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常識ってなんだろう

2017-12-16 17:11:32 | 社会・生活
TVでは連日のように
力士の暴行事件の経過が報道されています。
たくさんの人が、それぞれの立場でコメントされていますが
その多くのコメントの中で
ひとつだけ「そうだ」と納得できるものがありました。

それは「ある人が別の人を、凶器になるもので殴りつけ
殴られた人が、血を流すほどの大きなけがをしたら
警察に通報されて、加害者は逮捕されるはずだ」というものです。
加害者は傷害罪で逮捕されて、取り調べを受け
警察から検察に送検されて何らかの法的な処分が決まる。
人間の生命や財産が、法によって守られている社会では
それが常識的な経過のはずです。

ところが、今回の事件では、とても複雑な事情がからんで
その常識とはずれたところで、多くの言葉が費やされていると感じます。
加害者が、社会的に高い地位の人だから。
被害者側が、自分が所属する組織の決まりを守らないから。
また、被害者が、マスコミにも関係者にも何も語らず沈黙しているから。
そういう様々な理由で、あるいは加害者側が
あるいは被害者側が悪いといった意見が交錯しています。
けれど、一連の経過の原点に返れば
私には、今の経過が、それほど間違っているようには思えないわけです。


もう一つ、もともとの最初の暴行事件が
いわゆるいじめに似ているという点です。
暴行事件が起きた時、現場には何人も人がいました。
大けがをする事態になるまでに、誰かしらとめるチャンスはあったはずです。
加害者がいて、被害者がいて、傍観者がいる。
弁護士さんが「もしも暴行をあおった人間がいたら
その人も罪に問われます」と話されていましたが
あおらないまでも、ただ黙ってみている
あるいは見て見ぬふりをするというのは
いじめの現場では、よくある光景のような気がします。

その後の経過にしても
いじめでも傷害や恐喝なら警察に訴えることもできますが
暴言や嫌がらせ、仲間はずれ、無視など
心に大きな傷を与える行為では
訴えることができるのは、担任の先生であり学校です。

学校が適切に対処してくれた場合はよいのですが
通りいっぺんの指導や調査だけで
「いじめはなかった」「指導して解決した」で終わらせて
実はいじめがなくならなかったり
親や先生に言ったことで、さらに激しくなったりした場合
いったいどうすればいいのでしょう。

どうしても子どもを守りたい親御さんは
学校を通さずに、教育委員会に直訴されるようなケースもあるでしょう。
そうなった時に、学校や、他の児童の親御さんなどの中に
暗に「そこまで、ことを荒立てなくても」という空気はないでしょうか。
正当な主張をしたことで、逆に学校に行きづらくなる
なあなあで、角を立てず、丸く納めることが美徳とされる
日本人の中に、そういう空気は、実は根強くあるような気がします。

ことを荒立てる、角を立てる人間が悪いというような論調は
本質を見失った、常識はずれの考え方だと思うのは私だけでしょうか。
いじめの問題では、今も悲惨な事件があとを絶ちません。
「いじめる人間が悪い、いじめられる人間に非はない」
これが社会常識として認知され、浸透しなければ
表面的な叱責や指導だけでは、何もよくならないように思います。
まして学校や、教育委員会の組織の論理を優先させ
事実を隠蔽し、うやむやにして
なるべく誰も責任を取らなくていいようにというような対応は
およそ常識とはかけ離れています。
今回の暴行事件でも、被害者側が、自分の属する組織に対して
信頼をおけなかった背景には、それと似た構図があるかもしれません。
これはあくまで私の推測なのですが。

毎日のニュースで「あっちが悪い」「こっちが悪い」みたいな話が
飛び交うのを聞きながら、こんなことを考えていました。
私は、自分の考え方が絶対に正しいなんて夢にも思いませんが
ネットでも膨大な量の意見や、情報が飛び交う時代ですから
そのたびに他人の意見に左右されたり、偏った考え方をしないためにも
「自分は、これについてこう思う。その根拠はこれ」という
考え方の習慣をつけることは大切なのだろうと思います。


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