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さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

大岡越前よりずっと前の実話(中)

2006-04-02 23:42:10 | Sunday 聖書
先週、「なんで『大岡越前』が出てくるの?」と不思議に感じた方もいるかと思われまする。

 キャベツ自身、昔、同じくそう思いました。

 まあまあ、なんでそういうことになったのかはともかく、先週の続きから行きましょう


                                                   


 (神様が、ある人に「何か欲しいものはあるかい? 願い事はあるかい?」ってわざわざ聞いてくださったんだよね。)

 
 その人、イスラエルの3代目の王様になった人の名前はソロモンと言う。


 

 ソロモンという王様、こんな返答をした。



    善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。
    さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。
                (列王記 第一 3:9)


・・・云々(うんぬん)。面白いな。

 どうやら、これ、神様がとても喜ばれたみたい。「この願い事は主(しゅ)の御心(みこころ)にかなった(列王記第一 3:10)」って書かれているし、そのあと、こんな風にも言われているから。


    神は彼に仰(おお)せられた。
    「あなたがこのことを求め、
     自分のために長寿(ちょうじゅ)を求めず、
     自分のために富(とみ)を求めず、
     あなたの敵(てき)のいのちをも求めず、 1)
     むしろ、自分のために正しい訴(うった)えを聞き分ける判断力(はんだんりょく)を求めたので、

     今、わたしはあなたの言ったとおりにする。
     見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与(あた)える。
     あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。 2)

     そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉(ほま)れとをあなたに与える。
     あなたの生きている限り、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。

     また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう 3)。


 
  神様に喜ばれる願い事だったからかな、ソロモンはそのほかのことも色々与えられる約束をもらった。神様に願い事をするとき、それが、神様の御心(みこころ)にかなっていることかどうかって大切だよね。


                                           


  ただし、それ、(列王記第一 3:15)だった。
夢、夢、夢・・・目が覚めたら、ただの夢? いえ、ソロモンはそうは思わなかった。
  ソロモンはそれがただの夢だとは思わないで、いけにえを捧(ささ)げたり、お祝いの宴会を開いたりした。

  確かに、夢にしろどういう形にしろ、神様と私たちとの関係って人には見えないし、ありえないように見えるかもしれない。

  でも、人の目に見えているものって、光でも何でも限界があるんだけどね・・・

                                                       

  さてさて、このあと、こんな事件が起こった。

  そのころ、ふたりの遊女(ゆうじょ)が王のところに来て、その前に立った。4)

  ひとりの女が言った。
  「わが君(きみ)。私とこの女とは同じ家に住んでおります。私はこの女といっしょに家にいるときに子どもを産みました。

   ところが、私が子どもを産んで3日たつと、この女も子どもを産みました。
   家には私たちのほか、だれもいっしょにいた者はなく、家にはただ私たちふたりだけでした。

   ところが、夜の間に、この女が産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏(ふ)したからです。

   この女は夜中に起きて、はしため 5)が眠っている間に、私のそばから私の子をとって、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。

   朝、私が子どもに乳(ちち)を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。
   朝、その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子ではないのです。」

  すると、もうひとりの女が言った。
  「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」
  先の女は言った。
  「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」
  こうして、女たちは王の前で言い合った。

                             (列王記 第一 3:16-22)



  何かの拍子で、この話を知った友達が言った。「なんだか大岡越前の話でもあった」・・・・えっ。いや、その・・・・そこで、大岡越前が出てくるんですか・・・  
  これは、江戸時代より、ず~っとず~っと前にあった記録。

  どうお裁きがあったのかは、


                          次回をお楽しみに


【注】
1)敵のいのちを求める:=敵が死ぬことを求める。王様になったら、その国を攻めようとする人も出てくるし、王座を乗っ取ろうとする人も出てくるけど、そういう人が死ぬことを願うこと。

2)ソロモン以上に、知恵もあって判断力もある人はいなかったし、これからも生まれないっていうくらい賢くするよ、ということ。

3)日を長くする:長生きさせるよ、っていうこと。

4)王さまは、裁判官でもある。だから、「王の前に立つ」っていうのは、裁判されることも指す。

5)はしため:ここでは、女性が自分のことを指して言うときの、謙遜(けんそん)して言う、言い方。


                 
               

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大岡越前よりずっと前の実話(前)

