【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

トライアングル

2011-06-30 18:58:55 | Weblog

 私が初めて「トライアングル」に出会ったのは幼稚園の時、タンバリンやカスタネットと一緒に、でした。次は小学校の時かな、読んでいた本に「バミューダ・トライアングル」という言葉が登場してその不気味さに震え上がると同時に「トライアングル」が「三角形」であることも知りました。正しい綴りを知ったのは中学校。
 「幼稚園で使った楽器」ということから、楽器としてのトライアングルにはお手軽な印象を持っていましたが、その効果が重要であることを意識したのは成人後です。たとえば、ドヴォルザークのチェロ協奏曲やスメタナのモルダウで、もしもトライアングルが使われなかったら曲想はずいぶん締まりのないものになってしまうでしょう。
 トライアングル協奏曲というのはさすがに無理でしょうが、「トライアングルが印象的な曲」の全集を組んだら、ちょっと面白いラインナップになるのではないかな。

【ただいま読書中】『ヘンな間取り』ヘンな間取り研究会、イースト・プレス、2010年、476円(税別)

 様々な物件の間取り図の中で、突っ込みどころ満載のものを集めた本です。「玄関から室内に入れない間取り」はたぶん単純な線引きの間違いだろう、と思えますが(うっかり太い線分で玄関を囲ってしまったのでしょう)、中にはどう考えてもどうやってその部屋で生活するのかわからない物件も多々。たとえば……
 地下室や二階があるのに、そこへの階段が一階に存在しない間取り。トイレと同じ広さの浴室。出入り口のないベランダ。自分の部屋から隣の部屋の前まで伸びているバルコニー。2Kやワンルームマンションにトイレが二つ。3LDKにユニットバスが二つ。6帖の1Kに洗濯機置き場が二つ。15帖のワンルームマンションのど真ん中に浴室とトイレ。ベランダに浴槽。バルコニーにシャワー室。1帖の広さのダイニングキッチン。ど真ん中に畳コーナーがあるフローリング。床の間付きのフローリング。3LDKの高級マンションにトイレが3つにバス2つ、ただしすべてが一箇所に集中配置。一度玄関から外に出ないと行けないバルコニー。
 そうそう、オマケのコーナーに「家賃三万円でここまで違う」という記事があります。東京は新宿では、4帖半のワンルーム。風呂無し、トイレは共同。ま、そんなもんでしょう。それが北海道は釧路だと、同じ家賃で3SLDK(納戸つきですが、その納戸が新宿のアパートと同じくらいかな)。いやもう、間取り図を並べてみるだけで、頭がくらくらします。



高温注意情報

2011-06-29 18:47:39 | Weblog

 気象庁は今年度から「高温注意情報」というものを出すそうです。当日または翌日の最高気温がおおむね摂氏35度以上になるようだったらこの「注意情報」を、ということだそうですが、これ、なんで「高温注意報」ではいけないのか、ということを私は思います。
 そういえば気象庁の用語にはすべてきちんとした「定義」があります。「晴れ」は「雲量2~8」とか、「台風」は「最大風速が毎秒17.2メートル以上の熱帯低気圧」とか(この「17.2」には昔の「風力計」のしばりがかかっているそうです)。
 想像ですが、おそらく「注意報」にもきちんとした言葉の定義があって、こんどの「高温注意情報」はその範囲から逸脱するのではないでしょうか。私の想像では、おそらく注意報(や警報)は「地域(または特定集団)の災害被害防止」が目的だけど、「高温注意」は「個人防衛」が目的だから「『注意報』と呼ぶには目的違いだ」と字句にこだわる人からの指摘が入ったのかな?

