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【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

児童文学

2010-02-28 18:04:22 | Weblog
 優れた児童文学の作品群に、なにか共通すること/ものがあるだろうか、とふと思いました。なにより「子どもが喜んで読む」。それと同時に「大人になって読み返しても喜んで読める」。「作品の中での主人公の多くは子どもだが、その“子どもとしての存在”がリアル」も重要かな。知識と経験は大人より少ないけれど、感受性と傷つきやすさは大人以上。かつての自分の片鱗を本の中に見出したとき、私はいつものセリフを呟きます。「子どもだけに読ませておくのは、もったいない」。

【ただいま読書中】『エンデュミオン・スプリング』マシュー・スケルトン 著、 大久保寛 訳、 新潮社、2006年、2300円(税別)

 12歳の少年ブレークがオックスフォード聖ジェローム学寮の図書館で「何も書かれていない本」を見つけるところで本書は始まります。「図書館」「空白の本」で、一昨日読書日記を上げた『ファンタージエン 秘密の図書館』を思い出します。ところが話はすぐに1452年ドイツのマインツへ。登場するのはグーテンベルク親方とその弟子のエンデュミオン、そこにやって来たフストと彼に雇われた写字生のペーター。
 ブレークが見つけた本のタイトルは「エンデュミオン・スプリング」。
 ブレークが1452年に行く、なんてことは起きません。ただ、ブレークの身の回りでは不思議なことが起きるようになります。何も印刷されていないはずの本のページにことばが現われ、でもブレーク以外にはそれが見えなかったり、命を持っているような紙でつくられた龍がかさこそと動いたり。ついでに「子どもに対して無愛想(でも本当は親切)な古本屋」なんてものまで登場して、ますます『はてしない物語』をこちらは思いますが、突然「ターキッシュ・デライト」が出てきて「本では、邪悪な登場人物だけが好きなものよ」と言われるとこんどは「ナルニア」を思い出してにやりとしてしまいます。
 『エンデュミオン・スプリング』には不思議な来歴がありました。その本には“力”があり、自分を読むべき人間を自分で“選ぶ”のです。そしてその読み手を通じて警告します。世界全体を破壊するおそれのある力の存在を。そんなのはブレークには重たすぎます。彼はまず自分と折り合いをつけなければならず、さらに家庭内(別れる寸前の父母、賢すぎる妹)のトラブルもずっしりとその小さな身体にのしかかっているのですから。しかし、ブレークはさらなる“犠牲”を払わなければならないようです。
 グーテンベルグが有名な「四十二行聖書」の刊行を始めた途端、出資者のフストは契約を解消しグーテンベルグを破産に追い込みその事業を引き継ぎます。「黒魔術だ」などと罵られていた「活版印刷」は「大もうけが期待できる一大事業」に成長していたのです。そしてここでも、ブレークと同様の“犠牲”を払わなければならない人がいました。
 「本」には不気味なことばが浮かび上がります。「太陽が影の目を見てのち、片方が死なぬように、本を手放さねばならない。闇の傷はいやされない。子どもの血をもって、すべてが封印されるまで。これがエンデュミオン・スプリングの言葉なり。内なるもの(インサイド)がもたらす洞察(インサイト)のみをもたらせ。」 ブレークは震え上がります。とりわけ「子どもの血」に。
 ……そして、本を封印するべき時がやってきてしまいます。「子どもの血」で。
 「魔法的存在としての本」を主人公にするとは、著者は度胸があります。でも楽しめました。さて、ネット時代には「魔法的存在としての電子ファイル」なんてものを主人公にした本も書けるかな?



