブルグ捕虜収容所の米軍捕虜解放作戦に機動部隊が派遣されるのですが、実はそこにはパットンの娘の夫が囚われていたのです。結局部隊は全滅、パットンはシラを切ります。おやおや。さらに重要な決定が下されます。ベルリン攻撃の遅延です。これによって、戦後の「鉄のカーテン」の位置がほぼ決まることになります。(下巻には、政治的理由でベルリン攻略を望まないアイゼンハワーにパットンがぜひ攻略するべきだと迫ったとき、アイゼンハワーが「だれがベルリン攻略を望むかな?(戦術上の価値がないし、何十万というドイツ兵・避難民・捕虜の世話まで背負い込むことになる)」と言ったのに対し、パットンは「おそらく歴史があんたの質問に答えてくれるだろう」と返した、とあります)



読んで字の如し〈金ー2〉「錆」

2011-04-26 18:51:38 | Weblog

「刀の錆にしてくれるわ」……お手入れをさぼるの?
「槍は錆びても名は錆びぬ」……お手入れをさぼったの?
「錆色」……赤錆や青錆がございますが
「錆刀」……鈍器としては役に立つ
「腕が錆びる」……腕が動けなくなった鉄腕アトム
「のどが錆びる」……声が出なくなったアトム
「身から出た錆」……全身が動けなくなったアトム

【ただいま読書中】『橋の下の怪物』ジョン・ベレアーズ 著、 三辺律子 訳、 アーティストハウス、2004年、1600円(税別)

 「ルイスと魔法使い協会」第8弾です。ルイスとローズ・リタは中学生になり、大冒険をいくつも経験してきました。それなりに成長してはいますが、基本的なキャラクターは変っていません。ルイスは相変わらず心配性ですし、ローズ・リタは自分がおてんばで考え深い“変わり者”であることと折り合いがつけられません。
 町では、古くなった橋を立て替えることにしました。問題はその橋が、第1作で、ルイスたちが幽霊に追いかけられたときにそれが渡ることを防いでくれた橋であることです。もしそれを壊したら、町に何か悪いことが起きるのではないか。ひどく悪い予感がルイスの心の奥底に、どっかりと居座ってしまいます。
 かつて不思議な隕石が落ちた農場は、“抜け殻”となっていました。そこにいた生物すべてが生命を抜き取られたようになっているのです。そこでルイスとローズ・リタが発見した日記から、魔法使い協会が動き始めます。何か邪悪なものが、彗星に乗ってやってくる、それと同時に「橋」によって封じ込められていた邪悪なものが復活する怖れがあるのです。
 困ったことに、魔物は魔法で攻撃されればされるほど強くなるタイプでした。つまり、これまでいつも事態を最終的に解決してくれたツィマーマン夫人の魔法攻撃は、封印されなければならないのです。ではどうしたら? 魔物の弱点は、遺書に残された暗号に書かれています。その暗号は……「ことばには他の意味もある。わたしは、心臓は魂のある場所だということを発見した。魂はすなわち、命だ。健康を奥深く追求すれば命が見いだせる」。えっとぉ、これで世界が救われる……のですよね?
 今回は「ラヴクラフトの世界」です。いやあ、おどろおどろしいこと、この上ありません。ずるずるねちゃねちゃが嫌いな人は読まない方が良いかもしれませんが、でも、面白いんですよねえ。とっても面白いの。最後の解決法なんか、本当に意外で……あら、何かの魔法かな。ネタバレができなくなっちゃいました。


読んで字の如し〈金ー1〉「銭」

2011-04-25 18:38:21 | Weblog

「無銭飲食」……カードがあれば……え、ここでは使えない?
「悪銭身につかず」……“善人”の思いこみ
「安物買いの銭失い」……悪銭で買ったらしい
「銭形平次」……銭の形の平次さん
「守銭奴」……江戸っ子ではない
「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」……小判だったらどうかな?
「盗人に追い銭」……学習しなさい
「勘定合って銭足らず」……銀行だったら帰れない
「金銭」……金貨と銭
「小遣い銭」……永楽銭か天保銭で渡すもの
「銭轡」……口に食い込んで痛い
「六文銭」……六文分の銭
「蓄銭叙位令」……実は今もひそかに残っている
「賽銭」……本来は奉納するもの
「一銭を笑う者は一銭に泣く」……いちいち一銭を笑うなんて非効率的なことをしているからだ

