【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

信頼関係

2011-11-30 18:50:31 | Weblog

 「田中聡沖縄防衛局長の不適切な発言」で一川防衛相は記者会見で「沖縄県と信頼関係を向上するために努力してきたことが失われかねない大変重大なこと。」と述べたそうです。これが「信頼関係を構築」と言っちゃうと「ゼロから作る」とも取れるから、「信頼関係を向上」と言って「すでにプラスいくらかの状態であるところから、もっとプラス方向に上積みをする」というニュアンスを込めているのでしょう。政治家というのは言葉を選ぶものだ、と感心しました。で、「向上」の具体的な事例として、最近の「軍属の裁判権を日本でも」というのがあるのだそうですが……あれって「米国にお願いしてそのお情けで」ということなんですよねえ。私はすっきりしません。
 なんだか「理不尽なことをこれまで散々強制しておいて、その理不尽さをほんの少し軽減したからそれで『信頼関係』が“向上”するよね」と言っているみたいで、私には「女を姦(や)る」発言と根っこが同じ発想のように見えてしまいました。セクハラ親父が職場で「昨日まではお前たちのお尻を10回触っていたが、今日から一日8回にするから感謝しろ」と言っているような……でも「セクハラくらいでがたがた騒ぐな」の人も世の中にはいるでしょうから、“問題”はない、ということなんでしょうね。

【ただいま読書中】『死の世界1』ハリー・ハリスン 著、 中村保男 訳、 創元推理文庫、1967年(80年15刷)、360円

 凄腕の賭博師ジェイソンは、惑星ピラスの大使カークからとんでもない依頼をされます。ピラスの人間たちが2年間汗水垂らしてさらに命まで賭けて働いて稼いだ2700万クレジットを、カジノで一晩で30億クレジットにしてくれ、と。好奇心と騒ぐ賭博師の血に負けてギャンブルに成功したジェイソンは、その金が武器弾薬の購入費に充てられることを知ります。戦争ではありません。ピラスで、人類が生きのびるための戦いのためなのです(ちなみにピラスでの人類の平均寿命は16歳です)。
 好奇心に負けて、ジェイソンはピラスに渡ることにします。
 惑星ピラスは死の世界でした。重力が地球の倍もある上に、環境自体が人類に有害です。そしてそこに棲息する総ての生命体が(植物も動物も)人類を殺そうとしているのでした。はいはいができるようになったピラス人はまず生存訓練を受けることになります。安全なものが何一つないことを学び、自分で自分の身を守ることができるように。できない人間は死ぬだけなのです。
 自分は無力なよそ者だ、と思っていたジェイソンは奇妙なことに気づきます。生態系が変なのです。ピラスの生命体は、人類にだけ有害・有毒で、お互いは殺し合っていません。しかもピラス植民当時にはそこまで人類に敵対的な環境ではなかったこともわかります。何が過去にあったのかを知り、今のままでは滅亡が必至のピラス植民地の未来を変えるために、とジェイソンの孤独な“戦い”が始まります。ピラスの人々はよそ者によって自分たちの社会が引っかき回されることを好みません。さらに、“今日”を生きのびるだけで精一杯です。未来のために動けるのは、ジェイソンだけなのです。何かと言えば反射的に銃が引き抜かれる世界で、ジェイソンは、自分が殺されないための戦いと惑星ピラスの未来を救うために必死で動き続けます。
 何かで激しく対立している二つの集団があった場合「対立しているという事実」にだけ注目するのではなくて「対立の要点は何か」と一度原点に戻ってみることは、迂遠なようですが実は最短の解決法かもしれない、と思わせてくれる作品です。最後の“解決”はちょっと素早すぎるような気はしますけれどね。昔読もうと思って結局読みそびれていた作品ですが、なんとか読むことができて良かった。



クレタ人のアンケート

2011-11-29 19:00:21 | Weblog

 「エピメニデスはクレタの人で、次のような金言を残した。「クレタ人はみなうそつきである」」というパラドックスがあります。そのことを考えていて、こんなインターネットアンケートを思いつきました。「あなたはアンケートに正直に答えますか? 1)正直に答える 2)不正直に答える」。さて、「クレタ人」にこのアンケートをしたら、どんな集計結果になるか……といえば1)が100%になるはずですね。常に正直なクレタ人は1)と回答するし、常に不正直なクレタ人も1)と回答しますから。パートタイムの正直者? そんな人は「クレタ人」には存在しないのです。