将棋

2010-02-27 17:46:59 | Weblog
 私が将棋の本を一番読んだのは、高校時代。定跡の本を一冊読めば一つの戦法の定跡とその大体の変化は頭に入って、本を読めば読むほど強くなっていくのが実感できて、楽しかった時代でした。ただ、今にして思うとそれは「定跡」を覚えていたわけで「実力」がついていたのかと言えば疑問ではあります。定跡を知らない相手と指せば当然勝てます。しかし、定跡がない局面だったらそこはもう「実力(読む力と決断力)」の世界。囲碁には「定石を覚えて弱くなり」なんてことばがありますが、私は「定跡を覚えて強くなったつもりになっていた」のではないかな。なんとか初段は取りましたが、記憶力で勝負できるのはそこまででした。
 ただ「常にゼロから読む」のは非効率的。「形」を覚えることはただの無駄ではないでしょう。知識を蓄積していくと、ある日それが「感覚」(今まで見たことがない形だけれど、どうもなにかにおう)に転化することがあります(将棋ではありませんが、他の分野でそれを体験しました)。そういった“臨界量”まで知識を蓄積する、そこまでの努力ができるかどうかがプロとアマの違いで、そして、その努力が上手く花開くかどうかが一流のプロとそうではないプロとを分けていくのかもしれません。

【ただいま読書中】『森内俊之の 戦いの絶対感覚』森内俊之 著、 河出書房新社、2000年、1300円(税別)

 「最強将棋塾」シリーズの一冊です。同シリーズの他の本の著者は、島・深浦・谷川・佐藤……錚々たるメンバーです。本書は基本的には「次の一手」ですが、単にクイズとして読ませようとするわけではなくて、「プロの感覚」(どこに目をつけるか、どう構想を立てるか)や「定跡の裏表」(たとえ定跡とされていても、わずかの形の違いで展開はがらっと変わる)についてなんとかアマチュアに伝えようとしてくれる本です。「次の一手」が当たった外れたと言って済ませるにはもったいない本です。だって「一手」で勝てるほど将棋は楽なものではないのですから。次の一手はその次の一手につながりそれはまた次の一手に。その積み重ねで棋力は進歩していくのです。
 それと、現代の将棋では「定跡」は日々進化します。プロが毎日研究してしかもそれを惜しげもなく実戦で披露してくれ、それがまた次の定跡につながっていきます。ですから昔の定跡を丸覚えしてもそれが通用するのは「定跡を知らない人」にだけです。最新形を指しているときに、相手の研究にはまったらあっという間に敗勢に追いやられてしまいます。そういった「プロの世界の厳しさ」も本書からは伝わってくるような気がします。だって、中盤や終盤のある局面を想定して、「そうなるように」「そうならないように」“逆算”して序盤の一手を選択することもあるのだそうです。笑い話での「初手を見た瞬間相手が投了」なんてことがそのうち本当になるのかな?
 そういえば何かの雑誌の対談で羽生さんが「あまりに手筋を覚えたら、話が確率的になり、リスクを恐れたら選択肢が狭まってしまう。だから、基本的な定跡を覚えたら、あとの細かいことはできるだけ忘れた方が良い」なんてことも言っていましたっけ。それは凡人ではない人にしか言えないことではあるのでしょうが。




ファンタージエン

2010-02-26 18:16:31 | Weblog
 ファンタージエン国と人間の世界の「関係」は、人が持つ「夢」と「現実」の「関係」に重ね合わされています。だからこそ「幼ごころの君」は、軽々に「善悪」だの「理非」などを言いません。
 ところで、ネット上の書評によく見られるような、ファンタージエンシリーズの作品群を読んで「これは良い」「これはつまらない」などと簡単に断言する態度は、ミヒャエル・エンドが提示した世界観を泥足で踏みにじって恥じない態度、と言えるでしょう。別に「すべてを礼賛しろ」なんてことを言っているのではありません。幼ごころの君を真似て、まず「その存在」自体は認めること。好き嫌いの感情を持つのは自由。だけどそれを他人に押しつけない。そして、もし本当にある作品が気に入らないのだったら、それを上回る作品を自分が書けばいいのです。どこをどう直せば素晴らしい作品になるか、わかっているからこその“批判”でしょ? それに、ファンタージエン国に「はて」はないのですから、誰のどんな作品でも受け入れてくれるはずです。地層の奥深くに眠ることになるかもしれませんけれどね。

 『はてしない物語』のラストにこうあります。
>>コレアンダー氏はドアをそうっと閉め、二人を見送った。
「バスチアン・バルタザール・ブックス、」かれはつぶやいた。「きみは、これからも、何人もの人に、ファンタージエンへの道を教えてくれるような気がするな。そうすればその人たちが、おれたちに生命の水を持ってきてくれるんだ。」
 コレアンダー氏の期待はたがわなかった。
 けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。