【ただいま読書中】『塵袋(1)』大西晴隆・木村紀子 校注、平凡社(東洋文庫723)、3000円(税別)

 鎌倉時代の……雑学の書と言えばいいでしょうか(解説には、問答形式の語源探索エッセーを類書(分類体事典)仕立てにしたもの、とあります)。最初に「……は何だ」と疑問が提示され、それについて古い書物などからの引用が述べられます。たとえば……
 「虹ト云フハ何レノ所変ゾ、蟾蜍(センショ=ひきがえる)ノイキカ」という“問い”に、『博聞録』(宋の時代の書)『初学記』(唐の時代)『日本紀』(日本書紀)からの引用がずらりと。面白いのは、この「問い」自身から、当時「虹はヒキガエルの息から発生する」という説が日本にあったらしいことがわかることです。なお『博聞録』には「虹霓(コウゲイ)は雨中の日影なり」とあるそうです。で、虹は雄虹・霓は雌虹で、生き物ではないのに雄雌とはこれいかに、そういえば「虹」には「虫偏」がついているが……と著者は困っています。
 「天狗ヲ天狐トモカケルコトアリ、同異如何」……おやおや、「狗(イヌ)」と「狐」が同じ扱いだったと? ここで登場するのが日本書紀。「天狗」と書いて「アマギツネ」と読んでいるのだそうです。(『日本書紀』巻二三、舒明記九年、だそうです。手持ちのは段ボール箱の中なので、後日もし機会があれば確認してみましょう) 昼のように輝く大流星を「天狗(てんこう)星(または天狗流星)」と呼ぶそうですが、舒明天皇九年にこの天狗星が出現したのに対し、旻(びん)法師という僧が「あれは流星ではなくて、雷に似た声で吼える天狗だ」と言ったのだそうです。で、「天弧」という星もあるがこれは「弧(弓)」であって「狐」ではない、と、結局何が“正解”なんだろう、でこの項は終わっています。もしかしたら「天狗星」「天弧」がなまって「天狐」と書く人がいた、ということなのでしょうか。
 「大風」とか「霖雨」の定義、という話もあれば、「干支って何?」というものも。ただ「干支」はこの二文字が「枝」を意味する、と言うところから話を起こしているので、展開が変です。素直に陰陽から始めればいいのに。たぶん本書だけを読んだ人には「干支」の意味はわからなかっただろうな、というのが私の感想です(もしかしたら当時それは“常識”だから敢えて正統的な説明を避けたのかもしれません)。「庚申」についての説明では三尸虫がちゃんと登場しています。
 しかし「叩頭するとは、頭を地面に叩きつけることか」とか「切歯は歯を切ることか」とか、世界を「文字通り」に解釈しようとする人は鎌倉時代からいたようです(私もあまりえらそうなことは言えませんが)。読んでいて、その「問い」のあまりの素朴さと、それへの回答の教養の重みとのギャップの大きさに、楽しい気分になってしまいました。この書の著者はたぶん楽しみながら書いていたのではないでしょうか。「教養」が空回りしているところもたくさんありますが、日本語の言葉遊びのルーツをゆったり楽しむには良い本です。



一皿100円

2011-06-28 18:56:55 | Weblog

 私が初めて回転ずしの店に行ったのは……たぶん1979年です。一皿100円均一でした。
 この前国道を走っていたら一皿105円均一(税込み)の店がありました。30年以上前と同じ値段でやっていけるって、昔がぼっていたのか、それとも今の企業努力がすごいのか、何かが間違っているのか、どれが正解なんでしょうねえ。

【ただいま読書中】『石垣』田淵実夫 著、 法政大学出版局、1975年(2004年10刷)、3200円(税別)