【ただいま読書中】『ブロードウェイの天使』デイモン・ラニアン 著、 加島祥造 訳、 新潮文庫、1984年、280円

 ブロードウェイの裏通りに住む人々の、ペーソスとユーモアあふれる短篇集です。
 ヨーロッパの小国の国王暗殺を請け負ったチンピラたちが押し入った国王の寝室で見つけたものは……(「紳士のみなさん、陛下に乾杯」)。
 「キング」の娘の「プリンセス」が落ちた世紀のロマンスの顛末と周りの人々の思いやりやら好意やら下心やらのごった煮と、そして入れ替わった馬とビール強盗の物語、という筋だけ書くとわけのわからない(でも読むととっても面白い)話もあります(「プリンセス・オハラ」)。
 腹に一発ぶち込まれたギャングの親玉と、彼に殺されたギャングの仲間との撃ち合い、それに巻き込まれた死を目前にした子猫、というなんとも悲惨な話のはずなのに、結末がとってもハートウォーミング、という本当に不思議なまるで手品のような話もあります(「片目のジャニー」)。
 別れて暮らしている娘に対して、見栄を張って自分は上流階級の男と結婚した、と手紙を書いている落ちぶれた年増女「マダム・ラ・ギンプ」のところに、スペインからその娘が結婚相手の貴族一家と会いにやってくることになりました。さて、ブロードウェイの人々は色めき立ちます。ここは一肌脱ごうと。社会の底辺で生きる人々が、上流階級になりきっての“ご接待”です。いやもう、心がほのぼのとしますが、もちろん素直に話が終わるわけがありません(「マダム・ラ・ギンプ」)。
 借金のカタにノミ屋の置き去りになった小さな女の子(マーキー)。ノミ屋のベソ公は困り果てて彼女を連れて皆に相談をします。警察に連れて行く・新聞広告を出す……しかしベソ公は結局自分でマーキーを引き取ることにします。しかし「みんな」も結局巻き込まれてしまいます。無邪気にダンスを踊るマーキー、それに夢中になるベソ公、その二人によって街の雰囲気は少しずつ変わっていきますが……(「ブロードウェイの天使」。
 そして最後は、乳呑み児を連れての金庫破り(「ブッチの子守唄」)。「そんな馬鹿な」と言いつつ、読者は著者が言葉で紡ぐあやしくも不思議な世界に巻き込まれていきます。
 この本は電車の中など人前では読まない方が良いでしょう。にまにましてしまって、他人の注目を引くかもしれません。だけど、単に面白おかしいだけの短篇集ではありません。笑いの陰にはペーソスと、人間心理への柔らかい洞察があります。著者が江戸時代の日本に生まれていたら、きっと良質な落語を量産していたことでしょう。ああ、つまり本書は「禁酒法時代のアメリカの裏町を舞台にした落語」なんだ。だから語り手の言葉が読者の頭の中に良く響くんですね。「高級」とは言えませんが「良質」な短編(アメリカ落語?)を読みたい方には、強くオススメ。



最終決定権

2011-11-28 18:38:09 | Weblog

 会議などでいろいろ嫌になることがあります。「なんでそんなことにこだわるんだよ」と言いたくなる細かいところにねちねちイチャモンをつける人が登場すると、会議は膠着してしまいます。で、思ったのですが、どうしても膠着してしまったときに、「もしこの決定でまずいことになった時に、“被害者”が会社相手に訴訟を起こしたら訴えられる立場の人」に最終決定をしてもらう、というのはどうでしょう。それだったら、「自分は安全地帯にいる(訴えられる心配がない)」人がそれを良いことに好き放題言っても無視できますよね。そして、決定した人がそれが原因で訴えられても、それは自分の決定のせいだから、あきらめることができますよね。