 この世に存在する多くの〈バスチアン・バルタザール・ブックス〉と、彼のことを夢見ることができ、またファンタージエンを〈見る〉ことができる人たちに、幸あれ。

【ただいま読書中】『ファンタージエン 反逆の天使』ヴォルフラム・フライシュハウアー  著、 遠山明子 訳、 ソフトバンククリエイティブ、2008年、2000円(税別)

 「ファンタージエンシリーズ」全6冊の掉尾を飾る作品です。
 ファンタージエンを襲う異形の者たち。その大軍勢からファンタージエンを守ろうとする天使たちの敗北で本書は始まります。
 〈蝶乗り〉のナディルは、師匠に連れられて音の町マンガラート・シティにやって来ます。色彩と音楽が渦巻くまるで巨大なテーマパークのような楽しい町ですが、その影ではなにか奇妙な「現象」が起きていました。10年前に虚無に打ち勝つために〈番人〉が建設した町で、現在も盛んに拡張中なのですが、明らかに雰囲気に妙なものが混じっているのです。ナディルは、マンガラートで行方不明になった祖父サルーの後を追います。とんでもない冒険の後やっと出会えたサルーは、ナディルに恐ろしいことを告げます。ファンタージエンでは、すべてが二重になっている、と。幼ごころの君でさえ、二人。さらに忘却が広がっています。自分が何者かわからなくなったファンタージエン人が増えているのです。サルーは神託を得ます。「虚無はすべてのものの中にあり/空白にすべてが含まれる/空白を怖れるものは滅びにいたり/そこに入るものは生かされ/そしてファンタージエンは栄える」
 ジェットコースターファンタジーと言いたくなる展開です。そして最終決戦。相手は天使でさえも手を焼くイブリスの大群と苦悶蜂。それに対するのは、武器を持たない蝶乗りたち。おっと、「武器」はありました。「静寂」です。
 虚無と非虚無、騒音と静寂、そして、人の子の世界とファンタージエン。様々な“対立”が立てられていますが、著者はもちろん“二項対立”で話を終わらせるような単純な手は用いません。対立しているようで重なり、重なっているようでずれ、ずれているようで……だんだんこちらも頭の中が混乱してきます。それと同時に、自分の想像力がどうやって働いているのか、今でもちゃんと働いているのか、とちょっぴり不安も感じてしまいます。物語によってしか伝えられない〈想像しえぬもの〉が、自分の内部にまだ残っているだろうか、と。まあでも、もしもそれが枯渇していたとしても、喧噪ではなくて静寂の中に浸っていたら、またゆっくり育ってくれるかもしれません。その望みだけは捨てないでおきたいものです。



弄ぶ

2010-02-25 18:38:08 | Weblog
 他人の言葉の正誤などに異様にこだわる人は、言葉を弄んでいる(あるいは言葉で遊んでいる)つもりなのかもしれませんが、実はそうではなくて、言葉に遊ばれているだけでしょう。

【ただいま読書中】『ファンタージエン 言の葉の君』ペーター・デンプフ  著、 遠山明子 訳、 ソフトバンククリエイティブ、2007年、2000円(税別)

