【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

本を書く

2012-08-31 18:26:18 | Weblog

 「人は誰でも、自分の人生を材料に、一冊の本を書くことができる」という、ものを書きたい人にとっては勇気をくれる言葉があります。だけど「小説は誰にでも書けます。傑作が書けないだけ」という矢野徹さんの厳しい言葉も私は知っています。困ったものです。

【ただいま読書中】『1976年のアントニオ猪木』柳澤健 著、 文藝春秋、2007年、1800円(税別)

 プロレスは一種の演劇です。観客を満足させることが一番重要です。しかし総合格闘技はリアルファイトで、ルールを守り観客を満足させることは重要ですが、それよりも勝利が最大の目標となっています。ところが日本では、プロレスと総合格闘技の境界はなぜかあいまいです。プロレスラーであるアントニオ猪木は、総合格闘技でも一種の「アイコン」として機能していました。それは、アントニオ猪木が1976年に4つの「リアルファイト」を戦ったからです。それは、アントニオ猪木だけではなくて「日本のプロレス」を大きく変えてしまいました。本書はその1976年の物語です。
 アントニオ猪木とジャイアント馬場は同期入門でしたが、力道山は二人に明確な差別をしました。馬場はエリートコース、猪木はじっくりと下積みから鍛える、と。馬場はアメリカ遠征で大成功します。しかし、1963年、ケネディ大統領暗殺直後、日本では力道山が殺されました。帰国した馬場は力道山の跡継ぎとして進み続けます。身体能力は高いものの、プロレスラーとして芽がでない猪木は、名レスラーカール・ゴッチのトレーニングを受け力を伸ばします。美しい必殺技や汚い裏技も伝授されます。こうして猪木はストロングスタイルのレスラーになりました。
 プロレスは大ブームとなり、馬場は全日本プロレスを設立、アメリカとの強固なコネを生かして魅力的な対戦カードを次々組みます。対して猪木の新日本プロレスは外国人レスラーもテレビ中継もなしで苦闘していましたが、日本プロレスの坂口征二の移籍で息を吹き返します。さらに、悪役のタイガー・ジェット・シンとの抗争を演出。会場の客は興奮し、テレビ中継後にはテレビ局にはシンの悪行に抗議する電話が殺到します。ところが猪木がシンの右腕を折る演出で観客は息を呑みます。これまでの「善玉(日本人)vs悪玉(外国人)」の図式が目の前で崩れていくのを目撃したのです。
 馬場は猪木の台頭に危機感を覚えます。プロレスはリアルファイトではありませんが、興行はリアルファイトです。向こうに人気が出たらこちらの人気が下がるのです。興行主として馬場は着々と手を打ちます。動きが取れなくなった猪木が選んだのが、異種格闘技戦でした。
 猪木はモハメド・アリに挑戦状を叩きつけますが、無視されます。しかしそのニュースに興味を持ったのが、柔道で二つの金メダルを持つルスカでした。猪木には“猪木の物語”がありますが、ルスカにも“ルスカの物語”があります。読んでいてため息が出るようなつらい物語が。ルスカは本当に強い格闘家でした。しかし、プロレスラーではありませんでした。プロレスラーになろうとも思っていませんでした。だから、せっかく猪木との対決で目の前に“道”が開けたのに、アメリカで自らそれを閉ざしてしまいます。
 そして、モハメド・アリ。彼はまだカシアス・クレイのときに「ビッグ・マウス」をプロレスラーによってコーチされました。“銀髪の吸血鬼”フレッド・ブラッシーですが、アリはなぜかずっと「ゴージャス・ジョージ」と呼び続けていました。(ゴージャス・ジョージは実在のレスラーで、入場時のテーマ・ミュージック、ファンを愚弄、激しく人を食ったような反則、など現在のアメリカ・プロレス(特にWWE)のベースを作ったようなレスラーです。レスリングがエンターテインメントであることのアイコンと言えるでしょう。プロレスがショーであることを日本では秘密にしたかった力道山は当然ゴージャス・ジョージを日本に招聘しませんでした) フレッド・ブラッシーはゴージャス・ジョージのスタイルにマシンガン・トークを加えました。それを直伝されたアリは、「ヒールのレスラー」として行動することになったのです。ボクサーとして一時代を築いたアリは猪木との対戦が決まると、アメリカでプロレスのトレーニングを受け、お試しで何試合かを行ないます。アリは「最高のショー」を見せるつもりでした。最初の台本では猪木の勝利。ところが猪木はリアルファイトを要求します。アリは驚愕し、そこで「公正なルール」がにわかにクローズアップされることになります。猪木は、タックルと足払いは許されましたが、キック・頭突き・肘打ちは禁止。アリはあらゆる状況でパンチが打てますが、グラウンド(寝技状態)ではレスラーの方が明らかに有利ですからスタンドで戦うしかありません。最終的にルールは良いものができましたが、マスコミは混乱します。これはリアルなのか?ショーなのか? 試合は、誤解と混乱と無理解の中で開始されます。
 この時の試合の記憶が私には残っています。ロープ際のアリが「立って戦え」と手招きし、リング中央に寝っ転がった猪木が「お前こそこっちへ来い」とお互いに上下から蹴り合うという「世紀の凡戦」の光景が脳裡に蘇ってきましたが、その“裏側”にこんなにリアルで恐ろしい話が潜んでいたとは。しかしその直後、猪木に蹴られ続けたアリの左足がひどい内出血を起こし血栓症となり、最悪の場合左足の壊死、という状態になっていたことは知りませんでした。
 たしかに「凡戦」でした。ショーとしては。リアルファイトとしても(本来だったら素晴らしいリアルファイトになるはずでしたが、両者はまだ手探りで戦う段階だったのです)。そして「酷評」と「(裏のルールとかブラック・ムスリムの恐怖とかの)陰謀説」がはびこります。アリは体をこわし、猪木は大借金を背負います。
 韓国でのパク・ソンナン戦もプロレスから突然リアルファイトになってしまい、猪木はパクの目に指を入れて戦闘力を奪いぼこぼこにします。「韓国の英雄」の敗北で韓国プロレスは衰亡の道をたどることになりました。そしてパキスタンのアクラム・ペールワン戦。こちらでは猪木が戦法からリアルファイトを仕掛けられます。
 こういった一連のリアルファイトの結果、猪木は「ショーとしての日本プロレス」からはみ出した存在になってしまいました。そこで生き残りのために始めたのが「異種格闘技戦」です。ただしこれは「リアルファイト」ではありませんでした。リハーサルのあるプロレスの一種です。アメリカのWWWF(現在のWWE)との提携にも成功し、それまでの外国人レスラー不足は解消します。さらに言葉による援軍も(リングアナウンサー古舘伊知郎や『私、プロレスの味方です』の村松友視)。しかし、対戦相手とファン心理を巧みに操作していた優れたアスリート猪木にも、落日の時が迫っていました。
 新日本プロレスの崩壊・日本での総合格闘技ブーム・日本のプロレスファンの成熟(あるいは変容)……それは「1976年のリアルファイト」によって猪木が我々にもたらしたものです。私はただのプロレス好きですが、やはり自分が猪木によって変えられたことは意識できます。そして、これから先の日本のプロレス界に、新しい「猪木」が現われるのだろうか、とちょっと不安も感じています。いつまでも今のままでよい、ということはないでしょうから。