【ただいま読書中】『魔法博物館の謎』ジョン・ベレアーズ 著、 三辺律子 訳、 アーティストハウス、2003年、1600円(税別)

 「ルイスと魔法使い協会」第7弾です。シリーズの創始者ジョン・ベレアーズが亡くなったため、本作から著者はブラッド・ストリックランドに変っていますが、本の表記はジョン・ベレアーズのままです。シリーズの継続性のためでしょうが、ストリックランドにはちょっと気の毒な感じがします。
 ルイスとローズ・リタは中学生になりました。男の子はまだ小学生とそれほど差はありませんが、女の子は思春期に突入したらしく、ローズ・リタはそれまでは回りから浮いている状態でしたが、中学では女の子の中では孤立しさらに笑いものにされるようになっています。さらに大変なことが。中学校では新入生の「タレント・ショー」というものをしなければならなのです。舞台に立って、集まった町の人を前に“ナニカ”を演じなければならないのです。でも、何を? マジック! ただし、本物の魔法ではなくて、手品です。問題は、二人が手品をしたことがないこと。
 二人は町の魔法博物館に、手品の種を仕入れに出かけます。腕自慢の手品師が様々な資料を集めてオープンしたばかりだったのです。そこで二人は本を借りますが、そのときに霊媒師ベル・フリッソンの巻物を見つけてしまったことから、新たな魔法のトラブルに巻き込まれてしまいます。ゆっくりと迫ってくる黒い蜘蛛の恐怖。ローズ・リタは心を半分誰かに奪われたようになります。
 舞台で二人は大失敗。みじめな気持ちでしょぼんとするルイスをは対照的に、ローズ・リタはなんと激高します。やじる観客に向かって「うるさい! あんたたちなんて大きらい! ぜったい仕返ししてやるから!」と大声で。これはビックリです。ローズ・リタのキャラではそんなことは絶対しないことですから。ルイスはその姿を見て「まるで人間の姿をしたクモ」だと思います。
 墓場の中のベル・フリッソンは、ローズ・リタの怒りや復讐心が熟成するのを待っていました。ローズ・リタが復讐を始めるとき、それを利用して何か邪悪な目的を遂げようとしているのです。ルイスたちはそれに気づきますが、ローズ・リタは他人と関わろうとしません。さらに、ルイスたちには内緒で、ベル・フリッソンが葬られている墓地に行こうとします。一体何が墓場で起きるのでしょうか。
 ニュー・ゼベダイは、メインストリートが3ブロックしかない小さな町なのに、よくもまあこれだけいろいろと「魔法のネタ」が転がっているものだと感心します。しかし、タレント・ショーの開催場所が、かつて二人が大冒険をした町のオペラ座だったのには笑ってしまいました。
 少しずつルイスとローズ・リタの二人は成長しています。それでも二人が良い友達であることは変りません。丁寧に描かれる「変ること」と「変らないこと」、そして魔法のおどろおどろしさ。本当に魅力的なシリーズです。



竜宮城

2011-04-24 17:51:56 | Weblog

 うっかり立ち入ったら、ミノタウロス、ではなくて竜に食われてしまうところ、なのでしょう。

【ただいま読書中】『日本昔噺』厳谷小波 著、 上田信道 校訂、平凡社(東洋文庫692)、2001年、3200円(税別)