 「虚無」の中から現われた「夢魔」に襲われた霧小人のキーライは、使命の旅を続けているアトレーユに救われます。霧小人は「言葉の守人」です。言葉は使われなければその意味を失います。そして、言葉の意味が一つ消えるごとに、ファンタージエン国には虚無のしみが一つ現われるのです。ところが霧小人の村には定期的に「言の葉摘み」がやってきてすべての言葉を収穫していってしまいます。霧小人としてはできそこないで、言葉を上手く操れないことに劣等感を抱いているキーライは、あろうことかアトレーユから直々に「言の葉の君」を探して欲しい、という“使命”を授けられます。
 「言の葉摘み」のため、せっかく集めた言葉を奪い取られた霧小人たちは人間から動物レベルの存在になってしまいます。キーライは「言の葉摘み」を追います。そして自身は夢魔に追われているのです。「言の葉摘み」はキーライのたびに同行することになります。そしてキーライは驚愕の真実を知ります。霧小人の中でも彼女が属するグルン家の者だけは、ファンタージエン国で唯一「言葉を使って生きた物語を作る能力」を持っているのです。しかし自分は、ちょっと喋るのにもつっかえて苦労するのに、しかも夢魔に狙われているのに、とキーライは思います。しかし彼女は段々ことばがつっかえなくなってきています。
 どんな言葉でも吸い込んで保存でき、それを食べることで言葉(とそれが示すイメージと世界)を我がものにできる「妖精の紙」という魅力的なガジェットが登場します。さらにその妖精の紙そのものでできた「図書館」も。言の葉摘みの次にキーライの「旅の仲間」になったのは、ケンタウロスたち。しかし彼らも何か企みを持っているようです。キーライは誰も信用できません。
 やっとたどり着いたモノガタリアの町でも、言葉の“意味”は失われつつあり、物語はその生命を失っていました。巨大な図書館は空っぽで、そこの管理人「賢いムハイ」はどこかに閉じ込められてしまっていました。キーライは「賢いムハイ」を救い出し、さらに自身の秘められた「幻想を紡ぐ能力」を駆使して「言葉の意味」を取り戻さなければならないのです。
 本書は「アトレーユの探索の旅」と重ね合わされた「キーライの探索の旅」であると同時に、「物語の物語」です。「さすらい山の古老」によって書かれている物語自体までもが本書にはメタ的に取り込まれており、複雑な構造になっています。



なぜなぜ

2010-02-24 18:38:38 | Weblog
 質問が大好きな人間が、「回答」を求めているとは限りません。異様にのみ込みが悪いから質問を続けざるを得ない場合もあるし、「自分が欲しい回答」を他人に言わせたい(そしてそれがなかなか得られない)だけの場合もあるでしょう。あるいは、自分の心になにか言葉が届くことを防ぐために、単に質問を大声で続けることで、自分の耳を遮蔽している場合もあるのではないかな。

【ただいま読書中】『ファンタージエン 夜の魂』ウルリケ・シュヴァイケルト  著、 酒寄進一 訳、 ソフトバンククリエイティブ、2007年、1900円(税別)

 「虚無」の脅威に怯える青い髭族の村。青い髪の少女タハーマの父も、急を知らせるためにエルフェンバイン塔に向かいます(『はてしない物語』で塔に多くの使者が集まっていましたが、その中に彼もいたわけです)。村人たちは「虚無に犯されることのなくどんどん拡張している桃源郷ナザグル」を目指して旅立ちます。村に残ったタハーマは戻ってきた父の死を看取ります。
 同じ頃、狩人族のセレダスは、エルフェンバイン塔への使者として先を急いでいました。しかし、人狼グモルクに襲われて負傷してしまいます。
 この二人に地霊小人(森の医師)のヴルグルックが加わって、「メロディーとハーモニーとリズム」のトリオが完成します。一風変わった「旅の仲間」です。三人が目指すのはナザグル。しかしそこで出会ったのは恐怖を振りまく「影」でした。桃源郷のはずのナザグルは、影の王が支配する地だったのです。
 同胞たちのためにタハーマは戦うことを決意します。しかし、彼女が使える“武器”は「歌」だけです。しかし彼女の“中”には「メロディーとハーモニーとリズム」が存在していました。
 本書には美味しそうなものが次々登場します。パンだけでも何種類出てきたかな。それに対して影の王が食べるのは、恐怖です。毎日毎日城から出撃しては住民を襲い、その恐怖を食べ続ける生活……実は影の王はそういった“日常”に飽きを感じています。彼がその創造主に対して愚痴をこぼすシーンは、不気味な彩りなのになんともユーモラス。ではその「創造主」とは誰か? タハーマは影の王をやっつけることができるのか、以前に、そもそもまともに戦うことができるのか。彼女の恋は成就するのか。そして「虚無」はどうなるのか。哀しみの歌が基調に流れる本書は、微かな希望を歌いながら終わります。



2010-02-23 19:06:00 | Weblog
 どこが尊い口やら。内容はどっこいどっこいだとしても、「嘘」の方がまだ文字としては潔いと感じます。

【ただいま読書中】『四谷怪談』廣末保 著、 岩波書店(特装版岩波新書の江戸時代)、1993年、1456円(税別)

