【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

異字同訓

2014-02-28 09:59:30 | Weblog

 「飛ぶ」と「跳ぶ」といった漢字のことです。こういった同訓異字の使い分けについてテレビでちらっと言っていたのですが、アンケートでは「75%の人が異字同訓の使い分けで迷うことがある」のだそうです。「そうそう、迷うことがあるよね」と思ってから、「残りの25%の人」はすげえな、と思いました。迷いがないわけですから。ただ、これって「迷わずに正しく書けている」のかもしれませんが「間違っていても全然気にならない」のかもしれませんね。こういった自己申告のアンケートって、内容の判断が難しくて判断に迷います。

【ただいま読書中】『なぜ競馬学校には「茶道教室」があるのか ──勝利は綺麗なお辞儀から』原千代江 著、 小学館、2013年、1200円(税別)

 「なぜ競馬学校には「茶道教室」があるのか」の前に「競馬学校というものがあったのか」「競馬学校には茶道教室があるのか」で驚いている、私です。
 1982年に設立されたJRA競馬学校には「茶道教室」が設けられ、著者はその教師として声をかけられます。競馬学校で茶道? 当然著者も不思議に思って聞きます。すると、中学校を卒業して厳しい世界の飛び込んできた生徒たちに、当時の寮では間食も禁止されていたから、せめてお菓子を授業の中で堂々と食べさせてやりたい、という“親心”だと。「茶道をなんだと思っているのですか」と席を立ってもおかしくないでしょうが、著者は(自分で不思議なことに)その話を受けます。初めて出会った子供たちのきらきら輝く眼との「一期一会」が著者にその決心をさせたのかもしれません。
 著者が生徒たちに伝えたいのは、礼儀(将来大人になったときの準備)・自然を愛でる態度(真剣勝負の時のゆとり)・日本文化(将来海外に行ったときに役立つ)・正座(自然で無理のない座り方は自然で無理のないフォームに通じる)・綺麗なお辞儀(馬上からでも綺麗に挨拶できる)……あらあら、茶道は騎手に“必要なもの”だったようです。卒業生にアンケートを採っても、みな「お茶は残してくれ」と言うのだそうです。だから、1年契約の“非常勤講師”のはずが、いつの間にか30年を越えてしまっています。体がしんどくなってお茶の稽古を減らすとき、一般人用の教室と競馬学校の二択になったら、競馬学校の方を著者は残しました。それだけの強い思い入れが、著者にはあるようです。そして、本書にはその思い入れが結晶しています。まるで、著者から生徒たちへのラブレターのように。
 茶道教室から“子供たち”あるいはその子供の“孫たち”を見つめ続けている著者の姿に、私は不思議な雰囲気を感じます。競馬というのは、馬のレースだ、と思っていたのですが、そこには私が全然知らない別の、それも魅力的な物語が埋まっていたんだな。


大事なときに必ず転ぶ

2014-02-27 06:47:49 | Weblog

 大事でもないときによく口が滑る人もいますよね。スケートでもないのに滑るってか?

【ただいま読書中】『宙の地図(下)』フェリクス・J・パルマ 著、 宮崎真紀 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫NV1271)、2012年、900円(税別)
 ウェルズたちは「火星人」に破壊されたロンドンを逃げ回ります。さらにそこに「タイム・トラヴェラー」がちらりと影を落としてすぐに消えます。「火星人」は実は「火星人」ではありません。逃避行を共にする一行の中で一番実際的で有用なクレイトン捜査官は、肝心なときには突然気を失ってしまいます。あれれ、機械仕掛けの義手を持った捜査官……何か有名な小説に登場していましたっけ? 
 「ヒーロー」が登場します。前作『時の地図』で「未来の地球」で自動人形の支配から人類を救ったシャクルトン将軍です。しかし「ヒーロー」も個人では活躍にも限界があり、とうとう生き残った人類は強制収容所に押し込められ、「火星人」のために環境改変マシンの建造をさせられることになります。そのマシンの姿がでっかいピラミッド……って、ここは『狂風世界』(J・G・バラード)ですか?  ついでですが、強制収容所で死体が放り込まれる穴から生まれる「食料」が緑色のお粥です。これって「ソイレント・グリーン」? 「マトリックス」や「エヴァンゲリオン」を思わせる情景も登場します。あらあら、どれも滅亡の淵に立たされた人類の世界ばかりです。
 そして「もう一人のH・G・ウェルズ」がしずしずと登場します。一人は「人類を滅亡させる存在」、そしてもう一人は「それを妨害する(かもしれない)存在」です。
 そして「もう一つの物語」が始まります。本書の上巻、南極大陸で「あら、この結末はお気に召しません? だったらちょっとやり直しましょう」なんて語り手が好き勝手なことを言っていました。もちろんそれは「伏線」で、何が起きるか読者はその時に悟ってはいるのですが、それにしてもこの“やり直し”にはびっくり。そして物語は「終わり」に、あるいは「始まり」に到達します。いやもうすごい離れ業。小説の技巧の限りを尽くしています。そして「読者がすでに知っている物語」が繰り返されます。ただし、別の視点から。
 フィクションがなぜフィクションなのか、フィクションに何ができるのか、読み終えて私はしばらく呆然とします。ここまで「力」のある小説は珍しい。そして、上巻でウェルズがつぶやいた言葉が脳裏に蘇ります。「次は『透明人間』か?」と。そういえばクレイトン捜査官の「謎」も全然解決していませんね。これは次作に期待するしかなさそうです。


