【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

似たタイプ

2019-07-31 07:05:38 | Weblog

  今日の本で、著者が会ったフーヴァーFBI長官の歪んだ価値観や押しつけがましく現実よりも自分の思いを重視する態度や強圧的な話しぶりの描写から私が連想したのは、トランプ大統領の言動でした。アメリカでは“そういう人"が出世しやすいのかもしれません。

【ただいま読書中】『スパイ カウンタースパイ ──第二次世界大戦の陰で』ドゥシェコ・ポポフ 著、 関口英男 訳、 早川書房、1976年、1300円

 ユーゴスラビアで弁護士をしていた著者は、反ナチスの信条をうまく隠蔽してドイツ情報部に潜り込んだ親友から諜報の世界に誘われました。ナチスは、イギリスの上流階級で自由に動けるスパイを欲しがっていたのです。話を受けた著者は、その足でベオグラードのイギリス大使館に向かいます。連合国のためにスパイをしよう、という申し出と共に。
 これはいわゆる「二重スパイ」です。ドイツのために働いているふりをしているイギリスのスパイ、ですから
だけど著者にとっては、「反ナチス」の人間が、なぜかドイツからスパイにならないかという申し出があったのを「反ナチス」の活動のために使う、という“言動一致"の行動だったのでしょう。
 ただこうなると「誰が本当の味方か」が非常に重要な問題になります。自分だけではなくて、家族や友人の安全や生命までかかっていますので。そこで「信頼できるかどうかの判断」が重要です。「誰も信じられない」スパイが活動をするためには「信頼」が重要、というのは、なかなか皮肉な状況です。
 著者はイギリスに「ドイツのスパイ網」を構築します。イギリス情報部の協力があるのですからそれほどの苦労はありませんが、ドイツ情報部(のナチス信奉者)に怪しまれないためには細心の注意が必要です。ドイツはイギリス国内でのスパイへの支払いに苦労していましたが(戦時ですから金を持ち込むのは大変です。だけど支払いが遅れたら、金目当てのスパイは簡単に裏切ってしまうでしょう)、著者はそれも解決してみせます(「ミダス計画」と呼ばれますが、“受付"はもちろんイギリス情報部員でした)。ともかくドイツは「こいつはとんだ拾い物だった」と著者に絶大の信頼を寄せるようになり、アメリカでのスパイ網構築というビッグプロジェクトを命じます。そこで著者は、ドイツから見たら「ユーゴスラヴィア情報省代表」として、連合国側からは英軍情報部将校としてアメリカに出向してFBIの傘下にはいることになります。話がややこしくなります。いくら写真的に完璧な記憶力があるにしても、話にぼろが出ないようにするのは大変でしょう。
 ドイツ経由で著者は「日本がタラント奇襲について詳しい情報を欲しがっていること」を知ります。イギリス空母イラストリアスから発進した航空機部隊によるイタリア艦隊への奇襲攻撃(それも大成功に終わったもの)ですが、もちろんこれは真珠湾攻撃のために欲しい情報だったわけです。さらに著者はドイツ情報部がなぜかハワイの真珠湾の弾薬庫などの配置情報を求めていることを知ります。ドイツがそんなところに興味を持つ理由は?
 アメリカに出発する前、著者は「マイクロドット」を知ったスパイ第一号になります。これは、書類などを顕微鏡写真として小さなそばかす程度の「点」にまで縮小させる最新技術で、スパイが情報伝達をするのが画期的に楽になるのです。「それ」があることを知らなければ、見つけることもできません。もちろんこの「情報」そのものが、連合国情報部にはとても重要なものでした。
 著者がアメリカに出発する直前の数日、イアン・フレミング(「007」の作者ですが、当時は海軍情報部所属)が著者を尾行していました。尾行ではなくて護衛だったのかもしれませんが。そこで見せた著者の「プレイボーイぶり」「酒の飲みっぷり」「ギャンブルのぶっとんだ感覚」などがのちに「007」の人物造形に影響を与えたのかもしれません。
 アメリカに到着した直後、著者は日本が真珠湾奇襲を企図していることをFBIに伝えます。しかし彼らは信じません。リヒャルト・ゾルゲが「ドイツにはソ連侵攻の計画あり」を打電したのにスターリンがそれを信じなかったことを思い出します。情報が欲しいからこそスパイを派遣するのに、「どうせスパイだから嘘だらけだ」とそのスパイの言葉が信じられないと情報を無視するとはねえ。おっと、陰謀論に従えば、アメリカは「真珠湾攻撃」情報を信じたのかもしれません。そして、その上で敢えて情報を放置した、という可能性もあります。ただこの陰謀論の致命的な弱点は「無防備ではなくて、ちゃんと備えて日本軍に反撃をして撃退しても、アメリカ国民の結束などの効果は同じように得られた」点です(このことは著者も指摘しています)。そこから著者はおそろしい推論に至ります。私もこの推論に反対はしません。それにしても「自分の権力」に執着するあまり、周囲に大きな損害を与えても恬として恥じない、というのは、おそろしいものです。