 崩壊へと向かう封建社会、その時代のエネルギーに乗って、四世鶴屋南北は様々なものをないまぜにした芝居を書きました。たとえば「法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)」では「葬礼の支度」と「婚礼の支度」とが同時進行され、ないまぜになっていきます。別の劇(「玉藻前御園公服」(たまものまえくもいのはれぎぬ)の二番目「月出村廿六夜諷」)では「葬礼」と「かんかん踊り」が一体化させられます。(落語の「らくだ」では、死体にかんかんのうを踊らせるぞ、とは言いますが“実際”にはやりませんよね。それを南北はやってしまったのです)
 「四谷怪談」は、初演では「忠臣蔵」と抱き合わせで上演されました。両方を交互に二日かけて演じる、という不思議な構成です。忠臣蔵の義士に対して四谷怪談に登場するのは不忠・不義の背徳漢で、四谷怪談は反忠臣蔵的な世界を見せると同時に、時代劇としての忠臣蔵に対してそれをパロディ化して市井のドラマとする効果も見せていました。この二つの劇を同時進行で見せられる観客の中には、とんでもない異化作用が生まれていたことでしょう。
 四谷怪談は初演以降は単独で上演されました。ところが単独でもこれが「ないまぜ」の芝居なのです。「悪」は笑う悪になり、「愁嘆場」は「滑稽」にすり替えられます。それは同時に(芝居の)「様式」を「様式のパロディ」として演じることにもなりました。
 さて、親の仇を討ってもらうために民谷伊右衛門と夫婦暮らしをするお岩ですが(実は、その「仇」は伊右衛門自身なのです)、ではなぜお岩は「醜い幽霊」でなければならなかったのか。著者の考察はこうです。女郎歌舞伎や若衆歌舞伎が弾圧されて、歌舞伎には「女形」という「かぶいた性」が誕生しましたが、その女形は「男が演じる女の美しさ」という危うさの上に成立していました。ところがその女形の「境界線」を「崩壊する時代」が犯します。その結果が、毒婦や悪婆を演じる女形という「さらにかぶいた虚構の性」の誕生です。
 伊右衛門は、もちろん悪党ではありますが、小悪党でした。それがお岩の顔が崩れたことによって大きく変貌します。お岩は、被害者でしたが、死ぬことによって加害者に転じます。こうして「悪意の競演」が始まります。そして《戸板返し》。杉野と板の両面に打ちつけられた、お岩と小兵の死骸。それはバラバラの骨となって崩壊していきます。これは、笑いと恐怖が背中合わせになっている不気味さであり、同時に、崩壊していく時代の不気味さでもありました。さらに、「四谷怪談」には脇筋がいくつもあり、一直線に進行する「本筋」はボケがちです。これも、「話」自体を崩壊気味にすることでメタ的に「時代の不気味さ」を表現しようとした南北の手腕なのかもしれません。



好悪の確率

2010-02-22 19:01:33 | Weblog
 他人が自分を好いてくれる確率は、よくて五分五分、普通は好きときらいが同じくらい(二割~三割?)で無関心が一番多い、でしょう。悪ければ好いてくれるのは一割か、あるいはもっと下。だからこそ自分を好いてくれる人は大切にする必要があるし、せめて自分が自分を好いていないとやっていけないのではないかな?

【ただいま読書中】『ファンタージエン 忘れられた夢の都』ペーター・フロイント 著、 酒寄進一 訳、 ソフトバンククリエイティブ、2006年、1800円(税別)

