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さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

箴言19:3

2016-06-19 20:27:39 | Sunday 聖書


人は自分の愚かさによって              The foolishness of a man

その生活を滅(ほろ)ぼす。                twists his way,

しかもその心は 主(しゅ)に向かって激しく怒る。   And his heart frets against the Lord.

     (旧約聖書・箴言19:3)              (Proverbs 19:3)




 必ずしも、すべての人がそうだというわけではないが、

 確かに、人には、そういう側面もあるかもしれない。



 内(うち)に何か問題があったとしても、

 それを改善することもなく、

 当然の帰結として起こったことについても

 内にではなく、外に対して、怒りの矛先を向けるということは。



 (楽な状況の人、は少ないと思いますが。)



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愛 Love

2016-03-27 21:29:12 | Sunday 聖書

Love suffers long and is kind;  愛は寛容であり、愛は親切です。

love does not envy;       また人をねたみません。

love does not parade itself,  愛は自慢せず、

is not puffed up;         高慢になりません。



Does not behave rudely,   礼儀に反することをせず、

does not seek its own,    自分の利益を求めず、

is not provoked,        怒らず、

thinks no evil;         人のした悪を思わず、


Does not rejoice in iniquity,   不正を喜ばずに

but rejoices in the truth;     真理を喜びます。



Bears all things,       すべてをがまんし、

Believes all things,      すべてを信じ、

hopes all things,       すべてを期待し、

endures all things.      すべてを耐え忍びます。




Love never fails.・・・   愛は決して絶えることがありません。


(1 CORINTHIANS 13:4-8)   (新約聖書・コリント第一 13:4-8)




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評価

2016-03-11 08:46:20 | Sunday 聖書




「中傷に対する訓練 1)」
「中傷に対する訓練 2)」
「中傷に対する訓練 3)」
「中傷に対する訓練 4)」
「中傷に対する訓練 5)」
「中傷に対する訓練 6)アビガイルの忠告」



「コントロールできるものとできないもの」


「他人と 自分と 過去と 未来」


「レプタ銅貨 1)」
「レプタ銅貨 2)」
「レプタ銅貨 3)」
「レプタ銅貨 4)」
「レプタ銅貨 5)」



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中傷に対する訓練 6)

2016-03-11 00:39:47 | Sunday 聖書
『主(しゅ)が、あなた(ダビデ)について約束されたすべてのことを、

ご主人さま(ダビデ)に成し遂げ、

あなた(ダビデ)をイスラエルの君主に任(にん)じられたとき、


むだに血を流したり、

ご主人さま自身で復讐(ふくしゅう)されたことが、

あなたのつまずきとなり、

ご主人さまの心の妨(さまた)げとなりませんように。』


(旧約聖書・サムエル記第一 25:30-31)
 



(中傷に対する訓練 1))  ( 2))  ( 3))  ( 4))  ( 5))


 さて、ダビデが、ナバルから中傷を受けて、激怒したとき、

アビガイルという女性が、その怒りを鎮めようとした。

(本来 4)の最中の話ですが、抜き出しています)


 この女性は、とても低くなって謝罪しただけでなく、さらに2点、すばらしい点があった。


        ************



 一つは、「神がダビデに対して、どう計画されているか」という信仰による判断をしていたこと(25:28)。

 ナバル(ヘブル語で「愚か」という意)は、「脱走奴隷」(25:10)という世の判断をしたが、

 アビガイルは、たとえ一時的に敗者となっていても、主(=神)のご計画は成る、と考えた。


        ************



 もう一つは、自分(アビガイル)のいのちが助かりたいから、ではなく、その人(ダビデ)自身のための忠告をなしたということ。


      *************


 2点目に関して、ある友人から、昔、

「自分たち側(クリスチャン)からの理屈を言うのではなくて、相手側(その世界観に立っていない者達)にとってのメリットを伝えないと」

と何度も言われたこととリンクし、

「アビガイルさん、ただ低くなって物を言っただけでなく、

 非常に 相手の立場に立って、伝えていたのだなぁ…」

と、また新たに 思い知らされた。



 (それ、楽なことではありません。)



       ************


 以上。

 短いひとときでしたが、ありがたい幸いな交わりでした。



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中傷に対する訓練 5)

