【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

読んで字の如し〈木ー2〉「梅」

2011-01-31 18:49:47 | Weblog
「梅田」……大阪市北区にある休耕田を利用した梅園
「塩梅」……岩塩を梅の実の形に彫刻したもの
「梅干し」……梅のドライフルーツ
「梅暦」……梅の開花日予想が書いてある暦
「梅見」……梅を見ること、または、梅に見られること
「梅毒」……青酸
「梅干し婆」……本当に美味しい梅干しも本当に素晴らしい老女も知らない人が言う悪口
「紅梅」……紅い梅
「黄梅」……黄色い梅
「青梅」……青い梅
「寒梅」「氷梅」……冬の梅
「梅雨」……梅と雨は相性がよい
「菜種梅雨」「筍梅雨」「梅雨葵」……梅と雨はいろんなものと相性がよい

【ただいま読書中】『地球人よ、故郷に還れ』ジェイムズ・ブリッシュ 著、 砧一郎 訳、 早川書房、1965年

科学技術の進歩によって「どんなもの」でも地上から宇宙空間に運べるようになった時代、はじめは工場が、やがて都市が地球から脱出し、太陽系外に飛び去ってしまうようになります。地球は淋しい星となります。
以上がただのオープニングの数ページです。
ニュー・ヨーク・シティが地球が飛び立ったのは3111年、地球の主要都市がほとんど去ったあとになってからでした。技術の進歩で人類は長命化が進み、現在の市長アマルフィ(地球生まれ)はすでに600年その地位にあります。
「ニューヨーク」は宇宙を放浪し続けていますが、どこに行っても人類が入植した惑星あるいは放浪都市同士の紛争(戦争)が繰り広げられています。さらにそれを鎮圧しようとする「地球の警察軍」の艦隊も。その隙間を縫うようにして放浪都市は一稼ぎをしては次の目的地に向かうのです。さらに、海賊都市が登場します。交易をメインとする放浪都市が、他の放浪都市や惑星を襲うようになっているのです。
笑っちゃうのは、銀河の共通貨幣が「ゲルマニウム」であることです。本書発表当時はトランジスタが登場して普及を始めた時代でした。だからゲルマニウムということばに特別な“オーラ”があったのです。いやあ、時代を感じますね。
全銀河的な“不況”が襲います。ゲルマニウムは価値を失い、放浪都市は搾取され、団結しようという話が持ち上がります。しかし、どうやって?
20世紀半ばのテイストを色濃く残したSFです。電子計算機には真空管が使われ、超光速で宇宙船は移動します。通信も超光速でタイムラグはありません。銀河系全体が舞台(それどころかお隣の銀河にまで足を伸ばします)ですが、どこに行っても英語が通用します。ただ「古いからダメだ」と言ってしまったら、源氏物語も平家物語も「ダメ」になっちゃうわけで、だからと言って「古き良き」としか言わないのは「物語」ではなくて「発表年代」を読んでいるだけですし……なかなかこういった古い作品を読むのは「読む自分自身」を問われているようで、読んでいてちょっと緊張します。



自殺

2011-01-30 15:03:35 | Weblog
自殺は違法行為ではありません(「自殺を罰する法律」は存在しません)。それなのに「自殺関与ー同意殺人罪」があって、違法ではない行為を他人が助けたら違法行為であると罰せられることになっています。ちょっと不思議。

【ただいま読書中】『十八世紀ヨーロッパ監獄事情』ジョン・ハワード 著、 川北稔・森本真美 訳、 岩波文庫(青465-1)、1994年、602円(税別)