【ただいま読書中】『事故はこうして始まった! ──ヒューマンエラーの恐怖──』S・ケイシー 著、 赤松幹之 訳、 1995年、化学同人、

 致命的な事故あるいは大事故が起きた時「責任者」探しが行なわれます。そして「最後に間違えたボタンを押した人」が多くの場合責任者とされます。しかし……
 1971年6月、サリュート宇宙ステーションから地球に帰還途中のソユーズ宇宙船で事故が起きました。ハッチに組み込まれた圧力平衡バルブ(大気圏内でカプセル内部と大気圏の圧力のバランスを取るためのバルブ)が真空に向かって開いてしまったのです。そのままではカプセル内部は真空になってしまいます。その場合には、ハッチ中央の小さなハンドルを指で捻って回せばバルブは閉じます。しかし宇宙飛行士はその閉鎖に失敗し、三人の宇宙飛行士は死亡しました。さて、ここでの「責任者」は誰でしょう? 実はバルブを閉めるためには、指でハンドルを捻る動作を1秒に2回、それを2分間くらい続けなければ完全閉鎖ができない設計になっていました。しかしバルブが開いてしまったら、カプセル内の空気は数十秒以内になくなってしまいます。つまり、「実際に使われる状況」にふさわしい設計ではなかったのです。
 癌のための放射線治療器で間違えて致死的な量の放射線が照射された、という事故がアメリカでありました。この時には、間違えたコマンドを放射線技師が打ち込んでしまい、それに気づいて訂正をしたらその“訂正手順”がメーカーの想定外だったため機械の内部で混乱が起きしかもその混乱が技師にフィードバックされず、結果として患者がチェレンコフ光を見るくらいの放射線が照射されてしまったのでした。
 本書では「原因追究」とか「責任者の追及」とかではなくて「なぜこのような事故が起きたのか、を物語形式で語る」という手法が採られています。つまり「私」がその場にいたとしたら、とリアルに想像できるわけです。株の売買で「1100万ドル」と「1100万株」の入力ミスでニューヨーク株式市場が大暴落、なんて話は、ですから“他人事”ではありません。入力ミスなんて、私も日常的にやってますからねえ。「バケツでウラン」のアメリカ版も登場します(本書では「米国史上最悪の原子炉事故」とされていますが、1961年SLー1実験原子炉で暴走(臨界と爆発)事故です)。これまた、自分がその場にいたら同じことをやっていそうなのです。
 ということで、事故の原因究明は必要です。「責任者」に「責任」を押しつけるためではなくて、事故の再発防止のために。もちろん「どうしてそんな間違え方をするんだよ」ととんでもない発想で行動する人間にはその責任を取ってもらう必要がありますが、「普通の人間=完全無欠ではなくふつうにミスをする人間」に対して「ミスをしないことが前提のシステム」を与えてはいけないのです。「気をつけろ」とか「頑張れ」で済まそうとするのは、単なる手抜きの対応でしかないし、そういった「システム」で事故が起きたら、その“責任”はシステムの側にあります。少なくともそう考えるのが人間工学の考え方ですが、実は日本ではそういった考え方はあまり人気がありません(少なくともマスコミや司法の場では)。「個人が超人的な頑張りでシステムを支えなければならない」というのはずいぶん貧しくて寂しい状況に私には思えるんですけどね。だって「超人」なんてその辺に転がっていないでしょ?


もどき

2011-11-27 17:29:47 | Weblog

 UltraBookというものの宣伝があったので見てみましたが、要するにMacBookAirもどき。そういえば、薄型ノートブックパソコンの基本的なコンセプトは結局PowerBookDuoもどきに落ち着いているしWindowsの画面はMacOSもどき。PowerBookDuoもMacBookAirも持っていない人間から見ても、おやおや、です。

【ただいま読書中】『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)3』平井和正 著、 角川文庫、1978年、220円

 ゾンビーハンターとして使い物にならなくなった俊夫は、ゾンビー島で洗脳を受けていました。心を改造することで殺し屋として再生させようという司令官Sの試みです。それはほとんど成功し、俊夫は殺人への禁忌を捨てます。しかし洗脳プログラムの最終日、ゾンビー島はゾンビーに襲われます。まず原子炉事故が起き、ついで孤立した島の中で次々ゾンビーハンターたちが殺されていきます。司令官Sは撤退を決意します。生き残った“貴重な資源”であるゾンビーハンターを退避させ、島はゾンビーごと破壊しようと。それを知った俊夫は、憎悪の仮面を捨てます。
 自爆用の中性子爆弾の起爆を止めようと、林と俊夫は動き始めます。それはほとんど勝ち目のない戦いでしたが、司令官Sの鼻を明かしてやる、という執念が二人を動かしたのです。そして、その二人とは別のところで、やはり人を救おうとして別の動きをしている存在がありました。
 地球外生命体に人間が乗っ取られる、というのは『盗まれた街』(ジャック・フィニイ)とか『人形つかい』(ハインライン)などをすぐに思いつきますが、さすが平井和正、単に「憑かれる」ことと「支配される」こととを同一視せずに一ひねりを加えています。そういえば著者は『サイボーグ・ブルース』でも「超人的な存在」にとんでもない弱みを持たせていましたっけ。なかなかくせ者です。
 しかし本作は、なんとも救いのない小説です。主題と変奏ではありませんが、同じ主題が何度も何度も繰り返されます。この執拗さから私は『真幻魔大戦』で感じた徒労感を思い出しました。著者は「言霊使い」と自称していますが、これは「言霊を使っている」のではなくて「言霊に使われている」わけですよね。これだけ「主題と変奏」を「言葉」で繰り返すことができるのは、たしかに何かに操られないと無理かもしれません。



