さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

続・病(やまい)

2009-09-08 23:21:43 | Tuesday 病院
(前記事はこちらをクリック)
◇「病いの語り~慢性の病いをめぐる臨床人類学~」(アーサー・クライマン著、誠信書房、1996)から、一部抜粋。

注:<>は、キャベツが勝手につけたところである。また、ここでは、あとで読みやすいように、勝手に段落を変えていることをお断りする。



P.12-13 <痛みの表現>

 その結果、たとえば痛みについて話すとき、われわれはまわりの人びとに理解してもらうことができる。
 しかし表面的な意味でさえかなり微妙でとらえがたいこともある。各々の文化や時代において、たとえば頭痛についての数多くの異なった語り方がある。こうした相違によって、病者の周囲の人びとがその人に対して異なった仕方で反応することになる。
 北アメリカの社会で頭痛を訴えるたくさんの表現法を考えていただきたい。
「頭が痛む」
「頭がとても痛い」
「頭がガンガンする」
「偏頭痛がある」
「たんなる緊張性の頭痛だ」
「こめかみが詰まって重い感じがする」
「ひたいが輪のようなものでしめつけられているように痛い」
「副鼻腔が痛む」
「頭蓋骨がチリチリする」
「頭を動かすとめまいがする、ちょうど目の前をベールが通り過ぎるようだ」など。

 いずれの表現も、無味乾燥な「頭痛」という用語に陰影と色彩をほどこしている。
 慢性の頭痛がたどる長い経過において、いくつかのキーワードが、それを患う者や家族にとって特別な意味を帯びるようになるが、それは、はたで立ち聞く人には理解できないものだろう。
 こうした慣習的な病いの慣用表現や特別な用語をどれだけ有効に使用できるかは、人によって異なる。他人の行動に影響を及ぼすこうした秘められた力をもった言葉を、表現のなかにたくみに盛り込むことによって、支持を受けたり、他者を遠ざけたり、一人でいる時間を確保したり、怒りを伝えたり、羞恥心を隠したりするなどの欲求を満たすことに長けている人もいる。(中略)



         *************
         
P.18~20
<表現と理解>

 偏頭痛であるとか、あまりの「ストレス」による緊張性の頭痛だとか、それが「ひどい」(beastly)とか、「ぞっとする」(awaful)、「ガンガンする」(pounding)、「ドキドキする」(throbbing)、「削るような」(boring)、「うずく」(aching)、「破裂するようだ」(exploding)、「わけのわからない」(blinding)、「気が滅入る」(depressing)、「致命的」(killing)とか、あなたが自分の頭痛についてさまざまに訴えるのを聞いて、私はその経験のいくぶんかを解釈し、あなたがどのように感じ、私にどのように感じてもらいたいと思っているのかを解釈する(あなたもまた自分の訴える言葉と私の反応を解釈するが、それはあなたの症状に影響を与えるだろう)。

 症状を示す用語の表面的な意味について、これほど数多く並べたてた理解をわれわれが共有できることは、文化の微妙さというものを立証するものである(たとえばナイジェリアの精神科患者は、彼らの文化に独特の訴えである、頭の中を蟻が這っているような感じを訴えることが多い)(Ebigbo 1982)。

 熱い(hot)、冷たい(cold)という身体の状態についての〔古代ギリシャの医学者〕ガレノスの体系や、その体系にもとづいて西洋の民衆文化に内包されるようになっている体液の均衡や不均衡という考え方を、私はもはやはっきりとは理解できないだろう。
 しかし、あなたが「かぜ」(cold)をひいたならば、何か「熱い」(hot)ものを欲しがるだろうし、外気の「寒さ」(the cold)から自分の「かぜ」(cold)を守ろうとして、暖かく着こむ必要を感じるという点については了承できる。
 
 われわれは、包括的な文化的慣習にもとづいて理解するのであり、そのため「かぜには大食、熱には小食」(feed a cold, starve a fever)という格言は、このローカルな知識を共有しない者には理解できないものとなるだろう(Helman 1978)。

                        

 しかし、この外的なレベルの意味には、明らかに重大な不確実さもある。
 あなたが「頭が割れそうだ」というとき、、私はあなたが何を言おうとしているのか完全にははっきりとは理解できない。

 というのは、私はあなたの経験を完全に理解するほどあなたを十分知らないと思うからである。
 あなたが通常がまん強い人なのか、ヒステリー傾向の人なのか、心気的な人なのか、相手を操作するような人なのか。
 あなたがどういう人であるかを理解することが、私があなたの訴えをどう解釈するかに影響を及ぼす。われわれの関係によって、あなたの頭痛の訴えに私がどう反応するかということが特徴づけられるだろう。

 この関係は、われわれの現状に対するお互いの理解に加えて、私が今まであなたにどのように反応してきたか(そしてあなたは私にどう反応したか)というこれまでの歴史を含んでいる。
 つまり、慢性の病いの事例においては、その関係は、何百という訴えを経てすでに確立した反応と状況のパターンをもまた含んでいるのである。あなたが苦悩を伝え、私はそれを解釈するが、その解釈は、ふだんの生活で病気になったときにお互いにどのような行為をしあうのかという相互行為パターンによって構成されている。

 実際、あなたが訴える際の言語は、われわれの関係を表す言語の一部になっている。そのために、症状自体の表面的意味でさえ、われわれの日常的世界を構成する意味や関係のなかに埋め込まれていて、われわれが相互行為においてわれわれの自己をどのように再現するかということを含むことになる。こうしたことによって、表面的な症状から、多様な種類のコミュニケーションに役立つ豊かなメタファーのシステムが創り出されるのだ。(以下略)



         **********************


P.21

   …しかし、慢性の病いをもつ患者のケアを行う人で、効果的な治療者であろうとする者にとっては、病いの経験こそがまさにケアの本領なのであって、「それ自体を象徴するシンボル」(Wagner 1986)なのである。
   患者の病いの経験を正当に評価すること、つまり、その経験に権威を与え、その経験を共感をもって傾聴することは、慢性の病いをもつ患者のケアにおいてかぎを握る仕事である。
 しかし、それは特に難しい仕事であって、慢性であるということから、日常的に、一貫して、まったく辛抱強く行わざるをえないものである。(以下略)

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