2006-03-26 23:59:05 | Sunday 聖書
 こんばんは◇

 先週、また身近に赤ちゃんが生まれました。これでF中集会の兄弟姉妹 1)の所に、全部で四人、赤ちゃんが与えられたことに。

 母性というか、産婦人科関係の勉強をかじればかじるほど、無事に生まれてくるのが奇跡のように感じます。いや、ホント。よく無事に生まれてきた!!って。

 旧約聖書に
 『あなた 2)が私の内臓を造り、
 母の胎(たい)のうちで私を組み立てられた』(詩篇139:13)

とも
 『あなた 2)の目は胎児(たいじ)の私を見られ、 あなたの書物にすべてが、書き記されました。
 私のために作られた日々が、
 しかも、その一日もないうちに。』(詩篇139:16)

とあるように、また他の箇所からも示されるように、

 神様が私たちを一人一人ご覧になっているし、
 私たちを作り上げた方でもある。

 加えて、
 何でも出来るお方であられることも、
 悪いことを喜ぶのでも見逃すわけでもなく、袖の下なんぞ関係ないお方であることも、
 正しいことの方を喜ばれるお方であることも、
 憐(あわ)れみ深いお方であることも、
  つまり
      『神様ってどんなお方?』
ということも教えられる。


 この全知全能の神様が、こうおっしゃったことがあるんだ。

     「あなたに何を与えようか。願え。」 (列王記第一 3:5、歴代誌第二 1:7) 




あなただったら、そう言われたら、どんなことを願うんだろう。


もし、あなたが彼の立場だったら、何て神様に答えるんだろう。

 あ、ちなみに、こう聞かれたのは、イスラエルで三代目の王様になった人だよ。



では、また。来週またね(^-^)/


【注】
1)兄弟姉妹:クリスチャン同士の場合、男性は「××兄(けい)」、「××兄弟」と呼び、女性は「○○姉妹(しまい)」と呼びます。本来クリスチャン同士で結婚するため、夫婦だと「○×兄姉(けいし)」と一緒に呼ばれたりします。近親相○ではありません。

2)文脈上、この「あなた」=「主(しゅ)」=神様、です。 

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聖書以前に:知っている?って難しい

2006-02-12 23:58:18 | Sunday 聖書
本当なら、このカテゴリーを1番充実させたいところなんですが、なかなかうまくいきません。なんででしょうね? ある意味、当たり前って言えば当たり前。

 その一つのわけは…


      ・・・・・・・・・・・


 という前に、え~っと、突然ですが、次の英文を訳してみてください(^_^;)

〓I know of MATSUKEN.

〓I know about MATSUKEN.

〓I know MATSUKEN.



                           


いかがでしたか?


                                           


日本語訳 1)はそれぞれ
〓マツケンのことを知っている(うわさなどで間接的に知っている)

〓マツケンのことを知っている(ofを使うよりは、もうちょい“知っている”。)

〓マツケンを知っている、というか、マツケンと知り合いだ、という意味。




…そういうわけで、もし、あなたが友達から「マツケン知っている?」って聞かれたときに「I know MATSUKEN.」なんて答えたら・・・うわぁ、すごい!!!ありえねぇ~~!!なんてことになってしまいます。(キャベツは平々凡々な一般市民ですので、少なくとも「ヘェ~」という反応くらいはするでしょう)



 まぁ、ともかく、「知っている」って一言(ひとこと)言っても、その中身はさまざまなんですわ。


                                    

 さてここで。誰かがどなたかクリスチャンに、もし「聖書をよく知っていますか? イエス・キリストのこと知っていますか?」と尋ねたら、

     多分、相手は一呼吸おいて、いくらか逡巡(しゅんじゅん)しつつ、「えぇ、まぁ少しは」とか「あまり知っているとは言えないんですが」という、あまりかんばしくない返事が返ってくる鴨(かも)


   でも、その言葉どおりだと、・・・あぁこの人わからないくせにクリスチャンなんぞになってる~・・・などと、思ってはいけません。

なぜなら、「イエス・キリスト? あ、知ってる知ってる~『貧しき者は幸いです』とかって言ったんでしょ」(←それを言うなら『心の貧しき者は幸いなり』だろ!)などという程度で「知っている」と言う人と、