水を食べる

2011-11-26 17:25:16 | Weblog

 午にうどんでも食べようとして、沸騰する鍋の中でふっくらと瑞々しく太ってくる麺を見ていて、麺というのは水を食べるものでもあるんだな、とつくづく思いました。
 鍋の中で踊るうどんに見とれていて、食器の準備を忘れていました。麺用のどんぶりはどこだったっけ? たまに家内がいないと、こんなことで困ります。

【ただいま読書中】『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)2』平井和正 著、 角川文庫、1976年(80年10刷)、260円

 宇宙からの侵入者「ゾンビー」に憑依された人間を狩るゾンビー・ハンター俊夫は、憎悪で心を凍結させ、無感動に動いていました。もっともそれは自分の内面を護るための“仮面”ではあったのですが。誤情報によってゾンビーではない人間を殺害してしまった俊夫は、「自分は“ゾンビーハンター”であって、ただの殺戮機械ではない」と悩みます。
 たしかに「機械」ではありません。俊夫には、感情に流されるという「人間的弱点」がたっぷりあるのです。
 俊夫に次の任務が与えられます。ゾンビー汚染された技師を抹殺せよ、と。ただし、その一家にもゾンビー汚染の疑いがあるため、子供も含めて全員を殺す必要があります。しかし、潜入した俊夫には、技師もその一家もごく普通の人間、というかむしろ「上等な人間」にしか見えません。ゾンビーが取り憑いた禍々しい雰囲気が皆無なのです。
 俊夫はまたも悩みます。ゾンビーに憑かれているかどうかを確認するためにはとりあえず撃ってみるしかありません。そしてゾンビー憑きだったとしたら、その銃弾はほとんど無力で、その瞬間にゾンビーからの超人的な反撃を覚悟する必要があります。だから撃つのだったらその体を確実に破壊するように撃たなければならないのです。しかし撃ってみてその人が“無実”だとわかってもそのときにはもう遅いのです。その体は破壊されてしまいますから。
 著者は親切で、どこにゾンビーが存在するのか、ちゃんとヒントをくれます。それもしつこいくらい何回も。それを読み取れないのは俊夫だけです。やっぱり彼はゾンビーハンターにも殺戮機械にも向いていません。



選考基準

2011-11-25 18:36:54 | Weblog

 日本プロ野球のゴールデングラブが発表され、40歳の宮本選手と小久保選手が選出されたことが話題になっています。
 しかし「守備の巧さ」というのは、なかなか評価が難しいものです。「捕球」だけに話を絞っても、外野手が楽々とフライを捕ったら凡プレーか、と言ったら、実は難しい打球の方向を瞬時に判断してダッシュしたから結果として楽々追いついた、という好プレーのこともあるし、背走に背走を重ねて最後にきわどく捕球に成功したら好プレーかと思ったら最初の一歩を間違えたために好選手なら楽々追いついた球が「きわどいプレー」に化けただけ、ということもあります。内野でも、極端なことを言ったら、一歩も動かず手が届く範囲だけ処理していたらエラーの率はがくんと下がりますが、瞬時の判断と俊足で打球に追いすがりきわどいところではじいてしまった(凡庸な選手なら最初から外野に抜けていた)場合には「エラー」となることもあります。つまり、一球一球での捕球プレーだけではなくて、「守備範囲の広さ」と「捕球機会の数」も加味して考える必要があるわけです。さらに、送球やキャッチャーのインサイドワークも考える必要があります。
 ゴールデングラブの選考者は「経験5年以上のプロ野球の記者」となっています。だけど「経験年数」が保証するものって、何です? 「プロの全選手のプレーの質を客観評価する目」が「5年」あれば十分得られる、という保証? もちろん「プレーの質を客観評価する目」を客観評価することは難しいでしょうが、もうちょっとほかのファクターも加えて欲しいなあ。せめて「ちゃんと現場で見ている」こと。たとえば「年間にセパ両リーグの12以上の異なる球場で、1球場あたり最低10試合以上(つまりトータルで年間120試合以上)観戦している」とか。少なくとも「試合をたくさん見ないやつ」に「年間通しての選手のプレーを評価する資格」はないでしょ?

