「北朝鮮の脅威」が声高に言われていますが、ここで私が思い出すのは「イラクの大量破壊兵器」「イラクの戦車軍団の精強さ」です。あれ、結局「過大評価」でした。
もちろん北朝鮮が無防備だ、なんてことを言う気はありませんが、あまりに「脅威」が言い立てられると、それを言う人の意図もちょっと考えたくなります。実際の所はどんなものなんでしょうねえ。「脅威」「脅威」と言う人は、具体的に何が危険だと考えているのでしょう?
【ただいま読書中】『アメリカ独立革命』ゴードン・S・ウッド 著、 中野勝郎 訳、 岩波書店、2016年、2600円(税別)
アメリカ独立革命はかつて「植民地の反乱」「知的で保守的な革命」などわりとシンプルな解釈を与えられていました。しかし20世紀になって「誰が支配するかを巡る争い」も注目されるようになり、様々な思想史的な解釈が示されるようになりました(中には「革命が成し遂げなかったこと(奴隷解放、男女平等、先住民への平等など)」に注目する立場もあるそうです)。著書はそういった歴史を踏まえ、賞賛や非難ではなくて、説明と理解のために本書を書いたそうです。
北米は「暴力」で彩られていました。グレート・ブリテン、フランス、スペインは相争い、インディアン各部族も相争い、植民地の白人たちも、交易商人はインディアンの定住地の保護を望むが土地投機者はインディアンの根絶を願いました。7年戦争でフランスが敗北して「ヨーロッパ」はブリテンに一本化されます。18世紀半ばに植民地の人口は急増し、居留地は「奥地」に広がります。そこでの秩序は、英国陸軍か自警団によって保たれました。
ブリテンの産業革命と植民地の急成長により、両者の交易は増大、イングランドの船舶の半数が両者間の貿易に使われました(労働者のための食糧が大量に必要だったのです)。イングランドの輸出額の25%は北米大陸向けで、スコットランドはそれ以上でした。その結果、豊かになったアメリカ人が増えます(アメリカ全体としての対外債務は増えたのですが)。
グレート・ブリテンは巨大な戦費にあえいでいました。戦って勝ち取った領土のほとんどは富を生まずそこに駐屯する軍隊は金食い虫です。“やる気のある”君主ジョージ三世は親政にこだわり国会と対立しています。イングランドの庶民は「政治体制そのもの」への不満をため込んでいました。そして「豊かな植民地」に徴税官と軍隊が差し向けられ、それはアメリカ植民地の不満を高めました。植民地の「経費」をまかなうために「タウンゼント法」によって関税ががんがんかけられますが、植民地は「ブリテン製品の不買運動」で対抗。「ボストンの虐殺」も起き、経済的にもタウンゼント法によってブリテンの“赤字”は拡大してしまい、結局紅茶以外の関税は撤廃となってしまいます。さらに植民地人がそれまで抱いていた「本国への愛着」は完全に破壊されてしまいました。そして「ボストン茶会事件」。ブリテン本国はこれを「この上ない秩序紊乱行為」として植民地を罰するために様々な法令発布と制度改革を行います。そして「アメリカ人」は「本国は自分たちに対して課税権も立法権も持つべきではない」と確信したのでした。10年以上前からの「代表なくして課税なし」の主張はどんどん強くなり、賛同者を増やしていきました。本国の権威は失墜します。そして、権威が失墜した政府が使えるのは、武力だけです。
総督は自分たちのまわりに「非公式な政府」(タウンやカウンティの委員会、植民地会議、全体会議、大陸会議)が勝手にどんどん構築されるのを見て仰天します。地域レベルでは、ブリテンびいきの人への脅迫も公然と行われました。植民地内の対立は帝国内の対立と複雑に絡み合っていて、事態はまるでらせん状のように動きます。ここで「国王への忠誠」を活かせば「帝国の一員としてのアメリカ」が成立したかもしれませんが、ブリテン政府はボストンで戦端を開きます。職業軍人対民兵の激しい戦いです。
植民地人は「古い自由(イングランドの体制内での自由)」を保持するために戦っている、と信じていました。しかし植民地人が読む、自由主義思想のジョン・ロック、ジョン・トレンチャート、トマス・ゴードンなどの著作は植民地では「違う文脈」で解釈されていました。ブリテンでは旧体制と変質しつつある帝国の「現実」に合うように“骨”が抜かれていましたが、北米では自由主義思想の理想の部分がきわめて真剣に受け取られたのです。さらに、ブリテン議会がまるで気まぐれのように法律や布告を押しつけてくる態度への反発として、「憲法」の制定を考えます。ブリテンは成文化された憲法を持っていない。だったら自分たちはその上を行こう、というわけでしょう。
本書に詳述された憲法や連邦の議会制度についての解説を読むと、賛成するにしても反対するにしても「イギリスのあり方」が「アメリカのあり方」に深く関係していることが理解できます。もちろん「北米特有の環境」も深く関係していますが、「独立」をするというのはけっこう大変な作業だと言うことがわかります。ただ、フランス革命とは違って外国からの干渉がそれほどでもなかったのはアメリカにとっては幸いでした。これで「周囲の外国」がやたらとちょっかいを出してきたら、話はもっともっとややこしくなっていたでしょう。
