優れた児童文学の作品群に、なにか共通すること/ものがあるだろうか、とふと思いました。なにより「子どもが喜んで読む」。それと同時に「大人になって読み返しても喜んで読める」。「作品の中での主人公の多くは子どもだが、その“子どもとしての存在”がリアル」も重要かな。知識と経験は大人より少ないけれど、感受性と傷つきやすさは大人以上。かつての自分の片鱗を本の中に見出したとき、私はいつものセリフを呟きます。「子どもだけに読ませておくのは、もったいない」。
【ただいま読書中】『エンデュミオン・スプリング』マシュー・スケルトン 著、 大久保寛 訳、 新潮社、2006年、2300円(税別)
12歳の少年ブレークがオックスフォード聖ジェローム学寮の図書館で「何も書かれていない本」を見つけるところで本書は始まります。「図書館」「空白の本」で、一昨日読書日記を上げた『ファンタージエン 秘密の図書館』を思い出します。ところが話はすぐに1452年ドイツのマインツへ。登場するのはグーテンベルク親方とその弟子のエンデュミオン、そこにやって来たフストと彼に雇われた写字生のペーター。
ブレークが見つけた本のタイトルは「エンデュミオン・スプリング」。
ブレークが1452年に行く、なんてことは起きません。ただ、ブレークの身の回りでは不思議なことが起きるようになります。何も印刷されていないはずの本のページにことばが現われ、でもブレーク以外にはそれが見えなかったり、命を持っているような紙でつくられた龍がかさこそと動いたり。ついでに「子どもに対して無愛想(でも本当は親切)な古本屋」なんてものまで登場して、ますます『はてしない物語』をこちらは思いますが、突然「ターキッシュ・デライト」が出てきて「本では、邪悪な登場人物だけが好きなものよ」と言われるとこんどは「ナルニア」を思い出してにやりとしてしまいます。
『エンデュミオン・スプリング』には不思議な来歴がありました。その本には“力”があり、自分を読むべき人間を自分で“選ぶ”のです。そしてその読み手を通じて警告します。世界全体を破壊するおそれのある力の存在を。そんなのはブレークには重たすぎます。彼はまず自分と折り合いをつけなければならず、さらに家庭内(別れる寸前の父母、賢すぎる妹)のトラブルもずっしりとその小さな身体にのしかかっているのですから。しかし、ブレークはさらなる“犠牲”を払わなければならないようです。
グーテンベルグが有名な「四十二行聖書」の刊行を始めた途端、出資者のフストは契約を解消しグーテンベルグを破産に追い込みその事業を引き継ぎます。「黒魔術だ」などと罵られていた「活版印刷」は「大もうけが期待できる一大事業」に成長していたのです。そしてここでも、ブレークと同様の“犠牲”を払わなければならない人がいました。
「本」には不気味なことばが浮かび上がります。「太陽が影の目を見てのち、片方が死なぬように、本を手放さねばならない。闇の傷はいやされない。子どもの血をもって、すべてが封印されるまで。これがエンデュミオン・スプリングの言葉なり。内なるもの(インサイド)がもたらす洞察(インサイト)のみをもたらせ。」 ブレークは震え上がります。とりわけ「子どもの血」に。
……そして、本を封印するべき時がやってきてしまいます。「子どもの血」で。
「魔法的存在としての本」を主人公にするとは、著者は度胸があります。でも楽しめました。さて、ネット時代には「魔法的存在としての電子ファイル」なんてものを主人公にした本も書けるかな?
【ただいま読書中】『エンデュミオン・スプリング』マシュー・スケルトン 著、 大久保寛 訳、 新潮社、2006年、2300円(税別)
12歳の少年ブレークがオックスフォード聖ジェローム学寮の図書館で「何も書かれていない本」を見つけるところで本書は始まります。「図書館」「空白の本」で、一昨日読書日記を上げた『ファンタージエン 秘密の図書館』を思い出します。ところが話はすぐに1452年ドイツのマインツへ。登場するのはグーテンベルク親方とその弟子のエンデュミオン、そこにやって来たフストと彼に雇われた写字生のペーター。
ブレークが見つけた本のタイトルは「エンデュミオン・スプリング」。
ブレークが1452年に行く、なんてことは起きません。ただ、ブレークの身の回りでは不思議なことが起きるようになります。何も印刷されていないはずの本のページにことばが現われ、でもブレーク以外にはそれが見えなかったり、命を持っているような紙でつくられた龍がかさこそと動いたり。ついでに「子どもに対して無愛想(でも本当は親切)な古本屋」なんてものまで登場して、ますます『はてしない物語』をこちらは思いますが、突然「ターキッシュ・デライト」が出てきて「本では、邪悪な登場人物だけが好きなものよ」と言われるとこんどは「ナルニア」を思い出してにやりとしてしまいます。
『エンデュミオン・スプリング』には不思議な来歴がありました。その本には“力”があり、自分を読むべき人間を自分で“選ぶ”のです。そしてその読み手を通じて警告します。世界全体を破壊するおそれのある力の存在を。そんなのはブレークには重たすぎます。彼はまず自分と折り合いをつけなければならず、さらに家庭内(別れる寸前の父母、賢すぎる妹)のトラブルもずっしりとその小さな身体にのしかかっているのですから。しかし、ブレークはさらなる“犠牲”を払わなければならないようです。
グーテンベルグが有名な「四十二行聖書」の刊行を始めた途端、出資者のフストは契約を解消しグーテンベルグを破産に追い込みその事業を引き継ぎます。「黒魔術だ」などと罵られていた「活版印刷」は「大もうけが期待できる一大事業」に成長していたのです。そしてここでも、ブレークと同様の“犠牲”を払わなければならない人がいました。
「本」には不気味なことばが浮かび上がります。「太陽が影の目を見てのち、片方が死なぬように、本を手放さねばならない。闇の傷はいやされない。子どもの血をもって、すべてが封印されるまで。これがエンデュミオン・スプリングの言葉なり。内なるもの(インサイド)がもたらす洞察(インサイト)のみをもたらせ。」 ブレークは震え上がります。とりわけ「子どもの血」に。
……そして、本を封印するべき時がやってきてしまいます。「子どもの血」で。
「魔法的存在としての本」を主人公にするとは、著者は度胸があります。でも楽しめました。さて、ネット時代には「魔法的存在としての電子ファイル」なんてものを主人公にした本も書けるかな?