18世紀の囚人は、劣悪な環境に置かれていました。当時のヨーロッパでは、拷問は禁止しようという動きが起こっていましたが、国によってその対応には温度差がありました。したがってまだむち打ちとか鉄鎖や足かせが“現役”で活躍している地域もありました。
監獄には、債務囚も収監されましたし、精神障害者や知的障害者もまた重罪犯とごちゃ混ぜになって収監されていました。イングランドでは、地下牢や窓のない牢獄は換気が悪く、じめじめと寒く(冬も火は入れられません)、掃除はされず、そこに過密状態で押し込まれてろくに食糧や水を与えられない囚人たちはすぐに健康を害しました。あまりの環境のひどさに、視察に入った著者の衣服に悪臭が染み付き、次の目的地に行くのに馬車に乗れず、馬で移動した、ということもあるそうです。
そういった状況に“異議”を唱えたのが、本書の著者です。イングランドはおろか、スコットランドやアイルランド、フランス・オランダ・スペイン・ポルトガル・ドイツ・スイス・オーストリア・ロシア・トルコまで視察旅行を(それも複数回)繰り返し、それぞれの監獄の事情を英国に紹介し、英国の監獄を改善することを訴えます。著者は机上の理想家ではなくて、極めて現実的な社会改善運動家でした。
たとえば著者はドイツではその内部が「清潔」なことに目を丸くします。笑ってしまうのは、「インド」「イギリス」「イタリア」などと名付けられた監房があることです。ここは、品行がよろしくない子供が(親の依頼と裁判官の許可によって)閉じ込められる部屋です。で、親は人に尋ねられると「ちょっとイギリスに行っています」などと堂々と言えるわけ。
オランダでも監獄は清潔でした。さらにベッドや布団などの設備があり、著者は驚きます。イングランドではそんなものを囚人は望めないのですから(金があれば持ち込めますが)。
プロイセンでは、10月なのにもう暖房が入っていてまた著者は驚きます。だってイングランドでは、監房では火は使えないのですから。
イタリアの囚人は、独房にはいるかガレー船の奴隷になるかが選べます。奴隷といえばロシアでは、債務囚も奴隷として扱われますし、監獄の警備は看守ではなくて軍隊が行なっていました(そもそもロシアでは農民は最初から奴隷扱いでしたね)。
スイスでは死刑が盛んに行なわれていました。街道沿いにさらし首の台がずらりで著者は驚きます。スイスでは各領主が死刑の執行権を持っていたのです。
ポルトガルでは、1774年に法によって、債務囚の投獄が禁止されました。著者はそれを高く評価しています。
トルコでは、債務囚は投獄されますが、監獄で重罪犯とはきちんと区別されて扱われます。著者はそれも高く評価しています。
スペインで面白かったのは、壊血病(ビタミンC不足で起きる病気)が「熱帯からやって来た流行病」として扱われ、その原因が「不潔」であるとしてボランティアが清潔なシャツの寄付を行なうとそれに従って病気がなくなった、ということです。シャツと共に食事なども差し入れられていたようですので、おそらくそちらで病気の原因が撲滅されたのでしょうね。
そういえば、フランスの精神病院には、売春婦や乞食も収容されていたんでしたね。「監獄」「犯罪者」「精神病院」……これらのことばは、ちょっと前の世界ではまったく違う概念を含んでいたようです。たかだか200~300年前のことなのにねえ。
著者の活動によって、監獄の環境は少しずつ改善されていきました。看守にも俸給が支払われることが当たり前、となります(それまでのイングランドでは、看守は囚人からの「手数料」で生活をしていました。これが本当の民営刑務所?)。こうして監獄は変化し、それにつれて「囚人」の定義も変化していったのではないでしょうか。その延長上におそらく「現在」があるはずです。


読んで字の如し〈木ー1〉「橋」

2011-01-29 18:01:25 | Weblog
「板橋」……板製の橋
「前橋」……以前ここは橋だった
「永代橋」……壊れてはいけない
「京橋」……京の橋
「日本橋」……江戸と大坂以外の人間にはどちらがどちらかすぐごっちゃになる
「瀬戸大橋」……瀬戸内海全部を覆うくらい大きな橋
「剣橋」……ケンブリッジ
「橋本」……橋に関する書物
「陸橋」……橋の両端は陸にあるのがふつう
「水道橋」……水道管でできた橋
「ラーメン橋」……ラーメンでできた橋
「沈下橋」……上下動ができる橋
「危ない橋を渡る」……板が穴だらけ
「石橋を叩いて渡る」……叩きすぎたら壊れる
「橋がなければ渡られぬ」……大井川の立場がない
「橋渡しをする」……橋なのか渡しなのか、はっきりしてほしい