夏休みの終わり

2012-08-30 18:46:46 | Weblog

 私が小中学生をやっていたときには、夏休みは基本的に8月いっぱいで、北海道とか本州でも雪が良く降るところでは1~2週間早く2学期が始まる(その分、冬休みが長くなる)というのが普通だったと記憶しています。しかし最近は、学校も週休2日になって休みが増え、しかも学ぶべきことはどんどん増えているせいでしょう、二学期が8月下旬から始まる学校が、寒冷地以外でも増えているようです。
 地球は温暖化しているのにね。

【ただいま読書中】『ヒエログリフ解読史』ジョン・レイ 著、 田口未和 訳、 原書房、2008年、2400円(税別)

 ロゼッタストーンは、大英博物館の象徴的な収蔵物でありエジプト学の象徴であると同時に、英仏対立の象徴でもありました。
 ロゼッタストーンが作られた紀元前2世紀、エジプトはギリシア語で統治されるようになっていましたが、神々が語る言葉は相変わらずヒエログリフ(神聖文字)で書かれていました。
 イスラム支配下の(元)東ローマ帝国領では古代ギリシアの文献などはきちんと保存され研究されていました(それがのちのルネサンスで大活躍します)。それと同じことがエジプト学でも行なわれたのではないか、と著者は推測していますが、その分野での研究はほとんどないそうです。「イスラムに対する過小評価」と著者は書いていますが、それで片付けちゃっていいのでしょうか?
 ヒエログリフに関する知識はエジプト人からさえ失われていましたが、そこに音声的要素があることに気づいたのはアラブ人です。あの象形文字が「口に出して読める」とは、ちょっとショッキングな事実です。「象形文字がアルファベットである」という概念は、中世から近代までヨーロッパでは受け入れられていませんでした。しかし、それでも優れた人々は(優れていない人々も)研究を続けます。それは「失敗の歴史」でした。
 ナポレオンのエジプト遠征は、軍事的には失敗でしたが、学術的には成功でした。イギリス軍の侵攻に備えてロゼッタの古い要塞では強化工事が行なわれましたが、そのとき奇妙な石版が発見されます。最下層のギリシア文字と中間のデモティク(民衆文字、ヒエログリフを簡略化したもの)が同じ内容であるらしいことがわかったとき、人々は興奮します。最上段のヒエログリフも同じ内容であるのは間違いないだろう、ということは、ヒエログリフの解読が可能なのではないか、と。エジプトでの戦争はイギリスの勝利に終わり「ロゼッタストーン」はイギリスに接収されます。
 次は学術での“英仏戦争”です。
 イギリス側からはトーマス・ヤング。「ヤングの実験」(光の干渉性)・人の目の解剖学的研究・目街路を認識するメカニズム・ヤング係数(個体の弾性)・エネルギーの科学的用法の定義・ヤングの法則(生命保険)……とんでもなく幅の広い研究者です。言語学にも興味を持っており、最先端の研究にも興味を持っているため、当然のようにロゼッタストーンの解読にも取り組むことになりました。ヤングはまずデモティクの解読に取り組みます。デモティクがほぼ解読できたら次はいよいよヒエログリフ。ヤングは楕円で囲まれた部分が王の名前であると推測し、そこから解読を開始します。いくつかの重要な単語と「数の体系」を解明したところで、ヤングは他の分野へ興味を移してしまいます。ヤングは「謎」を放置できない性格でしたが、「あらゆる分野」に興味を持つため、ある程度謎が解決したらもう次の謎に突進してしまう傾向があったようです。
 ヤングはデモティクを解読し、ヒエログリフについては「合理的な法則に従った文字体系である」という基本概念を提示しました。このヤングが導いたのが、シャンポリオンでした。ヤングが理系人間としたら、シャンポリオンは文系です。性格的な問題と政治的な立場(ワーテルロー以後のフランスで、シャンポリオンのような左派は肩身が狭い立場でした)によって、シャンポリオンには敵が多くできていました。学術の問題に政治が絡むと大体ろくなことにはならないのですが、ここでもそうです。
 1821年に発見されたオベリスクには、ギリシア語とヒエログリフが刻んでありました。フランスのシャンポリオンはギリシア語に「クレオパトラ」があることを認め、そのヒエログリフを特定します。しかしそこからが大変。どのように発音されていたかを知るためには、コプト語を学ぶ必要がありました。古代ギリシア語にコプト語ですか。私には無理だな。シャンポリオンは十代のときに中国語も学んでいて、それもヒエログリフの解読に役立ちます。何が役に立つかはわからないものです。その過程でも「誰がヒエログリフの解読の真の貢献者か」で英仏論争が熱心に行なわれます。
 さて、解読はできましたが、さらにここで新たな問題が。キリスト教会は世界が創造されたのは紀元前5508年だとしていましたが、ヒエログリフの記述はそれより前に及んでいたのです。さて、ここから(19世紀~21世紀の)「科学と宗教の論争」が始まります。
 本書には、「線文字B」を解読したマイケル・ヴェントリス、古代マヤ文字を解読したユーリ・ヴァレンチノヴィチ・クノロゾフも紹介されます。かれらの解読についての解説を読むと、「思い込み」がいかに人間の知的作業の邪魔をするかがよくわかります。知性とは単に頭がよいことだけではなくて、有害な思い込みをいかに効率的に排除できるかの過程でもあるようです。さらに「文字を解読する」ことは、「その文字を書いた人々」の生活・習慣・思想に対する洞察も必要とします。文字の列はそれらを反映しているのですから。おっと、それは「すでに知っている文字」を読む場合にも同じことが言えますね。重要なのは「文字」を読むことだけではなくて「文字が示していること」「文字自身が持っている雰囲気」も知ることなのですから。