2016-03-10 22:51:57 | Sunday 聖書

『あなたの重荷(おもに)を 主(しゅ)にゆだねよ。

 主は、あなたのことを心配してくださる。・・・』


(旧約聖書・詩編55:22)



(中傷に対する訓練 1))
(中傷に対する訓練 2))
(中傷に対する訓練 3))
(中傷に対する訓練 4))


 以上から、「中傷を受けたとき、どうするべきか」。


 何にせよ、「改めるべき点があれば改め、いわれなき言葉であっても、主の前にへりくだり、裁きをお任せすること」

および「目には目をではなく、主の模範に従い、悪に対しては愛をもって報いること」

と、ざっくり言えるだろうか。


(…という、まとめでよろしいでしょうか??)


   **************


 ・・・と、ここで、2点ほど、素朴な疑問が出てきた。


   **************


 一つは、ダビデの事例から、今、具体的なこととして考えると、

 Q1.a-「このとき、ダビデは部下など、ダビデの潔白を知っている者達がいた(「中傷」が「中傷」であると知っている人たちがいた)。だが、もしもそうではなく、周りも、その人のいうことを真に受けて、理解者がいない場合は?」


 Q1.b-「2者間でしか知りえないことで、間違ったことを吹聴されたときは?」


 Q1.c-「もし、その中傷や害する者のために、自分だけではなく、家族や友人まで巻き込まれる場合は?」

 といった事態にどう対処するかということ。




 二つ目(Q2.)は、ダビデが死ぬ前に、ソロモンに対してシムイの処遇について命令したこと(列王記第一 2:8-9)及び、なされたこと(同上 2:36-46)については、どう考えるべきか、ということだ。



   **************


 一つ目に関しては、結局のところ、もう今回学ばれたことであり、主に信頼することが肝要であり、

 a.や b.の事例には、ヨセフが牢に入れられた事件からも考えることができるかもしれない。
   (主に信頼してお任せしつつ、善を行っていたが、
    主に信頼しているから、周りから誤解されたままでも良い、とはしていなかった。)

 と、同時に、十字架につく前のキリストの姿から、全く主にお委ねするということも学ばされる。



 c.の事例には、イエスが十字架の上で、母マリヤの世話をヨハネに任せたように、他の者について信頼する者に任せる、配慮する、ということも考えられるだろうか。


 二つ目に関しては、B.C(紀元前=Before Christ)だから、と考えればいいのだろうか。



 ・・・などと考えたりも。(お時間ありましたら、どなたか知恵を拝借したく…)






 (「アビガイルの忠告」に続く)

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中傷に対する訓練 4)

2016-03-07 05:29:04 | Sunday 聖書

『ダビデが部下に

「めいめい自分の剣(つるぎ)を身につけよ。」と命じたので、

みな剣を身につけた。』


(旧約聖書・サムエル記第一 25:13)




(中傷に対する訓練 1))
(中傷に対する訓練 2))
(中傷に対する訓練 3))


サムエル記第一 25:10-22

 (・・・それは、サウルが生きていた頃のはなし。

  人々が「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」

  とダビデを称賛しているのを不満に思い、

  嫉妬(しっと)にかられるようになったサウル王が、

  部下のダビデを殺そうとしていた頃の、はなし。・・・)