イエス・キリストご自身の考えられたこと、苦しまれたこと全てを知り、全てを味わわなければ「知っている」なんて言えない!!という人に二分するならば、
…多分まともな神経と感覚を持ち合わせているクリスチャンなら、後者の方がほとんどかと思われます。2)


加えて、聖書にもこう書かれてあるんですよ。

  『人がもし、何かを知っていると思ったら、
   その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいない』
                (第一コリント 8:2)


 

                   
    

 また、上っ面(うわっつら)な知識…誰かが書いた聖書の解説書から得た知識、神学校に行ったから<あ、これはびみょ~ですけど>~云々(うんぬん)の知識で「知っている!」ではないのです。たとえば、柔道にしろ剣道にしろ、確かにカラー付き解説書を見たり授業で軽くやったりしていたら、形はなんとなくわかります。それなりに強くなります。が、たいてい「~道」って付くスポーツは哲学っぽいものがあるらしく「道を究(きわ)める」という面があるんですが、そうそう究めた!っていう人、聞いたこと・・・ないなぁ<キャベツが知らないだけかもしれないけど>。逆に、「まだ途中だ」って感じるらしい、ですよ。




 さて、ついでに、“道”といえば、イエス・キリストがおっしゃった有名なみことばがあります。

 それは

      『わたしが道であり、
      真理(しんり)であり、
      いのちなのです。
      わたしを通してでなければ、
      だれひとり父のみもとに来ることはありません』
                (ヨハネの福音書 14:6)


というみことば。もし、このイエス・キリストがただのほら吹き人間であって神様ご自身でなかったら、これほど傲慢(ごうまん)な言葉はありません。

 でも、もし本当にイエス・キリストが神の御子であったら…?
 もしこのみことばが本当であるとしたら…?


 キャベツは「知っている」なんて到底言うことが出来ない者ですし、失敗もよくするヤツですし、おバカな奴ですので、…そういうわけでなかなか更新されないかもしれません。でも、これらの小さなことも祝福されますように、と願っております。



というわけで、今後ともヨロシク(^-^)/




【注】
1)高校レベル? ちなみに“of”と“about”に関してはあまり区別なく使われる場合もあるようです

2)あと、当たり前なんですが、その人自身でなければ、その人が感じたこと思ったこと考えたことってわかりません。じゃあ、イエス・キリスト、神様が考えたことってどうやってわかるというんでしょう~?!→これについては、まぁ書く機会がありましたら…f^_^;


                                          
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通読箇所から

2006-01-29 23:47:22 | Sunday 聖書
あまりに暫くの間、書いていないので、たまには(^_^;)


というわけで、通読箇所(新約聖書)から少し。






あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。
その人は、その知恵にふさわしい柔和(にゅうわ)な行いを、良い生き方によって示しなさい。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理(しんり)に逆らって偽(いつわ)ることになります。
  そのような知恵は、上から来たものではなく、
地に属し、肉に属し、悪霊(あくれい)に属するものです。

ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

しかし、上からの知恵は、
第一に純真(じゅんしん)であり、
次に平和、寛容(かんよう)、温順(おんじゅん)であり、
また、あわれみと良い実とに満ち、
えこひいきがなく、見せかけのないものです。

義(ぎ)の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔(ま)かれます。


ヤコブ3:13-18





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Christmas

2005-12-25 23:59:08 | Sunday 聖書
 こんばんは。お久しぶりですf(^_^;) @言う間に、今年最後の週となっていました。
 そして、ちまたではクリスマス。

             ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 とはいえ、聖書のどこにも「12月25日」がキリストの誕生日だとも、冬が誕生日だとも書いていないので 1)、記念してですかね。

 そもそも、なぜ「クリスマス」がこの日なのかというと、当時在った、ミトラ教なるもののどなたかさんの誕生が元で、冬至(とうじ)の日だった日を、「イエス・キリストの生まれた日」ってなことに決めたらしい。
 そういうこともあり、キャベツの中では、「クリスマス会」というと「子どものためのお楽しみ会」という感じであって、大人のため、という感じではないのです。 たとえば、子供たちが妖精(ようせい)やサンタクロース、幽霊(ゆうれい)などといった空想の世界を信じていても、ほほえましいと感じるような。(あ、でも、クリスマスプレゼントをあげるのももらうのも嫌いではないな(゜.゜))


             ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


 さてさて、結局、何月何日に誕生したかということは書かれていないのですが、キリスト<ギリシャ語 2)読みで、「救い主」という意味>が、どこに生まれるのか、どう生まれるのかなどといったことは、、イエス・キリストが生まれるず~っと前、何世紀も前、すでに、旧約聖書に預言として書かれていました。

 たとえば、「処女がみごもって、男の子を産む」ということはイザヤ書に。そして、どこに生まれるか、ということはミカ書に、書かれています。
 実際、東方の博士たちが、エルサレム 3)にキリストを拝みにやって来たとき、キリストがどこに生まれるのか、という王の問いに、イスラエルの祭司長たちや学者たちは、旧約聖書のミカ書から、こう答えました。

 「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
  『ユダの地、ベツレヘム。
   あなたはユダを治める者たちの中で、
   決して一番小さくはない。
   わたしの民イスラエルを治める支配者が、
   あなたから出るのだから。』」(マタイ2:5-6)


 こう考えられていたことは、群衆が

  「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか」(マタイ7:42)

と騒いでいたことからも、明らかでした(^^)


   では、そのミカ書では、どう書かれているかというと、

   『べツレヘム・エフラテよ。
    あなたはユダの氏族(しぞく)の中で最も小さいものだが、
    あなたのうちから、わたしのために、
    イスラエルの支配者になる者が出る。
    その出ることは、昔から、
    永遠の昔からの定めである。』

                     (ミカ書 5:2)

 ヘブル語からギリシャ語に訳す間に、多少、変わってしまった部分がありますが、大元同じ、ということで

 
 ただ、ミカ書では、こうも書かれていますね。最後に・・・

  『永遠の昔からの定めである』     

 と。



【注】
1)キリストの生まれた場所はイスラエル。イスラエルは北半球だから、12月はやはり冬です。寒いです。外に寝れません(段ボール生活している人、大変だ(-.-;))。
で、イエス・キリストが生まれた頃は、一年の中でも、羊飼いたちが羊の番をして野宿できるような季節(少なくとも、冬はムリじゃないか?)。

2)その当時、地中海沿岸(イスラエルも地中海沿岸っス)で使われていた国際言語の一つがギリシャ語でした。また、最初、新約聖書はギリシャ語で書かれています。

3)イスラエルの首都。平和の都、とも言われる。実際、「サレム」は平和、という意味だし。(で、「エル」とか「エリ」という言葉は、神様を指す言葉)


                                      
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新しい一週間が始まる

2005-11-20 18:52:07 | Sunday 聖書
今日は日曜日。



 週の初めの日、わたしたちはパン裂きをする。1)

 パンとぶどう酒とで、主イエス・キリストのことを覚えるその時間を、「パン裂き」って言う。これを、「聖体拝領(せいたいはいりょう)」とか「ミサ」、「正餐式(せいさんしき)」と言う場合もあるようだが、新約聖書で、このことを示す言葉は、「パン裂き」と「主の晩餐(ばんさん)」のみ。

 このとき、何か、所謂(いわゆる)説教を聴くために、集まるのではない。
 このときは、皆で、“主(しゅ)” を覚え…例えば、神様がどういうことを私たちのためになさってくださったのか、ということを覚え・・・、共に感謝の祈りを捧げたり、賛美歌(さんびか)を歌ったりするとき。だから、まったく聖書を知らない人や、ただ自分の、宗教的な、または道徳的な心を満足させるためだけに「教会に行ってみようかな」という人にとっては、面白くないことこの上ない時間かもしれない。≪もし、集会に初めて来るの/来たいのであれば、福音集会とかの方がいいかもしれない。≫


ちょうど、今日、新約聖書で通読しているところで、このように、パン裂きのことが記されている。


                   


『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。
 
 すなわち、主イエスは、渡される夜 2)、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。

 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
 
 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。

 「この杯は、わたしの血による新しい契約 3)です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで 4)、主の死を告げ知らせるのです。

                 (コリント人への手紙 第一 11:23-26) 』

                       

 ここで書かれている「パン」はキリストの身体の象徴(しょうちょう)、「杯(さかずき)」もキリストの血による新しい契約の象徴であって、…その昔、「耶蘇(やそ)は人の肉を食べるんだ」という誤解があったようですが…人の肉を食べるのでもなく、このパン裂きの場で、このパンとぶどう酒を飲んだからといって、霊的な益を得るわけではない。