開催の順番

2014-02-26 06:45:28 | Weblog

 メジャー・マイナーで言えば、障害者スポーツは健常者のスポーツと比較したらマイナーな存在です。競技人口が違いすぎますから。で、オリンピックのあとにパラリンピックが開催されるのですが、これがなんというか“宴の後”とでも言ったら良いか、なんだか注目関心がピークを過ぎてしまってからまるでオマケのように開催される、というイメージを私は持っています。マイナーであることを逆手にとって、オリンピックの“前”にパラリンピックを開催しては駄目でしょうか。“前座”扱いみたいで気に入らないかもしれませんが、もしかしたら今よりもっと注目されるかもしれません。これは宣伝効果の点ではメリットでは?

【ただいま読書中】『宙の地図(上)』フェリクス・J・パルマ 著、 宮崎真紀 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫NV1271)、2012年、900円(税別)


 続編です。間違いなく『時の地図』の続編です。前作と相変わらずの「H・G・ウェルズ」が相変わらずの行動をしています。なんだか懐かしい感じ。
 そして、ビールのもやを通して見えてくるのは……「火星人」。
 なんとも人を食ったオープニングです。「語り手」も前作と“相変わらず”でした。
 まず話は1830年に遡ります。場所は南極。「地球空洞説」を実証する「地底に降りる入り口」を見つけるための探検隊が遭難して氷上の捕鯨船に閉じ込められています。そこに空が崩れてきます。「空飛ぶ円盤」が墜落してきたのです。そして「怪物」との死闘が始まります。ここの物語だけで本1冊分の内容があります。というか、北極を舞台にした『ザ・テラー』(ダン・シモンズ)の南極版、といった感じ。南極なのにシロクマが平気で出てきたり、コックの名前がダンだったり、著者は楽しそうに遊んでいます。
 第一部では「もう地球上に夢の地はない」と思った人は「地底」にそれを求めました。そして第二部。こんどは「宇宙」に夢を求める人が登場します。そして、前作でおなじみの人物が再登場。第一部ではH・G・ウェルズがすでに登場していますが、第二部ではなんと……おっとっと、ネタバレはやめておきましょう。そして、ウェルズが『宇宙戦争』で書いたのと同じ場所ウォーキングに「空飛ぶ円盤」が現れます。警察(スコットランドヤード特殊捜査部)のクレイトン捜査官に要請され、ウェルズは現地に急行します。まるで小説の再現ですが、ウェルズは当然「作り物だ」と看破します。しかしそこから発射されたのは、本物の熱線でした。『宇宙戦争』が、文字通り、再現、いや、実現されたのです。イギリス各地に「火星人」が降り立ち、熱線で各所を破壊し始めます。ここで不思議なのは、「火星人」がトライポッドで移動していることです。いや、私が知っている『宇宙戦争』ではそれで良いのですが、本書でウェルズが書いた本では「火星人」はトライポッドではなくて空中浮遊で移動していたのです。「事実」が微妙に滑っています。ウェルズたちは馬車でロンドンを目指します。まさにトライポッドに包囲されつつあるロンドンへ。ウェルズは「自分が書いた小説」の主人公になってしまったのです。


クラクション

2014-02-25 06:44:44 | Weblog

 電話でもテレビなどのリモコンでもカメラでも、「触ったことのないボタン」「使ったことのない機能」はたくさんあります。自動車でも「このスイッチ、何だったっけ?」があります。で、私にとって「クラクション」も「使ったことがない機能」の一つです。現在使っている車(次回が2回目の車検)でも、かさばる荷物を持って降りようとしてうっかり触って鳴らしてしまったのが、唯一の体験かな。というか、あんなうるさいもの、一体どんな時に鳴らすんです? 山道を走っても最近は「警笛鳴らせ」の標識にも滅多にお目にかからないんですけど。

【ただいま読書中】『空港まで1時間は遠すぎる!? ──現代「空港アクセス鉄道」事情』谷川一巳 著、 交通新聞社新書057、2013年、800円(税別)