 明治時代に厳谷小波が書いた「日本昔噺」の復刊です。
 「其一 桃太郎」はこんな出だしです。「むかしむかし或る処に、爺と婆がありましたとさ。或る日の事で、爺は山へ柴刈に、婆は川へ洗濯に、別れ別れに出て行きました。時は丁度夏の初旬(はじめ)。堤の草は緑色の褥を敷いた如く、岸の柳は藍染の総を垂らした様に、四方の景色は青々として、誠に目も覚めるばかり。折々そよそよと吹く涼風は、水の面に細波を立たせながら、其の余りで横顔を撫でる塩梅、実に何とも云はれない心地です。」
 私が親に聞いたのとは、私が絵本で読んだのとは、まるっきり違う世界じゃないですか。(これは小波の“編集”が入っているのですが、そのことについては出版当時から批判も強かったそうです)
 そして「鬼の住む嶋」は「日本の東北(うしとら)」にあって「我が皇神(おほかみ)の皇化(みおしへ)に従はない」ものの住処です。物語の舞台は奈良時代なんですかね。
 犬は「弁当をよこせ、さもなければ噛み殺すぞ」とまずは脅しますが、桃太郎に脅し返されて降参、そこではじめて「せめて黍団子を一つ」と恭順します(でも桃太郎は黍団子を半個に“値切って”います)。猿・雉子もはじめは犬と折り合いが悪かったのですが「仲良くしろ」という桃太郎の「軍令」によって道中でチームワークがよくなっていきます。
 厳谷小波は口話を単に文字化するのではなくて、新しい児童文学の基礎を作ることを目指していたようです。さらにそこには当時の、たとえば朝鮮半島での軍事緊張の高まり、といったものも投影されています。そういった点で本書を読むときには、「日本昔噺」を読むぞ、ではなくて、明治の香りのする昔話を読むぞ、という意識をしておいた方が良さそうです。まあ、どちらにしても私にとっては「昔の噺(話)」ではあるのですが。
 そうそう、けっこう細かいところにも気を使ってあります。「花咲爺」で、一番最初に犬の四郎が「ここ掘れワンワン」で掘り出された宝物、これのその後の運命についても本書ではちゃんと言及されています。
 そうそう、「羅生門」もありますが、これはもちろん芥川のではなくて「渡辺綱の鬼退治」の話です(その“前”の話「大江山」ももちろん収載されています)。しかしこの話も最後は「めでたしめでたし」なんですね。(ちなみに「瘤取り」には「めでたしめでたし」はついていません)
 いわゆる昔話だけではなくて「玉の井」「八頭の大蛇」といった神話や、さきほどの「羅生門」「大江山」や「牛若丸」といった歴史物もあります。こういったお話を夜な夜な聞いて育ったのが、日本人の教養のベースになっていたのでしょうね。


われは海の子

2011-04-23 17:17:25 | Weblog

 歌詞が難しいので有名な唱歌ですが、戦後は歌われなくなった最後の7番の歌詞はすごいですよ。「いで大船を乘出して、我は拾はん海の富。いで軍艦に乘組みて、我は護らん海の國。」ですから。1番の「我は海の子白浪の、さわぐいそべの松原に、煙たなびくとまやこそ、我がなつかしき住家なれ。」ののどかな世界提示との落差にはくらくらしてしまいます。もしかして違う作者の詩をくっつけたのだろうか。

【ただいま読書中】『65億のハートをつかめ! ──スポーツ中継の真実、世界一の国際映像ができるまで』TBS世界陸上プロジェクトチーム 編、ベースボールマガジン社、2008年、1600円(税別)

 2007年の第11回世界陸上大阪大会で、TBSはホストブロードキャスター(国際映像の制作・配信者)に指名されます。TBSは2年前から準備を始めます。全スタッフは800人。これを一つにまとめるだけで大変です。過去の中継を精査し、マニュアルと整備し、リハーサルを繰り返し……しかし本番はマニュアル通りには進行してくれません。フィールドではいくつもの競技が同時に進行しています。それを多数のカメラ(国際映像用は106台)が追っていますが、メダルを獲得した試技は必ず放送しておく・時系列は崩さない・生放送とVTRの比率は生の方を多くする・トラック種目と表彰式が重なったら表彰式が優先、などの“縛り”の中で、「質の向上」をスタッフは目指します。さらに、国際映像とユニ映像(国内専用の映像)もそれぞれ別に作らなければなりません。そこで重視されるのは「ストーリー性」です。競技の「勝った負けた」だけではありません。
 各競技を担当するディレクターを統括するチーフディレクター坂井は、ディレクターの中では最年少でした。回り中先輩ですから最初は指示がてきぱき出せません。しかしいろいろあって(中でも一番の“ビッグイベント”は、競技3日めに坂井が倒れて病院に担ぎ込まれたことでしょう)、4日めから国際映像の質はぐんと上がります。
 どのような「絵作り」が行なわれるのか、走り幅跳びが例にあげられていますが、一人の選手の跳躍(約1~1分半)を8台のカメラで追い、さらに跳躍後にはスローVTRを入れ、結局20回も画面は切り替えられています。今度陸上の中継があるときには、シーンの切り替えをちょっと意識して見ると面白いかもしれません。
 「いい音」についても、私が知らないことが多く紹介されています。着地音を拾うために砂場に埋められた振動マイクなんて、お見事、のひとことです。
 ロジ担当者の話もすごい。800人分の朝食を堺のパン工場に朝3時半に取りに行くって……いつ寝ているんでしょう?
 陸上競技そのものに対する理解、各選手の特徴の把握、チームワーク(他のスタッフがやっていることへの理解)、マニュアルは守りつつもイレギュラーな事態へは即座に対応……“舞台裏”はてんやわんやですが、ライツホルダー・ミーティング(各国の放送局の代表が集まって、前日の国際映像に注文をつける会)での反応はどんどん良くなっていきました。もちろん失敗映像もありますが、それは日を追うにつれてどんどん減っていったのです。結局、この時の映像が、その年のスポーツ映像・音声の中から各賞を選ぶ「Sportel Monaco 2007」の年鑑映像大賞を受賞することになります。
 もちろんつまらないスポーツ中継も多くあります。若いタレントがスポーツそっちのけではしゃいでいるだけとか、露骨にお涙頂戴のストーリーを視聴者に押しつけてくるとか。だけど視聴者は「スポーツ」を見たいから中継を見るんですよね。その基本を忘れたテレビ局は、結局自らの衰退を招くだけじゃないか、と私は思います。陸上って、それ自体が面白い競技なのですから、変な“味付け”はいりませんよ。もちろん「演出」を否定するわけではありませんが、まずは“素材の味”を大切にするところから始めて欲しいな。