手作り

2012-08-29 18:23:09 | Weblog

 市場やスーパーなどであまり「手作り」を強調されると「足作りとかお尻作りもあるんですか?」と言いたくなることがあります。

【ただいま読書中】『最強の狙撃手』アルブレヒト・ヴァッカー 著、 中村康之 訳、 原書房、2007年(08年2刷)、2000円(税別)

 主人公は「敗軍(ドイツ軍)の兵士」のため、原著では第3版まで匿名だったそうです。しかし時代も変わり、第4版からヨーゼフ(ゼップ)・アラーベルガーという本名が明らかにされました。この事実一つだけでも「ドラマ」を私は感じます。本書は「伝記」というより、一人の狙撃兵の記憶を中核として、東部戦線でドイツ軍が戦った泥沼のような撤退戦を、事実を豊富に交えて再構成した「記録」です。
 ゼップのようなアルプス出身者の多くは山岳猟兵(山の猟師の特技を生かした兵科)として訓練を受けました。1943年に配属された第3山岳師団は兵隊の俗語で“ババ”でした。ゼップが配属された日から終戦までこの部隊は常に戦いの焦点に位置し、膨大な損失を被ることになるのです。黒海北側のレドキナ渓谷、最初の4日の戦闘でゼップは10年分は年を取り、5日目の負傷で生き残りの道を探ります。歩兵援護の軽機関銃手は、敵の狙撃兵のカモだったのです。そのときロシア製の狙撃銃と出会ったことがゼップの運命を決します。当時のドイツ軍では、狙撃兵のメリットは一部の指揮官には理解されていましたが、多くの兵士は「卑劣な戦士」「闇討ち射手」と忌み嫌っていました。しかしゼップは才能を示し、狙撃手として生きることになります。最初の14日でゼップは27人の狙撃に成功します(最初の一人の死体の写真が本書にありますが、右目をきれいに撃ち抜かれています。そうそう、死体の写真が本書にはたくさん出ますので、そういったものが苦手な人は読まない方が良いかもしれません)。
 43年8月にソ連軍の攻勢に耐えかね、ドイツ軍は撤退を開始します。そこでゼップは狙撃兵としての真価を発揮します。自軍の数倍のソ連軍の進撃の勢いを削ぐ(自軍の退却を援護する)ために、狙撃銃一丁で一つの部隊を退却させる、という神業のような“サバイバル”を行なったのです。ソ連の狙撃兵を主人公とした映画「スターリングラード」には、徴兵されたソ連の若者が訓練も装備もなしにドイツ軍陣地に突撃させられ、怯えて逃げようとすると赤軍将校に射殺されるシーンが登場しますが、本書でゼップはまさにそれを目撃します。それどころか、ソ連軍兵士の死体が折り重なって進撃の邪魔になってしまうとそこで戦車が出動して死体の山を掻き分けて道を造っていたそうです。戦争はおぞましいものですが、そこまでおぞましいことをしなくても、と思うのは「平和ぼけ」なのでしょうね。
 補給がまったくなく戦い続けるドイツ軍では重歩兵兵器が底をつき、狙撃兵が「砲兵隊(後援部隊)」となります。撤退の場合にはしんがりとなって、敵軍の進行を遅らせ情報を集め、自軍の情報(どのくらいぼろぼろになっているか)を相手に与えないようにします。対戦車兵器がないと破壊できないハーフトラック(兵員輸送用の装甲車)に対しては、操縦用の覗き窓(10×30cm)を遠距離から狙撃して操縦士を殺すことで排除。狙撃兵中隊(それも狙撃手は全員女性)を相手にした戦いもあります(皮肉なことに、ソ連の狙撃兵を“育てた”のは、ドイツでした)。
 狙撃兵を軽く見ていたドイツも考えを改め、1943年末には狙撃兵学校が設立されます。44年5月にゼップは入校。ベテラン兵士に対する高等訓練を受けます。
 若者の集団ですから当然性欲で悶々もあります。本書にはルーマニアにあった「国防軍の娼婦宿」も登場します。そこにいた娼婦は全員ルーマニア人でしたが、同盟国だったからかな? しかしルーマニアは変心し、44年8月にソ連と休戦、同盟を締結します。速やかに撤退するなら(ソ連との条約には反するが)武装したままドイツ軍の自由通行を認める、と通告がありますがヒトラーは激怒、ルーマニアとの交戦を命じるという大チョンボを犯します。撤退すれば戦力の温存ができたのに、おかげで現場では二正面作戦を強いられ、南ウクライナ集団(スターリングラードの3倍の人員)が全滅、戦線は破綻することになります。
 部隊はルーマニアからハンガリーへ撤退。しかしハンガリー軍も次々戦線から抜けていきます。敗戦を覚悟した司令部は、勲章を濫発することで士気を維持しようとします。ゼップはドイツ国防軍の最高叙勲の一つである騎士十字章を受章します(もっとも本物を戦地に送る余裕はドイツにはもうなく、与えられたのは仮の勲章でしたが)。そして部隊はチェコ・スロバキアへ。ドイツが近づきます。この時になってやっと武器が前線に届き始めます。もっと早く届いていたらずっと役立っていただろうに。そこでベルリン陥落。ゼップは、ソ連軍の捕虜にならないために、徒歩でオーストリアに“帰国”することにします。道なき道を人目を避けてこっそり移動することに関してゼップはベテラン中のベテランです。敵の狙撃兵の目を避けることで鍛えられていますから。
 きわめて個人的な話の連続ではありますが、これも「戦争の実相」の一つです。こういった話はなるべく数多く残されておくべきだと私は感じます。個人的体験とそれを裏づける事実の羅列だけでもいいですから。太平洋戦域でも、もっと多くのこういった話が断片ではなくてきちんとした記録として残されておいた方がいいんじゃないかなあ。