【ただいま読書中】『青函トンネル ──夢と情熱の軌跡』黒澤典之 著、 日本放送出版協会、1983年、1300円

函館に行ったとき、青函連絡船記念館で洞爺丸遭難のことを詳しく知ることができました。そして、昔から青函トンネルが悲願となっていたことも。
本書はその洞爺丸遭難で始まります。1954年(昭和29年)9月26日台風15号「マリー」は、客貨船の洞爺丸と第11青函丸、貨物船の日高丸・十勝丸・北見丸を沈め、1430人を死亡させました(タイタニックに次ぐ世界海難史上第二の惨事だそうです)。
時はさらに遡ります。戦前の鉄道省には「三ホラ」と呼ばれる奇人がいました。その一人「ホラ弥寿」こと桑原弥寿雄が青函トンネルの“出発点”なのだそうです。桑原は昭和7年東京帝大工学部を卒業して鉄道省に入り新潟で測量をやっていました。昭和13年に中国に出征しますが、徴兵されて工兵部隊に配属されたのではなくて、民間人の修理屋がワンセット丸々国内で徴用されて派遣されて、中国軍に爆破された鉄橋修復作業にあたったもののようです。帰国後「ホラ弥寿」は、朝鮮海峡トンネルを唱えます。東京から関門トンネルを通って、そこから対馬トンネル・朝鮮トンネルで釜山に上陸、モスクワまでつなぎそこに「新幹線(弾丸列車)」を走らせようと。で、北へは青函トンネル・宗谷トンネルで樺太に上陸、間宮海峡は埋め立てて横断、シベリア鉄道に接続するのです。さらにはベーリング海も島伝いにつないで、アメリカとも直結しようという夢です。いやあ、すごい。(ついでですが、関門トンネルは昭和11年着工、下り線は17年6月に完成しています) 戦争中は壱岐海峡の地盤調査を行ない、終戦後にはすぐ北海道に渡って青函トンネルの地表調査を開始しています。昭和44年に調査斜坑工事が行われている最中に桑原は脳溢血でなくなっていますが、トンネル完成を見たかったでしょうねえ。
空襲で青函連絡船が全滅したため、終戦後しばらく北海道は孤立状態となっていました。そこからトンネル計画が浮上しますが、GHQはトンネル計画中止を命令しました(昭和24年)。昭和30年には宇高連絡船の衝突沈没事故(紫雲丸事件)があります。国鉄では海難防止の願いが強まり、国鉄では正式に調査委員会を発足させました。
津軽海峡は、地盤が軟弱なところが多く、さらに深度がありすぎて技術的には海底トンネルを掘ることは不可能に思えました。ところが海底地質図を作っていくと、ちょうど馬の背のように盛り上がった部分が海峡を縦断していることがわかりました。今から2万年前、氷河時代に北海道と本州をつないでいた「津軽陸橋」のあとです。かつてそこをナウマン象が北へ渡っていきました。温暖化によって海底に沈んだその陸橋の下だったらトンネルが掘れるのです。昭和38年、正式に「ゴーサイン」が出ます。
調査坑(のちに先進導坑と改名、完成後は換気や排水に使用)・作業坑(本坑の工事用、完成後は保守点検用)・本坑(鉄道の本トンネル)の同時進行で工事をするのですが、そのどれも大変な苦労の連続でした。工事現場だけではなくて、工事をする人たちの生活(重油や水の確保など)も大変だったのです。トンネルの現場では、そこが海底でも「ヤマ」と呼びます。「ヤマに亀裂が多くなっている」「ヤマに押されて、矢板がギシギシ鳴っている」「ヤマに水がついている」……そして、山鳴り……「水が出た!」。排水ポンプの能力が45トン/分に対して、毎分85トンの出水。トンネル内の水際線がどんどん前進してきます。ポンプ座が水没したら、トンネル全体が水没するでしょう。対策は? はらはらしながら読みますが、もちろん、青函トンネルが完成していることを私たちは知っているから、この異常出水が結局は止まったのは確かなことです。詳しいことは本書をどうぞ。結局作業坑が3015メートル、本坑が1493メートル水没したところで事態は収束しました。関係者は皆はらはらドキドキだったでしょうね。半年後、ポンプは毎分98トンまで増強され、掘削作業が再開されています。
現場で働いていた人も紹介されます。皆が皆トンネルに熱意を燃やして集まったわけではなくて、たまたま漁師をやめてトンネルマンになった人もいます。工事の基地となった町は、一時的な活気に湧きますが、工事が終わるとまた過疎の町に戻ってしまいます。その寂しさも描かれます。トンネルは様々な人生を運びますが、様々な人生を振り回してもいるようです。
本書の最後は、ドーヴァートンネルです。1982年に著者は英仏へ取材に出かけます。まだヨーロッパはEC、飛行機はアンカレッジ経由の時代です。こちらのトンネルはなんと19世紀、検討は1802年に始まり、ナポレオン三世の時代に具体的な計画が練られ、1882年には英仏両方で1マイルずつ調査坑が掘られています。コンクリートで防水する前の時代の話です。ただし、トンネルを通って軍隊が侵攻することを(英仏両方が)恐れて計画は中止。20世紀後半に再開されますがこんどは英国の経済が悪化して中止。著者の訪欧は、ちょうどまた計画が再燃していた時期でした。なんとも息が長い話です。
丹念に取材をして構成された本です。ただ、残念ながら“料理”があまりされていません。“材料”の味をそのまま味わうのならそれで良いのですが、もうちょっと美味しくできたのではないか、という点が残念です。



ルール

2011-01-28 17:20:25 | Weblog

人類を以下の4種類に分類するものです。
0)作る人
1)守る人
2)破る人
3)曲げる人

なお、作る人が守る人と一致するとは限りません。

【ただいま読書中】『レジ待ちの行列、進むのが早いのはどちらか』内藤誼人 著、 幻冬舎、2009年、1100円(税別)

日常生活に心理学をどう応用するか、という一種のクイズ本ですが、ちょっと文字では紹介しづらい。イラストが二つ(あるいは三つ)描かれていて「○○なのはどれでしょう?」という文章からそのイラストを観察して読者は正解と思うものを選択。するとその裏ページに解説が書かれている、という体裁です。
ただ、本書の特徴と言えそうなのは、エビデンス(根拠)が示されていること。著者の個人的体験とか思いこみによる“判定”ではなくて(たまに個人的なものも“味付け”として混ぜられていますが)、基本的に心理学教室の調査とかアンケートとか、そういったものから「こちらが正解である確率が高い」と述べられています。
設問はたとえばこんなのです。「会話中考え込んだときに視線を右に走らせる人と左に走らせる人、どちらが社交的か?」「ジョギングをしてダイエット効果が出るのは、人通りの多い公園脇か人のいない通りか?」「サッカーのPK戦、右と左、どちらに蹴るべきか?」「愛想笑いをしているのはどちらか?」「オリンピックのメダリスト三人、幸福感が強い順番は?」「彼氏がいるのに簡単に浮気をする女性はどちらか?」「どちらの男性がセックスのテクニシャンか?」
以上はほんの一例です。よくもまあこれだけいろんな質問を思いつけたものだ、というか、よくもまあこれだけいろんな調査が世界では行なわれているもんだ、と感心します。
「世界をもっとしっかり観察しろ」という主張が本書の背筋となっています。で、心理学的に正しいかどうかは別として、読者がこれまで漠然と見逃していたものをしっかり観察するようになれば、それは本書の“効能”と言えるでしょう。あくまで「その人の心を読む」のではなくて「統計学的に考える」レベルではありますが、こうやって世界に関与しようとする姿勢を見せること自体が、たぶんその人がその世界で生きやすくなる助けにはなるのではないか、と思えます。