歴史の教科書は「整理・編集された証言集」と言えるでしょう。編集されない証言集は、扱いは難しいし信憑性にも問題はあるかもしれないけれど、「歴史そのものの生き証人」と言えるでしょう。
【ただいま読書中】『巴里籠城日誌 ──維新期日本人が見た欧州』渡正元 著、 横堀惠一 校訂現代語訳、同時代社、2016年、2800円(税別)
陸軍兵学校で学ぶためにパリに留学していた著者は、たまたま普仏戦争とパリ包囲(パリ籠城)を経験してしまいました。著者は新聞の引用を交えながら詳しく日記を書き残しています。
フランス国会で戦争開始が決議された1870年7月15日、日誌にはイタリアとロシアに特使が急遽派遣されたことが書かれ「理由がわからない」「意図がわからない」とあります。戦争を始めてから同盟国を求めるわけで、それは意味不明の行動ですよね、同時に5億フランの戦費借り入れが決定されます。ところが当時のフランスでは、入営を命じられた兵士はどこにいようとまず原隊の所在地に出頭して登録と装備の受け取りをし、それからすぐに命令された赴任地に向かうことになっていました。だからひどい場合にはフランス国内を端から端まで一往復する必要があったのです。当然「混乱」が起きます。さらに命令がころころ変更され、人々は右往左往。
敗戦の噂でパリの群集は絶望して暴れ、勝利の噂で歓喜して暴れます。パリ当局は、敵であるプロイセンと戦う前にパリの群集をコントロールすることに苦労しています。パリでの情報伝達の主要手段は「張り紙」でした。著者はそういった張り紙を丹念に読み、また、フランスだけではなくて、ロンドンから入手したベルリンの新聞も読んでいます。
市民は紙幣を金銀に交換しようとしましたが、両替所は早期に閉鎖されてしまいました。そこで人々は政府の銀行に押しかけました。8月12日に著者も両替に出かけましたが、数万人の群衆が銀行を取り巻き、兵隊や巡査が警備に数百名動員されていました。また、金貨への両替はできず、新しく鋳造された5フラン銀貨にだけ交換が可能となっていました。
仏軍は大敗し、ナポレオン三世は降伏して捕虜に。パリでは共和制が敷かれます。パリ市民が「皇帝憎し」で一致していることに著者は驚きます。先日まで歓呼していた皇帝に対してこの“手のひら返し”は「人心が、粗雑・軽薄・節操がない」ことを表している、と。そして人心がそのようになるのは「文明開化」の結果ではないか、と想像しています。明治維新期の日本人がこのような文明観を持っているのに、私は驚きました。
共和制の政府は「戦争は皇帝が起こしたもので,共和国政府にはその責任はない。だから領土割譲や賠償金はない」と宣言。いや、それは都合が良すぎる「リクツ」でしょう。戦勝国の機嫌がよほどよければ認めてくれるかもしれませんけれどね。
プロイセン軍がパリ郊外で目撃されるようになり、パリ籠城が始まります。著者が聞いて回ると、食糧の貯蔵は数箇月分あるから十分、とのことでした。このへんから日記には「数字」が多くなります。税金とかものの値段とか。「遠くの戦争」が「身近な戦争」にかわり、著者は「後世への記録」を意識するようになったのかもしれません。9月18日に籠城が本格的に始まりましたが、21日には牛乳がなくなり、物価は3倍になります。9月24日、共和国政府は気球を一つ打ちあげます。これは外部との連絡のために郵便物を乗せていました。それに対してプロイセン軍も気球を上げて対抗します。9月26日には外からの気球がパリに着陸。これにはパリ宛ての書館が積まれていました。9月28日、肉の値段は4倍に。量は全然足りず、人々は畜殺業者の門前に集まっています(政府は「量は十分」と説明しますが、著者は「政府の数が正しいとしたら、一日に牛一頭と羊8頭を4000人で分配することになる」と計算しています)。10月6日には内務大臣が伝書鳩6羽とともに気球でパリから脱出、各県に援軍の催促です。
派手な戦闘はないまま、日が過ぎます。いらだった群集が「責任者は辞めろ」と騒ぎ、政府の信任投票が行われて不信任が否決され、一時事態は収まります。11月11日の日記には、市民が猫を、兵士の駐屯地では犬を食べている、とあります。なお「市内では猫一匹が8フラン(日本の1両8分)」とありますが、これは「(日本の1両2分(または3分)」の誤植でしょう。当時の1両は約5フランですし、「8分」は2両になってしまいますから。パリ周囲の砦での戦闘により死傷者が次々出ます。12月6日(籠城80日)、獣肉は食べ尽くし、輸送用の馬を殺しますがとても足りず、犬・猫・鼠が店で売られます。犬の腿肉一本は8フラン、鼠一匹が1フラン(「袋のネズミ」となったパリ市民がネズミを食っていたわけです)。ガスと石炭が欠乏し、石油を灯火に使う、とあります。当時はまだ石油はあまり人気がなかったようです。穀物が不足し、パンは薄ねずみ色となります。ただし著者は「味は変わらない」と平然としています。ただ、その後少しずつ配給量が減らされたのは、お腹には堪えたのではないでしょうか。外からの情報は主に伝書鳩でもたらされます。その中に、ロシアがトルコと戦おうとしているというものもありました。独軍は対抗策として周囲の森に鷲や鷹を放ちます。
