
2007年の3月23日から4月29日まで、フロリダのManalapanにあるFlorida Stageで上演された「Backwards in High Heels」は、数多くのミュージカル映画でフレッド・アステアと共演したジンジャー・ロジャースの生涯を描いたミュージカルです。ミュージカル女優としてだけでなく、演技派女優としての才能にも恵まれていた彼女は、いったいどんな人だったのでしょう?(写真は、映画「The Gay Divorcee ゲイ・ディボース(1934)」のジンジャーとフレッド・アステアです。)
彼女の本名は、Virginia Katherine McMathといい、1911年7月16日にMissouri州のIndependenceで生まれました。彼女が生まれて間もなく両親が別居し、彼女は、母親と一緒にカンザスシティの近くにあった祖父母の家に身を寄せていましたが、両親の仲はすっかり冷え切り、幼い娘の親権をめぐって争うようになりました。
やがて、両親の離婚が成立し、母親のLelaは、ハリウッドで2年間、脚本を書いて、生計を立てました。その間、幼いバージニアは、祖父母のもとで暮らすことになりました。彼女のいとこ達は、バージニアという彼女の名前が発音出来ず、彼女を「Ginger ジンジャー」と呼んでいたのだそうです。
彼女が9才の時、Lelaは、John Logan Rogersと再婚し、ジンジャーは、Rogersの姓を名乗るようになりましたが、正式にはRogersの養子にはなりませんでした。一家は、テキサスに移り住み、Lelaは、地元紙の演劇批評家の職を得ました。
10代の頃、ジンジャーは学校の先生になろうと考えていましたが、ハリウッドや演劇に強い興味を持っていた母の影響で、舞台に興味を持つようになりました。演劇評論家という仕事がら、劇場に出入りすることの多い母に連れられて劇場に行き、舞台の袖でステージを見ていた彼女は、いつしか、出演者達に混じって、ステージで歌ったり踊ったりするようになっていきました。
ジンジャーが14才の時、Eddie Foy 率いるボードヴィルの一座が、彼女の住むFort Worthにやってきました。一座のツアーに参加できるという副賞付のチャールストン・コンテストに参加したジンジャーは見事優勝し、一座に加わり、ツアーに出たのでした。これが、彼女のエンターテイメント界へのデビューでした。この頃には、母親のLelaは、Johnと離婚していたのですが、ジンジャーは、ロジャースの姓を名乗り続けていました。母娘は、一座と一緒に4年間、ツアーを続けました。
17才の時に、ジンジャーは、同じダンサーのJack Culpepperと結婚しましたが、若過ぎる結婚は2年足らずで破局を迎え、彼女は、母と一緒にツアーに戻ったのでした。
一座がニューヨークに着いたのをきかっけに、ジンジャーは、一座を離れてニューヨークに残りました。ラジオでの歌手としての仕事を経て、彼女は、1929年のクリスマスにオープンした「Top Speed」という作品で、Broadwayデビューを飾り、同年中に3本の短い映画に出演して、映画デビューも果たしました。
「Top Speed」が開演してわずか2週間後に、ジンジャーは、ガーシュイン兄弟作の「Girl Crazy」に主演することが決まりました。この作品には、振り付けの手伝いにフレッド・アステアも参加しており、彼とジンジャーは、短期間ですが、交際していたのだそうです。1930年に「Girl Crazy」に主演した19才のジンジャーは、一夜にしてスターの仲間入りを果たし、パラマウント映画と7年間の契約をしました。
しかし、ジンジャーは、すぐにパラマウントとの契約を破棄し、母と一緒にハリウッドに移り、しばらくいくつかの端役をつとめた後、1933年にワーナー・ブラザースの「42nd Street」でブレイク、その後、RKOと契約した彼女は、「Flying Down to Rio (1933)」で、フレッド・アステアと再会したのです。フレッドとコンビを組んで踊ったエキゾチックなダンス・ナンバー「キャリオカ」は大評判となり、ジンジャーとフレッドは、ともに主役クラスの俳優となり、翌34年には、ジンジャーは、RKOと専属契約を結んだのでした。
2人のコンビは、1933年の初共演を皮切りに、1939年までの間に、RKOで9つのミュージカルに出演しました。彼らのダンスは、斬新かつエレガントで誰もまねることの出来ない素晴らしいステップで、ハリウッドのミュージカル映画に革命をもたらしました。何人もの有名な作曲家達が、彼らのために曲を書き、かつてどのような映画でも見られなかったアールデコ調の豪華なセットで撮影が行われました。
「フレッドとジンジャー」といえば、今日でも、比類なき永遠のダンス・ペアの代名詞として知られています。
ダンサーとしての優れた才能に加えて、誰からも親しみを持たれる温かみのある美貌に恵まれたジンジャーは、アステアに勝るとも劣らない人気を獲得していきました。完璧を求めてひたすらダンスに打ち込むアステアと違い、ジンジャーは、演技派女優を目指しており、ミュージカル以外の作品にも積極的に出演していました。しかし、そんな2人が主演するミュージカルも、次第に人気に陰りが見え始め、1939年の「The Story of Vernon and Irene Castle カッスル夫妻」を最後に、コンビを解消しました。