  ある裕福な事業家が盛大にお祝いをしていた。

  サウルの手を逃れ続けていたダビデ達は、以前、その羊飼いたちを助け、

  昼も夜も守っていたことがあった。

  それゆえ、刈り取りの祝いの席のこともあり、何か親切にしてくれるだろう、と、使者を遣わしたところ、

  その大金持ちナバルは、ダビデをののしり、

  あげく、主人のもとを脱走する奴隷(どれい)のごとく言い放った。



  それを聞いた若かりし頃のダビデは、そこまで侮辱(ぶじょく)したナバルを殺そうとした。

  ダビデが、剣を身につけろ、と言うと、

  400人が剣を帯び、付き従った。

  殺気立った集団が、ナバルに迫っていった。



  
  先ほど見た姿とは違う。

  この時のダビデは、いわれのない中傷を受けたとき、ただ怒りを覚えてしまったのだ。


  = まだ中傷を受けたときの訓練が施されていなかった。


          *************



  ・・・が、このとき、大金持ちナバルの召使いの一人が、ナバルの妻アビガイルに、

  ナバルがダビデを侮辱して、使者を追い返したコト、

  ダビデが羊飼いたちにどれだけ良くしてくれたかを 伝えた。




  事の大きさを知った(たぶん、青ざめた)アビガイルは、急いで、

  パン200個、ぶどう酒2袋、料理した羊5頭、入り麦 約38リットル、

  干しブドウ100ふさ、干しいちじく200個をもち、

  ダビデの怒りを鎮めるべく、動いた。・・・


  (アビガイルの働きについては、6)にて)


          *************


  アビガイルの話をきいたダビデは、どう対処したか。


  もし、このとき、ダビデが、

  「ナバルの妻だから、こんなことを言うのだ!」とか、

  当時、女性の身分が、現代よりもはるかに低い時代だったのだが、「女が忠告するとは!!」とか、

  「王に対して、平民が何かを言うとは!」などという固定観念があったら、

  忠告を聞けない。

  忠告を聞きいれない。

  が、このとき、ダビデは、アビガイルの忠告を聞きいれた。


  現代も、ハドソン・テーラーなど優れた人々は、すぐれた姉妹方からも教えられている。



  ・・・そういった事々や忠告を通して、ダビデは中傷に対してどのように対処するべきか、

  ただ反応して怒りを覚えるのではなく、

  主の前にへりくだるということを学んでいったように考えられる。



           ************


 キリスト自身、こうなさった。


『ののしられても、ののしり返さず、

 苦しめられても、おどすことをせず、

 正しくさばかれる方にお任せになりました。』

(新約聖書・ペテロ第一 2:23)



ローマ12:17-21


 むろん、父なる神に、お任せするといっても、

「神様! あの人たちに復讐(ふくしゅう)してください!!」

では、いけない。

それどころか、

敵が飢えたら、食べさせ、

渇いていたら、飲ませてあげ、

悪(あく)に対して、キリストの愛をもってむくいる。



そうすることで、その人が悔い改められるようにするのが

正しいやり方。


 → (続く)

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中傷に対する訓練 3)

2016-03-06 08:15:12 | Sunday 聖書

『王は言った。

「ツェルヤの子よ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。

 ・・・ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。

(しゅ)が彼に命じられたのだから。



 たぶん、主は私の心をご覧になり、

主は、きょうの彼ののろいに代えて、

 私にしあわせを報(むく)いてくださるだろう。


(旧約聖書・サムエル記第二 16:10-12)




(中傷に対する訓練 1))
(中傷に対する訓練 2))


 (疲れ切って余裕のないとき、かつ、)いわれのないことを中傷されるとき、

 人は怒りを覚えるものであり、ダビデの家来も、気色(けしき)ばんだ。




 -だが、心にわだかまりがあるのは、クリスチャン生活を損(そこ)なうものだ-






 ダビデは、このとき、「そうのろっているのにも、神の御手(みて)がある」と考えた。

 シムイに対して 激(げき)するのではなく、

 かえって、主の前にへりくだった。


 = ダビデは、中傷を受けたときの対処を学んでいた。



 では、いつ、そんな訓練をされていたのか?



 昔のダビデは、こうではなかったが。  




 → (続く)

 

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中傷に対する訓練 1)

2016-03-03 04:34:56 | Sunday 聖書

 
“For whatever things were written

before were written for our learning,

that we through the patience and comfort of the Scriptures

might have hope. ”

(Romans 15:4, NKJV)






 先日、友人らに会う道すがら、あるところで、興味深い学びを聞いた。

 それは「中傷に対する訓練」というテーマ。

 しばしば、「××してはならない」という話は聞くものの、逆に、そういったことに

どう対処するかが主題となるというのは 面白い切り口だ、と感じた。

 それは、確か、このようなことから始まった。



   ************

(一応許可取得済み)

 今回は、「中傷に対する訓練」というテーマですが、

 集会(教会)の中でそういうことはないとしても、私たちは、社会生活において、中傷を受ける、ことはあるのではないでしょうか。



 もちろん、一言、「中傷」と言っても、「まったく、いわれのないもの」もあれば、

「よくよく考えてみると、そう言われても仕方のないもの」もある。どちらなのか、識別する必要がある。


 中傷を受けると、怒りを覚えるものだが、

 後者の場合、神様が、未信者を通しても教えてくれるのであって、

 教えられたら、悔い改める必要がある。



 前者の場合は?