 石垣と言って私がすぐ思い出すのはお城です。その先入観で本書を開いて、最初の写真ページに見とれてしまいました。農地、屋敷、護岸、古墳、水道橋、そしてもちろんお城、日本の各所に様々な表情を見せる石垣がたくさん存在しています。そういえば私の親の実家にも、石垣の塀や石組みの井戸がありましたっけ。
 もともと日本のあちこちに石を扱う専門職がいましたが、その“組織化”が行なわれたのは安土城築城のときでした。各地から石工が集められ、信長好みの巨石などを組むために活動をしたのです。そこで石垣師が多く育ち地方に散っていきました。江戸時代には築城はなくなりましたが、地方では民生用の工事が盛んに行なわれるようになります。
 「石工」は大きく三種類に分けられます。「石採工」「石積工」「石彫工」です。
 石積は複雑です。使うのは「野石(自然石)」か「樵石(こりいし=切ったり割ったりした石)」か。技法として「整層積」か「乱層積」か。石垣の断面図も載っていて、その複雑さには感銘を受けます。
 石の切り出しも大変です。発破が使えなかった時代にはすべて人力ですが、一体どうやって割ったり切り出したのだろう、と思ってしまいます。そして運搬。これまた基本的に人力です。実際に背負って運んだ人のことばがありますが、聞いているだけで自分の背中が重たく感じます。
 本書は、石垣の工学的な分析の書ではありません。日本の石垣が昔から「人」や「地域」と共にあったこと、その文化的な意味を述べています。著者は、コンクリートの構造物や、単に「科学的に正しい石積の構造」が好きではないようです。積むにしても、その地域の地盤や水の流れに合わせたもの、先人の知恵を生かしたものを造ったほうが、結局長持ちする、と言っています。それはそうでしょうね。地盤に逆らって良いことがあるとは思えませんもの。
 そうそう、著者の石垣を訪ねる旅は、結局自分の故郷を訪ねる旅になっていました。私は何を訪ねたら、自分の故郷を訪ねる旅になるのかな。



お尻が痛い

2011-06-27 19:02:41 | Weblog

 先日ある大学の階段教室に行って、時間にして2コマ分、あの懐かしいベニア板の背もたれと座板の椅子に座っていたら、なんとお尻と腰に軽い痛みが。学生時代には朝から夕方まで坐っていても平気だったのに、年は取りたくないですねえ。そろそろ退職して勉強生活をしたい、なんて思っていましたが、肉体的に無理みたいです。おっと、ローンがまだ残っているから、経済的にも無理なのですが。

【ただいま読書中】『西洋中世奇譚集成 聖パトリックの煉獄』修道士マルクス/修道士ヘンリクス 著、 千葉敏之 訳、 講談社学術文庫、2010年、840円(税別)

目次:
トゥヌクダルスの幻視(マルクス、ラテン語ヴァージョン)
聖パトリキウスの煉獄譚(ヘンリクス、ラテン語ヴァージョン)

 馬三頭分の債務を取り立てていた最中のトゥヌクダルスは、急死し、3日3晩後に蘇ります。覚醒したトゥヌクダルスは、驚くべき物語を人々に語り始めます。なんと彼は地獄めぐりをしてきたのです。
 なぜか天使が同行してくれての道行きは、高熱・火焔・極寒・打擲・硫黄の悪臭など、さまざまな「地獄」です。地獄の番人たちは、灼熱した三つ叉の鉾や槍で罪人の魂を追い立てたりぶん殴ったり、はては鉄板でじゅーじゅー炒めたりやりたい放題です。
 なんだか仏教の地獄と似ていますね。血の池はこちらにはありませんが、肉食民族には血まみれになることは拷問とは思えなかったのかもしれません。
 不思議なのは、本来「地獄」というのは、神に反逆した天使たちが落とされた場所のはずです。そこに神が罪人の魂を送り込んだら悪魔たちは喜んで「神の僕」として罪人たちに拷問をしている……逆でしょう。罪人はつまりは悪魔の味方なのですから、拷問ではなくて歓待をしなくては。
 そんなことを思っているうちにトゥヌクダルスの魂はどん底まで落ちてしまいますが、そこで一転、こんどは「上昇」を始めます。神を讃えながら、罰を喜んで受入れながら一つずつ階梯を上がっていって、そしてこの世へ帰還します。神の恩寵を人々に伝えるために。
 「異界の物語」は面白いものですが、その「異界」の特徴は「現実ではない」ということですからその根拠は「現実世界」にあります。つまり、中世の異界物語を読むことは、それを通じて中世の「リアル社会」について知ることになるのです。ただ、私自身は中世のヨーロッパに住みたいとは思いませんでした。悪しからず。



