『どうか、…あらゆる霊的な知恵と理解力によって、
神のみこころに関する真の知識に満たされますように。』
(コロサイ 1:9)
ここで、そう祈られているのは、すでにクリスチャンとなった者。
神様を知らない者ではない。
すでに、救われ、聖霊によって、神のみこころをわきまえ知りえる者。
だが、まだ完全では、ない。
甘えと聞こえるかもしれないが、
クリスチャン、だからと言って、完全ではない。
自分の日々の小さな決断、選択、そのひとつひとつが、神様のみこころにかなったものなのかだけではなく、
私たちが『知っている』と思っている、知られており、常に目にしていること、
もっとも大事なことでさえ、時として、「みこころを本当に知っているとはいえない」可能性がある。
むろん、その深さ、広さ、長さ、高さ・・・それは測り知りえない。
神様のみわざを、その御旨をすべて知ることは、人にはできない。
だが、私たちは日々、それを目にし、味わい、感謝し、
そして、求め続ける。
**********
まったく異なるものであるならば、まだいい。皆が、そうと理解できる。
だが、さも見かけが似ていたり、紛らせていた場合、
または、もしも、馴染みのものが実は本来とはかけ離れていた場合、
どのようにして、人はそれを知ることができるのか。
結局、みことばによって、みことばを知り、
両刃の剣よりも鋭い(ヘブル4:12-13)みことばによって、みこころを、そして、自らを知る。
そのとき、自分を偽ってはならず、そして、
よく語られている(語る)ことを吟味し、また、聞いているだけとならないようにすることが必要だが。
他の人に当てはめて考えるのではなく、自己のこととして考えることが必要だが。
**********
至らない者であり、愚かな者である故、
混乱させてしまうこともある。
日々の小さなことさえ、おぼつかない面もあり、
苛立たせてしまうこともある。
ここにさわりとはいえ記すのが良いかどうか、と思い悩みつつ、
その愚かな者のそれが、いつか貴方に何かに益となることをかすかに期待もしつつ、記す。
「みこころを教えてください」
とともに祈り、聖霊によって、みことばを深く知り、味わい、
主に喜ばれるよう歩めることを願いながら。
神のみこころに関する真の知識に満たされますように。』
(コロサイ 1:9)
ここで、そう祈られているのは、すでにクリスチャンとなった者。
神様を知らない者ではない。
すでに、救われ、聖霊によって、神のみこころをわきまえ知りえる者。
だが、まだ完全では、ない。
甘えと聞こえるかもしれないが、
クリスチャン、だからと言って、完全ではない。
自分の日々の小さな決断、選択、そのひとつひとつが、神様のみこころにかなったものなのかだけではなく、
私たちが『知っている』と思っている、知られており、常に目にしていること、
もっとも大事なことでさえ、時として、「みこころを本当に知っているとはいえない」可能性がある。
むろん、その深さ、広さ、長さ、高さ・・・それは測り知りえない。
神様のみわざを、その御旨をすべて知ることは、人にはできない。
だが、私たちは日々、それを目にし、味わい、感謝し、
そして、求め続ける。
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まったく異なるものであるならば、まだいい。皆が、そうと理解できる。
だが、さも見かけが似ていたり、紛らせていた場合、
または、もしも、馴染みのものが実は本来とはかけ離れていた場合、
どのようにして、人はそれを知ることができるのか。
結局、みことばによって、みことばを知り、
両刃の剣よりも鋭い(ヘブル4:12-13)みことばによって、みこころを、そして、自らを知る。
そのとき、自分を偽ってはならず、そして、
よく語られている(語る)ことを吟味し、また、聞いているだけとならないようにすることが必要だが。
他の人に当てはめて考えるのではなく、自己のこととして考えることが必要だが。
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至らない者であり、愚かな者である故、
混乱させてしまうこともある。
日々の小さなことさえ、おぼつかない面もあり、
苛立たせてしまうこともある。
ここにさわりとはいえ記すのが良いかどうか、と思い悩みつつ、
その愚かな者のそれが、いつか貴方に何かに益となることをかすかに期待もしつつ、記す。
「みこころを教えてください」
とともに祈り、聖霊によって、みことばを深く知り、味わい、
主に喜ばれるよう歩めることを願いながら。