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未来への希望

2011-01-27 18:36:33 | Weblog
私と同年代の人間と話をしていて「最近の子供は元気がない。俺たちの時には日が暮れるまで外で遊んでいた」「21世紀には明るい未来があると信じていた」なんて話題になって、「なまじっか先が見えることが“時代の閉塞感”を生みだして、若い人の元気を奪っているのではないか」という結論になってしまうことがあります。
たしかに高度成長期には、大人も子供も“元気”だったような気はします。だけど、もっと昔、たとえば江戸時代はどうでしょう。身分制度に縛られて、農民に生まれたら農民になる、という“先”は誰にも見えていました。だけどだからといって皆がしょぼんと生きていたかといったらそうでもなかったように思えます。
「元気に生きている」というイメージは、もしかしたら「先が見える」こととは関係ないのかもしれません。では何が関係しているのかと言えば、まだそれは思いつかないのですが。

【ただいま読書中】『都市』クリフォード・D・シマック 著、 林克己・他 訳、 早川書房、1960年

「これは、火があかあかと燃え、北風が吹きすさぶとき、犬の物語る話の数々です。どこの家庭でも、みんな炉ばたにつどい、子犬たちは黙々と坐って、話に耳をかたむけ、話が終わるといろいろな質問をします。たとえば「人間ってなあに?」とか、「都市ってなあに?」とか、「戦争ってなあに?」と、いう風に。」
とても魅力的なオープニングです。本書は8つの話(伝説、または神話)で成り立っていますが、どうやら「人間」が犬と一緒に暮らしていたときにまでその起源はたどれるようなのです。ただし、「人間」が実際に存在していたとして、ですが。
第1話「都市」:農業は工場で行なわれるようになって広大な農地が空き、原子力ヘリコプターが普及して通勤距離が意味を失ったとき、都市の住民はどんどん田舎へ脱出し始めました。残されたのは“空き家”となった都市。そこから離れることができない少数の人たち。そして、そういった都市に流れ込んでくる訳ありの人たち。治安は悪化し、解決策として所有者のいない空き家を破壊することが決定されますが……
第2話「密集地」:人が都市を葬ってから2世紀、地球に住むウエブスターは、自分が広場恐怖症であることに気づきました。自分だけの快適な生活の場から離れることができないのです。しかし、どうしても火星に行かなければならない突発事が出来します。ウエブスターは必死に自分を説得します。しかし執事ロボットのジェンキンズは……
第3話「人口調査」:ここで初めて「犬」が話に登場します。第1話から登場している「ウエブスター家」の人と第2話からのロボットのジェンキンズも。この両者がバラバラになりそうな物語を結合させていますが、ここで私は手塚治虫の『火の鳥』を思います。あちらも共通キャラクターを使うことで物語に芯を通していたなあ、と。
やや複雑な構成の物語です。単純に見れば、未来史の短篇集なのですが、それを「犬の視点」から、それも超未来から見直すことで、著者は話をややこしくしているのです。ここには「人類の運命」が描かれていますが、それをあくまで「人類の視点」から見ようとする読者を「犬の視点」が軽く翻弄してくれます。ついでに言うと、本書でつけられている「(犬の視点からの)解説」には、そのまま人間の神話に対する「(人間の視点からの)解説」に流用できそうな部分があります。犬が人を神だとするのなら、人が今神としてあがめている存在は果たして“現実”には何だったのかな、なんてことまで思ってしまいます。
第4話で舞台は木星に飛びますが、第5話ではまた地球に戻り、「ウエブスター」(の子孫)とジェンキンズ(もう寿命が10世紀)が再登場します。地球は、人類とミュータントと犬の世界となっていました。そこに木星からの報せがやってきて……
地球からはついに人類はほとんど姿を消します。残されたのは、少数のミュータントとジュネーブのほんの少数(約5000人)の人類、そして多数の犬(や支援ロボット、狼など)。ただ、犬たちはまだ人類の思い出を抱き、子犬たちに語り継いでいました。それがやがて伝説や神話となっていきます。
もちろん犬が人間のことばを話す必要はありませんし、人間の論理を使う必要もありません。ただ、「犬の視点」という着想の奇抜さと素晴らしさ。宇宙の広さや神話の構造にまで深く思索を及ぼすのも良いですし、単に犬になったつもりで楽しい伝説を聞かせてもらうのでもよいでしょう。よいSFはいろんな楽しみかたができるから、好きです。



雪道

2011-01-26 18:39:22 | Weblog
私はかつて、雪が多い地域に住んでいたことがあって、雪道の運転はそこで覚えたので地元の人からは「下手くそ」扱いでした。それはそうです。山道のきついコーナーで後輪を滑らして逆ハンを当ててすぱっと回る、なんて芸当はできませんでしたから。いや、ラリーの話じゃないです。雪が積もったときに、そのへんのおばちゃんが平気でそんな運転をしていたのです。もしかしたら、オーバースピードで突っこんでしまって慌てて逆ハン、だったのかもしれませんが、少なくとも走行ラインはばっちりでした。
ところが現在の温暖地(雪が降るのは年に数回)に住んでいると、回りの人があまりに雪道の運転が下手なのに、参ってしまいます。いや、技術以前に心構えがダメダメ。たとえば「四駆だから安全」とか言って四輪ノーマルタイヤで横滑りしている姿を見ると、頭が痛くなります。路面が、ドライ・ウエット・凍結・積雪おかまいなしに同じスピードを出そうとする車を見ると、胃が痛くなります。まあ、“経験不足”“練習不足”だから仕方ないとは言えるでしょうが、雪が降ったら(降りそうだったら)せめてタイヤは冬用にして欲しいなあ。