 まずは成田空港が取り上げられます。東京から成田エクスプレスを使って成田へ、そこからLCCで福岡まで飛ぶと、「成田エクスプレスの料金」と「LCCの料金」がそれほどかわらない、という愉快な現象が生じます。1978年成田空港が開港当時、鉄道アクセスは京成だけでしたが、京成成田駅はターミナルビルに直結を許されず、1km手前で駅が開業、客はそこで有料バスに乗り換えてターミナルビルに入りました。バス代節約で徒歩で行こうとすると機動隊員に職務質問をされました。これまたなんとも愉快なお話です(ちなみに成田のターミナルビル地下には最初から「駅」が用意されていましたが、それが使われるようになったのは1991年です)。こういった交通行政を平気でできる人は、無能なのか無恥なのか、どちらなんでしょう? なお第一ターミナルビル近くの区間は「成田空港高速鉄道」が線路などの施設を所有しているため、京成もJRも成田空港高速鉄道に上納する加算運賃があります(京成の場合140円)。
 成田へのJRは、はじめは「成田新幹線」の予定でした。長さ100kmの新幹線にどんな意味があるのか、私にはわかりません。しかも従来の新幹線とは直結しません(東京駅の京葉線ホーム、あそこがもともと「成田新幹線東京駅」の予定地です。有楽町駅、と言った方が正確なんじゃないか、と思いますけどね)。
 そうそう、「24時間空港」には「24時間空港アクセス」が必要だ、という極めてまっとうな指摘が本書にはあります。それと「わざわざ都心から遠い空港を作るのなら、庶民がタクシーを使わなくても安く空港にアクセスできる手段についても考えておくべきだ」とも。「自分は黒いリムジンで往復するから、どうでも良いもんね」の人には届かない言葉でしょうが。
 次は羽田空港です。東京モノレールの開業は1964年、東京オリンピックの年です。京急の乗り入れは1998年。意外と新しいんですね。面白いこぼれ話が次々と登場します。読んでいて飽きません。ただ、ここでも感じるのは、(成田と同様)「空港」とつくだけで特別料金になってしまうアクセス料金・利用者不在の時刻表、など「日本の問題点」です。
 関空はバブルの産物です。膨大な建設費と莫大な維持費で、着陸料も高額となり、バブルははじけてしまいます。さらに「24時間空港」がウリなのに、アクセスは(まるで「当然」のように)24時間対応になっていません。これでは「関空の人気がないのはなぜだ?」という立問さえできません。ちなみに本書には関空の利用者数が新千歳や福岡より下(那覇や伊丹と良い勝負)という数字が掲載されています。アクセス鉄道は、JR西日本と南海です。
 空港アクセスでエポックメイキングだったのは1980年の国鉄千歳線千歳空港駅(現在の南千歳駅)の開業です。当時はまだ飛行機は特別なもので、北海道には青函連絡船を使うのが“普通”の手段だった時代でした。私もその頃北海道出張は「規定により国鉄料金で出張費を計算する」と言われましたっけ。飛行機を“敵視”していた鉄道も、空港を無視できなくなる時代の到来でした。かつての千歳空港は自衛隊と民間の共用でしたが、92年に新千歳空港に民間は移転し、それに合わせて新千歳空港駅ができました。この鉄道は、札幌市民にも「ちょと空港に遊びに行こうか」と愛用されているそうです。
 日本で一番便利な空港は福岡です。JR博多駅から地下鉄で5分。さらに空港バスが空港から県内各地を密に結びます。ただし、国際線ターミナルへのアクセスは今ひとつです。
 ちょっとユニークなのが山口宇部空港。すぐそばをJR宇部線が走っていて、最寄り(ターミナルビルから徒歩5分)の草江駅(無人駅)を使えば、立派な空港アクセス鉄道です。単線のローカル線ですけどね、私も一時この鉄道を使っていましたが、二両編成のワンマンカーで病院通いとおぼしき老人たちや地元の高校生がきゃぴきゃぴしていてのどかな雰囲気でしたっけ。だけど、でかいトランクを抱えて乗り込んでくる旅行客にはお目にかかったことはありません。
 日本の企業は「アタッチメントなどの部品に細かい構造の差をつけて他社のものが使えないようにして、消費者を自分のところに囲い込もう」とする傾向があります。運送でも同じようで、鉄道と航空とが無用の対立(あるいはお互いの無視)をしたために結局ユーザーが不便を強いられることがまかり通っていました。ユーザーの利便性を無視して成立する商売って、一体何の上にあぐらをかいているんでしょうねえ。