分母は?

2012-08-28 18:19:35 | Weblog

 新たなエネルギー政策で「原発の割合を、0%、15%、20~25%、その他、のどれにするか」で論争が行なわれています。「0%」はわかるのですが、私にわからないのは「15%」と「20~25%」。いや、数字の大小(差)は見たらわかります。わからないのは「分母」です。この数字は何に対する割合です? 日本全体のエネルギー量ですよね。ではその分母の(未来の)数字は現在より大きいんです?小さいんです? そのことも同時に提示されないと、たとえば原発を減らすことに賛成の人が「数字が今より小さくなった」と安心したら「分母が大きくなったから原発は増やす必要がある」と言われた、なんてことが将来起きません?
 なんでわざわざ「%」にするのですかねえ。原発を何基まで認めるか、どの原発が安全かの順番は、という“わかりやすい話”にすればいいのに。

【ただいま読書中】『宇宙怪人しまりす 医療統計を学ぶ』佐藤俊哉 著、 岩波科学ライブラリー114、2005年、1200円(税別)

 高度な技術文明を持つ惑星りすりすからやってきた宇宙怪人しまりすの使命は、地球征服。しかし、征服した後に住民を生かさず殺さずで搾り取るために重要なのは住民の健康です。しかし惑星りすりすには病気が存在しないため、医療についても学ぼうと「宇宙怪人しまりす」が京都大学にやってきました。迎え撃つのは医療統計学教授の著者。地球を守るためにがんばります。

目次
 4月 あっちの星からきました
 5月 ほんとだ、偶然ですね
 6月 飲んだらなおったんだから
 7月 たばこを吸った人が全員肺がんになるんじゃないと
 8月 そういわないで統計でなんとかごまかせませんか
 9月 今後の惑星征服の発展に貢献することができました
 10月 こういうことには死亡率を使えばいいんですね
 11月 前向き研究ってなにが前向きなの?
 12月 みんなオッズ比を計算すればいいじゃないの

 初っ端は、科学の世界で使われている「比」「割合」「率」の説明から。「比」は、分母と分子が別々のものでどちらも相手を含まないもの(たとえばBMI(体重を身長の二乗で割ったもの))。「割合」は、分母に分子が含まれている(野球の打率)。では「率」は? これには「時間」など「変化」の要素が加わります(離婚率とか化学の反応速度)。「科学の言葉」が「日本語」ではなくてヤヤコシイことがよくわかります。でも、重要な概念ですよね。
 日本では「大都会では死亡率が低く、地方では死亡率が高い」ことがわかっています。それに対して「地方の病院や道路を整備したらよい」という対策が唱えられることがありますが、それが正しいかどうか、統計的な証明があっさり行なわれます(少なくとも宇宙怪人しまりすは納得しました)。
 「煙草を喫っても肺癌にならない人がいる。したがって煙草は肺癌の原因ではない」という意見が正しいのだとしたら、「結核菌が体内に侵入しても結核を発病しない人がいる。したがって結核菌は結核の原因ではない」も正しいのか?という疑問提起もあります。宇宙怪人しまりすは困っています。しかしここは「統計」というよりも「疫学」とか「論理」のジャンルの話でしょうね。
 しかし、統計学の本を読んでげらげら笑えるとは、なかなか得難い体験です。わかりやすい統計の入門書を読んでみたい人、あるいは愉快な本を読みたい人、どちらにもお勧めです。