話し合い

2011-06-26 18:48:51 | Weblog

 意見が違う集団が話し合うというのは、結構大変ですね。外交交渉に準じて考えてみました。
 まず行なうのは「話し合うこと」自体に合意を取り付けることでしょう。その合意がなければ、話が始まりません。
 つぎは「何語」で話し合うか。日本人同士だったら日本語、と言いたくなりますが、専門家集団だったら「単語の意味」が異なることがけっこうあります。つまり「共通言語の設定」という作業が必要です。
 その次は「どこ」。外交だったら多くは中立的なところですが、日本だったら、中立的でしかも公開の場、といったらどこが代表的でしょう?
 次は「代表団の構成」。人数で片一方があまりに優勢になるようだったらいけません。それと、代表がどの程度の権限を持つか、も重要です。理想は全権大使かな。
 こういったことにこだわるのは形式主義かもしれません。しかしこういった些細なことを軽視していたら結局「話し合い」そのものが形式的な手続きになるだけでしょう。

【ただいま読書中】『細雪(上)』谷崎潤一郎 著、 中央公論社、1949年(50年7刷)、350圓

 舞台は戦前(作中に西安事件の翌年、とありますので、まず間違いなく昭和12年)の蘆屋(芦屋)、登場するのは良家(といっても蒔岡家が全盛だったのは大正時代までで、昭和になってからは没落中)の四姉妹。一家で演奏会にお出かけで、みなさんお化粧などに余念がなく、話題の中心は三女の雪子の見合い話、という情景描写で始まりますが、驚くのは会話が関西弁で統一されていること。舞台が関西だから当然と言えば当然ですが、映画などで異星に着陸したらそこの異星人が平気で英語をしゃべる、なんてことに慣れている身には軽い衝撃です。
 言葉と言えば、大商店が株式会社となったときに、番頭が常務と呼ばれるようになり、羽織前掛・船場言葉から洋服・標準語になった、と述べられているのには、笑いながら頷いてしまいます。そうか、常務さんは番頭さんだったんだ。そして、見合いの席でも使われるのは基本的に標準語です。
 三女の雪子の見合いの場で、電車の中でコンパクトを開けて白粉をぱたぱたする女性のせいで回りの男にくしゃみが出た、という話が登場します。最近「電車の中での化粧」が評判が悪いのは、マナー違反だから、という論調ですが、本書ではくしゃみを誘発する「迷惑行為」だから、という扱い方です。戦前はそういったことにこだわらない風潮だったのか、それとも「お化粧直し」だったらOKだったのかな。
 四姉妹といって思い出すのはもちろん『若草物語』。あれが青春の物語なら、こちらは成人の物語。欲や色や世間体もたっぷりまぶされています。会話を主体とする人々の関係の描写の緻密さには、読んでいて「お腹いっぱい」と呟きたくなります。さらに「時代の描写」も。人々が何を気にして世間で生きていたのか、「これだけは譲れない」という価値観は何か、などがあちこちに仕込まれていて(というか、当時の世界を丹念に描けばそこに「時代」が含まれるのは当然とも言えるのですが)、時間旅行をした気分です。
 人物関係の描写だけではなくて、風景描写もみごとです。たとえば京都の花見。自分が満開の桜の下にいるような気分になれます。著者はまさか映画化を念頭に置いて書いていたわけではないでしょうが、本当にそのまま映画にできそうな文章でした。



人気の和尚さん

2011-06-24 19:04:56 | Weblog

 日本で庶民に人気がある和尚さんと言ったら、一休さんや良寛さん。あとは分福茶釜の和尚さん?
 ところで、一休さんにはトンチという一大特徴がありますが、良寛さんの人気の秘密は、何でしたっけ?