フランスの大砲や小銃は精巧でしたが、ドイツのもの(特にクルップ砲)はそれを上回っていました。籠城戦でパリはそれを身をもって味わうことになります。こちらからの大砲が届かない距離からクルップ砲ががんがん撃ってくるのですから(軍事目標だけではなくて、病院・学校・個人の住居なども次々破壊されます。1世紀あとの無差別都市爆撃の“原型”とも言えるでしょう)。籠城が100日を越え、市内には厭戦気分と政府に対する不満が充満します。政府は「北部軍がプロイセン軍を打ち破って救援に駆けつける」などと発表しますが、著者は「その根拠は?」と冷静に疑っています。さらに政府発表文の最後に必ずつけられる「仏国万歳、共和国万歳」は「無用の定型文」と切って捨てます。「パリの外国人」は非常に冷静で合理的です。また、声高に政府を非難し民衆を扇動し過激に動く人間は、いざ国政を任されたら何もできない、とも判断しています。
71年1月、講和条約についての折衝が具体的に行われます。1月末「残りの食糧は10日分」との発表。しかし、休戦協定が結ばれそうだとみて、悪徳業者は隠匿していた物資を「今のうち」と大量に放出したため市内の物価は一挙に1/2〜1/3に。そして「平和」が見えるようになると政争が始まります。著者は「共和派」「ボナパルト派」「オルレアン派」「正統派」の4派閥が大乱闘をしている、と見ています。
2月10日パンの色が「白」に戻ります。こういう些細な事実で「平和」がわかるんですね。「ハッピーエンドではないが、ともかく戦争は終わったね」と言いたくなる場面ですが、ここで話は「パリ・コミューン」へと急展開、というところで本書は終わります。まったく、どうやったら平和が維持できるんでしょうねえ。
かつて存在した社会党は、自社さきがけで政権に就いた後は凋落の一途で名前を社民党に変えてもその流れは変えられませんでした。歴史は繰り返すのかな、民主党もまた、政権に就いた後は凋落の一途で名前を民進党に変えても党勢回復にはなっていません。それどころか今度の総選挙では、希望の党と“合流”ですって? となると社民党よりも先に消滅を迎えるのでしょうか。
日本ではどうも「野党」は政権に就くと碌なことがないようです。となると自民党のしぶとさが際立ちますね。一体何が秘訣なんでしょう?
【ただいま読書中】『列島を翔ける平安武士 ──九州・京都・東国』野口実 著、 吉川弘文館、2017年、1700円(税別)
「鎌倉時代の有力御家人の所領は、一箇所にまとまっているのではなくて、全国あちこちに点在していた」ことを知ったのは、『蕩尽する中世』(本郷恵子)だったと私は記憶しています。
その鎌倉幕府が成立する前、12世紀前半には、東国だけではなくて鎮西にも有力な(数郡から二箇国に渡る勢力の)豪族的武士団がいくつも誕生していました。九州の多くの武士団は、11世紀前半までに京都や東国から移動してきた軍事貴族の系譜を引いています。治承・寿永の内乱によって全国を軍事占領した東国武士は地頭職を獲得、各地の所領に一族郎党を派遣したり在地の領主を代官としたりして、「広域ネットワーク」の中に自分たちを位置づけました。特に九州は平家に味方したとしてほとんどの武士団は滅亡・没落をし、そこには地頭が派遣されています。鎌倉幕府が成立すると、大宰府に派遣された武士貴族たちが「九州における新しい武士」として活動することになります。
平将門の乱の鎮定に功績のあった平貞盛や公雅の子孫たちは、権門貴族の傭兵隊長としてあるいは辺境の受領として活躍しました。寛仁三年(1019)に大陸から刀伊が北九州に襲来したとき迎撃した者たちの中核は、大宰府に下向した者(とその子孫)でした。刀伊の賊は、五十隻の船団で朝鮮半島の日本海側を南下し、対馬、壱岐、博多と松浦へ、と、後の元寇と似たルートを選択しています。一週間で刀伊は北九州から撃退され追撃を受けましたが、その際、大宰府を中心とする武士たちの機動ぶりはめざましいものがあったそうです。やがて平氏は、北九州から南九州にまで勢力を広げていきます。「土地」も魅力ですが、武士たちは南の島々との交易ルートも狙っていたようです。肥前と薩摩を結ぶ海路は、そのまま東シナ海の「海の道」につながっていました。ついでですが、南島産の夜光貝は平泉の中尊寺金色堂内陣の柱に螺鈿細工として使われていて「ネットワーク」が東日本にまで及んでいたことがわかります。
平氏滅亡直前、義経の兄範頼は豊前・豊後・大宰府を平定して、平氏の退路を断っていました。だから平氏は義経軍と戦うしかなくなっていたのです。目立たないけれど、大功績です。範頼軍に従軍していた千葉常胤は平氏滅亡後も九州に留まり「鎮西守護人」として戦後処理に当たり、豊前・肥前・大隅・薩摩などに所領を得ます。さらに平泉の藤原氏討伐軍では、下総守護の千葉常胤は「東海道大将軍」として出陣。その結果千葉氏は陸奥国の太平洋岸を中心に広大な所領を得ます。これだけ広い地域に点在する所領を上手く管理するためには、相当な工夫と能力が必要だったことでしょう。