【ただいま読書中】『深海の人びと ──ノーチラス号の冒険(3)』ヴォルフガング・ホールバイン 著、 平井吉夫 訳、 創元社、2006年、952円(税別)

ノーチラス号は1週間も激しい嵐につきまとわれ、さらに巨大なクラゲに包まれて海底に運ばれてしまいます。場所は、バミューダ・トライアングル。
深海の底には「町」がありました。拉致されてきた様々な年代の船が多数、そして、それに乗り組んでいた人びとの末裔も。
アトランティス人の末裔、セレナは宣言します。ノーチラス号は「わたしの船」だと。たしかに海底の町はアトランティス人が作ったもので、その証拠の石碑も残されています。そして、その中にはノーチラス号とセレナの姿も刻まれていました。
入り江を挟んで町の反対側には「魚人」が住んでいました。かつては人類と戦争をしていたけれど、最近は平和共存をしていたのですが、また戦争の火種が。セレナはその火種を大きくしようとします。セレナに恋をしているマイクは平和を望み、苦しみます。困ったことにアトランティス人は読心能力や(たとえば天候を操る)魔力を持っているのです。しかも相手は王族。誇りの塊で、「劣等人種」の言うことを素直に聞くわけがありません。
マイクたちはノーチラス号でこっそり逃げだそうとしますがセレナに気取られて失敗。しかしその夜、魚人の一隊が町を襲い、待ちの有力者の娘(とそこに居合わせたノーチラス号の仲間アンドレ)を攫っていきます。
皮肉屋のベンに磨きがかかり、マイクが何か言うたびに皮肉が返ってきて私をイライラさせます。さらに、わからんちんでしかも強大な力を持つセレナ。マイクはやられっぱなしです。しかし、マイクは走ります。猫と一緒に魚人の本拠地に乗り込み、そこで驚くべき真相を知ります。それは、アトランティス人の魔力についての真実であり、戦争を止める切り札でもありました。
いやもう、はらはらどきどきの展開です。「信じないぞ」と絶叫しながら事態を解決するために走り回るマイク、頑ななベン、人をからかって喜ぶ猫のアスタロス、楽しいキャラクター満載のこのシリーズ、ここから何処へ(潜って)行くのでしょう?
……しかし、「青ざめた黒猫」って、いったいどんなものなんでしょう?



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j-pop

2011-01-25 18:45:12 | Weblog
テレビの音楽番組で、J-POPトップ100なんて長い長いのをやってました。ながらで流していたら、歌手が「J」でない人がけっこう混じってます。なんだか大相撲で外人力士を見るような気分でした。もちろん日本人歌手も多くいます。ちょっと多すぎると思ったのがAKB48。いや、歌手の数も多いけれど、ランクインした歌の数もやたら多いのです。ピンクレディー全盛期でもここまで多くの曲がヒットチャート上位にずらりとならんでましたっけ? ただ、ピンクレディーの歌は30年以上経った今でもわかりますが、AKB48の歌は、30年後にどのくらい生き残っているのかな?

【ただいま読書中】『バビロニア都市民の生活』ステファニー・ダリー 著、 大津忠彦・下釜和也 訳、 同成社、2010年、2800円(税別)