水に親しむ

2019-07-30 07:25:05 | Weblog

 私は子供時代、遊び場に「近くの川」が含まれていました。ふらっと行って適当に遊んで帰る場所です。ところが現在そこは勝手に降りてはいけない場所になり、子供たちは「親水公園」で遊んでいます(というか、遊んでいません。子供の姿は見えません)。普段から付き合っていないと、川の楽しさも、川の危なさも、わからないまま育ってしまうのではないかなあ。

【ただいま読書中】『都市と堤防 ──水辺の暮らしを守るまちづくり』難波匡甫 著、 水曜社、2017年、2500円(税別)

 「水害」は「洪水」「高潮」「津波」などによって起きますが、それぞれが違う現象で、したがって対策もそれぞれちがう思想と技術が必要になります。堯舜禹の伝説にあるように、古代中国では名君の絶対条件は「治水に成功すること」でした。そしてその条件は、大きな川沿いにある国(都市)の為政者にとっても同じことだったでしょう。しかし中世まで、人は基本的に「水のなすがまま」状態でした。
 江戸時代、治水目的で「提」があちこちで構築されます。また、船運のために川や運河の利用も活発にされるようになりました。また、船を用いての神事も各地で盛んに行われました。ただ、鉄道の普及で船による運送は衰退、高い防潮堤の建設で水辺の神事は住居地との一体感を失います。
 地盤沈下が問題視されるようになったのは、明治末頃からです。臨海部を工業地帯として整備、地下水を無制限に汲み上げた結果、地盤はずぶずぶと沈下し始めました。明治25年ころから東京市は水準測量を開始、問題を把握しましたが、それが顕在化したのは大正12年の関東大震災前後の測量で、江東デルタ地帯の異常沈下が指摘されたときでした。ところが工業用水は絶対必要。そのため地下水汲み上げは中止されず、地盤沈下は継続することになります。東京市以外の各都市でも同じ現象が見られ、どこでも高潮対策が急務となりました。そういえば高度成長期の少し前、「江東区などのゼロメートル地帯」の問題が新聞やテレビで取り上げられていたのを小学生だった私は見た覚えがあります。社会科で「輪中」について習った後だったで、印象深かったのです。
 高潮対策は、戦時中は中断していました。戦後すぐも経済成長が鈍かったため地盤沈下は生じません。高度成長期にまた再燃。当たり前ですね。工業用水をまたぞろがんがん汲み上げたのですから。カスリーン台風などによる高潮でひどい目に遭った記憶は、すぐに薄れていたようです。ただ、巨大な水害による首都機能の停止、莫大な損害、住民訴訟の怖れ、などから、行政は本腰を入れ始めます。ところが、せっかく巨大な防潮堤を作ってもそのすぐ外側に埋め立てが始まって、防潮堤が交通を阻害するようになったり、なんだかちぐはぐです。
 東京では「高潮で一滴の浸水も許さない」ですが、ニューヨークやヴェネツィアでは「高潮による浸水は許す」態度で対策が立てられているそうです。ただ、海面上昇もあって、いつまで「許す」と言えるかはわかりません。といって、日本全土を巨大な防潮堤で完全に取り囲むのは非現実的。さて、どのへんが落としどころなんでしょうねえ。



戦争と平和

2019-07-29 07:24:37 | Weblog

 「よい戦争」「必要な戦争」って、どんなものでしたっけ?
 武器の平和利用って、どんなものがありましたっけ?

【ただいま読書中】『航空機透視図百科図鑑 ──機体・兵装・戦術』ドナルド・ナイボール 著、 村上和久 訳、 原書房、2018年、8000円(税別)

 第二次世界大戦は「大量生産」の戦争でした。連合軍はたとえばアメリカで製造された飛行機をイギリス人が飛ばす、ということもやっていました。飛行機の大量生産に必要なのは設計図(またはそのブループリント)ですが、整備兵やパイロットに設計図を読むことは期待できません。そこでイラストが多用されたマニュアルが発行され、それによって整備兵やパイロットが“大量生産"されました。日本では“職人技"や“修業"がもっぱらだったのとは基本態度がずいぶん違っています(日本軍将校の「もし自分に権限が与えられていたら、映画や図示を活用して飛行教育をしたのに」という痛切な言明も紹介されています)。
 また、「敵の兵器の理解」のためにもイラストが重要でした。撃墜された敵機の破片の写真よりも、その復元図の方がはるかに役に立ちます。
 英米独は「大量生産の第二次世界大戦」を戦っていたのに対して、日本は「家内工業と徒弟制度の19世紀の戦争」を戦っていたのかもしれません。
 ただし、そういった「図面」は、戦争が済んだら御用済み。ほとんどが散逸してしまいましたが、著者は世界のあちこちを探し回って、英独米のイラストを多数集めてくれました。
 私自身は感覚が古くて、ジェット機は人が機械に飛ばされている感じだが、プロペラ機は人が操縦している、と思っています。だから本書に満載の「プロペラ機の透視図」はとても楽しく眺めることができました。これが人殺しのための道具でなければ、もっと楽しかったのですが。