人口の流れ

2011-04-22 19:27:28 | Weblog

 「人口が流入する」「流出する」とか言いますが、「上流」「下流」はどこなんでしょう? 「流入」するのはたいてい都会だから、田舎が上流で都会が下流?

【ただいま読書中】『ヘリコプター災害救助活動 ~大災害時にヘリコプターを有効に活用するために~』山根峯治 著、 内外出版、2005年、1600円(税別)

 災害救助にヘリコプターが有用であることは明かですが、そこに限界があることも明かです。ヘリコプター単体の限界もありますが、ヘリコプターを使うシステム自体の限界の場合もあるでしょう。
 日本で使われるヘリコプターは、主に情報収集に使われる小型、輸送・救助・空中消火・テレビ取材などに使われる中型、そして大量の物資や重機などを輸送可能な大型。専用ヘリ(ドクターヘリや報道ヘリ)、無人ヘリや飛行船への言及もあります。
 阪神淡路大震災では、パン工場から直接パンを大量に(工場が使う2トントラックの2.5台分を)ヘリで運んだそうです。そのとき担当者が痛感したのは、パン工場にも大きなグラウンドが必要だ、ということ。だけど工場設計の時、ふつうそういうことは考えませんよね? 新潟中越地震では、自衛隊の大型ヘリが、重機をぶら下げて空輸しています(写真がありますが、思わずサンダーバードのテーマを口ずさみたくなります)。
 大切なのは、「任務内容とそのヘリにできることとのマッチング」「天候情報」「関係機関との連絡体制」「飛行中の連絡」などです。特に「官民の連携」を著者は重要視して「joint operation」ということばを使っています。ヘリ単独、自衛隊単独では、有効な救助活動はできませんから。たとえば高速道路への着陸は、たとえ技術的に可能であっても、警察と協力をしなければ交通阻害
 56ページには自衛隊法の抜粋があります。その83条ー2は「地震防災派遣」、83条ー3は「原子力災害派遣」です。この法律の原案を練った人にとっては、今回の事態は「想定内」だったということなのでしょうか。
 自衛隊のヘリコプターによる災害救助が日本で初めて組織的に行なわれたのは、伊勢湾台風(昭和34年)のことだったそうです。意外と古くからやっていたんですね。このときには、米軍・自衛隊・民間合わせて50機のヘリコプターが出動し、大洪水で孤立した住民約5000人を救助したそうです。以後、新潟地震(昭和39年)、伊豆大島近海地震(昭和53年)、日航ジャンボ墜落(昭和60年)、伊豆大島噴火(昭和61年)、雲仙普賢岳噴火(平成3年)、北海道南西沖地震(平成5年)、三宅島噴火(平成12年)、そして阪神淡路大震災(平成7年)と新潟中越地震(平成16年)。人命救助・輸送・搬送・観測などヘリコプター部隊は様々な経験を積み教訓を得てきたそうです。
 著者は様々な提言も行なっています。その中で印象的だったのは、管制システムの提案です。大災害の現場では多数の航空機が活動をします。阪神淡路では、翌日昼には野外管制所が準備されました。ところが現行法規では強制力のある管制ができないため、それはただの情報提供でしかありませんでした。そのために事故寸前の事態がいくつも起きたそうです。管制官の必死の作業とプロのエアマンの腕で幸いなことに空中衝突などは起きませんでしたが、著者は将来の関東地区の都市災害では、500機が集中するおそれがあり、それがすべて無管制だとどうなるか、と危惧しています。
 神戸の火災に対して、著者はその日のうちにヘリによる空中消火を準備していたそうです。中型ヘリ15機による連続集中消火です。ところが反対意見(「効果が期待できない」「ヘリはうるさい」「落下する水の圧力で人が死ぬ」)が強く結局県から中止の連絡がありました。著者は今でも「あのとき初期消火ができていたら」と夢に見ることがあるそうです。ただ、著者が火災自体への消火と同時に提唱する「ヘリからの落下水を利用した破壊消防」については“副作用”が大きそうに思えます。それと、当時ヘリ消火に反対した人も寝覚めは悪いでしょうね。多くの人を「圧死させるな」と主張することで焼死させたわけですから。
 役所同士の連携、市民の理解と協力、官民の連携、さまざまなものが「ヘリコプターの活用」には必要です。高価な機材を買って飾っておくだけでは役立ちません。そのことがわかっている“偉い人”は日本にどのくらいいるのでしょうねえ。