 『愚者の王』は『はてしない物語』の前半部分とリンクしていましたが、本書で最初に登場するのは踏みつぶされたはずのサイーデが実は……ということで、こちらは後半部分とリンクした物語のようです。こちらでファンタージエン国のインソムニア人に危機をもたらすのは「虚無」ではなくて「忘却」。そう、『はてしない物語』後半でバスチアンが付き合わなければならなかったものです。この「忘却」に罹患したインソムニア人が生き延びられるのは、セペランサの都だけ。そこに逃げ込んでいたらそのうちに「お呼び」がかかって外に出ても安全になることがあるのです。しかし最近はお呼びは全然かからず、都に避難してくるインソムニア人で都はもう満杯となっています。
 バスチアンの「旅」(ファンタージエンの再生)はあちこちに混乱を引きおこしていました。旅する者にとって困るのは地形の変化です。そういった困難な地形の中を旅している人の中に、両親を喪い「忘却」とインソムニア人を襲う「夢狩り人」に追われてセペランサを目指しているカユーンとエレアの兄妹がいました。
 セペランサの中では、長老の娘サラーニャが、自分が捨て子だったことを知り、そのことを詳しく知ろうとしてさらに大きな秘密に近づきつつあります。
 二つの物語が交互に語られ、やがてそれが一つにまとまったときに現われるのは……おっと、その前に「ヨル」が登場します。なつかしい。地層の奥深く「忘れられた夢」の鉱脈を掘る盲目の抗夫です。さらに「ゲマルの帯」も。いや、こうして「懐かしい人々」に再会すると、『はてしない物語』を再読したくなります。

 本書にも随所に「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすとしよう」が登場します。ただ、エンデのほど効果的ではないのは、私が慣れてしまったのか、それとも本書が一種の謎解き本となってしまって「ゴールを目指す一つの矢印」を背景にしてしまっているからでしょうか。ただまあ、常に「壮大なファンタジー」を読むのも疲れるので、たまにこうやって楽しく息抜きができるのも良いものです。



異世界への扉

2010-02-21 17:58:38 | Weblog
 私にとって、ファンタジーと歴史には「異世界」という共通点があります。ファンタジーの多くは「この世界ではない世界」を舞台とします。同様に歴史も「過去」という「異世界」を舞台にしているように私には思えるのです。そして、優れた本は、ファンタジーであろうと歴史であろうと、私にとっては「異世界への扉」なのです。ですから私は、その二つを区別せず、心の中では「同じ領域」に分類しています。どちらを読んでもわくわくできる、それは私にとっては人生の幸福です。

【ただいま読書中】『ファンタージエン 愚者の王』ターニャ・キンケル 著、 遠山明子 訳、 ソフトバンククリエイティブ、2006年、1800円(税別)

 「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすとしよう」シリーズの第二作です。
 タイトルを見た瞬間、私はにやりとしてしまいます。私が思い出したのはクリスマス。勢力を拡大するにつれて異教徒の祭をつぎつぎ取り込んでいったキリスト教の「クリスマス」ですが、異教徒の風習そのものである「愚者の王」に扮してクリスマスを浮かれ騒いだとして宗教裁判にかけられた聖職者が中世イギリスにいたことを思い出していたのです(実は当時の民衆はそういった非キリスト教的な行事やダンスを平気でしていました。だって彼らの“伝統”なのですから。真面目な教会はもちろんそれを弾圧しようとします)。もちろんここでの「愚者の王」が、そういったキリスト教/非キリスト教の話とは離れてのものであることは読む前から容易に想像はできますが(〈元帝王たちの都〉を思い出しています)、ともかく何らかの“変化球”を著者から投げられたな、と思いつつ、私は本を開きます。
 ファンタージエン国で起きることを、自分の髪の毛も使って織物に織り込むことが仕事の機織り女(見習い)レス。機織り女は村から一歩も外に出ないのにファンタージエン国中のできごとを織り込むことができるのです。レスは「村の外」に憧れています。ところが、村の外には「虚無」が広がってきていました。そして、古い未完成の織物にも「虚無」が描かれていることをレスは知ります。そしてその時の「ファンタージエン国の危機」を〈いなくなった帝王〉が救ったことも。
 レスは決心します。自分が虚無と戦おうと。そのためにはまず〈いなくなった帝王〉探しからです。しかし……空飛ぶ絨毯を得たり、殺されようとしていた人の命を救ったり、「得る」ことのかわりにレスは自分の一本の指先を失い、さらに「敵」を増やしていきます。
 本書は『はてしない物語』(の前半部分)の“裏側”を描いています。アトレーユもバスチアンもレスとはすれ違いできちんとまともに関係は生じません。そもそもレスは「ファンタージエン国の住人」ですから、彼女の望み「ファンタージエン国を救う」は最初から失敗が約束されています。では彼女の試みはただの「無駄」なのか。そこで『はてしない物語』でのアトレーユやバスチアンの「行為」が最初から無駄なものだったのかどうか、の疑問を私は思い出します。だからこそ、最後あたりのレスの“啖呵”「あなたたちはみんな、不安なのね。自分のすることに責任を持たされるのが不安なのよ。いつでもだれかほかの者のせいにする。それは、虚無だったり、公爵夫人だったり、いろいろよ。あなたたちは自分たちを救ってくれる英雄を見つけることができればいいのよね。〈救い主〉が現われれば、すべてはまたよくなるはずだし、不安は支配者に取り除いてもらって、万一うまくいかないときは、そいつに罪を着せれば良いんだわ」が強烈です。そしてそれに続く「でもあたしはごめんだわ」。普通成長物語は「主人公の成長」を喜ぶものですが、本書ではそれはたいそう苦いものでもあります。なかなか、ファンタジーも複雑です。



