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命がある限り希望を持つということ

悲しみを知る心

2012-05-15 09:23:22 | 社会・生活
朝起きるとお仏壇にお線香を上げて
「今日も一日どうか悪いことが起こりませんように」と手を合わせる。
震災が起きてからは特に全ての人たちが今日一日を
無事に暮らすことができますようにという思いが強くなった。
人間の叡智を超えるものに対しては祈るしかなすすべはない。

お仏壇の横にルナのお骨を祀った祭壇があって
お花やお水、猫缶や好物のいりこ、かつおぶしなどを供えてやっている。
「ルナ、おはよう」と声をかけるのが毎朝の日課だ。
側にいるけど姿が変わったことに少しづつ慣れてはきている。

それでも話しかけても鳴き声が返ってこないこと
寝るときに腕の上に彼女の体温や重さがないこと
床の上にトイレの砂が落ちてないこと
ふわふわ落ちていた毛がなくなったこと
そんなことのひとつひとつが無性に寂しく悲しい。
動物でも家族として長年ともに暮らしてきて
その存在を失った時の喪失感は何かもう言葉で表現するのは難しい。

先日京都の亀岡市で無免許で居眠り運転した少年の車にはねられて
児童ら10人が死傷した事故で危険運転致死傷罪が適用されず
過失致死になったことについての批判は多い。
以前に福岡でも海の中道で飲酒して車を追突させ
幼いこどもたち3人が犠牲になった事件では
加害者が成人だったこともあり最終的に判決がひるがえった。

悪いことをしてもお金さえあれば何とでもなる
法に問われなければO.Kというのは今の社会全体の風潮だ。
しらをきり、言い逃れをし、ごまかしてしまえば
何とでもなるという光景を誰もが嫌というほど見ている。
それが人間の心に大きな影響を与えていることは間違いない。

けれど厳罰主義で臨めばよくなるのかというと
私にはそうは思えない。
私は善悪を知るというのは理屈であれこれ説明するものではなく
悲しみを知る心を持てるかどうかなのだと思う。
いわれなく自分の肉親を奪われた悲しみ。
それはもう筆舌に尽しがたいものだ。
つい数時間前まで目の前にいたわが子の可愛い姿、声、仕草
その全てが失われて永久に取り戻すことができないことが
どれほどの苦しみをともなうものか。
おそらくたとえ加害者が死刑になったとしても
その苦しさや悲しさは癒されることはないだろう。
前にも書いたが「人を殺す」というのは
もう何をどうしても取り返すことができない
もとに戻すことはできないのだから
たとえ自分の命を持ってしても償うことはできないのだ。

そういう人の心がまったく分からないというのは
本人が誰からもそういう人間らしい感情を受け取った経験がなく
自分自身がそういう感情を抱いた経験もないからだ。
これはお金があるとかないとかいう問題ではない。
「人が生きようが死のうがどうでもいいや」と考えるような人間は
それまでの人生で誰からも「かけがえのない存在」として
大切にされたという実感を持てなかったのだと思う。
だから後付的に法改正をして罪を重くしても
今どんどん増えているこういう人間や事件や事故を
未然に防ぐことはできないと思う。

ダンナは農家の次男でお兄さんと妹がいる。
かつて私はダンナに「子どもをどんどん産んで
白い米の飯を食べさせておけばそれでいいというものではない」
と言ったことがあった。
パチンコの機械にどんどん捨てるようなお金があるなら
どうして子どもが喜ぶおみやげの一つも
買ってかえってやろうという気持ちにならないのか。
我が子の笑顔や、日々育っていく姿が
なぜ生きていく喜びにならないのか。
なぜそんなことよりも自分の遊びや楽しみが最優先になるのか。

今日も母親が6時間パチンコに行っていて
一歳半の赤ん坊が布団がかぶさって死亡したというニュースをみかけた。
私にはこういう母親の気持ちは逆立ちしても分からない。
そしてこういう人間におそらく何を言っても何をしても
その本質的なところを変えることができるような気がしない。
そしてそういう劣悪な環境で運良く死んだりせずに育った人間が
成長して今度は他人に害悪をもたらし、たくさんの悲しみを生み出す
それはまさに負の連鎖以外の何物でもない。