美人

2011-04-21 18:43:32 | Weblog

 昔:夜目遠目傘の内、見返り美人、バックシャン
 今:プチ整形、マスク美人、スキー場、ネットでの発言が魅力的な人
 さて、他には?

【ただいま読書中】『白雪姫、殺したのはあなた ──ワンス・アポン・ア・クライム』エドワード・D・ホック 他著、 加賀山卓朗 他訳、 原書房、1999年、1800円(税別)

目次:
「白雪姫と11人のこびとたち」(エドワード・D・ホック)、「ダウンタウンのヘンゼルとグレーテル」(ジャネット・ドーソン)、「狼の場合」(ビル・クライダー)、「七人の……?」(ジョーン・ヘス)、「“千匹皮”をフェイクで」(ダグ・アリン)、「白鳥の歌」(ジョン・ラッツ)、「ラプンツェルの檻」(ジェイン・ハッダム)、「いさましいちびの衣裳デザイナー」(レス・ロバーツ)、「かしこいハンス」(ジョン・L・ブリーン)、「シンデレラ殺し」(クリスティン・キャスリン・ラッシュ)、「ブレーメンのジャズカルテット」(ピーター・クラウザー)、「狼と狐は霧のなかから」(エド・ゴーマン)
 最初の「白雪姫と11人のこびとたち」の見事なこと。グリムの骨格を見事に生かしています。しかし、単なるパロディーとか翻案ものではありません。物語の舞台を現代アメリカに持ってきたことと、登場する「こびとたち」が11人いること、それがどちらもこの物語には「必要条件」であることが、最後の1行になってすぱっとわかります。いや、見事です。
 ストリートチルドレンとなった“ヘンゼルとグレーテル”は、“魔女”に食われそうになりますし、「赤ずきんちゃん」を目の前にした狼男は青春の悩みを抱えています。いさましいちびの衣裳デザイナーは……わははははは。もう一つオマケに、わははははは。なおこれはもちろん「いさましいちびのトースター」ではなくて「勇ましいちびの仕立て屋」が原典です。「王子様と結婚してそれからいつまでも幸せに暮らしました」はずのシンデレラは、二人の子を産みそして夫婦間が不仲になってしまいます。そして…… あああ、苦い話です。でも、私はこの短編がとても気に入りました。語り口ににじみ出る苦さと人生に対する徒労感が、とても良い味を出しています。
 「グリム」の中には残酷さが同居しています。それをただ「残酷だ残酷だ」と言い立てるのではなく、そのエッセンスの一部を取り出して別の形の作品に蒸留することで「グリムの楽しさ」までも別の形で感じることができるようにしてあるこのアンソロジー、本好きにはたまらないものであることは請け合いです。


不敬

2011-04-20 18:43:54 | Weblog

 天変地異と人災でしょぼんとしている日本の雰囲気を変えるために改元を進言するのは、やっぱり不敬でしょうか。

【ただいま読書中】『平清盛 福原の夢』高橋昌明 著、 講談社選書メチエ400、2007年、1700円(税別)