読んで字の如し〈扌ー16〉「掃」

2014-02-24 06:51:07 | Weblog

「掃き溜めに鶴」……生命の自然発生説
「掃き捨てる」……鶴を発生させるための前段階の作業
「掃いて捨てるほど」……誰がどの箒を使うかが重要
「居候角な座敷を丸く掃き」……一応“誠意”を見せるだけまだマシ
「電気掃除機」……電気箒による掃除の機械
「機銃掃射」……機銃を箒代わりに使う
「掃海艇」……海を掃き掃除する船
「地を掃う」……地球の大掃除

【ただいま読書中】『科学と社会がであう場所 サイエンスカフェにようこそ!(4)』室伏きみ子 編著、 富山房インターナショナル、2013年、1800円(税別)

もくじ:「脳についてのうわさ、うそ?ほんと?」金澤一郎、「世界一の稠密地震観測網でわかってきたこと」石田瑞穂、「空間はスープのごとし」岩城和哉、「ブレークスルーの科学は予測できない」五島綾子、「細胞が示す老化の足跡」加治和彦、「伝達物質放出の仕組みを視る」熊倉鴻之助、「妖しい薬になぜ惹かれるか?」廣中直行、「第四の生物 ヒト」星元紀

 日本学術会議と富山房インターナショナルの共催「サイエンスカフェ@フォリオ」のまとめだそうです。「サロンド富山房フォリオ」という喫茶室で、月に1回、お茶の水女子大学名誉教授室伏きみ子さんが第一線の研究者を招いてお茶を飲みながら気楽にお話をする、という集いだそうです。予約をしたら千円で、コーヒーと創作デザートと科学の話で満たされる、という“贅沢”な集まりですね。これ、家の近くなら絶対常連になりたい。
 それぞれの講演がそれぞれに興味深い話題ですが、私が楽しめたのはそのあとの質疑応答の部分です。たぶん相当編集してあると思うのですが、質問にも“熱”があり、答にも「素人に“科学”を伝えたい」という熱意が感じられます。そもそもそういう熱意がある人だから「サイエンスカフェ」に出演されるのでしょうけれど。
 「科学と社会」というテーマですが、「社会」には「国家」も含まれます。たとえば「ブレークスルー」で取り上げられる「ナノテク」での日米対比。これは私の分野でもその“差”をよく感じることではありますが、やはり読んでいてがっかりします。片や「将来を見据えた予算配分、人材育成やリスクマネージメントにも予算をきちんと配分。社会の中で(負の側面も含めて)オープンな議論を活発に」、片や「単年度予算、人材配分のアンバランス、人材育成は無視、リスクマネージメントは企業のボランティア。とにかく目に見える“成果”を欲しがる」。どちらが日本か、わかる人はすぐわかりますね。「人」は優秀なんですよ。ただ日本社会がその「人の優秀さ」を生かし切れていないのです。本当に残念なことです。「文系」と「理系」を分けることに熱中するよりも、その統合の方がよほど“実り”は大きいような気がするんですけれどね。


選手強化の“正しい”方法

2014-02-23 07:34:03 | Weblog

 「選手を殴ったら強くなる」が「正しい」のは「殴られた選手が強くなった」からです。たとえ「100人殴られてそのうち1人だけが“金メダル”」でも、これは「殴ったことの成功例」と言えます(そう強く主張する人が登場します)。99人の“犠牲者(無駄に殴られた人)”がいてもね。
 では、女子選手が100人強姦されてその内一人でも“金メダル”だったら、「強姦をされたら強くなる」は「選手を強くするための正しい方法」となるのでしょうか?  そういえば“それ”を実践した柔道指導者もいましたっけ。

【ただいま読書中】『性と柔 ──女子柔道史から問う』溝口紀子 著、 河出書房新社、2013年、1400円(税別)

 女子柔道について知ると、そこから「柔道」「日本社会」について何かが見えてくるかもしれません。そういった期待で本書を手に取りました。
 まずは「柔道正史」。明治時代には様々な流派の「柔術」が存在しました。そこに嘉納治五郎が登場、各流派を撃破することで統一し「柔道」として集大成、それが「講道館柔道」として今に伝えられます。なんとも美しいストーリーです。
 ただ「各流派を撃破」のところで私はひっかかります。これって言わば「異種格闘技戦」です。当時の「柔術」には当て身を主な技とする空手のような流派もありました。たしかに「柔道の達人」が空手の大会に参加して連戦連勝、という話は『空手バカ一代』にありましたが、この極真空手の大会は「顔面と急所へのパンチは禁止」ルールです。明治時代の「チャンピオンベルト統一戦」でそんな“紳士的(スポーツ的)”なルールがあったのでしょうか……というか、あったのでしょうね。今の「柔道」のルールが。ただこれだと、「当て身主体の柔術」に「当て身禁止」の“ルール”を押しつけることになります。それだとそちらには勝ち目はありません。……なんだか「ストーリーの美しさ」が少し減じたような気がします。
 1877年西南戦争で警視庁抜刀隊が活躍したことから武道が見直され、79年に新設された巡査教習所では武道(撃剣、居合、柔術)が教えられるようになります。警視庁独自の武術が誕生し、(講道館とは別個の)段位認定が行われました。
 明治中期、旧制高校でも柔道が盛んとなりました。ただ3年で柔道を習得しなければならないため、寝技主体のルールで「高専柔道」と呼ばれる独特の戦い方となっています。その中で、講道館が捨てた絞め技や関節技が“再発見”されています。立ち技中心の講道館はその動きに危機感を抱き、ルール統一を強行します。
 戦前には「柔道」には二つの大きな団体がありました。一つはもちろん講道館。もう一つは政府が関係した財団法人大日本武徳会です。武徳会の設立目的は、国威発揚のための武道振興でした。戦時色が濃くなるにつれ、文部省は国体護持のための武道教育を推進します。敗戦後、公職追放が行われ、武徳会は解散させられます。講道館は民間組織なので生き残りました。ここで興味深いのは、公職追放となった武徳会関係者で、柔道指導のために渡欧した人たちがいることです。