 この場合であっても、背後に神の御手(みて)があることを覚え、へりくだる必要がある。


 イスラエルの2番目の王ダビデを通して、これについて考えてみましょう。


 → (続く)




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中傷に対する訓練 2)

2016-03-03 04:33:39 | Sunday 聖書
 『シムイは、のろってこう言った。

  「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。

 主(しゅ)が サウルの家のすべての血を おまえに報いたのだ。」』

(旧約聖書・第2サムエル 16:7-8)





(続き)



サムエル記第2 16:5-14


 ダビデは、息子アブシャロムに反逆され、首都エルサレムから逃れてくるときのことだった。


 シムイという男が、疲れ切っているダビデ達をのろい続けた。


 ダビデの前の王サウルと同じベニヤミン族のシムイは、

 ダビデを憎んでいたが、これは言われのない中傷だった。


 彼の言う通り、ダビデは、サウルを殺して、王位を奪ったのだろうか?














 (いな)。











 だが、シムイはそう思い込み、呪い続けた。


 やってもいないことを言われたら、人は怒りを覚えるもの。

 そこで、ダビデの家来が、シムイの首をはねさせてください、とダビデに願うが、

 ダビデは、こう答えた。


 → (続く)


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モーセよりも偉大なイエス?

2015-12-10 16:17:54 | Sunday 聖書


『家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、

彼(イエス)は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされた』


(新約聖書・へブル人への手紙 3章3節,口語訳)



 あるとき、友人から、

「そもそも、もし本当に、イエスが『神』であるならば、

 人と比較すること自体が愚かなことではないか?

 それなのに、『モーセよりもすぐれたイエス』などとクリスチャンが言うのは、

 クリスチャン自身が、『神』を自分たちの位置まで貶(おとし)めていないか?」

という貴重なご意見を頂いた。



 ここでいう、モーセと言うのは、いわゆる十戒(じゅっかい)を神から頂いたり、

エジプトから奴隷とされていたイスラエル民族をカナンの地に導いた人で、

ユダヤ教においても、イスラム教においても、キリスト教においても、

有名な預言者である。



 人は、自分たちが知っていることでたとえを言ったり、比較をするわけだが、

なるほど、「モーセ=すごい」という共通観念(前提)がない状態で考えると、

「そもそも、神様を、人と比べて『すごい』」というのは、失礼である」と感じるのも当たり前なことだ。

 いや、そんな前提があろうがなかろうが、

そのように感じてしかるべきではないか、とおしかりを受けるかもしれない。

(それを言ったら、へブル書・・・ごにょごにょごにょ



 さて、それについて、どう考えるべきか示されるのを待っていたところ、

あるとき、面白い(=興味深い)人に会った。

 そこで、この問いについて、聞いてみた。

 すると、その人を通して、こんな答えが返ってきた。

「その通り。

 主(しゅ)と比較して言うのは、(ぞう)と(あり)とを比較するような

 ばかばかしいものだ。



 だが、モーセは律法(りっぽう)を代表する者であり、

 律法は裁(さば)きを意味する。

 その点で、「裁き」より「(イエスによる)赦(ゆる)し」「恵みのほうがはるかに大きい、

 という点で、それを言うことは可能である」。




 なるほど、なるほど、そのように理解することができるのだな、と

新たに勉強になった。

 確かに、『律法はモーセによって与えられ、

恵みとまことはイエス・キリストによって実現した』
(ヨハネ 1章17節)とあり、そして、

 『私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、

 恵みの上にさらに恵みを受けた』
(同上 1章18節)ともある。


(「で?」「だから?」「それを受けて、さらに何かないの?」 と問われると、

「う~~む。マルコ伝12章に出てくるような賢いお返事は、今の私には無理じゃ~!」 と言うしかないf(^^;) )


(故に、このあたりで。そろそろ…)








 勝手ながら、またどうぞよろしくお願いします。



『…確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』

(新約聖書・コリント第2 6章2節)


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