単一

2010-02-20 17:27:11 | Weblog
 電池の話じゃありません。
 「日本人は単一民族」と言う主張があります。私はこれに与しませんが、では「日本は単一言語の国」だったらどうだろう、と考えてみました。大体当たっているようにも思えますが、方言の多様性は認めなければならないでしょう。実際私も遠く離れた土地の友人が方言をばりばり使うと全然理解できなくなります。自分の土地でも老人が古い古い方言をばりばり使うと話について行けなくなります。
 だったら「日本は単一言語の国」という主張も、あやしいということになるのでしょうか。

【ただいま読書中】『江戸名物評判記案内』中野三敏 著、 岩波書店(特装版「岩波新書の江戸時代」)、1993年、1456円(税別)

 18世紀後半に、稗史・名物・能楽・古銭・遊女・相撲・狂歌師・浄瑠璃・虫・さかな・学者・文人・医師・書家・仏教の宗派・五十三次の宿駅・瓦版の悪刷りなどなど、さまざまな「名物」の評判記が、主に江戸、あとは京・大阪・名古屋などで出されました。
 まずは「遊女評判記」と「役者評判記」。公許の遊里は天正十七年(1589)の京都がはじめで、江戸でも17世紀初めには「吉原(元吉原)」ができました。遊女歌舞伎は寛永六年(1629)に禁止されますが、すぐ若衆歌舞伎が起きそれが承応元年(1652)に禁止されると野郎歌舞伎になります。これで色(女色、男色)から離れた「演劇」(の基礎)が成立した、と言えるでしょう。逆に言えば「遊女」と「役者」は元は一体だったのです。ただし、遊女評判記の方は宝暦年間におわりましたが、役者評判記は明治まで定期刊行が続きます。これは「生身の人間(の容姿)」だけではなくて「その芸」を論評することで人々の心をしっかり掴んだから、と著者は述べています。そして、その役者評判記に対する「パロディ」として、様々なものの「評判記」が宝暦以降続々と登場することになりました。
 面白いのは、人物評に「学者・文人」があることです。役者や遊女と学者が同一ライン上にならんでその人気を「評判」されるのです。そういえば、近世中期には「何はともあれ褒めよう」という鷹揚さがあったのですが、近代に近づくと「何が何でもけなしつけよう」という潔癖性が台頭する、ともあります。「文化の性質」が昔と今では相当違うようです。
 江戸の評判記は、現代の「ガイドブック」とは相当趣が違います。なにより「遊び」の要素が大きい。それに対して現代のは「実用性」が重視されてますね。あ、「遊び」の要素が大きい「なんでもありのごちゃまぜ評判記」がありました。風俗関係の週刊誌だけではなくて、一般の新聞やテレビ。これもコマーシャリズムに毒されてはいますが、重たい話題から軽いのまで、なんでもありの「評判記」です。