 柔道の国際化は同時に「他の格闘技の技の流入」も意味していました。特にレスリングやサンボの影響は大きく、最近は柔道の組み手自体が日本固有のものとは変化してきています。これは日本で「柔道」ができるときに各種の「柔術」の技を取り入れたことの再現です。ただ「日本柔道こそ正当」というイデオロギーは「新しい国際柔道」を認知することを拒みます。そのために日本柔道は国際柔道に対応が遅れてしまったのです。
 著者は日本柔道の「勝利至上主義」を問題視しています。「勝利」に無関係な「柔の道」が見捨てられたのではないか、と。オリンピックの銀メダリストが問題視するということは、相当なことです。そしてここからいよいよ本書の本題「女性柔道の歴史」が始まります。もっともここまでの「柔道の歴史」だけでも目から鱗だったので、もう何があっても驚かないぞ、と私は丹田に力を入れます。すると出てくるのは1873年の浮世絵。やっぱり素直に驚きましょう。柔術の興業試合(見世物)に女性柔術家も参加しているのです。さらに、女性柔術家が男性柔術家と試合をして殺された、なんて事件もあります。講道館にも女子部がありましたが、嘉納治五郎直轄部門で、試合は禁止されていました。健康法や護身術であり、「勝利至上」ではなかったのです。武徳会にも女性がいましたが、こちらは男性と試合をし、昇段試験を受けることもできました。その動きから講道館も女性の有段者を認めますが、その試験は「形」や「推薦」によるものでした。(武徳会の「女性の黒帯」は「黒帯」でしたが、講道館は「白線入りの黒帯」でした)
 20世紀初め、欧米に広がった「JUDO」は女性にも広まっていきました。そこでは、講道館とは違って、男女が組み合うことも平気で行われていました。これは「柔の理(柔よく剛を制する、小よく大を制する)」が「ジェンダー・フリー」を実現するためのツールとして欧米社会に取り入れられたからです。ところが“本家”である日本では女性は“隔離”されていました。
 それでも「柔道をしたい女性」は次から次へと登場します。それらの人々は、男性からの蔑視・差別に耐え、同性の女性から足を引っ張られ、それでも“開拓者”として進みます。世界では次々「女子柔道選手権大会」が開催され、1976年には国際柔道連盟が女子柔道の試合審判規定を策定します。日本もそれを放置できず、77年に女子規定を制定しますが……これが国際的には通用しないなんとも奇妙な“ルール”でした。以後10年間、この“ルール”が日本女子選手の“手”を縛ることになります。1980年に開催された第1回世界女子柔道選手権大会は(この開催までの物語もまた紆余曲折で大変興味深い展開です)、日本選手には辛い経験でした。ただ、日本では女子柔道“ブーム”が起きます(「女姿三四郎」の山口さんのことを私も覚えています)。
 そして「パワハラ・暴力告発」。さらには「セクハラ事件」。メディアが動かないと全柔連は動きません。「勝利至上」の「男性組織」は、少々のことには動じなかったのです。ただ、本書の最後「スポーツとエロス」の章は、男ではなかなか言いにくいことをわりときれいにまとめていると感じます。本当は「エロス」から不自然に目をそらして抑圧するのではなくて、そこに存在することを認めた上でフェアにスポーツを楽しむ方がよほど「健全」なんですけどね。