もしかしたら究極の贅沢

2012-08-27 18:48:03 | Weblog

 猫に小判豚に真珠、のように小判や真珠を扱うこと。

【ただいま読書中】『カザノヴァ回想録』カザノヴァ 著、 窪田般彌 訳、 河出文庫、1980年、480円

 ジャック・カザノヴァ・ド・サンガールは1725年にヴェネツィアで生まれました。10歳のカザノヴァが下宿した家の娘ベッチーナ(13歳)は、カザノヴァの幼い官能を刺激しますが、一線は越えさせようとはしませんでした。それどころか、別の下宿人をベッチーナは自分の部屋に引き入れます。恋なのかそれともカザノヴァの嫉妬心を煽るためか。ともかくその行為によってカザノヴァの心には「女に対する憧れ」と「女に対する軽蔑」が同居する奇妙な「虚無の穴」が開いてしまいました。なお、このときの悪魔払いや魔女に対する扱いでは、キリスト教がすでに「絶対権力」ではなくなっていることがうかがえて興味深いものです。
 享楽生活のつけから1749年にカザノヴァはヴェネツィアを退去せざるを得なくなります。本書は抄録で、詳しい事情は省略されていますが「国事犯審問所に呼ばれるかもしれないという不安」なんて剣呑なことが書いてあります。チェゼナの宿で出会ったハンガリアの将校(老人)の愛人アンリエットにカザノヴァはたちまちのぼせ上がってしまいます。しかしこのときのカザノヴァの振る舞いは……単に外国人に対して宿の主人が失礼をした、というだけのことを、司教や将軍にも話を持ち込んでできる限り話をでかくしてぼうぼうと燃え上がらせてしまいます。まるでトラブルを楽しんでいるかのよう。いや、「まるで」はつきませんね。完全に楽しんでいます。アンリエットはカザノヴァの熱烈な口説きに応じてハンガリア将校から乗り換えてくれますが、なぜかそれをハンガリア将校も喜んでいます(少なくともカザノヴァはそう書いています)。さて、一行はパルマに無事入りますが、そこは最近スペイン領になったばかりでした。なぜか衣服を一切持たず軍服姿だったアンリエットのためにカザノヴァは衣裳をフルセットで仕立てます。このころは当然すべてオーダーメイドで、お針子が宿までやって来てそこで服を仕立てています。それにしてもアンリエットは「謎の女」です。明らかにフランス人で高い身分の出ですが(訓練された知性を持ち知識と教養がありセロ(チェロ)の名手)、なぜ一人で旅行しているのかの事情も身元も一切を明かしません。そしてその「事情」によって、三箇月の完全な幸福の後二人は別れることになります。もっとも二人の間の愛情がそれから22年経っても色あせていないことは、この回想録に描かれているのですが。
 カザノヴァを「ただのプレイボーイ」と呼ぶのは、“真実の一部”でしょう。彼の色事には常に“共犯者”がいます。それはもちろん相手の女性ですが、それだけではなくて、二人をけしかける周囲の人間や間を取り持つ下僕など社会全体が色事を支持しているようです。さらに、大切なプライバシー情報などは厳重に秘匿されるのに、色事については多くの人があけすけに語るのには驚きます。昨夜誰それをベッドに迎えて二人であんなことやこんなことをした、と翌朝カザノヴァに語る貴族の夫人も登場しますが、そのお相手が女性でしかもカザノヴァの恋人だったりするのですから、カザノヴァはレスビアンによってコキュにされちゃったわけです。そういえば当時のフランス宮廷では「愛人が数人いる」のがほとんど貴族のたしなみのような風潮でしたっけ。
 映画「タンポポ」で、生卵の黄身を口移しでやりとりするエロチックなシーンがありましたが、本書ではそれを生牡蠣でやってます。うわああ。しかもその後に続く愛欲シーンは、彼女(匿名)の恋人が盗み見をしていることを、彼女もカザノヴァも承知で、というややこしいお話です。しかも彼女は修道女なんですよねえ。うわああああ。
 女を狂おしいほど愛し、女を愛することを狂おしいほど愛し、しかしそれよりも自由を愛した人の一代記(の抄録)です。もしも売りに行きたいくらい暇な時間ができたら、完全版も読んでみたいな。


名前を信用する

2012-08-26 18:43:58 | Weblog

 先日なぜか急に「ピノキオ」を読みたくなりました。私の記憶の中にあるピノキオは、子供の時に読んだ絵本とやはり子供の時に見たディズニーアニメのものとがごっちゃになっていて大筋も細かいところも判然としません。
 早速図書館のシステムに接続してみたら、まああるわあるわ、100冊近くみつかりました。さて、どれにしようかな、とリストを見ていたら、翻訳者に「金原瑞人」さんの名前がある本が目につきました。この人が翻訳した本は、私にとっては面白いほどハズレが少ないので、名前を信用して予約のクリックをぽちっとな。

【ただいま読書中】『ピノキオの冒険』C・コルローディ 著、 R・インノチェンティ 絵、金原瑞人 訳、 西村書店、1992年、3500円(税別)

 「自分の記憶」と違っていて、発端から驚きます。まず登場するのはゼペットじいさんではなくて、大工のチェリーさん。このチェリーさんがものを言う丸太と出会い、それを“親友”のゼペットじいさんに押しつけます。ゼペットさんは操り人形を作りますが、これがとんでもないいたずら者。「うほほーい」と叫びながら走り回りますが、アラレちゃんほどやることが可愛くありません。ゼペットさんは“児童(または人形)虐待”で牢屋へ、ゼペットさんの部屋に住む物言うコオロギはピノキオが投げた木槌が命中してあの世へ。
 それでもピノキオは“反省”して、学校に行くことにします。ところが“誘惑”が次々と。まずは人形芝居。そして、やっと金貨を手に入れたら「5枚の金貨をあっというまに2000枚にできる」という甘い話が。
 襲ってくる追いはぎ。救ってくれる妖精。忠告をしてくれる様々な生き物たち。
 ピノキオは、悪党の言葉は信じ、善人にはわがままを押し通します。その結果は、「詐欺にあった」ことをもって“有罪”とされ、牢屋行き。なんという世界でしょう。なんというピノキオでしょう。さらには、「悪人は自由にする」という恩赦があり、これで牢屋を出られると思ったら「お前は悪人ではないから、恩赦の対象ではない」という杓子定規な官僚の言い分。はいはい、あなたたちはいつも法律に従順ですよね、それがどんな悪法でも、と言いたくなります。
 このあたりでピノキオは心を入れ替えたようです。“正しい道”を歩もうとします。しかし、運命は過酷でした。ピノキオを弟にしたいと思っていた妖精は、ピノキオが(牢屋に入れられて)帰ってこなかったため悲しみで急死。ゼペットさんは“息子”を探そうと荒海に小舟を出し行方不明に。ピノキオはゼペットさんに追いつこうと荒海に飛び込んでいきます。そして、たどり着いた島で、自分は「人間」になりたいと思っていることに気づきます。そこで学校に通い始めて、やっと「いい子」になれたと思ったのもつかの間、またもや牢屋行きの運命に。
 19世紀の文学では、児童(のようなもの)はやたらと牢屋に送られるのが“常識”だったのでしょうか。それともなんでも厳しく罰する風潮への風刺?
 またも(何回目?)「いい子」になる決心をしたピノキオですが、またもやまたもや悪い誘惑の手が。散々ためらったあげくまたもや誘惑に落ちて数箇月遊びほうけたピノキオは、その報いとして「ロバ熱」にかかってしまいます。「すてきなロバ」になってしまったピノキオはサーカスに売られてしまいます(鉄腕アトム?)。そこからやっと脱出してつぎに飛び込んだのは、巨大なサメの腹の中。巨大も巨大、全長は1.5km(しっぽをいれないで)。そしてサメの腹から脱出したら、待っていたのは贖罪の日々でした。
 いやあ、つじつまが合わないところはたくさんありますが、笑いあり涙あり、正直言ってここまで面白い作品だとは、意外でした。これまできちんと読んだことがない人にはお勧めします。書き忘れていましたが、本書では“大活躍”の独特の絵も細部まで描き込まれていて退屈しません。読んで損はさせませんよ。