人を食った話

2019-07-28 07:06:43 | Weblog

 昭和の子供時代、近所の八百屋の店先に「人肉」と表示が出ていたことがあります。「八百屋で人の肉?」と不思議に思って親に聞くと「あれはニンニクと読みなさい。字は違っているけどね」と教えてくれました。国語事典で調べたら「大蒜」とあって、これは自分には書けないし読めないわ、と思いましたっけ。
 八百屋さんはたぶん冗談のつもりで書いていたのでしょうが、あまり好評ではなかったようですぐにその紙は引っ込められて二度と登場することはありませんでした。

【ただいま読書中】『「死体」が語る中国文化』樋泉克夫 著、 新潮社(新潮選書)、2008年、1000円(税別)

 中国で文化大革命の嵐が吹き荒れていた1960〜70年代、著者は香港で暮らしていて、一般新聞にも「死体の写真」が堂々と掲載されていること(そしてそのことが香港市民には問題視されていないこと)に驚きました。墓地にも驚きます。風水で墓地の適地とされた場所に、土葬をされた棺桶と墓石(個人墓)がまるで段々畑のように山の斜面を整然とぎっしりと覆っているのです。土地不足から香港政庁が火葬を提唱し、1974年には「龕(がん)」(遺灰を納める30センチ×30センチの壁の仕切り。それを名前などを刻んだ大理石の板で密封する)の集合体の壁によって構成された墓地が広大な東華義荘という墓地の一画に作られました。しかし中国人にとっては「故郷の土地に土葬される」ことが「本当のこと」で、それ以外は本来は認められないのだそうです。だから、死者を入れた柩を故郷に送る「運棺」「運柩」は戦前の中国ではごくふつうに行われていたそうです(たとえばカナダからは、墓から掘り起こされた骨は洗骨されて運送費は華僑社会負担で中国に船便で送られていました)。ただ、大恐慌で費用負担に耐えられなくなり、死者はずっと「仮安置」の状態で帰郷を待ち続けることになってしまいました。
 放射性廃棄物を「仮置き場」にずっと置き続けているのと、ちょっと似ているのかな。
 中国の伝統では「葬式は派手にすればするほど供養になる」とされていました。紙銭などの燃やすことが前提の紙製の冥間用具を大量に用意し、異常なくらい派手な宴会を行うのが“ふつう"です。その風潮は、共産党政権が成立したとき一時的に下火になりましたが、やがて復活。昔(封建時代)よりもさらに派手になっているそうです(これは中国本土だけではなくて台湾でも同じで、その実例紹介を見ると唖然とします)。そういえば中国の小説で、子供がとんでもない借金をしてまで親の葬式を出す、というシーンを読んだことがありましたっけ。ただし、単に「葬式が先祖返りをした」だけではありません。葬式がビジネスと結びついてしまったのです。共産党支配の国なのにね。
 「死者に鞭打つ」ということばがありますが、これは実際にそういう行為(伍子胥が墓を暴いて仇の死体を鞭で打った)が春秋時代にあったことに由来するそうです。もちろん墓暴きは重罪ですからその行為にはインパクトがあったわけ。ところが清朝の時代(この時代も墓暴きは重罪)、「日照りが続くのは、最近埋められた死者についた悪鬼のせいだ」と言いがかりをつけて墓を暴き死体を打ち据える「打旱骨」という「雨乞い」が北京周辺で行われていました。墓暴きは絞首刑なのに、ほとんど北京周囲では黙認状態だったそうです。法律よりも迷信の方が協力だったんですね。
 骨へのこだわり、屍肉食いなどの話題も登場します。「死(死体)」に対する態度は「生」に対する態度が反映されています。中国で行われている「死体に対する扱い」に驚きを感じる、ということは、おそらく「生に対する態度」もまた私の価値観とはずいぶん違ったものなのでしょう。いや、どちらが良いとか悪いとか、ではなくて、「違う、いや、とても違うのだ」をきちんと前提に置かないと、コミュニケーションもきちんと取れないのだろう、なんてことを私は思っています。



子育ての目標

2019-07-27 07:09:16 | Weblog

 ラストシーンが最初から決まっていて小説を書き始めるのは、どのようにその子が死ぬかを決めてからその子の子育てを始めるようなもの、と言えます。すると「その子がどんな大人になって欲しいか」明確なビジョンを持って子育てをするのには、「その子がどんな死に方をするか」もきちんと視程に入っていると言うことに?