時は紀元前19世紀、北西メソポタミアに小王国マリとカラナがありました。ハンムラビ王に征服される前の一時期、そこに残された史料を読み解いた記録が本書です。
紀元前3500年頃メソポタミアに都市文明が起きました。奢侈品は何も産しない土地のため、交易が盛んとなります。文明は栄え、動乱によって群雄割拠の乱世となりますが、交易は続けられました。そして古バビロニア時代(前2081~前1576)。青銅器に重要な錫は、比較的希少で、東方からもたらされました。交易ルートは、河川と砂漠の道。マリはこの砂漠の道とユーフラテス川が交差する重要な地点に位置して、栄えていました。
マリの発掘で2万枚以上の粘土板が発見されました。使われている言語はアッカド語(セム語系で唯一左から右へ書くことば)。マリには、ヤハドゥン・リムという強大な王がいましたが、スム・ヤマムという男に王位を簒奪され、さらにアッシリア人が征服・支配をします。アッシリア帝国が崩壊し始めて、ヤハドゥン・リムの息子ジムリ・リムが亡命先(おそらく大ヤムハド王国)から王として帰還します。しかしジムリ・リムは「マリ最後の王」でした。出土した粘土板の多くは、ジムリ・リム治世下のものです。
バビロンのハンムラビ王(前1848-1806)は、ジムリ・リムと書簡のやり取りをしていました。はじめは目立たない存在だった二人ですが、やがてメソポタミアの二大勢力となっていき、衝突。結局マリはハンムラビによって滅ぼされます。
当時の王族の手紙は面白い形式になっています。たとえばイルタニ妃にその兄弟からの手紙は「イルタニに伝えよ。ナプスナ・アッドゥはこう申すと。シャマシュ神とマルドゥク神が貴女に長寿を賜りますように。貴女は私の体の調子を尋ねてきましたが、私はこの通り健康にしております……」となっていて、つまり当時の王族にとって手紙は「誰かが読んで聞かせてくれるもの」だったんですね。
貴重な輸入品である木材についての記録も豊富です。王宮の高級材で拵えた扉や家具、武器、木炭など当時の王宮での生活が見えてきます。金属について記録が豊富に残されています。金銀細工師はクティンムムと呼ばれ、銅細工師のクルクッルムとは区別されていました。現物が残っていない動物型の容器(金製や銀製)についても、文字による記録が残されています。もっとも普及していたはずの青銅器については記録があまり残っていません。あまりに「実用のもの」だったので、わざわざ記録をしなかったのかもしれません。青銅に重要な錫の産地はまだ不明で、しかも錫をしめす「アンナークム」という単語が、他の史料では「鉛」を指し、さらに後期青銅器時代には、錫に加えて鉛も銅との合金に利用されています。なんだか、ことばも実物も複雑です。鉄の存在は知られていましたが、まだ飾りに少しだけ用いられるだけでした。
小王国では食糧は基本的に自給自足です。しかし食事の内容は粗末なものではありませんでした。本書に紹介されている「メニュー」では、パンだけでも3種類(小麦、ブッルム殻、大麦)が上げられています。ひよこ豆も潰してナガップムという一種のパンにされましたが、これは貧乏人の主食だったようです。最高級の牛は大麦で飼育されました(もちろん宗教儀礼用ですが、途中で病気になったり儀礼後は人間の腹に収まったはずです)。タンパク源としては、羊・野兎・羚羊(ガゼル)・野鳥・イナゴ・魚介類…… 香辛料は、コリアンダー・クミン・コロハ・サフランアンミ(ミントの一種)・クローブ…… 詳しいレシピは残っていませんが、「ナツメヤシの実120リットルとピスタチオ10リットルで「メスルム」ケーキができる」そうです。どんな味だったんでしょうねえ。
食事を供するのにはお盆が使われましたが、普通は木製・裕福だと象眼したもの・王侯は貴金属製のお盆でした。匙も木製ですが、王は象牙の匙を使っていたようです。
マリとカラナで最も好まれた飲料はビール、次いでワインでした。国王は氷室を作って夏には氷で冷やした飲み物も飲んでいました。(日本は縄文時代ですよ)
私的な書簡も多く残されていますが、そこからは当時の女性の生活(女性の地位、ファッション、マナーなど)が生き生きと再現されます。ビジネス・ウーマンもいます。宮廷の厨房の責任者は女性で、王が変わっても重用されましたが、前の王への忠節を示す印章を使い続けたことがわかっています。王妃も、王の不在時には代官として都を治めました。ハーレムはなかったようです。
神への供え物の記録も詳細です(そういえば、殷の甲骨文字でも、先祖供養に関する記録がとても多かったはず)。占いは「肝臓占い」です。犠牲の動物を屠って、その肝臓や肺臓の形から専門の神官が神意を占うものです。
戦争、外交、婚姻、輸送、牧畜……様々な話題が登場します。すべて粘土板に文字で書かれているのです。ペットか猟犬かはわかりませんが犬も飼われていました。鷹狩りも行なわれています。そして、馬も家畜として飼われていました。ただ、調教がまだ未熟だったのか、王が乗るのは馬がひく車ではなくてラバがひく車であるべき、という文書があるそうです。
小さな本ですが、隅々まで楽しさが充満しています。古代文明の生活臭を嗅ぎたい人には強くオススメします。


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実名

2011-01-24 18:53:08 | Weblog
フェイスブックは実名主義だが、日本では匿名の方が人気があるから流行らない、と聞くと私は不思議な気分になります。私は今でこそ「おかだ」という匿名ですが、そもそも育ったのはNiftyServeの実名主義のフォーラムだったものですから。実名主義の所でネットリテラシーを育ててもらって匿名OKのフォーラムにもどんどん進出しましたが、あの頃、実名だからこそのメリットって何があったかなあ。実名でもいい加減な人もいたしハンドルで凄い人もいたし。
そういえば、ネットなどでのハンドル否定派(実名主義)の人たちは、その根拠に「実名でない人間の発言は無責任でいい加減」というのを上げることが多いようです。ということは、選挙の時に選挙ポスターに「実名」ではない表記を(たとえば「有権者は漢字の読み書きができないだろう」といわんばかりに、ひらかなで名前を表記)している人の言動は、きっと無責任でいい加減なのでしょうね。

【ただいま読書中】『グレイ解剖学の誕生 ──二人のヘンリーの1858年』ルース・リチャードソン 著、 矢野真千子 訳、 東洋書林、2010年、3200円(税別)