【ただいま読書中】『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』平井和正 著、 角川文庫、1975年、220円

 私は一時平井和正の作品が好きでした。特に好きなのは『ウルフガイ・シリーズ』『サイボーグ・ブルース』『超革命的中学生集団』そして『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』。しかし「SFアドベンチャー」に連載されていた『幻魔大戦』『真幻魔大戦』で彼からは離れました。ついて行けなくなっていたのです。
 『死霊狩り』は「1」しか読んでいなかったのに気がついたのは最近のことです(というか、「1」とついていませんでした)。そこで図書館から「3」まで3冊まとめて借りてきました。久しぶりに、自分の青春時代の日々を思い出してみることにします。
 カリブ海のゾンビー島の密林で、過酷な生存試験が行なわれていました。1丁のナイフだけを手に、猛獣と人工的に設置された死の罠とをかいくぐって4週間生きのびなければならないのです。集められた人間は、高い身体能力と戦闘力、それに驚異的な回復力を基準に世界中から選考された者たちでした。多くは、兵士やテロリストといった“プロ”ですが、その中に“アマチュア”もいました。日本人の元レーサー俊夫です。生きのびるために、なぜか自然に俊夫は“チーム”を組みます。アラブゲリラのライラと中国工作員の林。しかし、この過酷なだけではなくて欺瞞に満ちた試験は、ただの第一次試験でしかありませんでした。
 「試験」の目的は、最強の兵士、いや、世界最高の殺し屋をつくり出すことでした。肉体的能力だけではなくて、精神力と好運を持った超人間の部隊です。訓練生は容赦なく鍛えられ排除されていきます。そして最終試験は、拳銃一丁と弾丸6発で、防弾服を着用し実弾入りのAR15自動ライフルで武装した教官6人を相手に戦うこと。最初に集められた人間は二千人でしたが、最終試験を通ったのは18人でした。俊夫は、左腕と左目を失って、最終試験を通過します。
 地球は地球外生命体ゾンビーの侵略を受けていました。俊夫たちは、そのゾンビーと戦うために選抜され、訓練されていたのです。しかし俊夫はその話を受け入れませんでした。俊夫は日本に帰り、そこで中国特務機関に襲われます。姉と恋人を彼らに攫われた俊夫は機関のアジトを襲いますが、そこで見たのは地球外生命体によって破壊された人体の群れでした。
 なんとも凄惨な作品です。どこにも「救い」はありません。「救い」どころか、正義も大義名分もゼロ。だけど、以前と同じく、読み始めたら止まらなくなってしまいます。さて、第一巻が終わってここから私にとって“未知の領域”です。どんな世界が待っているのか、不安に怯えつつ、ページをめくることにしましょう。



人肉

2011-11-24 18:41:46 | Weblog

 人肉食いは多くの社会でタブーとされています。
 ところでこの前私は自分の口の中を嚙んでカケラを飲み込んでしまいました。今でも傷が痛いのですが、さて、私は忌むべき「人肉食い」に堕ちてしまったのでしょうか。

【ただいま読書中】『人体ビジネス ──臓器製造・新薬開発の近未来』瀧井宏臣 著、 岩波書店、2005年、2000円(税別)