鎌倉幕府の成立によって、薩摩・大隅・日向の守護に任じられたのは、東国御家人の島津氏でした。他にも多くの東国御家人が南九州に所領・所職を与えられましたが、その多くは南九州に移住していきました。中央から見たら「辺境」で「東国の論理」がそのまま通じやすかったのかもしれませんが、さしたる抵抗もなく彼らは在地の勢力に受け入れられていきます。そこで生存競争が行われて最終的に勝者になりそうだったのが島津氏ですが、その動きにストップをかけた(というか「中世」に幕引きをした)のが豊臣秀吉でした。ただ、関ヶ原の戦いでも九州征伐でも島津氏の処分はなぜか保留され、「中世」は薩摩の中で幕末まで生き残ることになります。明治維新の原動力が「中世の残照」だったとしたら、これは歴史的にはずいぶん面白い現象です。
「一所懸命」という言葉が「武士のあり方」を表す、と私は思っていました。しかし実際の武士の生き方はもちろん「一所懸命」ではありますが、「ネットワーク」「グローバル」の視点からも見る必要がありそうです。
今日読書した『女王陛下のブルーリボン』に「サッチャー男爵」が登場しました。あれれ、と調べてみたら、一代爵位で「バロネス(女性の男爵)」になっていたんですね。ちなみの夫のデニス氏は準男爵でこちらは世襲制だそうです。それにしても女の男爵って、なんだかとっても不思議な気がします。さらに本来は「騎士」に与えられるガーター勲章もサッチャー男爵は受けていますが、女性の騎士というのも、なんだか不思議な存在です。
【ただいま読書中】『女王陛下のブルーリボン ──英国勲章外交史』君塚直隆 著、 中央公論新社(中公文庫)、2014年、914円(税別)
タイトルの「ブルーリボン」はイギリスの「ガーター勲章」の別称です。14世紀のイングランド王エドワード三世の時代、国王主催の舞踏会でソールズベリ伯爵夫人ジョーンがで国王と踊っている最中にガーターを落とすという当時としては最高級の失態を演じてしまいました。周囲は嘲笑の渦。ところが国王はそのガーターを拾い自分の膝に着け「Homi Soit Qui Mal Y Pense(悪意を抱くものに災いあれ)」と言い「余はこのガーターを最も名誉あるものとしよう」と宣言しました。「ガーター勲章」の誕生です。それだけではなくて国王はガーター勲章士に叙した24人からなる「ガーター騎士団」を1348年に設立しました(アーサー王の円卓の騎士が12人だから、王と皇太子がそれぞれ12人ずつで24人、という“計算”だそうです)。現在でも(王族や外国の王侯をのぞく)イギリス臣民のガーター叙勲士は24人以内という規定が伝統として残されています。
戦乱のヨーロッパで、味方を得るためには実利の提供が一番ですが、それ以外に使われたのが婚姻と勲章でした。その国で一番の勲章という名誉をプレゼントすることで、心をつなぎ止めようとしていたのです。ガーター騎士団はもともとは対仏百年戦争のために設立されたもので、だからでしょう、ガーター勲章はしばらくフランスには授与されませんでしたが、勲章創立180年後についにフランス君主にも贈られました。神聖ローマ帝国との戦争のためです。しかしやがてイギリスは「不実の白い島」としてヨーロッパでは孤立状態となり、外交に「ブルーリボン」は活用されない時代が続きました。情勢が変わったのはフランス革命とナポレオン戦争。ここでイギリスは「ヨーロッパの要となる強国」にのし上がり、年表で見るとブルーリボンはどんどん贈られ、さらにイギリスの摂政皇太子ジョージ(のちのジョージ四世)にはヨーロッパ各国からこぞって最高位の勲章が贈られています。17世紀には「西の辺境」だったイギリスは19世紀には「強国の一員」になっていたことが勲章からもわかります。そしてヴィクトリア女王が即位。64年近い治世でイギリスは大英帝国へと変貌しますが、女王はブルーリボンを冷静に“活用”しようとしていました。ただ、女性と異教徒へのブルーリボン授与を女王は嫌がりました(「キリスト教の騎士団」の伝統を守ろうとしたのでしょう)。
次のエドワード七世は、自身が勲章好きで、在位わずか9年で母親以上の数の勲章を受けました。また、女性への授与の門戸を開放し、王族以外の女性と外国の女性君主への叙勲を拡大させました。しかし、異教徒へのブルーリボン授与には慎重でした。ペルシアのシャーがブルーリボンを希望し、対ロシアのことを考えて外務省がそれを積極的に後押ししたときにも国王は慎重でした。次に登場した“異教徒”が、日英同盟で大英帝国にとって重要な地位を占めることになった日本の天皇でした。