【ただいま読書中】『良寛詩集』良寛 著、 大島花束・原田勘平 訳注、 ワイド版岩波文庫92、1993年、1068円(税別)

 技巧を凝らした、というものではない、素直な詩が並んでいます。たとえばこんなもの。
「花無心招蝶 蝶無心尋花 花開時蝶来 蝶来時花開 吾亦不知人 人亦不知吾 不知従帝則」
最後の「帝」は「帝王」「皇帝」などではなくて「天帝」のことです。万物は知らずに天の道に従って生きているのだ、とでも言ったところ。
 猫と鼠の詩も面白いものです。鼠の“罪”は器を穿つこと。でも、それは補修が可能。失われた命は補修はできない。だから、もしも猫と鼠の“罪”を比較したら、猫の方が重い、とさらさらっと述べています。これは気に入りました。
 本書の前半は「五言」、後半は「七言」がまとめられています。要するに一行五文字か七文字かという形式の違いなのですが……七言の方はちょっとことばの流れが悪く感じます。たとえば「地震後詩」と「土波後作」はどちらも出だしの二行が同じで「日々日々又日々 日々夜々寒裂肌」なのですが、私の感覚ではことばの調子がもたついています(繰り返しによる特殊効果、とも言えますが)。また、「七言」の方では、詩によっては行の長さがばらばらになっているところがあります。一行が五文字だったり、あるいは九字や十字だったり。
 そもそも平仄などの約束事には囚われない融通無碍の作詞が特徴だそうですから、行が凸凹するのもご愛敬、と見るべきなのでしょう。
 内容はしみじみしたものが多いですね。高歌放吟するものではなくて、夜に一人でそっと呟いてみるのに向いているようです。
 ちょっとシュールなものもあります。「毬子」というタイトルの短い詩ですが、「袖裏繍毬直千金 謂言好手無等匹 箇中意旨若相問 一二三四五六七」(豪華な刺繍の毬、名人上手と自称する人、その意はと問われたら……一二三四五六七)……意味は全然わかりませんが、なぜか笑っちゃいます。

 昨日の読書日記に書いた『乾燥標本収蔵1号室 ──大英自然史博物館迷宮への招待』では、実用的な“貢献”をいっさいしていないかのように見える変人奇人が、(安定した生態系にまったく無駄なものなど存在しないのと同様に)博物館という社会だけではなくてこの世界全体に実は文化的に重要な存在であることが力説されていましたが、それと同様に、生産などには一切寄与しない「良寛さん」の存在が実はこの社会には重要なのかもしれない、と私はぼんやり思っています。それとも、良寛さんどころか、こんなぼんやりした人間にはこの世に“居場所”がありませんか? それはずいぶん窮屈だなあ。


変化

2011-06-23 18:51:43 | Weblog

 「大人帝国の逆襲」でクレヨンしんちゃんの父親野原ひろしは「正義の反対は悪じゃないんだ。正義の反対は、また別の正義なんだ」と印象的なせりふを述べます。
 このことばを聞いた人類は、大きく4種類に分けられます。わが意を得たり、と大きく頷く人。なに馬鹿なことを言ってるんだ、と首を横に振る人。虚を突かれて考え込む人。単にスルーする人。
 私が注目するのは、3番目のグループの人たちです。
 もし世界が進歩(あるいは変化)するものだとしたらその変化のキーを握っているのは、「自分を変えることができる人」です。自分さえ変えられない人に世界を変えることはできないでしょう。つまり、何を聞いても変化しない人ではなくて、自分とは異なる意見(あるいは自分とは違う視点からの意見)に耳を傾け考えその結果変化する可能性を持った人たちこそが「世界の変化」に重要なのです。

【ただいま読書中】『乾燥標本収蔵1号室 ──大英自然史博物館迷宮への招待』リチャード・フォーティ 著、 渡辺政隆・野中香方子 訳、 NHK出版、2011年、2500円(税別)