ヴィクトリア時代のロンドン、ワトソン博士がシャーロック・ホームズと出会う前。ヘンリー・グレイという新進の外科医・解剖学者が、出版社から解剖学教科書執筆の依頼を受けました。これまでにない素晴らしい教科書を作り出そうと努力が始まります。グレイは、自分と同じく学生に解剖学を教えていたヘンリー・ヴァンダイク・カーターの画才に注目して、挿絵を依頼します。ただし二人の関係はぎくしゃくしていました。グレイは論文で次々賞を受けており、これからも出世街道を驀進する気満々で、カーターが注目されることを(意識的にか無意識にか)妨害したのです。それでも「これまでにない良いものを生みだしたい」点で二人は一致します。
二人は多忙な日常業務(二人とも講師、グレイは検死室や解剖学博物館の管理、カーターは医学博士号試験の準備も)の合間に、膨大な作業をこなしていきます。カーターから見たら「よい挿絵がなければ、それはよい解剖学教科書ではない」、したがって自分はグレイの共同作業者でした。ところがグレイは、共同作業は「自分がリーダー、他の人間は助手(雇用人)」と捉えていたフシがあります(実際にそれまでの論文執筆も、そのような“共同作業”で行なわれていました)。みごとなすれ違いです。特にカーターは生活が苦しかったので、ますます胸の中に貯まるものが多かったことでしょう。
さて、いよいよ文字原稿と版画が揃い印刷開始、というときになって大トラブルが発生。版画のサイズが大きすぎたのです。今だったらマウス操作でちょいと縮小、でしょうが、ツゲの版木に彫った図版はそんな扱いができません。このときの、出版社・彫り師・印刷業者などの描写はリアルです。下手すれば連鎖倒産ですから、皆必死です。そこで採られた対策は、木版画ならではのものでした。
1858年に出版された『グレイの解剖学』は、医学界に新しい風を吹かせました。最新の情報が十分にしかし簡潔にまとめられ、使いやすい大きさで、しかも美しい。さらに、外科解剖学も述べられています(つまり、この本を読んだら手術ができるようになるのです)。各種の書評は好意的で、たちまちベストセラー。しかし、グレイは「すべては自分の手柄」としようとして、出典や参考文献を明記しておらず、そこを権威ある医学雑誌「メディカル・タイムズ」の書評でけちょんけちょんにけなされます。
カーターは、ロンドンでの生活に失望し、インドに旅立ちます。ボンベイのグラント医科大学解剖学の教授として。そこで不幸な結婚(と離婚)をしますが。それは医学に集中する原動力でもありました。
グレイは1861年に天然痘で夭折しました。しかし「グレイの解剖学」は生きのびました。標準教科書となり、優れた編集者が次々と跡を継いで版を重ねます。本書の原書出版時(2008年)の最新版は2005年版。まだまだ“現役”なのです。
カーターは、インドで30年過ごし、さまざまな風土病を研究して業績をあげました。英国に帰ってなくなったのは1897年のことです。そして、最近になって、彼の名前がきちんと取り上げられるようになりました。「絵のない絵本」はありますが、「画のない解剖書」はないですよねえ。まして、医学生が学びやすいように工夫されたオリジナリティに溢れる迫力あるスケッチがたっぷり含まれた解剖書なのですから、そこで画家を不当に扱うのは学問そのものに対する冒瀆に思えます。これは、19世紀の物語ですが、もしかしたら現代でも似たことはあるのではないかな。



エデンの東

2011-01-23 17:28:42 | Weblog
「エデンの東」と聞いたら、「ジェームズ・ディーン」と答えるのが普通の反応でしょうが、「カインが追放された地」と答えるのがユダヤ教徒やキリスト教徒には“正しい”態度でしょう。アダムとイヴがエデンの園から追放された後に生まれた二人の息子、アベルとカインが兄弟喧嘩をしてカインがアベルを殺してしまい、その結果神にカインがそちらに追放された、という“故事”があるからです。
だけど私が連想するのは、おそらくこの「エデンの東」を下敷きにしているであろう「スエズの東でわれらが神の直接統治は終わる」ということばです。大英帝国の人間には「神の統治範囲」は意外に小さいものだったのかな。

【ただいま読書中】『エデンの東(下)』ジョン・スタインベック 著、 土屋政雄 訳、 早川書房、2005年、2300円(税別)

