岩手で、いじめにあった中学2年生の生徒さんが
自殺をした事件で、マスコミでは
学校や校長、担任など教育現場の責任を問う論調が主流であり
ネットでは、加害者や担任の個人の氏名を特定しようという
報復的な空気が支配しているように思われます。
この雰囲気は2011年の、大津で起きたいじめによる自殺の時も
だいたい同じような感じだったと思います。
同様なことが何回起きても、具体的な解決策や対処法がないまま
また悲劇が繰り返されているように感じます。
今回の事件の経緯を見ていると
何か起きれば、校長の責任、あるいは担任の責任が重視されるために
いじめを出したら、校長や担任がダメと評価されることを恐れて
教育現場の人たちが、いじめを無視したり、隠蔽したり
あるいは先生同士で相談したり、情報を共有するということが
かえってできなくなっているのではないかと危惧しています。
それで、もうすこし客観的に、いじめを解析しているデータを探していたら
有識者の方が運営されている「ストップいじめナビ」という
サイトがありました。
ここには平成22年くらいまでですが
小中高校におけるいじめの実態、現状について
かなり詳細な分析がされていて
解決の方法もある程度は提示されています。
本当は、そのサイトを見ていただけるのが一番良いのですが
いくつか、なるほどと思った点をあげてみます。
まず第一に、いじめがもっとも多くなるのが
小学校の高学年から中学2年生にかけてであること。
多発する時期が、5月から6月にかけてと
10月から11月にかけてであること。
(夏休みや冬休みは、登校日が減るので一時的に減る)
いじめが行なわれる場所は、教室内
加害者は同性のクラスメイトが多いことなどです。
なぜこの時期の、特に中学生にいじめが多発するのかについて
もっともっと突っ込んだ子どもの気持ちの分析が必要だと思います。
そして実は、いじめが原因の不登校が相当数ある可能性についても
言及されています。
前のブログで、最悪の場合は学校に行かないことも選択肢の一つと書きましたが
おそらく現実にそういう選択をしている、あるいはせざるを得なくなった
子どもさんもかなりおられるということが分かります。
これは、いじめによって尊い命が奪われるという重大な事態以外にも
いじめによって「教育を受ける権利が奪われている」という
深刻な問題がたくさん起きているということです。
学校にこなくなったから問題がなくなった
いじめも解決したというような
安易な認識がまかり通っているとしたら、とんでもない話です。
いじめは日本固有の問題ではなく
最近始まったことでもありません。
また子どもの社会に特有というわけでもありません。
現実には大人の社会にも蔓延するいじめやいじめまがいの行為を
撲滅するなどということは不可能なことです。
極端かもしれませんが「いじめがないことが良いことで
だからいじめをなくそう」という向き合い方ではなく
そもそも何十人もの子どもたちが、同じ場所で長い時間過ごしていれば
「基本的にいじめはある」という前提で
自分たちが日常にやっている行動の中で
どういう行為がいじめにあたるのかをしっかりと認識させる
そういう初歩的なところから取り組む必要があると思います。
「友だちをいじめたらだめじゃないか。やめなさい」といえば
たいていの子どもは表面上は「はい、わかりました。やめます」というでしょうが
それでいじめが止まることはありません。
それはなぜかというと、実は自分たちがやっていることを
いじめだとは思っていないからです。
それはどういうことなのか。
「ストップいじめナビ」に、社会学者デイヴィット・マッツァという人の
自分の行為を正当化する「中和の技術」について書かれていて
その5つの類型を、いじめに当てはめると次のようになります。
「自分がやりだしたんじゃない」(責任の否定)
「これはいじめではなくふざけていただけだ」(危害の否定)
「この子が生意気だからこらしめていただけだ」(被害者の否定)
「そんなことを注意される筋合いはないし、そもそもお前は人に注意できる立場か」(非難者への非難)
「クラスのノリを乱すのがいけないんだ」(高度の忠誠への訴え)といった具合です。
いずれも、いじめを正当化するための言い訳なのですが
こういう論理が、いじめが悪だという考え方をあいまいにしてしまいます。
「そのくらいのことはいじめじゃない」
「男ならやられたらやりかえせ」
「やられる側にも問題がある」というのは論理のすり替えなのですが
驚いたことに、先生にもそういう考えの方が結構おられるということは
これもトリーさんの書かれた記事で知りました。
こういう考え方が一般的に通用することが
「やられた人間が弱いから、適応できないからしかたないんだ」と
不登校の生徒を切り捨てることにもつながっているように思います。
先生とか親とか、少なくとも大人は
これらの考え方が間違っていること
そういう考え方が、いじめの事実をあいまいにし
いじめを助長する空気を許してしまうことを知っていただきたいです。
不登校を選択したら、いじめからは逃れることができても
親子共に乗り越えなければならない別の試練がたくさん出てきます。
今回の事件を契機に、学校や先生や父兄の皆さんが
不登校の背景にあるいじめの問題にも
少しでも目を向けてくださることを願ってやみません。
一度に全てを解決できる方法などあるわけがないですから
まずは身近にある問題から目をそむけたりごまかしたりせずに
ひとつづつ地道に真剣に取り組んでいただきたいと思います。
いじめがない学校がいい学校なのではなく
いじめの問題にきちんと対応し、一定の成果をあげた学校や先生を評価し
成功した具体的な事例から積極的に学ぶ
といった考え方に変わっていただきたいです。
「命の大切さを知る」とか「生きる力を育てる」などという
抽象的できれい事のキャッチコピーを振りかざすことに
どんな意味もなく、効果も期待できません。
子どもの心と命を守るために、学校に行かない決断をする
そんな社会は、まともではありません。
自殺をした事件で、マスコミでは