反『アンネの日記』行動

2014-02-22 07:08:03 | Weblog

 東京のあちこちの図書館で『アンネの日記』やその関連の本が破壊されているそうです。
 「書物が焼かれるところでは、結局、人間が焼かれる」(ハインリヒ・ハイネ)という言葉があるそうですが、「書物が破り取られ切り取られるところ」でも、結局、「自分に反対する意見の人間はこういった本と同じ目に遭わせてやる」という運動が盛り上がる、ということなのでしょうか。ヒトラーは焚書はしたけれど人は刑務所や強制収容所行きだったから「同じ目」ではなくて「似たような目」でしたが。
 本好きの私としては「反・アンネの日記」の主張以前に、こういった行動をする人の人間性に大きな疑念を持ってしまいます。

【ただいま読書中】『虹の解体 ──いかにして科学は驚異への扉を開いたか』リチャード・ドーキンス 著、 福岡伸一 訳、 早川書房、2001年、2200円(税別)

 『利己的な遺伝子』で著者は相当非難されたそうです。科学によって人生の豊かさを奪い取った、と。私は(著者と共に)首を傾げます。科学の基本にあるのは「センス・オブ・ワンダー」で、真っ当な科学者の基本にあるのは「謎を解明したい」という「欲求」です。きわめて人間くさい営みなんですけどね。
 「反科学」の立場に立つ人たちや「なんとなく科学は苦手」な人たちに関する考察で、著者は「音楽」を連想します。すべての人が「優れた演奏家」でなくても多くの愛好家や聴衆がいれば「音楽」は継続できます。それと同じように、すべての人が「優れた科学者」でなくても「科学」を継続させることはできるのではないか、と。これを言うとこんどは「エリート主義だ」という批判が飛んでくるのですが。
 ニュートンがプリズムで虹を「解体」したとき、新しい世界が開けました。星の光を分光器にかけることでその星がどのような“原子炉”であるかもわかるようになったのは、その一例です。昆虫が紫外線を“見て”いることがわかったことも。
 本書では「詩」がたくさん引用されます。まるで「科学者は詩が引用できるんだぞ。詩的な人で反科学の人は科学がこのレベルで引用できるのか?」と挑戦しているかのように。
 「科学を伝道する」には、J・G・グールドやカール・セーガンのように科学に関しては“手加減”をせずに、しかし親しみやすいように口説くように“伝道”をする、というやり方があります。著者もまた「科学を伝道」しようとしているようですが、“仮想敵”を意識しすぎたのか、あるいはグールドやセーガンほどの“伝道力”がなかったのか、本書ですごく成功した、とは言えません。この人に向いているのは、プロレスで言うところの「ヒール(悪役)」の方ではなかったかな。“敵”をけちょんけちょんにして「どうだ」と胸を張ってみせるの。その方が本書は輝きを増したような気がします。


政治的な宣伝は不可

2014-02-21 07:14:32 | Weblog

 「東京都美術館、安倍政権を批判した中垣克久氏の作品の撤去求める」(ハフィントンポスト)
 美術館の主張は「政治的な宣伝は不可」ということですが、それが本当かどうかはすぐわかりますね。次の機会に「安倍首相の行動に万歳」とでも書いた紙を貼った作品を出展してみて、美術館が同じことを言うかどうか、で。

【ただいま読書中】『マルヌの会戦 ──第一次世界大戦の序曲■1914年秋』アンリ・イスラン 著、 渡辺格 訳、 中央公論社、2014年、2500円(税別)