 背中に人間の「耳」を背負った「ミミネズミ」の映像は衝撃的でした。ヌードマウスの皮下で人間の耳たぶの形に人の軟骨細胞を形作らせたものですが、著者はそれを見て「おぞましい」「身の毛がよだつ」「吐き気を催す」という気分を味わい、同時にそれを共有してくれない人たちに対して苛立ちを感じます。それを著者は「暴走する科学技術と市民の無関心という現在の危機的な状況」と言います。
 本書出版当時は「ES細胞」が注目を浴びて“スター”扱いでした(「ソウル大学黄禹錫教授のES細胞スキャンダル」は2005年末、「iPS細胞」は2006年の登場です)。人の受精卵から作られるヒトES細胞は、技術面だけではなくて倫理面でも激しい議論の対象でした。「いのち」を資源化・商品化することが許されるのか、と。ヒト幹細胞を用いた治療としては、中国で行なわれている脊髄損傷患者への鼻粘膜細胞(OEG)注入療法が紹介されていますが、ヒト中絶胎児から細胞を得ていることと詳しいデータが発表されていないことから、倫理的に問題があり、治療というより人体実験といった方がよいものと言えそうです。
 「最先端の研究」が次々紹介されますが、読んでいて突っ込みの甘さが気になります。研究の科学的意味・研究の社会的意味・研究者の意識などの描写が、私には物足りないのです。それは著者が最初からそういった「科学の最前線」に対して否定的な感情を抱いているから全身で突っこんでいけない、という事情があるのかもしれませんが、こういった本で「自分の感情」を最優先にする態度というのはどうなんでしょうねえ。「好き」「嫌い」に基づく「問題点の指摘」はあっても「それに対する提案」がないと、なんだか宙ぶらりんのまま放置された気分になってしまいます。
 最先端ではなくてすでに“実用化”されている「人体パーツ」の代表として「血液製剤」が取り上げられています。血液を媒体とする病気は多くあります。かつての「黄色い血」時代の肝炎・HIVが有名です。脳硬膜製品で問題になっているのは、クロイツフェルト・ヤコブ病。で、なぜか必ず厚生省の動きの鈍さが目立つんですよね。
 臓器売買も「人体ビジネス」で重要です。本書ではフィリピンやインドでの売買の実態が紹介されています。ただ、ここであぶり出されてくるのは「日本の問題」であると私は読みました。かつてよく行なわれていた「○○ちゃんにアメリカで心臓移植を」という募金運動も含めてですが、外国で日本人が移植を受けるということは、その国の人が移植を受けるチャンスを強奪するに等しいのではないか、と私には思えるのです。
 最後は遺伝子ビジネス。自分の遺伝子を送って様々な病気(になる可能性)を検査してもらうものですが、この場合その遺伝子は「自分のもの」ですが「いのち」でしょうか? それとも「物」?  また「経済」との関係がここでも濃厚に生じます。ある致死的な遺伝子病を持っていることがわかっている人が生命保険に入ることを保険会社に断られるのは「差別」です。しかし、その逆、遺伝子病を持っていることがわかった人がそれを隠して駆込みで生命保険に加入することは、こんどは(生命保険金の支払いが増えることによって)保険料の高騰を招くなどの不利益を多くの人にもたらします。さて、どうするのが「公平」なのでしょう?
 ジャーナリストがよくやる「これからの課題である」といった感じで本書は終わりますが、結局著者がどんな社会を求めているのかはわかりませんでした。単なる資料提示だったら量が足りないし突っ込みも浅い。何も知らない初心者用の入門書としてはこれでよいのかもしれませんが、私にはなんとも欲求不満の残る本です。


発電コスト

2011-11-23 18:49:13 | Weblog

 かつては原子力発電が一番発電コストが安い、ということになっていたのが、今年の事故の影響で見直し作業がされているそうです。これまでのコスト計算では、放射性廃棄物の処理コストさえまともに計上されていなかったのですから、“進歩”とは言えるでしょう。
 しかしそうなると、他の発電、特に水力発電の「コスト」もまた今のままで良いのか、という疑問が私の脳裡に浮上してきます。たとえばダムが崩壊する、という事故については「想定外」で良いです? あるいはダムのメインテナンス費用。ダム湖の底にはヘドロが大量にたまっているはずです。ため池をかいぼり(かいぼし)するように、ダムも定期的に水を抜いて底のメンテナンスをする必要があるのではないか、と私には思えるのです。ついでですが、これをやったら、ダム本体の“内側”の亀裂チェックなども一緒にできます。だけどこれをやったら、コストがかかるしその間発電はできませんから、結果として発電コストは上昇します。さて、ダムの崩壊とかダム湖がヘドロで一杯になってしまう、というのはやはり“想定外”にしておきましょうか?