 サウス・ケンジントンの「自然史博物館」は、かつては「大英博物館・自然史部門」でした。自然史関係のコレクションが増えすぎたために1965年に分離されたのだそうです。著者は1970年に就職しますが、そこは巨大な迷宮でした。バックヤードには大量の標本が収蔵され、そして興味深い人たちが棲息していたのです。変人奇人は山ほど。もともと学究の人は世間から見たら変人ですが、その変人のグループの中でも極めつけの変人がごろごろと。逆にとても生真面目な職人も登場します。たとえば岩石の中から化石を取り出す整形師のロン・クラウチャー。岩より柔らかい恐竜の骨を岩から取り出すために、1年以上砂岩の粒を一粒一粒取り除き続けた、なんて話は、読むだけで肩が凝ります。とにかく登場する人のほとんどは著者が個人的に良く知っている人なのでしょう、短い文章でその人の生き方を鮮やかに表現しています。
 学者がもし「新種」を発見したらどうすればよいか。まずは過去の文献あさりです。本当に新種かどうかを詳しくチェックする必要があります。間違いないとわかったらつぎは命名。これにも厳格なルールがあります。ラテン語やギリシア語の知識も必要です。めでたく論文が査読を通ったらおしまい、ではありません。後世の研究者が自分が見つけた標本と比較するための、「基準標本」を選定する必要があります。後世の学者が参照するべき物質的な証拠です。ところがこれの保存がけっこういい加減であることに著者は苛立ちを見せます。きちんとした博物館ときちんとしていないところの落差が激しすぎると。
 分類学は「遡れば同じ祖先に行き着く」ことを基本にしています。そこで重要なのが遺伝子解析です。かつては、肉眼による外形的特徴の比較や比較解剖学が重要でしたが、現在では、属や科の中での遺伝子の徹底的な比較が行なわれているのです。そのため「種の“所属変え”」も頻繁になってしまいました。
 博物館には膨大な「標本」が収蔵されています。それと同様に、著者の頭の中には、膨大な「人の記憶」が収められているようです。で、職業柄著者はそれをきちんと“分類”しています。だからこんなせりふが登場するのでしょうね。「電話帳の名前を見ただけでロンドンを理解することはできない」「ある分野に「精通」した人がいるというのはそれだけで価値がある」「カリスマ性は、善良な人柄からは生じないものだ」。
 著者は自分の仕事を誇りに思っていますが、自分の仕事だけを大切にしている専門バカではありません。過去の生物の研究をするためには「現在のこの世界」に生物が存在していることも大切だと認識をしています。つまり、現在と未来も同じように大切だ、と。そして、博物館の本来の使命「この世界がどのような要素によって構成されているかを知ること」は、地球の未来にとっても重要である、と。こういった視野の広さが、著者の文章に独特の魅力を添えます。同じ著者の『生命40億年全史』もべらぼうに面白い本でしたが、本書もまた「読む価値のある本」です。でもできたら、別の登場人物と別のテーマによる「2号室」や「3号室」の物語も読みたいな。



正しいことば

2011-06-22 18:30:07 | Weblog

 ことばの正しさを磨きあげることに注力する人が多くいますが、さて、「ことばが正しければ正しいほど、自分の意図が相手の心に伝わりやすい」ものでしたっけ?
 たとえば子供の頃に親に説教を食らった経験を持つ人は多いでしょうが、その説教内容が間違っていたら「何も知らないくせに」と反発を感じ、その説教内容が正しければそれはそれでかえって意地になって反発する、なんて経験を持っている人はいませんか?

【ただいま読書中】『マーク・トウェイン短編全集(上)』マーク・トウェイン 著、 勝浦吉雄 訳、 文化書房博文社、1993年、2427円(税別)

 短篇集を読んだ場合いつもなら目次を書き出すのですが、本書には30編も収載されているためその作業(難行)はやめておきます。
 「オーリーリアの不運な恋人」……なんとも奇妙な味の話です。オーリーリアの婚約者は、結婚式が近づくと不運な“事故”に遭い、手足を一本ずつ失っていきます。オーリーリアは彼の回復を待っては結婚をしようとするのですが、その日が近づくと必ず“事故”が繰り返されます。すっかり当惑したオーリーリアは……というところで話はそのまま放り出されてしまいます。
 「キャラヴェラス郡の跳び蛙が評判になる」……賭に勝つためにものすごく跳ぶように仕込まれた賭け道具のカエルが散弾を飲まされて、というおなじみのお話ですが、実はこれ、レオニダス神父の消息を聞かれた爺様が突然話し始めたジム・スマイリーという男の話だったんですね。きれいに忘れていました。話中話というのはありますが、これは話中逸脱話?
 「列車内の人食い事件」……吹雪に閉じ込められ、飢えに苦しみながら救助隊を待つ乗客たち。とうとう飢え死にするくらいなら、と「選挙」を始めます。「皆に食べられる候補者」を選ぶ選挙です。委員会が作られ公明正大に選挙演説が行なわれそして投票。その過程は、民主的で模範的な選挙そのものです。いやもうこのブラックさといったら……
 プロットとかドンデンとかも一応はありますが、そういった“技術”を越えたところで著者は悠々と話を展開していきます。なんだか出来の良い中篇や長編の一部だけをこっそり話して聞かせてくれているような雰囲気です。話の舞台だけではなくて、その語りかけの技法に、19世紀という“時代”をたっぷり感じることができます。