ただ、ガーター勲章は「一代限り」のものであり、かつ「剥奪することがある」ものです。わかりやすいのは、戦争で敵に回った場合で、第一次世界大戦や第二次世界大戦では剥奪例がいくつもあります。昭和天皇のガーター勲章も当然「なかったもの」にされてしまいました(具体的にはウィンザー城のセント・ジョージ・チャペルにずらりと掲揚されている現在のブルーリボン着用者の紋章旗(バナー)が降ろされます)。しかし日英関係が復活するにつれ情勢は変わり、1961年アレキサンドラ王女訪日の時から昭和天皇はブルーリボンを再び佩用することが認められるようになりました。
金も現世的な権力も持っている人たちが、お互いを喜ばせようとしたら「名誉」ということになるのでしょう。ただ、それで世の中が上手く回っていくのなら、王室とか勲章という制度にも現世的な意味があるのでしょう。私自身はそういった世界の一員になりたいという欲望は感じませんが。ささやかでも気楽な生活が一番。
以前ある大きな神社に参ったとき、お賽銭箱がオープン形式で中が丸見えだったのですが、大量のコインの中にお札がちらほら混じっていました。私は三つのことを思いました。
「お賽銭ではなくてお賽札だな」
「神様って、金額の多嘉によって願いを叶えてくれる確率が変化するのかしら?」
「もしかしたらあのお賽銭の主は金持ちで、あの程度は“小銭”なのかもしれないな」
ちなみに、私がそっと投じたのはコインで、別に願い事はせずに「祓いたまえ、清めたまえ……」のいつものご挨拶をしただけでした。
【ただいま読書中】『ノービットの冒険 ──ゆきて帰りし物語』パット・マーフィー 著、 浅倉久志 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF1357)、2001年、800円(税別)
銀河系の片田舎の小惑星帯に住みついてのんびり暮らしているノービット一族のベイリーが、ある日偶然(銀河で一番金持ちの)ファール家の紋章がついたメッセージ・ポッドを拾うことからお話は始まります。正直者のベイリーは「ポッドを拾ったよ」と通信を届け出ました。それが銀河を股にかけた大冒険の始まりだとは思いもせずに。
まずやって来たのは、ガンダルフ、ではなくて冒険家のギターナ。そして7人の「ファール」のクローンたち。なぜか全員女性です。
この世界では、ホシ駆動で光速ギリギリまで迫ることはできますが、「光速の壁」は厳然と人々の前に立ちふさがります。ブラックホールによるワームホールを使えば瞬間的に「他の星域」に移動することは可能ですが、これは一方通行です。そのため「ワームホールの地図」は非常に貴重な「財産」となっていました。ベイリーが拾ったポッドには「銀河全体のワームホールの分布図」に関する情報がおさまっていました。ファール一族は色めき立ち、ギターナをアドバイザーとして銀河中心への冒険旅行を企画し、そこになぜかベイリーが強引に巻き込まれてしまったのです。『ホビットの冒険』のビルボのように。
ただ、本書は、単純に「『ホビットの冒険』の舞台を銀河に移しただけの物語」ではありません。たしかにストーリーの骨格はそのままです。ベイリーは「ゴクリ」ではなくて「ゴトリ」と命を賭けたなぞなぞ遊びをしますし、自分の姿を見られないようにするためにある“道具”を使います(魔法の指輪ではありませんが)。頭を打って気絶したり、樽の代わりに救命ポッドにファールたちを詰め込んで命からがらの脱出をするし、「竜の洞窟」は宝の山です。宝の山に魅了されたドワーフが「餓鬼」になったように、ファールもまた「餓鬼」になってしまいます。
だけど「違う物語」です。
本書では『スナーク狩り』(ルイス・キャロル)からの引用が各章の頭にされていて、そちらに注意が向いてしまいますが、それだけではなくて、「白雪姫と七人の小人」を逆転させた「小人と七人の(荒っぽい)美女」のパーティー構成から明らかにフェミニズムの要素も読み取れます。といっても「がちがちのフェミニズム正義!」ではなくてホビット、じゃなくて(男女差からさらに“遠く”に位置する)ノービットからの「男女観」によるフェミニズムですが。「男」や「女」から「男女」を見たらあまりに“近”すぎてどうしても過激な言葉を使いたくなるところが、ノービットからだとその性格からしてもふんわりとした物の見方になるというところでしょう。
で、さいごにちゃんと「五軍の戦い」もあって、めでたしめでたし、にはならないんですよね。ウラシマ効果(旅人が光速に近い速度で移動すると、相対性理論によって時間の経過が遅くなるので「故郷」ではその間に世代が変わってしまっている)のために、ベイリーがあれほど懐かしく思っている「故郷」ではすでに数百年が経過してしまっているのです。「ゆきて」はできましたが「帰りし」ができないのです。ところがここで著者は実にエレガントな解決法を見せます。さらにここで著者自身が(名前だけですが)登場。いやもう、遊び心満載で、私自身は満足して読み終えることができました。このまま「終わりなき休息」に入ってしまいたい、と思うくらいです。
都民ファーストとかアメリカファーストとか「ファースト」ばやりですが、すると北朝鮮がやってることも「北朝鮮ファースト」と表現できることに?