学校や校長、担任など教育現場の責任を問う論調が主流であり
ネットでは、加害者や担任の個人の氏名を特定しようという
報復的な空気が支配しているように思われます。
この雰囲気は2011年の、大津で起きたいじめによる自殺の時も
だいたい同じような感じだったと思います。
同様なことが何回起きても、具体的な解決策や対処法がないまま
また悲劇が繰り返されているように感じます。
今回の事件の経緯を見ていると
何か起きれば、校長の責任、あるいは担任の責任が重視されるために
いじめを出したら、校長や担任がダメと評価されることを恐れて
教育現場の人たちが、いじめを無視したり、隠蔽したり
あるいは先生同士で相談したり、情報を共有するということが
かえってできなくなっているのではないかと危惧しています。
それで、もうすこし客観的に、いじめを解析しているデータを探していたら
有識者の方が運営されている「ストップいじめナビ」という
サイトがありました。
ここには平成22年くらいまでですが
小中高校におけるいじめの実態、現状について
かなり詳細な分析がされていて
解決の方法もある程度は提示されています。
本当は、そのサイトを見ていただけるのが一番良いのですが
いくつか、なるほどと思った点をあげてみます。
まず第一に、いじめがもっとも多くなるのが
小学校の高学年から中学2年生にかけてであること。
多発する時期が、5月から6月にかけてと
10月から11月にかけてであること。
(夏休みや冬休みは、登校日が減るので一時的に減る)
いじめが行なわれる場所は、教室内
加害者は同性のクラスメイトが多いことなどです。
なぜこの時期の、特に中学生にいじめが多発するのかについて
もっともっと突っ込んだ子どもの気持ちの分析が必要だと思います。
そして実は、いじめが原因の不登校が相当数ある可能性についても
言及されています。
前のブログで、最悪の場合は学校に行かないことも選択肢の一つと書きましたが
おそらく現実にそういう選択をしている、あるいはせざるを得なくなった
子どもさんもかなりおられるということが分かります。
これは、いじめによって尊い命が奪われるという重大な事態以外にも
いじめによって「教育を受ける権利が奪われている」という
深刻な問題がたくさん起きているということです。
学校にこなくなったから問題がなくなった
いじめも解決したというような
安易な認識がまかり通っているとしたら、とんでもない話です。
いじめは日本固有の問題ではなく
最近始まったことでもありません。
また子どもの社会に特有というわけでもありません。
現実には大人の社会にも蔓延するいじめやいじめまがいの行為を
撲滅するなどということは不可能なことです。
極端かもしれませんが「いじめがないことが良いことで
だからいじめをなくそう」という向き合い方ではなく
そもそも何十人もの子どもたちが、同じ場所で長い時間過ごしていれば
「基本的にいじめはある」という前提で
自分たちが日常にやっている行動の中で
どういう行為がいじめにあたるのかをしっかりと認識させる
そういう初歩的なところから取り組む必要があると思います。
「友だちをいじめたらだめじゃないか。やめなさい」といえば
たいていの子どもは表面上は「はい、わかりました。やめます」というでしょうが
それでいじめが止まることはありません。
それはなぜかというと、実は自分たちがやっていることを
いじめだとは思っていないからです。
それはどういうことなのか。
「ストップいじめナビ」に、社会学者デイヴィット・マッツァという人の
自分の行為を正当化する「中和の技術」について書かれていて
その5つの類型を、いじめに当てはめると次のようになります。
「自分がやりだしたんじゃない」(責任の否定)
「これはいじめではなくふざけていただけだ」(危害の否定)
「この子が生意気だからこらしめていただけだ」(被害者の否定)
「そんなことを注意される筋合いはないし、そもそもお前は人に注意できる立場か」(非難者への非難)
「クラスのノリを乱すのがいけないんだ」(高度の忠誠への訴え)といった具合です。
いずれも、いじめを正当化するための言い訳なのですが
こういう論理が、いじめが悪だという考え方をあいまいにしてしまいます。
「そのくらいのことはいじめじゃない」
「男ならやられたらやりかえせ」
「やられる側にも問題がある」というのは論理のすり替えなのですが
驚いたことに、先生にもそういう考えの方が結構おられるということは
これもトリーさんの書かれた記事で知りました。
こういう考え方が一般的に通用することが
「やられた人間が弱いから、適応できないからしかたないんだ」と
不登校の生徒を切り捨てることにもつながっているように思います。
先生とか親とか、少なくとも大人は
これらの考え方が間違っていること
そういう考え方が、いじめの事実をあいまいにし
いじめを助長する空気を許してしまうことを知っていただきたいです。
不登校を選択したら、いじめからは逃れることができても
親子共に乗り越えなければならない別の試練がたくさん出てきます。
今回の事件を契機に、学校や先生や父兄の皆さんが
不登校の背景にあるいじめの問題にも
少しでも目を向けてくださることを願ってやみません。
一度に全てを解決できる方法などあるわけがないですから
まずは身近にある問題から目をそむけたりごまかしたりせずに
ひとつづつ地道に真剣に取り組んでいただきたいと思います。
いじめがない学校がいい学校なのではなく
いじめの問題にきちんと対応し、一定の成果をあげた学校や先生を評価し
成功した具体的な事例から積極的に学ぶ
といった考え方に変わっていただきたいです。
「命の大切さを知る」とか「生きる力を育てる」などという
抽象的できれい事のキャッチコピーを振りかざすことに
どんな意味もなく、効果も期待できません。
子どもの心と命を守るために、学校に行かない決断をする
そんな社会は、まともではありません。
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