みじんこ

2010-02-19 18:28:50 | Weblog
 家内から「みじん粉」って、何のデンプンなんだろう、という疑問を投げられたのでまずはブツを確認すると、たしかに袋には「原材料名 でん粉」としか書いてありません。検索すると虎屋のサイトに「寒梅粉」で載っていました。「もち米を蒸して搗き、餅にした後に白く焼き上げ、砕いた粉」のことで、関東では「みじん粉」と呼ぶのだそうです。なるほどなるほど。すると次のミッションが。「香煎」というのを店で探したけれど、見つからなかった、とのこと。よほど専門的な製品なのか、それとも呼び名がこちらでは違うんじゃないかな、などと思いつつ検索するとこれもあっさり見つかりました。「香ばしくいった大麦を粉にしたもの」で砂糖を混ぜて食べる、別名「麦焦がし」……つまりははったい粉のこと?
 ところでそういった粉を探して、何を作る気なのかな? これはネットを検索してもわかりません。

【ただいま読書中】『ファンタージエン 秘密の図書館』ラルフ・イーザウ 著、 酒寄進一 訳、 ソフトバンククリエイティブ、2005年、1800円(税別)

 1937年、ドイツでは街頭をナチスを支持する制服姿の熱狂した人々が練り歩き、政府の意に沿わない商店のガラスはたたき割られ、焚書が公然と行なわれる時代。その年の11月7日、職を求めていた本好きのカールは、古本屋の経営代行者とファンタージエン図書館の館長代行(兼救い主)に突然任命されてしまいます。図書館には不思議な虚空が広がっていました。『はてしない物語』でファンタージエン国のあちこちに生まれた虚無のような。そして、おさな心の君(金の瞳の君)は身体が冷たくなる病気になり、ファンタージエン国も少しずつ冷えてきています。
 いやもう、私はわくわくしてしまいます。だってファンタージエン図書館ですよ。そして若き日のカール・コンラート・コレアンダー。バスチアンが飛び込んだ古本屋の主ではありませんか。つまり本書は『はてしない物語』の“前章”なのです。
 極めて稀な優れた能力を持っているカールですが、自分のことを「人生の落伍者」と定義しています。それは父親にそう決めつけられ続けた「失敗した小児期」の産物ですが。(ここでの父子関係には『はてしない物語』でのバスチアンとその父との関係も色濃く投影されています。読んでいて切なくなります)
 さらにややこしいことが。外つ国の人間がファンタージエン国に永住したら、その人は「自分自身」を失ってしまいます。では、外つ国の人間がファンタージエン国の住人に恋をしたらどうなる? さらにカールはどんどん変貌していきます。『はてしない物語』のバスチアンは、「使命を果たした後」に変化しました。しかし本書でのカールは、ちょっと異常と言えるくらいの成長ぶりです。そして「あの剣」の由来も……いやあ、『ナルニア国』の「ガス灯」の由来を知ったときと同じ種類の衝撃を受けましたよ。
 幼ごころの君は「善きもの」も「悪きもの」も差別せずに受け入れます。そしてモットーは「汝の欲することをなせ」。それに疑問を持つカールにトルッツ老は「もし悪がなかったら、どうやって自分のしていることが善だといえるんだね?」と言います。著者が時代設定を1937年にしたのがここで効いてきます。当時のドイツは「唯一の善きこと」(ナチスの思想)に社会が支配され、それに反するものはすべて攻撃されていました。それを念頭に置きながら読むと、「善悪」の意味が微妙に自分の中でシフトしていくことを感じます。
 そうそう、本書では「署名のない文書」がやたらと大きな意味を持っています。最初は古本屋譲渡の契約書。そして次は幼ごころの君からの手紙。もちろんどちらにも“意味”はあるのですが。そして本書の最後。大きな音を立てながら本が閉じられると同時に開かれる、そんなシーンが私の目の前に展開されます。優れた作家は、優れた作品を生み出すだけではなくて、優れた作品を残す別の作家をも生み出すものだ、ということがよくわかる本です。『はてしない物語』のファンには無条件でお勧め。
 「けれどもこれは別の物語、いつかまた、別のときにはなすとしよう。」と何回も言っていたのに、ミヒャエル・エンデはその“約束”を果たしてくれませんでした。だったら、その「物語」で育った者たちが、かわってその「別の物語」を語ろうではないか、というシリーズの一作です。優れた本が何をこの世にもたらすのか、それが具体的にわかるシリーズです。