【ただいま読書中】『鎌倉源氏三代記 ──一門・重臣と源家将軍』永井普 著、 吉川弘文館、2010年、1800円(税別)

 高倉宮以仁王(もちひとおう、後白河法皇の皇子)が安徳天皇の廃位と平家打倒を謳った謀反は、平家によって簡単に鎮圧されました。しかしその戦後処理がもたつく間に、源頼朝が挙兵します。反乱軍は、武士以外の人間も動員して大軍を組織。清盛が薨去した平氏は危機的な状況に追い詰められます。近江源氏は源義仲の有力な与党となり、頼朝を敵に回します。義仲と頼朝は、特に上野国をどちらが支配するかでしのぎを削っていました。この東国の内乱は1年以上続きますが、甲斐源氏は自立した勢力として東海を支配し、奥州藤原氏は中立を保っていました。頼朝は後白河院に「東国は源氏、西国は平氏」の棲み分けを提案しますが、後白河からその書状を見せられた平宗盛はそれを拒絶。源平共存の線は消えます。頼朝は板東の支配強化に専念、義仲は北陸道に進出します。平氏の軍は敗れますが、当時西国は干ばつからの飢饉がひどく兵糧米が不足していたこと、軍に駆武者(かりむしゃ)と呼ばれる家人ではない駆り集められた兵隊が多く含まれていて戦意が低かったこと、が敗因のようです。しかしこの飢饉は、京都に入った義仲軍をも苦しめることになります。義仲の不人気ぶりはひどく、後白河はせっせと義仲軍の切り崩しを行い、各地から集まった源氏や北陸道の豪族たちは、義仲を見限り始めていました。
 義仲軍が滅び、平氏も滅び、これで日本は平時に戻るか、と言えば、戻りません。日本は「頼朝が頭領の源氏」「頼朝を頭領とは思わない源氏(甲斐源氏など)や奥州藤原氏などの独立勢力」に別れており、さらに「都の武士(朝廷直属の武士)」も一大勢力でした。義経が殺されたのは、彼が「頼朝の部下」ではなくて「都の武士」になろうとした、と疑われたからです(頼朝の許可無く朝廷から官位をもらうことは、「頼朝<朝廷」と考えている表れと見なされました)。そのため幕府の「戦後処理」は、「頼朝を中心とした秩序」を構築することでした。(さらに、義経は「武士の誉」となる戦い方をせず、さらに「安徳天皇と三種の神器の奪還(京都で次の天皇にきちんと譲位しないと、次の天皇の正当性が疑われることになってしまう)」に失敗しました。軍事では成功しましたが、政治では失敗したわけで、頼朝には高くは評価されませんでした)。
 鎌倉幕府成立後、頼朝が「自分の権力は“自分のもの"で、それは後継者にそのまま譲り渡されるべき」と考えていたことが、「頼朝に協力してはいたが頼朝の部下ではないと考える人々(北条氏など)」の反発を買い、二代目源頼家は最初から「政治」がやりにくい状況で政権をスタートさせることになりました。それでも頼家には有力な御家人が父から付けられていました。ところが三代目実朝は、外祖父北条時政のバックアップ以外に、政権の“基盤"を持っていませんでした。実朝は歌人としても知られていますが、鎌倉の武家社会で孤立していたからこそ京都の文化を志向していたのかもしれません。
 実朝暗殺後、四代目をどうするかが幕府の重大な課題となりました。実朝に男児はありませんでしたが、頼家には男子がいたし、頼朝の弟たちにも男子がいます。しかし幕府の首脳部は血統を無視して親王将軍(京都から「鎌倉殿」を迎える)を望みました。
 頼朝が頼りとした「源氏」で、北条氏の粛清を生き抜いて名家の地位を守れたのは、足利氏と大内氏だけでした(新田氏は守護職にも補任されず地方豪族として生きていました)。そして、北条主導の鎌倉幕府に反感を持つ勢力の不満と恨みは、承久の乱となって噴き出ます。
 著者は「判断ミスによって鎌倉幕府が成立した」と述べています。あとから振り返れば「必然」に思える歴史の動きも、その時その時の人たちは、精一杯情報を集め正しいあるいは間違った決断をし、それがその次につながっていったんですね。だとしたら、「情報」に関してはあまり改竄や破壊や隠蔽はして欲しくないとつくづく思います。



田舎のバス

2019-07-26 06:33:13 | Weblog

 先日、バス停から少し離れたところでバス停から発進したばかりのバスに向かって、タクシーを止めるみたいに手を挙げてバスを止めようと試みている人を目撃しました。バス停に向かっていたのに間に合わなかったので十メートルくらいは大目に見てよ、と乗り込みたかったのでしょう。昭和の頃だったらあれでバスは止まってくれることがありましたが、今は規則優先の世界ですから、そのバスもそのまま行ってしまいました。
 そういえば昭和の頃の田舎のバスは、停留所なんか無関係に、道端で「おーい」と手を挙げたらその場で停まって乗せてくれたり、「○○の角で降ろしてくれ」と言ったらリクエスト通りに止めてくれたり、バス停で客は乗らずに車掌に「○○の停留所でこれを降ろしてくれ」と荷物を預けたり、が平気でおこなわれていましたっけ(すべて私の目撃例です)。
 昭和・平成・令和と時代は進み、生活は便利になりましたが、さて、「住みやすい良い国」になったかどうかは、ちょっと疑問ではあります。

【ただいま読書中】『ミニチュアの妻』マヌエル・ゴンザレス 著、 藤井光 訳、 白水社、2015年、2600円(税別)