【ただいま読書中】『世界の宝くじ』青山隆史 編著、 あいであ・らいふ、1982年、1500円

 本書発行当時、ジャンボ宝くじは一等が3000万円で、それも往復葉書での予約制というものでした。それが海外では「億」を越える賞金の宝くじがそのへんで買える、というのですから、その事実だけでもニュースバリューはあった、と言えるでしょう(だからこそこういった本も発売されたわけです)。
 しかし、「でかい賞金」ということは、それだけたくさんの人が“投資”をしているわけで、ということはそれだけ当選確率は下がるわけです。なかなか人生は思うようにはいかないものですね。
 日本では現在、「普通くじ(番号が抽選)」「ロトくじ」「インスタントくじ」が発売されていますが、海外ではそれ以外にも「階級くじ(一つのくじ番号が一定期間内の複数の抽選で有効)」というものもあるそうです。日本でも1980年代には普通くじしかなかったのがグローバルスタンダードを追ったのか射幸心を追ったのか、今のような多種類の発売になっているのですから、そのうちに階級くじも日本に登場するかもしれません。
 「世界最高賞金」を紹介されているスペインの国営宝くじは、1763年に国王カルロス三世の命令でイタリアからロトくじの専門家を招聘して始められたそうです。ではイタリアの宝くじは、と思うと、本書では紹介されていません。残念だなあ。
 日本の宝くじの“ご先祖”は、鎌倉時代の「頼母子講」「無尽」とする説と、江戸時代の「福富」「富会」とする説があるそうです。ともかく江戸時代には「富くじ」が盛んに行なわれていたことは確かです(たしか落語でも富くじの話がありました)。幕府は「バクチは禁止」としましたが、幕府も社寺も懐が苦しく、享保15年には幕府公認の富くじ(御免籤)が発売されました(発売元は仁和寺、発売場所は江戸の護国寺)。各地の寺社は競って富くじを発売、江戸では一時3日に一度の割合で富くじが発売される、というブームとなります。天保の改革で禁止されましたが、隠れての発売は各地で行なわれていたそうです。明治政府も明治2年の太政官布告で富くじを禁止。13年の刑法でも禁止とされています。昭和20年7月16日政府が「勝札」を発行することで復活しています。ただし「富くじは禁止」の上に「こんなご時世」ですから「富くじ」ではなくて「抽選により当選金を公布する証票」だったそうです。価格は1枚10円、1等賞金は10万円(200本)、売り上げはすべて臨時軍事特別会計に組み込まれました。ちなみにこの「勝札」の発売最終日は、8月15日でした。哀れ、この日から「負け札」と呼ばれるようになってしまったそうです。
 伝統的に日本では宝くじは幕府や政府によって禁止され、それを買うには「理由」が必要でした。「社寺のため」とか「戦争のため」とか。その影響で今の日本でも宝くじには何らかの負のイメージがつきまとっていて、だから「理由」として「夢を買う」とかを言わなければならないのかもしれませんし、たとえ1等に当選しても欧米のように皆の前で堂々と「当たったぞ~!」と言いにくい雰囲気なのかもしれません。そういえば年末ジャンボは24日から発売でしたね。こんな本を読んだ“縁”です、10枚は買いましょう。もし高額当選をしたら、あっけらかんと報告します。



報酬

2011-11-22 21:38:40 | Weblog

 報酬の楽しみは、それをもらうこと自体にあるのではなくて、それを使うことにあるのでしょう。
 報酬の喜びは、それをもらうことにあるのではなくて、自分の労苦が報酬に値すると他の人から評価されたことにあるのでしょう。

【ただいま読書中】『告発者』ジョン・モーティマー 著、 若島正 訳、 早川書房(ハヤカワポケットミステリーブック1681)、1999年、1200円(税別)

 「数字がわかる」という“欠点”のために会計士となったプログマイアは、“いくじなし”でした。臆病で心配性で妥協的で事なかれ主義。親友も恋人も向こうからの“押しかけ”です。娘にも「パパはいくじなしなのよ」と面罵されていますが、確かにその通りと言っても良いでしょう。その親友ダンスターに妻を奪われ、そのことに対して何もアクションを起こさないのですから。
 プログマイアとダンスターの20年以上にわたる人間関係が、淡々と描写されます。いったいこれのどこが「ミステリー」なんだ、と気の短い私は思います。
 妻と離婚し、なぜか会長のお気に入りとしてテレビ局で働くプログマイアの前にまたダンスターが現われます。戦争犯罪を扱った番組の脚本家として。しかも“ホット”なネタを握っている様子。先の大戦末期のイタリアで、ナチスによって起こされたと信じられている虐殺事件、それが実はパラシュート降下した英国特殊部隊の仕業で、そこにプログマイアの先妻の父(つまりはダンスターの現在の義父)とプログマイアの上司が関係している、というのです。上司の無実を信じ、プログマイアは自分の人生でおそらく初めて、積極的に他人の人生に関与します。ダンスターを相手取った名誉毀損の裁判のために活動をしようと決心したのです。しかし、義父も上司も、決定的な情報をプログマイアにはもらしません。ごまかし・ほのめかし・情報の小出し・ミスリーディング……もちろん戦争中の軍隊ですから、人には言いづらい行動もあったことでしょう。それにしても怪しい言動が続きます。はたして戦争中のイタリアの町で本当は何があったのか、そして裁判の行方は……
 プログマイアがシェークスピア劇に素人俳優として出演していることが重要な“小道具”です。「何を演じるか」と「何を生きるか」とが別のものかあるいは連続しているものか、演技と人生の間に存在している(かもしれない)「境界線」がプログマイアにとってはどんどん希薄になっていく過程が、スリリング。さらに「何を自分で決定するか」をプログマイアが“学ぶ”過程も。心理サスペンスであり、中年男の“成長物語”であり、魅力的な正義漢(というか正義の悪漢)の物語でもあります。面白いでっせ。