翌40年にはクリストファー・モーリーのベストセラー小説を映画化した「Kitty Foyle: The Natural History of a Woman 恋愛手帳」に主演し、2人の男に愛される独立した女性キティ・フォイルを熱演して念願のアカデミー主演女優賞に輝きました。演技派女優として認められた彼女は、RKOのトップ・スターとして、ヒット・ミュージカル「シカゴ」のモデルにもなった実在の女性ロキシー・ハートを演じた「Roxy Hart(1942)」等、いくつもの映画に出演しました。電車賃を値切るために12歳の少女に扮する女性をコミカルに演じたビリー・ワイルダーの監督デビュー作「The Major and the Minor 少佐と少女 (1942)」では、母親Lelaとの共演を果たしました。 1949年には病気で降板したジュディ・ガーランドに代わって「The Barkleys of Broadway (ブロードウェイのバークレー夫妻)」に出演し、長年のパートナーだったアステアと再共演を果たしました。久しぶりのミュージカル映画だったにも関わらず、ジンジャーは、アステアと共に、息の合った優雅で華麗なステップを披露しました。
その後、活躍の場を古巣の舞台に戻したジンジャーは、1965年には、Broadwayの「Hello, Dolly! ハロー・ドーリー」に、主役のドーリー役の女優が降板した後を引き継いで主演したり、アメリカ国内、カナダ、ヨーロッパをツアーしたりと、ミュージカルを中心に活躍しました。
1972年から1975年にかけては、アメリカのデパート「JCペニー」のファッション・コンサルタントを務め、1985年には、ミュージカル「Babes in Arms」(舞台)の演出を手がけました。また、ウディ・アレン等と共にモノクロ映画のカラー化に反対する運動にも参加しました。
後年のジンジャーは、糖尿病により車椅子での生活を余儀なくされましたが、1991年には自伝『ジンジャー・ロジャース』を出版し、1995年にはウィメンズ・インターナショナル・センターからLiving Legacy Awardが授与されました。
しかし、Living Legacy Award授与のわずか数週間後の1995年4月25日、ジンジャーは、カリフォルニア州のRancho Mirageで、鬱血性の心不全のために83才で息を引き取りました。彼女の遺体は、パートナーだったアステアが眠っているカリフォルニア州チャッツワースにあるオークウッド・メモリアル・パークに埋葬されました。
アステアの実の姉で、舞台時代の彼のパートナーだったアデルを除けば、ジンジャーは、最も多くアステアのパートナーをつとめた女優と言えるでしょう。ちなみに、彼女のBroadwayでのキャリアは、こちらでご覧いただけます。
彼女の本名は、Virginia Katherine McMathといい、1911年7月16日にMissouri州のIndependenceで生まれました。彼女が生まれて間もなく両親が別居し、彼女は、母親と一緒にカンザスシティの近くにあった祖父母の家に身を寄せていましたが、両親の仲はすっかり冷え切り、幼い娘の親権をめぐって争うようになりました。
やがて、両親の離婚が成立し、母親のLelaは、ハリウッドで2年間、脚本を書いて、生計を立てました。その間、幼いバージニアは、祖父母のもとで暮らすことになりました。彼女のいとこ達は、バージニアという彼女の名前が発音出来ず、彼女を「Ginger ジンジャー」と呼んでいたのだそうです。
彼女が9才の時、Lelaは、John Logan Rogersと再婚し、ジンジャーは、Rogersの姓を名乗るようになりましたが、正式にはRogersの養子にはなりませんでした。一家は、テキサスに移り住み、Lelaは、地元紙の演劇批評家の職を得ました。
10代の頃、ジンジャーは学校の先生になろうと考えていましたが、ハリウッドや演劇に強い興味を持っていた母の影響で、舞台に興味を持つようになりました。演劇評論家という仕事がら、劇場に出入りすることの多い母に連れられて劇場に行き、舞台の袖でステージを見ていた彼女は、いつしか、出演者達に混じって、ステージで歌ったり踊ったりするようになっていきました。
ジンジャーが14才の時、Eddie Foy 率いるボードヴィルの一座が、彼女の住むFort Worthにやってきました。一座のツアーに参加できるという副賞付のチャールストン・コンテストに参加したジンジャーは見事優勝し、一座に加わり、ツアーに出たのでした。これが、彼女のエンターテイメント界へのデビューでした。この頃には、母親のLelaは、Johnと離婚していたのですが、ジンジャーは、ロジャースの姓を名乗り続けていました。母娘は、一座と一緒に4年間、ツアーを続けました。
17才の時に、ジンジャーは、同じダンサーのJack Culpepperと結婚しましたが、若過ぎる結婚は2年足らずで破局を迎え、彼女は、母と一緒にツアーに戻ったのでした。
