塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

無風と言うの名の安定感

2015-03-20 01:24:02 | 日記
 「無風」というのはどんな意味合いを持つでしょうか。

 夏の暑いさなか、風が吹けばそれだけで息を吹き返す事が出来ますし、木陰で休む際の涼風は本当に気持ちの良い物です。

 また古代の帆船は風があって始めて航海が出来た物ですし、僕たちが気付かないだけで風はどこかで吹いているのでしょう。

 風力発電はそうですよね。

 一方で

 「無風地帯」

 と呼ばれるように、特定の選挙区では対立候補を圧倒的な得票数で蹴散らして当選する政治家がおり、番狂わせが起きない意味で用いられますが、サッカーでは無風はある種の見解を持ちます。

 それは安定感、別の見方をすれば内紛が無い、と言う事です。

 モウリーニョ時代のレアル・マドリードは年を追うごとに風が強くなり、結果的には選手もメディアも、そしてモウリーニョ自身も疲弊してしまいました。

 「アス」「マルカ」などの新聞記者も、モウリーニョがインテル、チェルシーで培った方法論

 「自分を悪役にしてメディアの注意を向けさせる」
 「その間に選手たちが立て直せるだけの時間を与える」

 という物を批判する形になりました。

 今のアンチェロッティ政権が、全ての意味で盤石ではありません。

 それでも、彼がまず自分が欲しい選手を得る為ではなく、既存戦力を尊重し、クラブそのものを見直すと言う補法論が、安定をちうモウリーニョ時代には無かった無風を生み出した、そんな気がします。

 どうしてこんな事を考えたかと言えば。

 昨日、店内の食事処で主任の送別会を開いたのですが、主任からすればある種の冥利があったのではないか、そんな気がしたのです。

 惜しまれながら去る、これは選手、監督も理想の形でしょうが、それは無風状態を生み出していた、と感じます。
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