【ただいま読書中】『普仏戦争 ──籠城のパリ132日』松井道昭 著、 横浜市立大学学術研究会(横浜市立大学新叢書)、2013年、3000円(税別)
フランス革命に対する干渉戦争、ナポレオン戦争で乱れきったヨーロッパに「平和」をもたらしたのはウィーン条約ですが、フランス・ドイツともそれに大きな不満を持っていました。しかし当時のドイツはバラバラで力が弱く、フランスはフランスで7月革命や2月革命で挙国一致体制が取れませんでした。ともかく各国が不満を持つウィーン条約体制ですが、それが機能していた100年間(第一次世界大戦まで)、ヨーロッパではなぜか歴史的には例外的に戦争が非常に少ない時代となりました。その例外が、クリミア戦争と普仏戦争です。
「誰も戦争を望んでいなかったのに、起きてしまった」戦争として、第一次世界大戦が有名ですが、実は普仏戦争も(ビスマルク以外には)「誰も戦争を望んではいない」状態でした。ところがスペインの王位継承問題にフランスが口を挟んでから、数時間ごとに事態は「戦争へ」のコースに乗ってしまいました。フランスでは、新聞によって世論が沸騰し、それに国会は引き摺られてしまい、とうとう宣戦布告を決議してしまいます。しかし軍の準備は全然間にあっていませんでした。プロイセンはその逆で、軍の準備はできていましたが国民は戦争への心の準備ができていませんでした。そこでプロイセンは「フランスが宣戦布告をした」ことをもって、「この戦争は民族防衛」という大義名分を大々的に打ちあげます。
デンマークは、国民はフランス寄り、宮廷はプロイセン寄りでした。イタリアでは、国王はフランスびいきでしたが、国論は二分されていて、さらにローマ問題(イタリア独立と統一のときからフランス軍が教皇軍としてローマに駐留し続けていること)が話をややこしくします。オーストリアは、多民族国家であるためもめにもめた末中立を選択。南ドイツ諸国も実は動揺していました。プロイセンの併合主義に危惧を抱いていたのです。しかし「ドイツ人」としての意識が最後に物を言います。
フランスは、ナポレオンの時には一国で全ヨーロッパを相手に連戦連勝だった記憶から、自信たっぷりに戦端を開きます。言葉も壮大で軽やかなものばかりでした。対してプロイセンのモルトケは慎重の上にも慎重を期します。どうやら「勇者」は、大言壮語ではなくて慎重を選択するもののようです。
「戦争」は変貌をしつつありました。歩兵は鉄道によって大量輸送され、高性能の大砲が機関銃や騎兵の突撃を無効にしつつありました。しかしフランス軍はその変化に乗り遅れていました。開戦時、ドイツ軍は80万・大砲1500門で、フランス軍に対して兵員で2倍・大砲は10倍の優位を持っていました。さらにフランス軍は、作戦計画がなく、装備や食糧も不足していました。そのため、緒戦のシュピッヘルンの戦い(司令官シュタインメッツがモルトケの命令に違反して攻撃したもの)以外は、フランスの一方的な敗北となりました。しかしビスマルクの本当の狙いは、「戦闘に勝つこと」ではありません。「パリを包囲すること」だったのです。
その必要がないのに軍を指揮していたフランス皇帝ナポレオン三世は降伏し捕虜になります。しかし「パリ」は敗北を認めませんでした。革命臨時政府が成立しますが、その内部では、急進革命派と穏健共和派の対立が深刻でした。
パリ包囲に関して、ドイツ軍は楽観していました。革命政府は基盤が脆弱で自壊するだろうし、防衛軍は数が少なく、200万の人口を養う食糧は足りないはず、だから早期に降伏するだろう、と。パリ防衛軍も楽観していました。巨大都市を少数の軍隊で完全包囲することは不可能だし、フランスの地方軍がその背後から襲うからすぐに包囲は解かれるだろう、と。面白いのは、どちらの楽観論も違っていたことです。かくして、両者にとって予想外の“長期戦”が始まりました。
そのときドイツは統一、フランスではパリ・コミューンの内乱が起きました。結果として、フランスはアルザスとロレーヌをドイツに割譲し50億フランの賠償金を支払いました(完済するまでドイツ軍に占領されました)。これはフランス側に強い恨みの感情を残しました。
普仏戦争で屈辱を得たフランスは、一国ではかなわないと、イギリスとロシアを味方に引き込む外交戦略を採りました。ドイツは一気呵成に国の統一を成し遂げて単独では強国になりましたが、オーストリアとトルコを味方にして満足するしかありません。こうして、普仏戦争によって第一次世界大戦の“準備”ができました。「戦後」は「戦前」でしかなかったのです。
『ノービットの冒険』(パット・マーフィー)という本を読もうとしたらその副題が「ゆきて帰りし物語」でした。これは『指輪物語』の中で、ホビットのビルボ・バギンズが以前の自分の冒険を書いた本のタイトル(つまりこの世界だと『ホビットの冒険』と呼ばれる本のこと)です。あれれ?と思って解説をまず開くと「『ホビットの冒険』をスペース・オペラの舞台にうつしたもの」とあるじゃありませんか。だったらまず元ネタの方を読み返す必要があるでしょう。5年前に読んでいますが、細かいところは完全に忘れていますので。
【ただいま読書中】『ホビットの冒険』J・R・R・トールキン 著、 瀬田貞二 訳、 岩波書店、2002年、2800円(税別)
まずはホビットの説明から。ドワーフ小人(白雪姫)よりは小さくて、リリパット小人(ガリバー旅行記)よりは大きな小人です。ひげと魔力は持たず、丘をくりぬいた立派なトンネル住居に住み、姿を隠す名人で、大食漢です。まず登場したのは、くつろいでいるビルボ・バギンズ。そこに山の向こうから魔法使いのガンダルフがやってきます。冒険に勧誘されたビルボはにべもなく断り、ガンダルフはあっさり引き下がりますが、翌日ビルボの家にドワーフ小人が次から次へと押しかけてきます。なんと13人、そしてガンダルフも。白雪姫は7人の小人ですが、ビルボは13人のドワーフと魔法使いなのです。
ドワーフたちはかつては繁栄した谷間に住んでいました。しかしそこを悪い竜スマウグに襲われ、ほとんどの住民は殺され宝物はすべて奪われていました。それを奪還しよう、というのが今回の「冒険」です。そういった冒険への義理も意欲もないビルボは当然拒絶反応しか示しませんが、何がどうなったのかいつの間にか冒険の一行に加わっていました。
エルフのエルロンドの館で夢のような日々を過ごした後、一行が出会ったのは3人の凶暴なトロル、次が凶悪なゴブリンの大軍、そしてゴブリンに連れ込まれた地底の闇の中でビルボは一行からはぐれ、“宝”とゴクリに出会ってしまいます。ビルボがやっと一行と再会できたら、こんどは凶悪なオオカミたち。さらにガンダルフと別れた後、いろいろあって森のエルフたちに一行(13人のドワーフとビルボ)はとっ捕まってしまいます。エルフというから「悪者」ではないのですが、ビルボがエルフの館で夢中になったエルフたちと比較したらまるで野蛮人でした。いやもう、危機また危機のてんこ盛りです。映画化するのに3本必要だったわけもわかります。
それでも一行はやっと竜が住む峰の近くまでやって来ることができました。南側の表門から堂々と入るのは危険すぎます。ドワーフたちが望みを持っていたのは西側の隠し入り口です。しかしそこには魔法がかけられていて、魔法が使えないドワーフ(とホビット)は手も足も出ません。それでも何とか侵入すると、そこには竜のスマウグが宝物の山を蒲団代わりに獲物がくるのを待ちかまえています。しかし、ビルボが得た情報によって、ついにスマウグは退治されてしまいます。めでたしめでたし……ではありません。竜がいなくなった「宝の洞窟」に、欲に駆られた人間やエルフが群がってくるのです。そのため、ビルボたちはこんどは竜の代わりに人間とエルフの合同軍によって洞窟に閉じ込められてしまうことになってしまいました。さらにそこにドワーフの援軍が到着し、交渉が決裂して戦端が開かれようとしたとき、こんどはゴブリン軍とオオカミ軍が到着。のちに「五軍の戦い」とよばれる決戦が始まったのです。
このあたりで私は「指輪物語」よりも「ナルニア」の方を連想していました。ナルニアほど宗教色はありませんが、はらはらドキドキとか戦いの有様のスケール感が似ている気がします。となると、こんどはナルニアを読み返すことに?