 このみことばに示されているように、パン裂きの目的は

  一.主イエスを覚えること
  二.主の死を告げ知らせること。


                                 



                 私は、十字架の死で示された、
       私たちに対するキリストの愛を、完全にわかっているわけではない。

           そのご忍耐を、完全に知っているわけでもない。


                         ただ、
             すべての被造物(ひぞうぶつ)の試練と苦しみを、
                すべてまとめて積み重ねたとしても、

             キリストの御苦しみとは比較にならないに違いない。
 



                                         



【注】
1)『週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。』(使徒の働き20:7)による。いつ、初代クリスチャンたちが、パン裂きを行っていたのかは聖書でここにしか書かれていない。

ちなみに、キリストが十字架にかけられたのは、金曜日(安息日の前の日:ルカ23章54節、他)。
 復活されたのが日曜日(週の初めの日:ルカ24章1-8節、他)。

 祭司長、パリサイ人 5)たちが総督に願い出て、番兵が墓の見張り番をしていたのだが、無駄だった(マタイ27章62節~28章15節)。


2)渡される夜: イエス・キリストがユダヤの祭司長、民の長老たちに捕らえられた夜≪その後、十字架による死刑になる≫。その前に、このパンとぶどう酒のことを。


3)新しい契約:実は、古い契約(けいやく)が、神様とイスラエル≪というか、人≫との間に、あった。モーセの十戒(じゅっかい)という言葉で、知っている人がいるかと思う。10どころか、実際には、もっと長いんだけど・・・。
 とにかく、新しい契約というのは、簡単に言うと
イエス様が十字架で死んでくださったのは、自分ののためだ
ということを信じるだけ≪受け入れるだけ≫で、罪が赦(ゆる)されて、天国に行ける、という契約のこと。
 
 ちなみに、「新訳聖書」ではなくて「新約聖書」と書くかは、「新しい契約」だから


4)主が来られる:主イエス・キリストが再臨(さいりん)されること。その日のことを、「主の日」とか「神の日」etcとも言う。
 
5)パリサイ人:ユダヤ教の中で、最も厳格な戒律を守る派。イエスに厳しいことを言われて怒ったり、イエスの人気をねたんだり(マタイ27:18)する人々もいた-全員かどうかは知らないけど、どうも、多数だった様子。


参考・引用文献
・新改訳聖書 第二版、日本聖書刊行会、1987年
・J.B.カリー編:集会の真理と行動、伝道出版社、1995年
・J.B.カリー著:コリント人への手紙 第一 新約聖書注解シリーズ、伝道出版社、1990年
・R.C.チャップマン著:霊想録、牧草社、1993年
・成瀬治他監修:山川世界史総合図録、山川出版、2001年


                               


「毎日をキリストの十字架とともに始め、キリストの十字架とともに終えること、これがすべての悪の予防と治療(ちりょう)の秘訣(ひけつ)である」
という、先輩の言葉がある。

常に、主とともに歩むこと。   ・・・・・・・失敗だらけだけど。


 だが、とにかく、わたしたちの新しい一週間は、キリストの十字架によって、始まる。
   
平安のうちに。
                        

           
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歌で覚えよう~ 其の壱 ~

2005-11-06 19:48:43 | Sunday 聖書
新しい一週間のはじまり始まり。

 遅くなりましたが、ゆきさん(実は、C大の一言カードってあまり見ていないのです。カフェテリアの前方に掲示されているっていうのは見に行きにくく感じます。第二の白石さんは居そうですか?)、topitchoさん・PUNI YUKAさん(TBで感謝されるとは思っていなかったので、その分そう言われるとうれしいです。雑多ですが時々いらしてください)、うたたねさん(私もコメント頂けて、ほこほこ温かい気持ちになりました。またお待ちしています)、 takapjさん(現在の体重をそのまま載せられたことにとても勇気があると思いましたお互いダイエットがんばりましょう…っか。ぼちぼちと。)、Leika21さん(そう言われると照れます。が、どうぞ、今後も注目しておいてください)、ニア君(じゃあ、“君”でどうだ!? いや“ちゃん”付けの方がいいだろうか?)、コメントありがとうございました。


                             