目次:「操縦士、副操縦士、作家」「ミニチュアの妻」「ウィリアム・コービン その奇特なる人生」「早朝の物音」「音楽家の声」「ヘンリー・リチャード・ナイルズ その奇特なる人生」「殺しには現ナマ」「ハロルド・ワイジー・キース その奇特なる人生」「動物たちの家」「僕のすべて」「キャプラⅡ号星での生活」「ファン・レフヒオ・ロチャ その奇特なる人生」「セバリ族の失踪」「角は一本、目は荒々しく」「オオカミだ!」「さらば、アフリカよ」「ファン・マヌエル・ゴンサレス その奇特なる人生」「ショッピングモールからの脱出」

 なぜこの本を借りることにしたのか、もうその事情は忘れましたが(読みたい本を列挙した古いメモにあったのですが、自分で書いたのに記憶が無いのです)この目次を読んだだけで笑っちゃいます。特に「その奇特なる人生」が何度も不規則に登場するのには、絶対に意図があるはず、と私は本文を読む前から確信します。
 冒頭の「操縦士、副操縦士、作家」から、私はぶっ飛んだ世界に連れ込まれます。ハイジャックされた満員の旅客機が、ダラス上空をだたひたすら左旋回をし続けるのですが、「永久燃料」とやらで何年も何年も飛び続けるのです。なぜ?どうやって?といったまっとうな疑問は、まったく解消されません。飛行機はただひたすら旋回をし続け、乗客は諦念からか「これこそが自分の人生」と思うようになり……って、もしかして人間の人生そのものが“そんなもの"だと著者は言ってます? 「操縦士」と同じく、著者もまた何も教えてはくれないのですが。
 「ミニチュアの妻」……小型化技術のエキスパートの「僕」は、家には仕事を持ち帰らないことを信条にしていたのに、自宅でついうっかり妻をマグカップ大に小型化してしまいます。ところが自分がどうやって妻を小さくしたのか、「僕」はまったく心当たりがありません。かくして自宅の中は“戦場"になってしまいます。
 「操縦士、副操縦士、作家」でも感じましたが、主人公の妻に対する感情は、世間一般で言う愛情とはちょっとずれています。いや、愛情は愛情なのですが(たぶん)、その基底には客観性とか懐疑とかが棘のように刺さっている様子です。さらに文体が、ブラックユーモアというのとはまたちょっと違っていて、どす黒いというかすりガラス状というか、の「ユーモア」に溢れていて、なんとも始末しづらい感情が私の心の中をぶんぶんと飛び回ります。
 本書はSF的だったりファンタジー的な設定をされているように見えますが、私は「別の地球の物語集」として読みました。「こんなのあり得ない」ではなくて「“この地球"では不思議に思えてもあり得ること」だ、と。ただ、「この地球」と「あの地球」とは、けっこう似ているため、私たちの地球では「ふつうのこと」もそこにはめ込まれています。ところが異世界にある「ふつうのこと(の断片)」はちっともふつうには見えない。そこで私は「それがふつうだと思っている、その思いの方がもしかしたら怪しいのではないか」なんてことを思うに至り、段々混乱が増していくのでした。
 不思議な作家の不思議な世界の不思議な短編集です。



首が回らない

2019-07-25 06:41:01 | Weblog

 寝違えてしまって、首(特に右側)が痛くなりました。うがいの時にぐわって上に向きにくかったり寝ていて寝返りをするときに「いたたたた」で目が覚めるのが困りものですが、もう一つ命にかかわりそうなのが運転の時です。進路変更や合流の時、私はバックミラーだけではなくて首を振って左右後方を目視するようにしているのですがそれがやりにくくなってしまいました。体全体を斜めにし、極力横目を使って見るようにしているのですが、運転がやりにくくてやりにくくて。早く治って欲しいものです。

【ただいま読書中】『海と陸をつなぐ進化論 ──気候変動と微生物がもたらした驚きの共進化』須藤斎 著、 講談社(ブルーバックスB2077)、2018年、1000円(税別)