双子には、聖書から取った名前、アロンとケイレブ(愛称はキャル)がそれぞれ与えられました。二人は母を知らずに育ちます。まるで、アダムとチャールズの愛憎劇の“変奏曲”を奏でるかのように。そこにアブラという可愛い少女が登場。
アダムと双子を捨てたキャシーは、近くの街で娼館を経営していました。それを知ったアダムはサミュエルの葬式の帰りに娼館に立ち寄り、キャシーが本当はどんな人間であるのか、初めて知ります。しかし、アダムはその衝撃に耐える強さも手に入れていました。二人は後日、また会うことになります。その出会いで衝撃を受けたのは、こんどはキャシーの方でした。その日アダムは、アーネスト・スタインベックの家を訪れます。本書の著者の生家です。そこで子供のジョン(著者本人)が登場するのには、アダムとキャシーの出会いという厳しいシーンの直後だけに、ほっとします。
サミュエルの死以後、ハミルトン一家は次々と個別の不幸に見舞われます。一族の長が死ぬことで一族がばらばらになり弱くなったかのように。しかし読者はそれを見つめ続けるしかありません。
アダムは双子(とリー)をつれて街に引っ越します。ハイスクールでアロンはアブラと婚約。しかし、母の影と父の事業の失敗がアロンを追いつめます。そしてキャルは……キャルもまた苦しんでいます。アロンへの愛憎、父への複雑な感情、そしてアブラを求める気持ちが彼を引き裂くのです。
読者は「ああ、まただ」と呟きます。兄(アダム、アロン)は自分が愛されていることには無頓着で、自分が愛している女(たぶん(不在の)母親)の上にまるで仮面のように自分が愛していると思っている女(キャシー、アブラ)を張りつけています。弟(チャールズ、キャル)は父の愛を渇望し兄に嫉妬し、兄の妻(恋人)に対して複雑な愛情を抱いています。主題と変奏か、と私は呟きます。ただ、まったく同じことの繰り返しではありません。19世紀と20世紀、馬車と自動車、南北戦争と第一次世界大戦の違いがあります。……いや、本質的には違いはないのかもしれませんが。
賢人役をずっとやっている(あるいは「振りを続けている」のかもしれない)リーは、キャルに説きます。「父上は無理だが、坊ちゃんは“選択”ができる」と。繰り返し説きます。そして、リーの「選択」に対しての回答は「ティムシェル」汝能ふ。そのことばの重さと、示される未来のビジョンに、私の心は揺れます。そう、未来は“選択”できるのです。人間には、その能力があるのです。
本の分厚さやそこで扱われるテーマの重さにもかかわらず、とても読みやすい本です。原文と翻訳と、両方が絶妙なのでしょう。なにか分厚くて面白い本が読みたい人は、ぜひご一読を。



県庁所在地

2011-01-22 17:43:30 | Weblog
都知事と呼ばれたい府知事さんがいるようですが、たしかに大阪府と大阪市は行政的には重複に思えます。それと同様のことは、県庁所在地が政令指定都市になっているどの県にも言えそうです。
ところで、独立した行政区画である政令指定都市に都道府県庁を置く意味って、何でしょう? 別に“そこ”でなければいけない理由ってありませんよね。いっそ、その都道府県の(地理的)真ん中に庁を置いたら、政令都市“以外”のところに目配りが隅々まで届いてよいかもしれません。あくまで県庁であって、政令市の市役所ではないのですから。
そういえば、ニューヨーク州の州都が、ニューヨーク市ではなくて、人口10万のオールバニだって、皆さんご存じでした?(私は最近まで知りませんでした)

【ただいま読書中】『エデンの東(上)』ジョン・スタインベック 著、 土屋政雄 訳、 早川書房、2005年、2300円(税別)

北カリフォルニアのサリーナス盆地。豊かで、しかし厳しい土地。
アダム・トラスクは、南北戦争で片足を失ったが豊かな農場主サイラスの息子。サイラスはアダムを支配していると考えていますが、アダムの方では父親が実は“小者”でしかないことを見抜いています。アダムの異母弟チャールズは、“危険”な男で、アダムに愛憎両方の感情を抱いています。というか、サイラスの妻アリスを含めて、この一家に単純な感情で動いている人など一人もいないのですが。アダムはサイラスの意向で騎兵隊に入り、チャールズは父と兄への愛憎の板挟みのまま農場暮らしを続けます。サイラスは上院議員になり、アダムは10年の軍隊生活の後浮浪者になります。
アイルランドから妻と共にやってきたサミュエル・ハミルトンは、厳しい土地しか手に入れられなかった貧しい農民です。有能で教養があり読書好きという“変わり者”。ハミルトン自身だけではなくて、その4人の息子もまた変わった人材の宝庫といった感じです。娘は5人、そしてその内の一人がこの物語の語り手(おそらく著者自身)の母親となります。
そして、キャシー。あどけない顔つき、華奢な体型、違和感、天性の嘘つき。売春宿の元締めエドワーズ氏が、キャシーをトラスク家(とハミルトン家)に結びつけます。アダムはキャシーに惚れ込み、チャールズはキャシーに自分と同じ悪徳の匂いを嗅ぎつけます。そして、結婚。
アダムはキャシーを伴い、カリフォルニアはサリーナス盆地に移住します。そこでサミュエルと出会い、井戸掘りを依頼。上巻も半分を過ぎてからついに「エデン」が登場します。「僕はこの土地に楽園を造りたいんですよ。僕の名前はアダム」と。ということは、そこには「イブ」も「蛇」も「リンゴの木」も存在することになるのですが……
ここでまた魅力的な人物が登場します。ハミルトン家に雇われた中国人召使いのリーです。大学まで出ているのに、ピジン英語や辮髪でアホな中国人の“偽装”をしているのですが、この人の世界の見方がすごい。もしかしたら著者は「自分自身」をこのリーに投影しているのではないか、とも思えます。
キャシーは堕胎に失敗し、双子を生みます。「子供は欲しくない、カリフォルニアにはいたくない」と言いながら。そして出産直後、失踪。(ところでこの双子の父親は、アダムなんでしょうか) “抜け殻”となったアダムにサミュエルは忠告します。「生きている振りを続けろ」と。さらにサミュエルは、強引にアダムを“この世”に連れ戻します。本巻の最後、双子に名前をつけるために集まったサミュエル・アダム・リーの三者の会話は「人類不変(あるいは普遍)の物語」(人間の魂の象徴)について、人の心の深いところをえぐるものになっています。人類や親子についての思索を読者に強制して、下巻に続く。