スーパーでぶらぶらしていると「今だけ2個増量」なんて言葉がでかでかと袋に印刷されたお菓子などに出くわすことがあります。なんとなくお得感があるのでつい手に取ってしまうのですが、これ、わざわざ新しい袋を印刷してお菓子の製造ラインも変更する(たとえば「10個詰め」と「12個詰め」ではラインの設定を変更する必要があるはず)という“コスト”を投入して、さらに安売りをする、というのは大変だなあ、と企業の方に同情してしまいます。
でも、買うかどうかは「量」ではなくて「味」が好きかどうかで、私は決めます。悪しからず。
【ただいま読書中】『新聞の凋落と「押し紙」』黒藪哲哉 著、 花伝社、2017年、1500円(税別)
日本の新聞は凋落の時代を迎えています。発行部数はどんどん低下していることが「ABC部数(日本ABC協会が監査する中央紙の発行部数)」の推移からわかります。これは新聞社にとっては深刻な事態です。発行部数の減少は“売上”の減少に直結しますが、もう一つ、広告費は「発行部数(の多さ)」によって決められているので、公称発行部数が減少すると広告単価も減ってしまうのです。
日本の新聞は「宅配制度」に依存しています。販売店が注文を出すとその部数に「予備紙(配達中に破損すると見込まれる分。標準的には2%)」を加えたものが店に届けられます。ところが実際には「30%増し」くらいの新聞が販売店に届けられています。そしてその分の卸代金を店は会社に支払わなければならないのです。これを「押し紙」と呼びます。明らかに独禁法違反の行為ですが、公正取引委員会がこれを問題にしたのは1997年の北国新聞の「一件」だけです。なぜか摘発に及び腰です。国会質問があっても政府は対応に及び腰です。……なぜ?
「押し紙」は新聞社にはメリットがあります。直接的には代金収入が増えますし、さらにABC部数を水増しすることで広告費を増やせます。
「広告費」で見ると、新聞は斜陽、インターネットは右肩上がり、が歴然としています。企業は、広告代理店に大金を払って効果が不確かな(しかも部数を「押し紙」で誤魔化している)新聞広告を出す従来のスタイルをやめ、インターネット広告に移行しつつあるのです。さらに折り込み広告も、発注主が押し紙分を減らす傾向が出始めました。「押し紙」で販売店は損害を受けますが、折り込み広告の“増量”でいくらかその分は補填できていました。それどころか、「押し紙」ではなくて、販売店が自分から水増しをする「積み紙」もあります。販売数を水増しすることで折り込み広告費と新聞社からの補助金で黒字にする、という戦略です。そこで折り込み広告が減ると、販売店は立ちいかなくなってしまうのです。
しかし、「押し紙をやめさせてくれ」と裁判所に訴えると「自分で注文したんだろ。多すぎるのなら自分で返せ」と裁判官が「注文書の文面」だけを外形的に見て「力関係」をまったく無視した判決を出すのには、あきれます。「世界」について判断する人は「世界」について無知であって欲しくない。
「新聞の凋落」を「好機」と見る人もいます。たとえば政治家。弱みにつけ込んで「自分の広報機関」として既存のメディアを利用できるからです。もちろんメディアの方も、経済的に優遇されたり「特ダネ」がもらえるのだったら、と尻尾をふります(ふるメディアもいます)。かくして、安倍首相とメディアの会長たちとの会食は数を重ねることになります。「内閣府や中央官庁」=「広告代理店」=「新聞社」の結合ラインに、莫大な国家予算が流れることになります。たとえば2015年「重要施策に関する広報」には60億8600万円が支出されました(電通が32億円、博報堂が25億4500万円)。「御用新聞」には困りますが、広告代理店と政府との契約にも不明朗な点があって、会計検査院は文句を言わないのかな、と私は思います。
新聞は政府に「自分たちには軽減税率を」と求めます。これもまた「経済的優遇」を求める態度ですが、ここには「押し紙にも消費税がかかっている」ことも影響している、と著者は読み解きます。ただ、最近「ABC部数」がどんどん落ちているのは、「新聞を読む人が減っている」ことを意味するのかもしれませんが、もう一つ「押し紙が減ってきている」ことを意味しているのかもしれません。もし後者だったら、それは(手遅れ気味とは言え)新聞が“健全化”に向かっていることを意味するのかもしれません。手遅れでなければ良いんですけどね。
「滝廉太郎」の読書記録第三弾です。
【ただいま読書中】『滝廉太郎 音楽写真文庫Ⅵ』属啓成 著、 音楽之友社、1961年、250円