需要予測

2012-08-25 18:41:06 | Weblog

 日本で空港を作る前に行なわれた「需要予測」って、不思議な作業です。なにしろ「できた後に航空会社が就航する実際の路線」と違う「予定路線」で需要を予測していたのですから。実際の景気は無視して「これくらい税収があるはずだ」で予算を作る政治家や官僚みたい……って、空港の需要予測も政治家や官僚の作業でしたね。もっと民間の厳しい目を入れた方がいいんじゃない? 予算を作る方にもね。

【ただいま読書中】『航空グローバル化と空港ビジネス ──LCC時代の政策と戦略』野村宗訓・切通堅太郎 著、 同文出版、2010年、2300円(税別)

 航空事業の黎明期、各国は「ナショナル・フラッグ(またはフラッグ・キャリア)」という国策航空会社を設立し、やがて次々民営化していきました。航空会社は、長距離/短距離、旅客/貨物、などで分類されますが、分類やランキングは複雑です。その中で、LCC(ロー・コスト・キャリア)が急成長をしています。レガシー・キャリア(従来の会社)も、合理化や合併、アライアンス(会社間で乗り継ぎなどを協力)などでそれに対抗しています。
 現在の「オープン・スカイ」が始まったのは、1944年、“戦後”の国際民間航空のあり方を協議するために52箇国がシカゴに集まった会議が発端といって良いでしょう。結局1947年に「シカゴ条約」が発効し、現在の締約国は190箇国です。最初は国の主権を重視する内容でしたが、その下で「運輸権」の概念が明確化され「空の自由」が9つの類型(たとえば、領空通過の自由、以遠権など)として提示されています。世界的な航空自由化をリードしたのはアメリカで、国内航空・国際航空ともに規制緩和を推進しています(もちろんそれが国益に叶うからでしょうが、最近のTPPのことなんかも私は連想します)。
 その「オープン・スカイ」の潮流に乗って登場したのが「LCC」です。会社によってビジネスモデルは異なりますが、中型機に特化・乗り継ぎ便の手配をしない・エコノミークラスに一本化・人件費削減・自由席・ドリンクは有料・貨物は別料金などの共通点を持っています。要は、削れるコストは徹底的に削る、ということ。アメリカでは1967年から2009年までに38社のLCCが登場しましたが、残っているのは11社(ただし6社は親会社の傘下に置かれているので独立しているのは5社)だけです。でもシェアはすごい。アメリカ市場で1998年のLCCのシェアは25%、2006年は33%に伸びています。さらに国内線から国際線への進出(さらにはアライアンスへの参加)もこれからはどんどん現実のものとなりそうです。
 日本の政治では「55年体制」がありますが、航空の分野には「45・47体制」(別名「航空憲法」)があります。これは「昭和45年(1970)の閣議決定・昭和47年(1972)の運輸大臣通達」で「日本キャリアの輸送力分野・輸送力調整・協力関係」について定めたものです(たとえば「日航は国際便と国内線は幹線のみ/全日空は国内全般/東亜は一部幹線とローカル線」「運賃も割引もすべて認可制」といったもの)。すいぶんがちがちに縛ったものだと現在の視点からは思えますが、当時の国際情勢や日本の国力、好景気などを考えると、当時としては最善の策だったのでしょう。ただ、それを「基盤」として「世界と戦える日本航空産業」にすれば良かったのに、結果は「ぬるま湯につかっているカエル」。
 45・47体制の崩壊で、まずJASとJALの統合が行なわれました。しかし新生JALの経営は厳しく、資金がショートする事態に。政府は「民営航空会社」に対して積極的に関与することにしますが、そこで政権交代。民主党政権は「企業再生機構を活用したJALの再生」を進めることにします。会社更生法の適用です。そういえばこのとき「やたらと地方空港を作って、そこへの路線を飛ばせたからJALの赤字が膨らんだ」ということも言われました。ただ、ここ20年で開港した12の空港でJALが就航したのは5空港だけで、その内静岡や神戸は数年で撤退しています。ならばどの会社がそういった空港を“活用”していたのでしょう?
 日本では地方空港が苦戦していますが(着工の時の手続きや予算や計画があまりにいい加減だった報いではあるのですが)、それでもそういった中小の空港が生き残る道として、イギリスの現状が本書には紹介されています。LCCの活用・乗換の利便性(国内および国際線へ)など、要するに「便利で安い」空港なら人は活用する、ということのようです。なんか当たり前の結論ですが。しかし本書に描かれる日本の「空港整備特別勘定」や「需要予測」のいい加減さというか脳天気さを読むと、あきれますが、「原子力発電所では事故が起きないはずだ」と通底する「日本の問題点」も感じます。人は「空港」を利用することが目的なのではなくて、「移動のための手段として空港を利用する」ことを忘れてはいけないでしょう。そういう見方をしたら「空港はその地方のもの」ではなくて「日本の交通ネットワークの一つの結節点」として空港が見えてくるはずなのですが。