一座がニューヨークに着いたのをきかっけに、ジンジャーは、一座を離れてニューヨークに残りました。ラジオでの歌手としての仕事を経て、彼女は、1929年のクリスマスにオープンした「Top Speed」という作品で、Broadwayデビューを飾り、同年中に3本の短い映画に出演して、映画デビューも果たしました。
「Top Speed」が開演してわずか2週間後に、ジンジャーは、ガーシュイン兄弟作の「Girl Crazy」に主演することが決まりました。この作品には、振り付けの手伝いにフレッド・アステアも参加しており、彼とジンジャーは、短期間ですが、交際していたのだそうです。1930年に「Girl Crazy」に主演した19才のジンジャーは、一夜にしてスターの仲間入りを果たし、パラマウント映画と7年間の契約をしました。
しかし、ジンジャーは、すぐにパラマウントとの契約を破棄し、母と一緒にハリウッドに移り、しばらくいくつかの端役をつとめた後、1933年にワーナー・ブラザースの「42nd Street」でブレイク、その後、RKOと契約した彼女は、「Flying Down to Rio (1933)」で、フレッド・アステアと再会したのです。フレッドとコンビを組んで踊ったエキゾチックなダンス・ナンバー「キャリオカ」は大評判となり、ジンジャーとフレッドは、ともに主役クラスの俳優となり、翌34年には、ジンジャーは、RKOと専属契約を結んだのでした。
2人のコンビは、1933年の初共演を皮切りに、1939年までの間に、RKOで9つのミュージカルに出演しました。彼らのダンスは、斬新かつエレガントで誰もまねることの出来ない素晴らしいステップで、ハリウッドのミュージカル映画に革命をもたらしました。何人もの有名な作曲家達が、彼らのために曲を書き、かつてどのような映画でも見られなかったアールデコ調の豪華なセットで撮影が行われました。
「フレッドとジンジャー」といえば、今日でも、比類なき永遠のダンス・ペアの代名詞として知られています。
ダンサーとしての優れた才能に加えて、誰からも親しみを持たれる温かみのある美貌に恵まれたジンジャーは、アステアに勝るとも劣らない人気を獲得していきました。完璧を求めてひたすらダンスに打ち込むアステアと違い、ジンジャーは、演技派女優を目指しており、ミュージカル以外の作品にも積極的に出演していました。しかし、そんな2人が主演するミュージカルも、次第に人気に陰りが見え始め、1939年の「The Story of Vernon and Irene Castle カッスル夫妻」を最後に、コンビを解消しました。
翌40年にはクリストファー・モーリーのベストセラー小説を映画化した「Kitty Foyle: The Natural History of a Woman 恋愛手帳」に主演し、2人の男に愛される独立した女性キティ・フォイルを熱演して念願のアカデミー主演女優賞に輝きました。演技派女優として認められた彼女は、RKOのトップ・スターとして、ヒット・ミュージカル「シカゴ」のモデルにもなった実在の女性ロキシー・ハートを演じた「Roxy Hart(1942)」等、いくつもの映画に出演しました。電車賃を値切るために12歳の少女に扮する女性をコミカルに演じたビリー・ワイルダーの監督デビュー作「The Major and the Minor 少佐と少女 (1942)」では、母親Lelaとの共演を果たしました。 1949年には病気で降板したジュディ・ガーランドに代わって「The Barkleys of Broadway (ブロードウェイのバークレー夫妻)」に出演し、長年のパートナーだったアステアと再共演を果たしました。久しぶりのミュージカル映画だったにも関わらず、ジンジャーは、アステアと共に、息の合った優雅で華麗なステップを披露しました。
その後、活躍の場を古巣の舞台に戻したジンジャーは、1965年には、Broadwayの「Hello, Dolly! ハロー・ドーリー」に、主役のドーリー役の女優が降板した後を引き継いで主演したり、アメリカ国内、カナダ、ヨーロッパをツアーしたりと、ミュージカルを中心に活躍しました。
1972年から1975年にかけては、アメリカのデパート「JCペニー」のファッション・コンサルタントを務め、1985年には、ミュージカル「Babes in Arms」(舞台)の演出を手がけました。また、ウディ・アレン等と共にモノクロ映画のカラー化に反対する運動にも参加しました。
後年のジンジャーは、糖尿病により車椅子での生活を余儀なくされましたが、1991年には自伝『ジンジャー・ロジャース』を出版し、1995年にはウィメンズ・インターナショナル・センターからLiving Legacy Awardが授与されました。
しかし、Living Legacy Award授与のわずか数週間後の1995年4月25日、ジンジャーは、カリフォルニア州のRancho Mirageで、鬱血性の心不全のために83才で息を引き取りました。彼女の遺体は、パートナーだったアステアが眠っているカリフォルニア州チャッツワースにあるオークウッド・メモリアル・パークに埋葬されました。
アステアの実の姉で、舞台時代の彼のパートナーだったアデルを除けば、ジンジャーは、最も多くアステアのパートナーをつとめた女優と言えるでしょう。ちなみに、彼女のBroadwayでのキャリアは、こちらでご覧いただけます。