 一昨日の読書日記で取り上げた『凍った地球 ──スノーボールアースと生命進化の物語』(田近英一)に「地球環境と生命の共進化」という言葉がありましたが、本日は生命同士の「共進化」を主題とした本です。
 食物連鎖では、一段階で「エネルギー」は約10分の1になります。生態系のバランスを取るためには、ざっくり言って自分の体重の10倍の餌が必要。そのため食物連鎖はあまり長くはなりません。たとえば「ゾウ → 植物」は一段階、「ヒゲクジラ → オキアミ → 植物プランクトン」で二段階です。ただ、「食う」「食われる」の関係は複雑で、「連鎖」ではなくて「ネットワーク構造」で見る必要があります。本書には、ニシンが成長するにつれてその食物網がどう変化するかが図示されていますが、とても複雑怪奇で、これで生態系の動的バランスを取るのはとても難しそうだと感じます。ところが「複雑だからこそ、生態系は安定する」という説が2012年に提唱されました。直感的には、この説は正しそうだ、と私は感じています。“主食"が減少しても「なら、別のものを食っておこう」という選択肢が多い方が生存の可能性が高まりそうです。
 著者はプランクトンの微化石の専門家です。「プランクトン」の語源は「自分の意志を超越した、あるいは自分でやめたいと思っていても止めることを許されない放浪」だそうで(水流に逆らって移動できるものは「ネクトン」あるいは「遊泳生物」と呼ばれます)、大きさは定義されていません。だから、重さ150kgにもなるエチゼンクラゲも「プランクトン」の仲間なのだそうです。もちろん圧倒的に多いのは顕微鏡レベルの大きさのものですが。海底には太陽光が届かないところが多いため、海面から水深100mまで(せいぜい200mまで)の間に植物プランクトンがふわふわと漂い盛んに光合成を行っています。その二酸化炭素固定量は、陸上の植物に匹敵するそうです。
 植物プランクトンの一種である珪藻のキートケロス属は、栄養不足の環境では「休眠」をします。分厚い殻をかぶって死んだふりです。そういえば地表の細菌でも「芽胞」となって死んだふりをするものがいましたね(35年前のからし蓮根(真空パック)のボツリヌス中毒でこの芽胞が悪いことをしたのを覚えています)。恐竜絶滅で知られる白亜紀/古第三紀境界では、珪藻の70〜80%の種が大絶滅を生き延びていますが、この「休眠」が大いに役立ったと推測されています。
 そして、著者は3390万年前(始新世と漸新世の境界付近の時代)、珪藻の休眠胞子が、数とバラエティーを非常に増していることを発見しました。そのとき地球では、何が起きていたのでしょうか?
 始新世は温暖な時代でしたが、漸新世の地球は寒冷となりました。南極大陸がオーストラリアや南アメリカから分離してその周囲に南極環流という海流が発達し、暖かい海水や空気をはじくようになって南極は氷結します。なぜか北極域も寒冷化し、地球は全体として寒冷化していきました。風は強くなり表層の海流も強くなります。同時に富栄養化が進み深層水が形成され、海はそれまでと“構造"を変えました。それに真っ先に適応したのが、珪藻だったのです。珪藻はサイズを小さくして数を増やす戦略を採りました(リサイクルを速める効果があります)。動物プランクトンもそれに適応したことでしょう。
 約5500万年前南極大陸から分離したインド亜大陸が北上、ユーラシアプレートに衝突してヒマラヤ山脈やチベット高原を形成しました。これは地球規模の気候変動(モンスーン、北太平洋の亜熱帯高気圧、アリューシャン低気圧、北大西洋の高気圧の強化、全球的な乾燥化など)を引き起こします。インド洋ではモンスーンで海水がかき回されて湧昇が活発化、プランクトンが大発生します。乾燥によって砂塵が増え、これが海洋への栄養補給となります(現在でも、黄砂が海水に鉄などを補給して、その一帯では魚群が濃くなることが知られています)。これにより850万年前に珪藻の進化が起きています。
 250万年前には南北アメリカがくっつき、海流が大変化、結果として両極の寒冷化が進みました。これも珪藻の進化を促します。
 インド亜大陸がユーラシアにぶつかる前、そこはテチス海と呼ばれる浅い海で、鯨の先祖(原クジラ)が住んでいました。原クジラとカバの祖先は共通ですが、5400万年前に原クジラは陸から水中に進出しました。漸新世にそれまでの河から海へと住み処を変更、そこで「ハクジラ(イルカやマッコウクジラのように歯を持つタイプ)」と「ヒゲクジラ(ミンククジラ、シロナガスクジラのようにヒゲ板でプランクトンを漉して食べる)」に分化します。海中に豊富に存在するプランクトンを餌としたら有利、と思ったのかもしれません(もちろん「思い」はしませんけれどね)。そして、上記の珪藻の大増殖の時代に、クジラの体もまたワンランクアップの巨大化をしていることがわかっています。これは共進化なのでしょうか? その可能性は高いように私には感じられます。さらに、クジラ以外の生物にもプランクトンの進化が影響を与えた可能性は? 可能性はあるとして、それを立証するには、どんな証拠が必要?
 いやいや、「科学する」とは、なかなか面白いものです。ケでは実に地道な研究が続きますが、ハレではどかーんとハイになる瞬間が訪れる(こともある)のですから。この落差も(他人ごとの場合は)楽しめます。何の保証もなくずっと「ケ」が続くのは、大変でしょうけれど。



大和と武蔵

2019-07-24 07:03:50 | Weblog

 戦艦だったら絶対に「大和」で、武蔵は影が薄いのですが、剣豪だったら、断然「武蔵」で大和は印象が薄くなります。なんでこんな“使い分け"を日本人はしているのでしょうねえ。

【ただいま読書中】『戦艦武蔵 ──忘れられた巨艦の航跡』一ノ瀬俊也 著、 中央公論新社(中公新書2387)、2016年、860円(税別)