 平安時代は摂関家が外戚として天皇家を支配・運営していました。それを変化させようとしたのが、後三条天皇と白河上皇です。その結果「一家の長」と「国家の長」の分離(対立)が生じます。それに伴い母方外戚の地位は低下します。そういった時代を背景として保元・平治の乱が起きます。後白河は政権運営には意欲満々ですが、本人のキャラに「軽薄さ」という傷がありさらに乱によって有力側近を失っていました。二条天皇は年少。摂関家の地位は低下。つまり権力の空白が生じていました。清盛は、後白河の政治的ライバルを片付けると同時に、自分の軍事的ライバルも始末していきます。しかし二条天皇が力をつけてきます。清盛の室の時子は二条天皇の乳母。となると清盛は二条天皇の側に立つ必要があります。このあたりでの後白河勢力の盛衰は、他人から見たら面白いものです。一度は衰えたものの盛り返した後白河は清盛と組み、自らの孫を天皇に、皇太子には自らの子を、というすごい“人事”を断行します。
 清盛は重盛に氏長者を譲り出家、しばらく六波羅にいましたがやがて摂津国福原(今の神戸)にあった山荘に退隠します。清盛は摂津国の要所要所も支配下に置いていました。大阪湾は浅くて大船が入らないため、清盛の山荘近くの大和田泊で小舟に荷物を積み替えてから淀川を上っていました。つまり、瀬戸内海東部の物流の要所だったのです。さらに日宋貿易の存在があります。清盛の目は都より「西」に向いていたようです。
 しかし本書で示される着眼はユニークです。たとえば平家と天皇家の相関図と「源氏物語(明石の巻)」の人物相関図とを比較して「そっくり」と感心したり(ちなみに、笑っちゃいますが、光源氏に相当する位置にいるのが平清盛です)。また「平氏の貴族化」もあっさり否定します。その根拠は、宮中での重要な公家会議に平氏のメンバーが参加していなかったこと。一代や二代では、軍事貴族が有職に精通した“プロの公家”に対抗することなんかできなかった、ということでしょう。
 なぜ清盛が福原に引き籠もったのか、が謎です。ふだんは京にいて必要があれば福原に通えばいいのに、その逆をするのですから。まさか光源氏の須磨配流でもないでしょうに。著者はそれを政治的効果に求めています。都から離れることによるデメリットはありますが、何かトラブルがあったときに「清盛に問い合わせをする」ことで平家系の公家は時間が稼げますし、解決に乗り出すと「わざわざ清盛がやって来た」事実自体が大きなインパクトを人びとに与えるのです。
 鎌倉幕府はこの清盛の“先例”を踏襲・発展させたもの、と著者は考えています。幕府を福原よりもっと遠くに置き、六波羅を京都守護として発展させました。
 延暦寺の「大衆」強訴をめぐって、後白河と清盛の対立が深まり、有名な鹿ヶ谷事件へと到ります。叡山攻めを口実に兵を集め、事件解決にのこのこ上京した清盛を殺そうという陰謀だ、と平家は主張しますが、さて、どこまで“真剣な(実行可能な)”計画だったのでしょうか。ともかく「平家でなければ人でない」は、追従者と共に“敵”も多く生みだしていたのです。
 そして、あまりに急な「福原遷都」。安徳天皇と高倉上皇が(清盛の意向で)急に福原に行幸しました。最終的に安徳は清盛の別荘に入り、そこが「内裏」と呼ばれるようになります。しかし屋敷が足りず、随行する者は「道路に座すが如し」のありさまだったそうです。そしてしばらくは、都は京と福原の二重体制となります。天皇を移してから都造りというのは順序が逆の気がしますが、そこには、後白河を中心とする反平家勢力の台頭、という“事情”があったようです。しかし、公家は「特定の行事は特定の建物で行なわなければならない」などと抵抗し、頼朝や義仲などの挙兵が各地で起きます。ついに清盛は一門の中でさえ孤立してしまい、還都となります。「遷都」から170日のことでした。
 著者は、清盛の行動から「革命の思想」を読み取り、それを受け継ぎ、より厳格に実行したのが頼朝だ、と考えています。建武の新政にしても織田信長にしても明治維新にしても、権力に関して京の公家が“新たな救世主”に望むことは常に裏切られてしまうのですが、その「原型」が平安時代にあった、ということなのでしょうか。