個別包装

2012-08-24 18:20:49 | Weblog

 かっぱえびせんの一本ずつ、ポテトチップスの一枚ずつ、の個別包装があったら、食べるのにずいぶん苛つきそうです。

【ただいま読書中】『江戸の流行り病 ──麻疹騒動はなぜ起ったのか』鈴木則子、吉川弘文館、2012年、1700円(税別)

 現代社会では麻疹(はしか)は「小児の病気」ですが、江戸時代には(最近の「新型インフルエンザ」のような)「社会全体に大損害を与える流行病」でした。十数年~二十数年ごとに大流行を繰り返し、免疫を持っていない人がばたばたと倒れる病気だったのです。江戸時代には全部で14回の大流行があったそうです。さらに麻疹の死亡率は、当時はとても高いものでした。著者の試算では、4.7~5.7%という数字がはじき出されていますが、これは、現代の開発途上国での麻疹死亡率が5~10%であるのとけっこう合っています。(もっとすごいのは1875年フィジー島ですが、外国から持ち込まれた麻疹によって、3ヶ月で全島民15万のうち4万人が死亡しているそうです)
 江戸時代には「疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」という諺があったそうですが、まさに麻疹は「命にかかわる病気」だったのです。特に(免疫を持たない)成人の場合、致死率が高かったようです。
 麻疹で死んだ江戸の有名人といえば、将軍綱吉でしょう。麻疹にかかり、やっと快癒した、と思ったときに亡くなりました。あまりに多くの人が流行のたびに亡くなるものですから、享保の改革では「医療改革」が行なわれました。本草学者が登用されて、薬草の調査や薬草園の管理が行なわれ、さらに小石川には養生所が設けられました。つまりその時から麻疹は「公的な医療の対象」になったのです。中国からは白い牛が輸入されました。目的は麻疹の特効薬とされた「白牛洞(白牛の糞の黒焼き)」生産。もっともこれはあまり人気が出なかったようですが。
 宝暦三年(1753)の流行では、麻疹専門書「麻疹日用」が出版されました。薬によって食欲を上げて病気に勝つ、という“治療法”が紹介されています。そういった「医療」と平行して「馬の足洗桶をかぶる」といったマジナイや「神送り」(皆でパレードをして賑々しく「病」を共同体の境界の外へと送り出す行事)も広く行なわれていました。さらに安永五年(1776)の流行では、難しい医学書を初学者(要するにヤブ医者)や素人向けに簡単に解説したマニュアル本が次々出版されます。
 そういったマニュアル本は、時代を下るにつれ、どんどん詳細になっていきます。食べてはいけないもの・食べた方がよいもののリストもどんどん長くなります。「前書と同じ」では売れないし、「客の要望」もどんどん切実になった、ということでしょう。その結果「麻疹関連商品」は軒並み値上げされます。逆に禁止された行為(外出、入浴、房事などやたらと多くの行為が禁忌とされました)によって、芝居・銭湯・遊郭などは大打撃を受けます。
 何年前だったかな、日本では免疫を持たない大学生が集団発症して社会問題となりましたが、江戸時代に集団発症で問題になったことの一つは、三井越後屋のような大店でした。若い従業員が多数住み込みで働いていましたから、そこに麻疹が流行したら店の営業にも大きな影響が出たのです。
 天保七年(1836)は、直前の文政の流行から12年しか開いていなかったためか、小児が中心で軽症型でした。ところがその次、文久二年(1862)は患者数は多く死者も莫大でした。厳重な隔離体制を敷いた江戸城でも、将軍家茂や御台所和宮が罹患しています。コレラの流行も重ねておき、死者数を増しています。一日に200の棺桶が日本橋をわたった、という記録もあるそうです。この時の麻疹は、長崎を起点に街道に沿って日本中に広がったため、外国から持ち込まれたもの、と噂されました。ことの真偽はわかりませんが、コレラは当時世界中で流行していましたから、海外からの持ち込みと考えて良いでしょう。
 明治になっても麻疹の流行はありましたが、人の移動が盛んになったことの影響でしょう、やがて多くの人が免疫を獲得しその結果流行の波は小さくなり、今のような春に小児だけがかかる「軽い病気」へとなりました。これは「社会」の変化によって病像が変化したわけです。現在世界の先進国では麻疹はほぼ封じ込められています。しかし日本はまだまだ「麻疹後進国」。きちんとした封じ込めがまだできていません。もしも免疫を持たない人が大量に貯まったら、そこでまた江戸時代の再現があるかも知れません。まだまだ油断はできませんよ。



1%の重み

2012-08-23 18:54:14 | Weblog

 「99%当てる人間」は「1%の間違い」を悔やみます。「99%外す人間」は「1%当てたこと」を大声で吹聴し、あろうことか「99%当てる人間」の「1%の間違い」を揶揄します。

【ただいま読書中】『或る「小倉日記」伝』松本清張 著、 新潮文庫、1965年(86年39刷)、440円

 本書に初めて出会ったのは、私は高校の時だったかな。変わった文体の作家だ、という感想を持ちましたが、それと同時に「森鴎外」が軍医の「森林太郎」であることも教えられて、すごく得をした気分になりましたっけ。