遺族や元同級生が持っている写真を中心に編まれた本です。家族や同級生の写真にはどれも「昔」がそのまま写っています。滝廉太郎にとっての“恩人”である大吉一家と一緒に写した写真もあります。
面白いのは、学校の制服(5つボタン)の第一ボタンだけをしめてあとは開けっ放し(まるでマントのような着こなし)をどの写真でもしていることです。それが彼流のダンディズムだったのでしょうか。
ユニークなのは、成績表の写真。芸大音楽部に滝廉太郎の学籍簿が保存されていて、それで成績がすべてわかりますが、なかなか優秀な成績であることがわかります。
今回「瀧(滝)廉太郎」について3冊を集中的に読んで見ました。読む前には、音楽之友社の本が一番“音楽的”で岩波新書が一番資料的なのか、と予測していたのが、実際に読んでみたらみごとに逆でした。ただ「同じタイトルなのにすべて中身が違う」ことは予測が当たっていたので、全部読んで良かった、が今回の私の結論です。
「滝廉太郎」第二弾です。
【ただいま読書中】『滝廉太郎』小長久子 著、 吉川弘文館、1968年(新装第一刷1987年)、1800円
さすが歴史の吉川弘文館、まずは滝家の先祖から話が始まります。初代は滝俊吉といって紀州の人で、青年のころ江戸に出ていて、乱暴者を取り鎮めたのが日出(ひじ)藩(現在の大分県日出町)初代藩主木下延俊に認められて召し抱えられたそうです。子孫も代々木下家に使え、家老も出ている名門の一家です。廃藩置県後、廉太郎の父吉弘は東京に出て官僚として勤め、最後は大分県大分郡、ついで直入郡の郡長となり、それで廉太郎は竹田町の官舎で過ごすことになります。級友が驚いたのは彼の音楽の才でした。アコーディオン、ハーモニカ、尺八、ヴァイオリン、オルガンとどれも巧みに弾きこなしていたそうです。廉太郎は音楽で身を立てることを決心しますが、当時は音楽は「女がするもの」の時代、父親は強硬に反対しますが、従兄の大吉が理解があり父親を説得してくれます。
音楽学校のカリキュラムは、予科(35人仮入学、卒業できたのは5人だけ)、本科師範部が2年間、本科専修部が3年間でした。音楽だけではなくて、倫理・国文学・漢文学などもあるのには私は首を傾げます。なお、当時滝が住んでいた家は、昭和43年にはまだ現存していました(写真があります)。在学中の演奏会のプログラムが何枚も掲載されていますが、明治29年とか30年なのに、バラエティーに富んだ曲目が並んでいます。滝は主に合唱にテノールで参加していたようです。また、作曲の授業で課題として作曲した作品も残されています。明治31年6月11日の演奏会第一部で、滝は2台のピアノで4人が演奏する連弾でメリオー作曲「メヌエット」を演奏、第二部ではベートーヴェンの「ロンドー」を独奏して聴衆を感嘆させました。卒業演奏会ではクレメンチの「ソナタ」をピアノ独奏しています。明治31年9月滝は研究科に入学し、ピアノと作曲の勉強をさらに続けました。残された蔵書や写譜は、あの時代によくもこれだけ、と驚く量だそうです。当時「音楽は女がするもの」だったのは上に記しましたが、だからこそ男も留学をさせて本格的な西洋音楽家を育てよう、という気運もあり、滝はその有力候補となっていたようです。
昨日の『瀧廉太郎 ──夭折の響き』(海老澤敏)では人や建物の写真が多く使われていましたが、本書では写真は少なめで、歌詞が多く収載されています。
「荒城の月」の〈嬰ホ音〉の話は本書にもありますが、それほど追究はされません。むしろ同時期に滝が力を入れていた「幼稚園唱歌」の方にページが割かれています。文語調の難しい歌詞ではなくて、子供にもわかる話し言葉の歌がないだろうか、ないのだったら作ってしまおう、ということでできたものです。ふさわしい歌詞が足りなかったのか、「作詞・作曲 滝廉太郎」という歌がいくつもあります。
ついにドイツ留学。新橋から汽車で横浜へ。そこでドイツ船「ケーニヒ=アルベルト号」に乗船です。船中では、船のボーイや風呂番たちが小さなオーケストラで演奏する腕前が、日本の音楽学校の優等生よりも立派なのに滝は驚いています。ドイツでの生活の驚きと喜びも、本書に引用された彼の手紙から生き生きと伝わってきます。そして発病、志半ば、というか、まだ始まったばかりなのに、帰国。その途中、ロンドンで船が5日停泊しましたが、その時「荒城の月」の作詞者土井晩翠(英国留学中)が滝を見舞っています。作詞者と作曲者が出会ったのはこれが最初で最後でした。
「資料」に徹底的にこだわって書かれた本です。その分情緒には欠きますが、周囲の人間の反応から見ると、滝廉太郎は「愛されキャラ」だったように私には感じられました。早世が返す返すも惜しまれます。