首都機能移転

2011-06-21 18:41:07 | Weblog

 国会を福島県の警戒区域ぎりぎりのところに移転させたらどうでしょう。少しは審議がスピーディーにならないかな。移転された地区は、大迷惑ではあるでしょうが。

【ただいま読書中】『箸(ものと人間の文化史102)』向井由紀子・橋本慶子 著、 法政大学出版局、2001年、3200円(税別)

 世界最古の箸の出土品は、殷墟からの青銅の箸(木の柄)6本(三双)です。状況からは祭祀用具だったとされています。当時の食事は、匙と手が用いられていたようで、食事に箸が使われるようになったのは戦国時代頃と推定されています。(「食指」という単語があることも、食事に指が使われたことの表れではないか、と著者は想像しています)
 日本では、飛鳥板葺宮遺跡(7世紀)から出土した檜の箸が最古のものとされています。藤原京跡や平城京跡からは建築資材の木っ端を利用したと思われる箸が多く出土していて、建築に従事した人たちが使い捨てにしたのではないか、と推測されています。
 福祉用具として箸の根元をつないだ「バネ箸」がありますが、それに似たものもあります。中国の春秋時代の出土品で竹莢(竹の棒を折り曲げたもの)や正倉院の収蔵品の「鉗(かなばさみ)」。ピンセットみたいな感じです。
 餐叉(さんさ)と呼ばれるフォークは中国では紀元前2000年から用いられていました(ちなみにヨーロッパでのフォークの導入は遅くて、イタリアが11~12世紀、英仏はルネサンスより後)。図を見るとほとんど二股です。そこで、餐叉の代用として二本の細い棒を使っているうちにそれを器用に操れるようになったのが「箸」の起源ではないか、が著者の推測です。
 日本では近所で手に入る木は基本的に何でも箸にされました。立木に限らず、廃材や間伐材なども材料に含まれます。ちょっと変ったところで、クロモジの箸。写真を見ると、クロモジの楊枝のロング版です。
 祭器としての箸は、汚れたら二度と使用しないのが、神に対する礼儀でした。また、野山で仕事をする人はその辺の細い枝を切って箸として食事に使い、食後は目立たないところに埋める、という習慣がありました。そういった日本の風土を基盤として割り箸が生まれたようです。決して大量生産大量消費環境破壊のために割り箸が存在しているわけではありません。
 ただ、すべての箸が使い捨てにされていたわけではありません。洗って再利用もありました。ただその場合、素木だと汚れが目立つようになるので、塗り箸が登場したと推測されています。本書では日本各地の塗り箸が紹介されていますが、地域によって本当に特色があります。
 箸の持ち方の所では、手の解剖図まで登場します。
 面白い指摘もあります。ナイフとフォークの文化では両手が塞がります。しかし箸の文化では片手が空きます。そこでその片手を使ってお椀を持ち上げることが可能になります。つまり、お椀は箸によって生みだされた、ということが可能なのです。
 箸のマナーは、江戸時代にはほぼ完成していました。ただこれは、お膳(あるいは卓袱台)では合理的なものだったと言えるでしょうが、今の高いテーブルでは変えていく必要があるかもしれない、という指摘も本書にあります。
 日常的に使っていて特に疑問を持ったこともない「箸」。その、たった二本の棒には、ずいぶん広い世界と深い歴史がありました。