目次:或る「小倉日記」伝、菊枕、火の記憶、断碑、笛壺、赤いくじ、父系の指、石の骨、青のある断層、喪失、弱み、箱根心中

 すでにご存じの方が多いでしょうが、『或る「小倉日記」伝』は、失われた森鴎外の「小倉日記」を再現するために、不自由な体と聡明な頭のギャップを抱えて苦闘する青年の物語です。「再現」の手法は、当時生きていた人々への「聞き込み」。戦前の日本ですから、「明治」はまだそう遠くなかったのです。聞き込みの過程は、まるで上質な推理小説です。そして、そこで描かれる「戦前の日本社会」。松本清張が何を見つめ何を表現したいのか、その重要なパーツがここには揃っています。それがそのまま後の社会性の強い推理小説につながっていると言えるでしょう。また、古代への関心も本書には濃厚に見ることができます。
 ただ、「頭の良さ」「学歴(への反発)」「美醜」「貧乏」「病気」「不幸」「家庭不和」「権威(への反発)」「流浪」への言及も本書には満ちています。なにか“分析(もどき)”をしようというわけではありませんが、著者が執筆活動の原動力としていたものが何か、なんとなく感じることができるような気がします。しかし、最後の「箱根心中」。男と女と運命の心理描写の透明さが、「地に足をつけた純文学」としてこちらの心に迫ってきます。著者は、なかなか懐の広い作家です。もうちょっと美しい文章だったら純文学系のファンなどにさらに人気が出たのではないかなあ。



解決法?

2012-08-21 18:59:49 | Weblog

 尖閣諸島への強制上陸(国境侵犯や軽犯罪法違反)や大津教育長殺人未遂事件を見ると、それで何が解決するのだろう?という感想を持ちます。この世界に、これからどんな良いことが起きるのだろう、と。本人には「正義の動機」があるのも、それを実行したことでカタルシスを得ただろうこともわかりますが、「解決」への道はどのくらい短くなってます?

【ただいま読書中】『裏切り ──野村証券告発』大小原公隆 著、 読売新聞社、1999年、1800円(税別)

 最近の野村証券は「不祥事」で釈明に追われていますが、これは20世紀の「不祥事(の内部告発)」の話です。
 かつて証券会社では「利益供与」はごく普通の行為でした。1982年に総会屋への利益供与が禁止され明日が、親族会社を介在させるなどザル状態。しかし91年に損失補填事件(証券会社40社が2300億円を有力顧客の損失穴埋めに使った)が明るみに出て、92年にすべての利益供与と損失補填が法律で禁じられました。前者は商法、後者は証券取引法違反です。証券取引等監視委員会も設置されました。
 著者は、野村証券が会社ぐるみで行なっている総会屋への利益供与に気づき、警察・証券取引等監視委員会・東京地検特捜部に内部告発をしていました。さらにはマスコミの取材も受けています。しかし、捜査陣もマスコミもどこも表立ってはなにも動きを見せませんでした。捜査が隠密で行なわれるのは当然でしょうが、記者たちも、せっかく得た材料を、たとえば野村証券との取り引きに使おうとしたりしています。そういった、ここで描かれる記者たちの姿は、(きわめて抑制的に書かれていますが)なんとも“美しくない”ものです。「真実」とか「社会正義」よりも大切なものがある、と言わんばかりの新聞記者たちの態度には、「社会正義よりも会社の利益が大切」の証券会社の姿勢に通じるものがあります。
 1997年、新聞は大々的に報じましたが野村証券は否認を続け捜査陣は沈黙。内部告発は不発に終わるのか、とも思える状況の3月、野村はなぜか「自白会見」を行ないます。社長が出張で不在のときに「常務二人が、利益の付け替えの手口で総会屋の親族企業に利益供与をしていた」ことを“白状”したのです。著者は勝利の美酒に酔いしれますが、その日、逮捕されてしまいます。
 著者はおそらく「皆、新聞などで詳しい情報や記憶を持っているはず」を前提として本書を書いたのでしょう。まさか十年経ったら、ほとんどの人がこの事件のことを覚えていない、なんてことは想定していなかったはず。ですから本書を読むにはちょっと予備知識を入れておくか、記憶を呼び起こすか、第1章は我慢して読んで第2章に突入するか、が読者には求められそうです。もちろんしっかり覚えている人はそのまま楽しめばよいでしょうが。
 91年の損失補填事件(と暴力団稲川会との巨額取り引き)が問題となり結局野村証券では社長や常務が辞任する事態になったとき、著者はジャカルタ支店にいました。酒巻新体制で野村には「業務管理本部」が設置され、内部浄化を実行しようとしました。著者は新設された「法人営業管理部」に転属となり、取り引き管理をすることになります。野村証券では、それまで行なわれていた「株価操作もどき」「営業ノルマ」が全廃となり、それが遵守されているかどうかを管理する部門が必要となったのでした。その「管理サイド」から、著者は「現場の変容」を実感します。臆病なくらい法律を守ろうとするようになったのです。野村の商売は、異常なくらいやせ細ってしまいました。
 そんな日が続いていた93年、著者は奇妙な大口取引に気づきます。禁止されている一任勘定(顧客が一々注文をしなくても、証券会社が勝手に株の売買をする)で大儲けをしている会社があったのです。著者の指摘は一蹴されます。会社の上層部が組織だって、総会屋に資金を渡すために行なっていたのですから。そういった“構図”の全体像は見えないまま、著者は「とにかくこのままでは会社がまた拙いことになる」と確信します。ではそれを止めるためには?
 著者は、マスコミ・警察・証券取引等監視委員会に通報しますが、どこも黙殺。94年にヘッドハントされ著者は野村を退職します。ネタは鮮度を失い、著者は“部外者”になりますが、97年にやっと事態が動いたわけです。
 さて、著者の逮捕ですが、本来は「預けた金を返せ」という民事。それがなぜか「詐欺」という「刑事事件」になって、そこに野村証券の重役逮捕に関する検察の思惑や国会議員の優遇口座に関する国政調査やマスコミのいろんな思惑やらが絡んで、話は不必要に複雑になります。
 著者は「裏切り」をしたことにずいぶんなこだわりを感じていますが、私は本書から著者の野村証券への愛社精神を感じました。退社しこんな不祥事(最終的に自殺者が6人出ています)の発端となってしまった後でも、言葉の端々に野村への愛が感じられるのです。会社って、一体誰の所有物なんでしょうねえ。