 さて、今日は。
 今までにも、「ダニエル書」やら「創世記」やら「ローマ人への手紙」やら出てきましたが、一体どこなんだ?と思われる方々へ。これ、聖書知らん人にはやっぱりようわからんらしいのですわ。確かに、私も中学校の始めのころ、八戸のキリスト集会に(ま、集会のことは知っていたし、夏のキャンプにはなんとか行ったりしていましたけど。)、夜、来始めたころは「ハバクク書」と言われても、さっと聖書開くことできへんかった たいてい、聖書の最初の目次なんかを見て開いたり。


 でも、これ、日曜学校1)では、順番覚える歌があるんですわ。


 ってなことで、今回は『旧約聖書を覚えよう』の巻。
 折角(せっかく)見ているんやから、覚えたほうが何かと便利でっせ



 旧約聖書は、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記・・・と39巻ある(多少、カトリックやユダヤ教などでは異なる)。日曜学校で使う「子どもさんびか」には「せいしょめいもくずくし」という歌がある。メロディーはここで載せると著作権とかに触れるのかもしれないから、やめておく(参考にコピペ、から聴くことできます)。

      そう、しゅつ、レビ、みん、しんめいき
        ヨーシュア、しし、ルツ、サム、れつおう
        れきだい、エズ、ネヘ、エステルしょ
        ヨブ、しー、しんげん、でんどう、がか
      
        イーザヤ、エレ、あい、エゼ、ダニル
        ホセア、ヨエ、アモ、オバ、ヨナ、ミ
        ナーホム、ハバクク、ゼパ、ハガイ
        ゼカリヤ、マラキー、さんじゅうく(39)

                         さぁ、試しに歌ってみよう


  これで、
    世紀
    エジプト記
    レビ
    数記
    申命記

    ヨシュア
    土師(しし)
    ルツ
    サムエル記 第一・第二
    列王記 第一・第二

    歴代誌 第一・第二
    エズラ記
    ネヘミア記
    エステル

    ヨブ
    篇(しへん)
    箴言(しんげん)
    伝道者の書
    雅歌(がか)

    イザヤ
    エレミア書
    歌(あいか)
    エゼキエル書
    ダニエル書    ←旧約聖書での通読、私は現在、ココ

    ホセア
    ヨエル書
    アモス書
    オバデヤ書
    ヨナ
    カ書
    ナホム
    ハバクク
    ゼパニヤ書
    ハガイ
    ゼカリヤ
    マラキ

  が、網羅(もうら)されました......ゼイゼィ...(息切れ)   



さて、今朝読んだ箇所から。


 『もし食物によりて兄弟を憂(うれ)ひしめば、汝(なんじ)は愛によりて歩(あゆ)まざるなり。キリストの代(かわ)りて死に給(たま)いし人を2)、汝(なんじ)の食物によりて亡(ほろぼ)すな。汝(なんじ)らの善(よ)きことの誹(そし)られぬやうにせよ。それ神の国は飲食(いんしょく)にあらず、義(ぎ)と平和と歓喜(よろこび)とに在(あ)るなり。
                     (ローマ人への手紙 14:15~17)




【注】
1)日曜学校:日曜日に、主(おも)に子どものための聖書の勉強をするクラスのこと。その集会によって、パン裂きの前、午前9時から始まるところや、昼食を食べたあとの2時または1時半から始まる。幼児クラス、小学生クラス、中高生クラスなど。賛美歌(さんびか)を歌ったり、お祈りをしたり、聖書の話があったり、そのほか、小さいクラスはお絵かき(聖書に関する)をすることもある。


2)食物のことで…: 昔、ローマなどでは、肉は偶像(ぐうぞう)に捧(ささ)げてから、
            市場に出回ったらしい。
             また、さらに昔、ユダヤ人がバビロン捕囚されていたころ、

『ダニエルは、王の食べる食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚(けが)すまいと心に定(さだ)め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官(かんがん)の長に願った。(ダニエル書1:8)』

とあるように、―詳細(しょうさい)は省(はぶ)くが―、身を汚さないようにということで肉を食べない人がいたんだ。そういう人からすれば、偶像に捧げた肉、または、ユダヤにおいて「穢れている」動物の肉を食べる人が同じクリスチャンであることは、「何だ、あいつ」ということになるよね?