高速道路

2011-06-20 18:41:32 | Weblog

 休日1000円制度の廃止とか、東北地区では被災証明があれば無料になるのに伴って、被災証明の濫発とかはてはネットオークションへの出品まであった、という話を仄聞します。休日1000円の方にはあまり良いアイデアはないのですが、東北地方についてはとりあえず二つ思いつきました。一つは「厳罰化」。公的な被災証明の基準を政府が定めてそれに違反したもの、それと、偽造した証明書で通行しようとする者の厳しい摘発。もう一つのアイデアは「東北地方の“震災通行料特区”化」です。要するに東北地方の高速道路を無差別に無料化。これなら物流や人の流れは順調に行くし、違反者摘発のための手間も省けます。

【ただいま読書中】『世界の涯てまで逃げた男』コリン・マッケンジー 著、 大島良行 訳、 早川書房、1976年、1200円

 学校を卒業して就職したばかりの少女チャーミアンが、通勤の汽車の中で自称セールスマンのロナルド・ビッグズと知り合うところで話が始まります。二人は恋に落ちますが、ビッグズは実はロンドンのギャング団の一員でした。少年時代から日常的に強盗を繰り返すことで生計を立てていたのです。
 たまたま借金の申し込みに行ったことが縁でビッグズは強盗団に誘われます。狙うのは郵便列車にぎっしり積まれた現金袋。スコットランドの銀行が焼却処分にする古い札を(銀行から見たら廃棄物ですから)ろくな警備も付けずに定期的に輸送しているのです。で、深夜に信号を赤にして停車させ、そこに一味が乗り込んで最小限の暴力(できたら暴力なしで脅しだけで)ごっそりいただいちゃおう、という寸法です。分け前として4万ポンドももらえたら一生楽に過ごせる、とビッグズは気楽に参加しますが、奪ったのはトラックに積みきれないほどの量、なんと250万ポンド以上(1963年当時、1ポンドは1000円くらいだったと記憶しています)。ビッグズは15万ポンド以上を受け取り、舞い上がります。しかし司法の追及は厳しく、一味は次々逮捕されます。
 イギリスではちょうど死刑が廃止された時期で、重罪には重罰を、という気運でした。そのためビッグズはなんと30年の刑をくらいます(ついでですが、名義を一味に貸しただけで報酬は500ポンド、という“微罪”の人も25年、はては無実の人まで24年(のちに15年に減刑)という裁判の凄さでした)。ビッグズは怒り、脱走を決意します。
 刑務所からの脱走はまんまと成功。ビッグズはまずパリにわたって顔の整形を受け、オーストラリアを目指します。しばらく一家でそれなりに平穏に暮らしますが、やがてまた警察に追われることに。そこで興味深い現象が起きます。夫と離ればなれになって生活に困ったチャーミアンは、体験談を売りますが、それに対して「犯罪者(の家族)がそれで儲けるのはいかがなものか」という道義的非難が起き、そこで列車強盗の唯一の肉体的被害者(こん棒で頭を殴られた)運転手に対して何の補償もされていないことを誰かが思い出したのです。おかげで3万ポンドの募金運動が起きています。
 ビッグズは単身ブラジルに入ります。オーストラリアでもそうでしたが、子連れの一家で不法入国というのは難しいことなのでしょう。
 著者は「ブラジルにビッグズが」という情報をつかみ、取材班を編成してイギリスからブラジルに出張します。ホテルの部屋で取材中、ドアにノックが。取材班を“囮”として、ロンドン警視庁海外特捜班が押し寄せたのです。逮捕、そしてイギリスへの強制送還となるはずでしたが……当時ブラジルと英国の間には犯罪人引渡協定は結ばれていませんでした。さらに、ブラジルでの愛人は妊娠中。するとブラジルの法律では「ブラジル生まれの人間の親」はブラジルから強制退去させられないのです。かくして話は「外交」へと。さらに、本妻と情婦の間の駆け引きも。著者はそれを“特等席”で眺めることになります。さらには“精霊”まで登場するのですから、話はどんちゃん騒ぎの様相を呈してきます。