 第一次世界大戦“前夜”。ドイツの戦略はベルギーの中立を踏みにじってのフランス侵攻でした。これはイギリスを怒らせることになるひどい計画です。フランスは「勇ましい銃剣突撃で敵は抵抗不能になる」と楽観的に考えていました。日本陸軍の万歳突撃には“先例”があったのです。当時の陸軍は、主に歩兵・騎兵・砲兵で構成されていました。それは19世紀と変わりません。違うのは、大量殺戮兵器(野砲・機関銃など)の驚異的な進歩です。しかしその“事実”を戦争指導者が知るためには、多くの、非常に多くの兵士の血が必要でした。
 7月31日カイゼルは戦争緊急事態を宣告。8月2日100万以上のドイツ軍がリュクセンブルク大公国に侵入、4日ベルギーに宣戦布告。迎え撃つのは11万7千のベルギー軍。イギリスは急遽8万の大陸派遣軍を送ります。しかし、スイスからベルギーまで、全戦線で武器の差と数的優位に圧倒されたフランス軍は敗退を繰り返します。しかしフランスのジョッフル将軍は冷静に、秩序だった退却に戦術を変更します。やや手遅れ気味ですが、それでもしないよりははるかにマシ。さらに部隊を再編成し、防衛線を再構築しなければなりません。対してドイツの方は話は簡単です。真っ直ぐパリを目指せば良いのです。かくして「65万人」を「75万人」が追いかける展開となりました。ただし、ロシアが参戦したことでドイツは兵力を東にも向けなければならなくなります。フランスはかすかにですが一息つけることになりました。それでも両軍とも兵士は重い装備を身につけて1日に40kmは歩き続けなければならないのですが。
 例によって「間違い」が生じます。ドイツのモルトケもフランスのジョッフルも間違えます。さらにイギリス軍は腰が引けて戦場から離脱しようとします。そういえばフランスの軍服も“間違い”の一例です。真っ赤なズボンって、「ここに標的があります。撃ってください」と大声で言っていません?(ちなみに、イギリス軍もかつては軍服が真っ赤でしたが、ボーア戦争で狙撃兵の良い標的となったため、以後カーキ色に変更しています)
 こうして「戦場の焦点」は南下し、「マルヌ川」へとすべてが集中し始めます。フランス政府はボルドーに避難。ドイツ軍はパリを目指しますが、右翼の兵力が(ロシア戦線に引き抜かれたため)薄く進行が遅れがちです。中央の突出部分は当然補給が遅れ、さらに包囲攻撃を受けやすくなります。それでもフランス兵に負けず劣らずへとへとになったドイツ兵士は「パリまで37km」の道路標識を目にします。ヒステリックに「パリ防衛」を叫ぶ人たちは、前線からの部隊引き抜きを主張します。「戦争」に負けたら「パリ」も失われることに気づいていなかったのです。しかしジョッフルは巧妙に「パリ防衛」と「ドイツ軍の進撃を食い止める作戦」とを組み合わせることに成功しました。パリの手前でフランス軍の退却は停止します。
 しかしここでまたごたごたが。ドイツ軍を叩く好機である、という認識では一致していても、では、いつ・誰が・誰と・どのように攻撃を加えるか、でフランス(とイギリス)の将軍たちの意見は不一致の連続なのです。それでも「会戦」が始まります。それまでの歴史にない大規模な会戦でした(ナポレオン戦役で最大規模の1813年諸国民戦争は30万人のオーストリア・ドイツ軍vs15.5万人のフランス軍、1905年の奉天会戦は80kmの戦線で30万のロシア軍vs32万の日本軍。対してマルヌの会戦は250kmの戦線で計200万人の兵士が6日戦うのです)。
 様々な人物が次々登場しますが、私が印象深かったのはペタン将軍です。のちにヴィシー政権で主席を務める人ですが、ここでは、巧妙さと勇気を併せ持った“ヒーロー”です。人の運命というのはわからないものです。
 ここで「兵員輸送のためにタクシーを使う」作戦も使われています。世界で初めての「機械化輸送」です。さらに戦闘法も変化します。闇雲な突撃の代わりに、まずは野砲による砲撃、それから突撃です。さらに「飛行機による偵察」とその結果に従った砲撃、という新しい戦闘法も出現します。それまでは戦闘というよりは追いかけっこでしたが、こんどはあちこちで激しい戦闘が始まり、双方に大きな損害が出ます。一進一退の攻防となり、ドイツ軍は各所で退却を始めます。フランスの追撃は慎重です。ドイツ軍の罠ではないか、との疑いを捨てきれないのです。そして、ついに戦線は半固定化され、塹壕と鉄条網が戦場を支配するようになります。
 結局「マルヌの会戦」での“勝利者”は、誰だったのでしょう。歴史上様々な人が名指しをされていますが、本書を読む限り決定打は無いようです。歴史とはややこしく「一人のヒーローの快刀乱麻の活躍」ですべてが解決する、なんてものではないようです。たぶんそれが「歴史の教訓」なのでしょう。


夢と理性

2014-02-20 06:52:40 | Weblog

 どんなに理性的な人でも、夢を欠いた人とは話をしていて面白くありません。
 どんな夢でも“錨”としての理性を欠いていたら、その夢は人の手をすり抜けた風船のように遠くの空に行ってしまいます。

【ただいま読書中】『海遊記 義浄西征伝』仁木英之 著、 文藝春秋、2011年、1500円(税別)