キリストの代(かわ)りて死に給(たま)いし人: =キリストが代りに死んでくださったほどの人

                           =神であるキリストが十字架において、代わりに罪を
                              負ってくださったほど、神が愛しておられる人 
           
                           =(ここでは直接「あなたの兄弟、
                             つまり、同じクリスチャン」を指しているが。実際、)

                           =私さえも、そして
     
                           =あなた、もそうなんよ。


参考にコピペ
旧約聖書 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8
鉄道唱歌 東海道編(メロディー聴けます) http://kan-chan.stbbs.net/docs/tdshoka.html


引用・参考文献
・ルツ M アタウェイ編:ふくいん子どもさんびか、いのちのことば社、2005年
・文語訳聖書
・新改訳聖書 第2版、日本聖書刊行会
  


コメント (2)
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聖書ノ 始メ  

2005-10-30 22:07:03 | Sunday 聖書


     原始(はじめ)に 神(かみ) 天地(てんち)を 創造(つくり)たまへり

                          (創世記1章1節)  


 聖書-旧約聖書と新約聖書を併せて-は、ここから始まる。
 だれかさんの-確かユダヤ教1)の人で、教育者だったと覚えている-本によると、この「はじめに」という、たった一節のために、何十もの論文がこれまでにあるんだと。くだらない。すごい。そのことに対して、誰がどう思おうと自由さ。ただ、それだけ、人は、「聖書」という書物に対して、エネルギーを注ぐ価値がある、と思ったんだ。
 私も、そう思…と言いたいところだが、ビミョウに、そう言うのは、違うような気がする。「私が」というところが。
 私が、ではなくて、―自分などというものは、今日言っている事と明日言っている事が違うことだってありうる、移ろいやすい者だから―、神様がなさったこと、神様が約束されたこと、…それら一つ一つが、形容できないほど、見極めることができないほど、すばらしいんだ。あんまり、「すごい」とか、「すばらしい」とかを使いたくないんだけど、これ以外見つからなかった
 たとえば、冬の雨上がりの早朝の、つんと澄んだ空気と白い吐息の中、朝日が昇るのに出くわしたとき。夏の夜、騒々しい虫のコーラスや、枝と枝とが織(お)りなすざわめきで眠られず、そっとテントを這い出して、一人ぽつんと星空を眺めたとき。その昔、福音集会などで、兄弟2)たちを通して聖書のある箇所が開かれて、その箇所の周り、前後を通して読みふけったとき。日曜のパン裂き3)、また毎日でも、イエス・キリストが十字架で私の罪の贖(あがな)い 4)をしてくださったことに思いを馳せるとき。神様が用意してくださっているものを夢見るとき。



                                   
                             


 すべては、神様がお創りになったときから、始まった。
   時間も。
   天も地も。
   人も生き物も。

   一日目には 昼と夜。
   二日目には 大空を。
   三日目には 地や海、植物を。
   四日目には 大空に二つの光るもの。
   五日目には 海の巨獣に、水に群がりうごめく生き物、そして鳥。
   六日目には 野の獣、地を這(は)うものや人間を。

 七日目には宣言された。なさっていたわざの完成を。
 そして、休まれた。 5)

                              


【注】
1)ユダヤ教:旧約聖書を信じるが、新約聖書は信じていない方々の信仰形態。何が違うのとかと言うと、簡単には『一般的に「キリスト教」との区別は、聖書に記された救世主がイエス・キリストであると考える人々を「キリスト教」と言い、救世主は未だ存在せずその出現を待ち望んでいる人々が「ユダヤ教」とされている。』

2)兄弟たち:肉親の兄や弟をさしているのではなく、クリスチャンの男性を指している。個人を指す場合、○○兄(けい)と、その人の苗字や名前に「兄」をつけて呼ぶ。ちなみに、クリスチャンの女性は「姉妹」。同様に、○○姉(しまい)と呼ぶ。
 Q.で、困ったことにクリスチャンであることが分かっているけれど、名前が分からない場合は?

 A. …ただ「兄弟」「姉妹」とのみ相手に呼びかけることもアル…?わからん時は、やっぱり聞きましょう。多分、相手は「何回も会っているのにどうして覚えられないの?」ではなく、「覚えようとしてくれているんだな」と思ってくれるでしょうから。

3)パン裂き:また今度。

4)十字架による贖い:同じく。

5)創世記1~2章から。



参考にコピペ
文語訳聖書 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8
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