読んで字の如し〈金ー14〉「釣」

2011-11-21 18:42:36 | Weblog

「魚釣り」……海老や蛸や鯨は釣らない、という主張
「釣り針」……釣りを縫うための針
「釣り革」……釣りのための皮革
「狐釣り」……狐を釣る餌は何?
「陸釣り」……陸を釣る
「釣書」……釣りの指南書
「釣り鐘」……海や川から釣り上げられた鐘
「釣り合い」……合いを釣る
「釣瓶」……瓶を釣る
「釣瓶落とし」……せっかく釣った瓶を落とす遊び
「海老で鯛を釣る」……海老好きには拷問
「蝦蛄で鯛を釣る」……海老好きもこれなら納得

【ただいま読書中】『燃えさかる火のそばで ──シートン伝』ジュリア・M・シートン 著、 佐藤亮一 訳、 早川書房、1971年、1500円

 本書は「シートンが体験した人生のエピソード」の羅列です。まるでシートンが肉声で語ったような文章ですが、それもそのはず、シートンが75歳で再婚した著者に折に触れ話し続けたことを再編成して「シートンのことば」として並べてあるのです。それは個人的な思い出にとどまらず、「その時代の人間の行動や心理」に関する一般的な事柄の描写になっています。著者は「シートンがそのように語った」と述べていますが、私には著者がそのように(上手に)聞いたのではないか、と思えます。(結婚後のエピソードも豊富に含まれていますが、この生き方もまたアクティブで、そのエネルギーとスジを通した姿勢には感心します)
 アーネスト・トンプスン・シートンは1860年英国の港町に生まれました。しかし、裕福な船主だった父が破産したため、66年家族と共にカナダに移住することになります。シートンの父は暴君タイプでした。そのためシートン少年は、自己決定が下手な子供になります。また、「野生の動物とともに暮らしたい」という少年時代の渇望とも言える夢は、禁止されていました。
 シートンは勉学(美術研究)のために英国に渡りますが、病気のためカナダに帰り、公認自然観察官に任命され、絵画修行をし……
 シートンは「自然」に親しんでいましたが、だからでしょう、「インディアン」にも親しい友人が多くいました。そのためか、カスター将軍については否定的な見解を持っていますが、それはまた「自然」なことに私には思えます。筋が一本通っているな、と。
 シートンの注意力を示すデータが一つ載せられています。雄の大きなカナダヤマアラシの刺の数ですが、刺が生えている部分の、頭は1平方インチあたり100本、胴は140本、尾は100本、総計36,450本だった、という報告です。数える時に手に刺さらなかったのかな? 「自然には、完全な円も直線もない」ともシートンは述べます。ただ、キツツキの穴はほとんど完全な円だそうです。
 シートンは野生動物保護に力を入れていました。豊かな自然がどんどん失われているが、動物を絶滅させてから保護を訴えても遅すぎる、と講演をして回っています。……えっと、20世紀はじめの話ですよね。具体的には「小規模禁猟区」の設立をシートンは訴えています。小規模だから設置も維持にもコストはそれほどかからず、町の中にでも作ることができる。そして、子供たちの身近に小さな禁猟区を設けたら、博物学的な教育的価値も高い、と。この話題に関連して、いわゆる「動物愛護団体」のご婦人たちをシートンがやり込める場面はなかなか痛快です。
 シートンは「人と自然の関係」に関して一つの「思想」を世界に示しました。それは自身の体験と深い洞察と人間愛に満ちたもので、ふやけた動物愛護や過激な環境テロリストの“理論”とは一線を画するものです。著者にとってシートンは「燃えさかる火」だったのでしょう。暗闇で人を導く松明の火・寒さの中で人を温める焚火の火。シートン本人は自分のことを思想家だとは思っていない様子ですが、だからこそ本書は一読の価値がある、と思えます。