 唐の時代、年号は貞観。玄奘が帰国して長安で仏典の翻訳に勤しんでいる時代から本書は始まります。幼くして斉州の土窟寺に入った義浄は、一切の妥協を許さない性格のため、強烈な魅力で人を引きつけますが、同時に敵も多く作ることになります。本人はそんなことには一切頓着しないのですが。長じて長安に出て、玄奘の教えを請いますが、寺の官僚主義に阻まれてしまいます。唐には真の仏法は行われていない、と感じた義浄は、自らインドに渡って経典を持ち帰ることにします。その意図に賛同した人々もいましたが、船に乗るために行った広州で渡航費用を持ち逃げされ、同志たちはばらばらとなり、義浄は弟子の善行(15歳)と二人で波斯(ペルシア)船アドラー号に乗り込むことになります。その航路で、というか、港から出る前から、妨害が。出航してからは妙にしつこい海賊にアドラー号はつきまとわれてしまいます。やっと入港したバレンバンでは、「転臨聖王(仏陀の生まれ変わり)が現れた」という噂から国を二分しての争いが起きようとしていました。(前)国王対新王の対立騒動に巻き込まれた義浄(と善行)とアドラー号の乗組員たちですが、そこに海賊が追いすがってきます。
 国によって違う「仏教のあり方」、地域によって全く違う歴史と文化と生活、許すのか許さないのかの迷い、もう間違えないと固く誓っても繰り返す過ち、人の執念……「正しい道」とは何か、義浄は迷い続けます。さらに「海の神」の声が義浄を悩ませます。そして、巫女と海賊の王が、義浄に何か用がある様子でちょっかいを出し続けます。
 仏典を中国にもたらす艱難辛苦の旅の物語かと思っていたら、なんと坊さんの海洋冒険小説でした。ま、たまにはこんな“裏切り”にあうのも、楽しいものです。


日韓が戦ったら

2014-02-19 06:34:21 | Weblog

 アメリカが東アジアから手を引き、中国も内乱なんかで忙しくなった、とか“条件”が整って日韓戦争が起きたとしたら、負けたらもちろん困りますが、勝った場合でもお互いに困ることになりそうです。日本が勝ったら韓国はぼろぼろですから、当然北朝鮮が大喜びで進出してきそうです。日本はそれも叩かなくちゃいけなくなります。韓国が勝ったら韓国は日本を占領するのがおおごとですし、やはり背後から北朝鮮が大喜びで出てきそうです。
 結局、戦わない方が、良いんじゃないです?

【ただいま読書中】『突飛なるものの歴史』ロミ 著、 高遠弘美 訳、 作品社、1993年、3398円(税別)

 ラテン語の「solitus(慣習的な、普通の)」をひっくり返した「アンソリットInsolite」についての本です。「実利的」とか「常識」という言葉で構成された世界にぽつんと置かれた「突飛なるもの」。それは、この世界の“裏側”に存在する“別の世界”への案内標識かもしれないのだそうです。
 まずは多神教でのアンソリットが次々登場しますが、ついでそれがキリスト教世界に入り込んでいったことも紹介されます。一角獣、セイレーン、ケンタウロス、バシリスク、ドラゴン。『博物誌』(プリニウス)、『アレクサンダー大王物語』、ギリシア神話、聖書……様々な“文献”が渉猟されます。著者はきわめてまじめな態度で面白くそれらのアンソリットの起源を探ります。
 最初に「地獄」を考えついたのは、インドのようです。そこでは想像力の限りが尽くされて「地獄の責め苦」が展開されます。しかし、古代エジプトではその手法がさらに組織的に洗練されました。天国と複数の地獄を包括する「アメンティ」が創造され、太陽神オシリスのもと、生前の善行と悪行が計量されます。それを見習ったギリシア人は自分たちの地獄「タルタロス」を作りました。そこから「異教の神」を取り除いた「地獄の設計図」だけはキリスト教に取り入れられ、キリスト教の悪魔などが配役されました。
 近代の芸術家たちもアンソリットを企てました。過激さ・奇抜さ・ショックが追求されます。その行動の根底には「束縛からの解放という欲求」があります。それは熱狂的なロマン主義のような芸術活動である場合もありましたが、反社会的な破壊活動になる場合もありました。未来派、ダダ、シュルレアリスム……“実験”は続けられます。
 「巨匠」も登場します。たとえば、ヒエロニムス・ボス、パラケルスス、アルチンボルド(果実や花を組み合わせた肖像画で有名)、カリオストロ、ルートヴィヒ二世、サルヴァトール・ダリ……
 時は流れ、人は“ショック”に慣れてしまいます。かつてのスキャンダルは今はただの気晴らしです。大衆化したアンソリットです。さらに「奇抜さの追求」も行われます。たとえばカメラマンは、街角でアンソリットが出現するのを待ちかまえるし、気の短いカメラマンは自分でアンソリットを作ってしまいます。(盗撮も一種のアンソリットを求める行動、なんでしょうね)
 最終章は「13のアンソリットな物語」。これ、本物の実話なのでしょうか。読んでいて頭の中が混乱します。ウサギを出産する女性、結婚相手を求める豚の顔の娘、“配偶者”と交感するエスカルゴの話、子供専門の葬儀人夫、肛門から空気を吸い上げおならで音楽を演奏する男…… 
 「アンソリットの話」は魅力的です。でも、アンソリットが過剰になると、それはつまり「アンソリットが普通の世界」になってしまうわけで、そうなったら「常識」が(今とは)変容してしまうわけですよね。その世界での「アンソリット」は、一体どんなものになるのでしょう? もしかしたらガチガチの“正統的”な古典?