 戦前の陸軍は精神主義で海軍は合理主義、という話がありますが、実際の日本帝国海軍も実は精神主義で組織防衛が国益に優先でした(だからワシントン会議で16インチ砲戦艦を最初は日米英が各1隻という案だったのを海軍は蹴り、日米英が2:3:3という比率にしました。兵力比率で不利になりますが、「艦長職」や「予算」は倍となりますから)。最有力の仮想敵は当然アメリカですが、そこに勝利するためには、アメリカが太平洋艦隊を押し出して艦隊決戦をしてくれることが大前提とされ、そこで勝つために最新鋭の魚雷や大和・武蔵が構想されました(アメリカ海軍が日本に都合よく行動してくれるか、の議論はなかったそうです)。
 戦艦建造は大変です。夢と理論と予算とを高いレベルで折り合いをつける必要がありますが、妥協の産物は全てにおいて中途半端となってしまいます。しかも国際情勢は急激に変化し、軍事技術や作戦も進化します。設計図が引かれ始めたときと進水の時とで、武蔵を取り巻く「世界」は大きく変わっていました。
 米軍の反攻は、航空機を中心とする勢力で制空権・制海権を確保、その上で孤立した島を一つずつ潰す(あるいは触らずに迂回する)方法でした。艦隊決戦はしてくれません。パラオ泊地にいた武蔵や他の艦船は、空襲を予想して本土に撤退します。呉で15.5センチ副砲塔を除去して対空火器を増設しました(大和は副砲塔の跡に12.7センチ連装高角砲を積みましたが、武蔵は高角砲の生産が間に合わず25ミリ3連装機銃でした)。アウトレンジで主砲を撃ち合った後接近してくる敵の駆逐艦などに対して使うのが副砲ですから、「艦隊決戦はもうしない(できない)」とこの工事は物語っています。
 さらにこの戦艦部隊を何に使うかと言えば、空母部隊の護衛です(この時日本にどのくらい空母が残っていましたっけ? 4隻だったかな)。戦場はフィリピン。フィリピンに上陸しようとする米軍部隊に一撃を加えたら恐れ入って講和をするだろう、というまるでファンタジーのような“構想"によって水上部隊は(飛行機の護衛なしで)出撃します。米軍の主力はもうすでに上陸を済ませていたのですが。
 武蔵は6次に渡る激しい空襲を受け(他の艦より巨大で目立つからか、ほとんど被害を一手に引き受ける形だったそうです)魚雷20本爆弾17発を受けて沈没しました。戦前の思想では、艦隊決戦で魚雷を3発までくらうことは想定されていましたが、飛行機が続々魚雷や爆弾をぶら下げて群がってくることは想定外だったのです。さらに対空射撃は手薄で、さらにさらに、対空砲の兵員は実戦前に実弾射撃の経験がありませんでした。実弾は貴重なものだから訓練なんかで浪費はできなかったそうで、模型の飛行機を紐でぶら下げて移動させるのをホースから放水して命中させることが「訓練」だったそうです。
 漂流している武蔵の生存者(1367名)の一部は駆逐艦・浜風に救い上げられ、ルソン島に上陸(沈没から救助された船上での、帝国軍人らしからぬなんとも切ないエピソードが残されています)。そしてフィリピンに上陸した生存者はほとんどが“口封じ"のためかそのまま最前線に投入されました。大和はレイテ湾への突入を目前にUターン。ここで「武蔵は沈んだが大和は生き残った」ことが、後世の「大和と比較して武蔵が冷遇される」風潮を形作ったのかもしれません。
 戦後「敗戦の責任者探し」が行われましたが、そこで有力候補とされた一つが「大艦巨砲主義」でした。たしかに今でもこの言葉にはネガティブなイメージがべったり貼りついています。しかし「大和」に技術立国の誇りを見いだそうとする心情もずっと残されています(呉の大和ミュージアムには、そういった意味の記述が多くあります)。敗戦国民の心理は、複雑です。ちなみに「大和・武蔵がのちの日本の技術立国の基礎として貢献した」という主張に対して「大和・武蔵は戦前の技術の集大成(新技術の開発は実はそれほど多くない)」という主張が本書ではぶつけられています。
 戦後の「大艦巨砲主義批判」と「大艦巨砲主義批判・批判」について、著者はフェアな態度を取ろうとしています(ということは、両方の論者から「お前は敵だ」と見なされることになりますが)。ただ、「戦争」という“ファンタジー"や「戦後の復興(高度成長)」という“神話"には、それぞれ“生きたシンボル"が必要で、そこに大和や武蔵が(“本人(本艦)"や関係者の意向は無視して)はめ込まれてしまったことは確かでしょう。
 興味深いのは、「宇宙戦艦ヤマト」や映画「男たちの大和」はあるのに「武蔵」を“主人公"にしたアニメや映画が制作されないことです(「宇宙戦艦ムサシ」という小説はあるそうですが、なんともしょぼい内容だそうです)。戦争という“現場"にいる人でさえ“ファンタジー"や“神話"に逃避します。ならば、戦争を知らない人間が最初から“ファンタジー"に固執するのも無理はないでしょう。ただ、少しでも事実を知っていたら、ファンタジーに浮かれて次の戦争に突入する危険性が少しでも減らせるかもしれません。



統一国家

2019-07-23 07:27:02 | Weblog

 イタリア統一は1870年ころ。つまり日本の明治維新とほぼ同じ時期です。ドイツ統一は1871年。これもほぼ同じ時期。
 ということは、日本の明治維新も「日本統一」として扱うことも可能なのではないか、と私は考えます。それまでの藩幕体制(天皇と徳川幕府、幕領と藩領の並立)を「日本」という「統一国家」として再編成したわけですから。
 しかし、イタリアもドイツも日本も、統一国家としてはほぼ同じ時期に始まった、というのは面白いですね。

【ただいま読書中】『凍った地球 ──スノーボールアースと生命進化の物語』田近英一 著、 新潮社(新潮選書)、2009年、1100円(税別)

 地球を「惑星」という視点から研究する著者は「火山活動が異常に低下した場合、地球が全球凍結する可能性がある」ことを論文にしました。ただし、全球凍結したら生命は絶滅するでしょうし、表面が氷の塊になると太陽光線を反射してしまって温暖化ができなくなるから氷が溶けなくなりそうです。現在の地球は温暖だし生命が絶滅していないから、全球凍結はなかったのだろう、と著者は考えていました。
 1986年オーストラリアのジョージ・ウィリアムズ博士とドーン・サムナー博士(当時は学部生)は古磁気学の研究から南緯五度(ほぼ赤道直下)がかつて氷に覆われていたことを示しました。「そんなばかなことがあるものか」と反証を示すために厳密な研究を行ったカーシュビンク博士は、かつて赤道域に大陸氷床が存在していたことを、自ら証明してしまいます。
 科学は「一直線」に進歩するものではありません。行ったり来たりすることもあるし、ジグソーパズルのようにある程度の欠片が集まった瞬間、わっと進んでしまうこともあります。「スノーボール仮説」についても「欠片」が集まった瞬間“驚愕の仮説"が登場することになりました。
 地球は太陽からの熱エネルギーで温められ続けていますが、温室効果がある大気がもし存在しなければ計算上は摂氏マイナス18度で安定するはずです(これを「有効温度」と呼びます)。ただし、表面が氷結したら氷の高い反射率のため惑星アルベド(太陽光の出入りの比率)が増加して地表面温度はマイナス18度よりもさらに低下します。ここで考慮するべき因子は「太陽からのエネルギー」「惑星アルベド」「大気の温室効果」のバランスです。太陽は変化し(昔はもっと暗かったそうです)、大気も変化します。その全てを考慮しないと「地球」について論じることができないのです。さらにそういった仮説が、地質学的あるいは化石などの証拠と矛盾してはいけません。わあ、これは大変な頭の体操だ。
 温室効果が強い二酸化炭素は、地表の風化や光合成で“消費"されます。プレートテクトニクスによる継続的な火山活動がその減少分を補給して大気は安定している、が著者の若いときの論文のキモでした。ところで、全球凍結した地球では、二酸化炭素は減少しません。しかし火山活動は続き二酸化炭素が蓄積していきます。そしてそれがある量を超えたとき凍結は溶けることになります。さらにこのメカニズムで25〜20億年前に形成された鉄鉱石の鉱床ができたメカニズムも説明できてしまいました。
 生物の進化が地球環境に影響を与える可能性についても論じられます。シアノバクテリアの出現によって大気中に酸素が大量に放出されて温室効果が減少して全球凍結に陥った可能性もあるそうです。今から4億年前には陸上植物が出現したことが3億年前の大氷河時代を引き起こした可能性も。これを「地球と生命の共進化」と呼ぶそうです。なんだか、魅力的な言葉です。また、原生代後期に2回全球凍結のイベントがあったことがわかりましたが、生命はそれをどうやって乗り越えたのでしょう?
 以前にもスノーボールアース仮説の本を読みましたが、今回の本は非常に理解がしやすく記述されていました。さらに「学問の進化」についても示唆的なことが描かれています。私はこれから惑星科学者になることはできませんが、若い人でまだ進路を決めていない人は、こちらの方面はいかがでしょう?



目覚まし時計

2019-07-22 07:00:20 | Weblog

 よその家の中で目覚まし時計のベルが鳴っていて、それがなかなか止まないと、飛び込んでいって止めたくなりません?

【ただいま読書中】『ゴールディーのお人形』M・B・ゴフスタイン 作、末盛千枝子 訳、 現代企画室、2013年、1500円(税別)

 今回は絵本というよりも、挿絵が印象的な本、といった感じです。
 「美は細部に宿る」なんて言いますが、その「細部に宿る美」について、さらにものづくりをする人の中でも細部に美を宿らせることができる人について、じっくりと語られています。
 私自身はモノではなくてコトを“作る"商売なので、こういった美をものの細部に宿らせることは仕事としてはできませんが、志とか心構えとかには似たところがあるかもしれないな、と、憧れを抱きつつ読了しました。
 さらに本書には、「美を細部に宿らせるために作者が“支払う"コスト」についてもさらりと描かれています。おそろしく現実に密着した、しかし現実離れをした、美しい物語です。