それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

NHK「SONGS 矢沢永吉」、あるいは僕の日記

2015-09-26 12:27:13 | テレビとラジオ
 近所にものすごく矢沢永吉ファンのお店があって、そこの料理はすごく美味しいのだけど、なんとも暑苦しいので、なかなか再訪できないでいた。

 そんなある日、SONGSに矢沢永吉が出ていた。

 ちょっと見るだけのつもりが、ぐいぐいと引き込まれてしまう強烈な魅力があった。

 矢沢永吉は66歳だ。肉体的にもきつい部分が色々あるという。そりゃそうだ。ずっと若い自分でさえ、ちょくちょく調子が悪い。まして66歳。

 ところが矢沢、とにかくパワフルなのである。インタビューからリハーサルから何から何まで、とにかくすごい熱量なのである。

 テレビの画面で見ているだけでものすごいものが伝わってくる。

 なるほど、これは好きになるのも分かる。僕も彼のCDをちょっとだけ持っているのだが、CDもいいけど、やっぱりライブなんだろうな、と思えてしまう。



 一旦、僕の個人的な話になるが、比較的大きなプロジェクトの山場をふたつ越えたところで、体の調子全体がガクッと落ちた。

 自分でも無理しているな、と思ったところで何とか乗り越えた後だったから、まあやっぱりな、という感じだった。

 それで療養しながら色々なことを考えていたのである。これまでのことや、これからのこと。研究者としての生き方のこと。

 ちょっと前に自分が思った以上に評価されて、それでこれからの予定が変わったりして、それも自分を見直すきっかけになった。

 出ている成果とは裏腹に、正直、考えあぐねている。これからどうすべきなんだろう、と。

 そんなときの矢沢永吉だったから、なんだかものすごく胃の腑にぐっときたのである。



 SONGSでのインタビュアーの山田孝之とは同い年。だから、山田が矢沢にどう向き合うのか、すごく興味があった。

 やっぱり矢沢の「成り上がり」を目指してギラギラしていた感じを、僕も山田も共有するのは難しい。

 どうしてもどこかシニカルになってしまう。

 ところが今時代は何周もして、逆に矢沢なのだと思う。

 今はむしろ大きなことを言って、大胆にチャレンジすることの方が真正面にカッコいいのだと思う。



 それで昨日はある研究会だったのだけれど、なんだろう、僕の業界も少しずつ世代交代しつつある、というのを感じたのだ。

 中堅・若手と呼ばれていた先輩研究者たちが大物になって、僕が見てきた彼らの爆発的なクリエイティビティが少し弱まって、その分、社会的な役割を果たそうとしたりしている。

 少し青臭い尖った、でもすごく才気ばしった論文を書いていた人が、なんだかずいぶんと丸くなったりしていて。

 で思った。今だ。今から始まるんだ。と。

 やっぱり、そんな時に矢沢だったのである。

 面白いことを求め、とにかく走り続ける、とんでもないロックスター矢沢。

 「ロックスター」という存在が完全に戯画化された時もあった。

 ただの面白おじさんの位置づけになった時もあった。

 でも、やっぱり矢沢はずっととんでもないエネルギーでロックスターだったのであって、そこに嘘はなかったんだろうなと。



 で、思うのは、やっぱり自分のなかから爆発的なエネルギーが出てくる瞬間や場をとにかく作らなくちゃいけない、ってことで、それは確かに存在するのであって、それでこそ自分の生に熱が帯びるのだと。

 僕は近づいている変化を怖がっている。でも、矢沢に倣って言えば、それがいいんだと。

 自分が熱を帯び続けるために、新しいことをやるために、本当に自分がやりたいと思っているはずのことをやるために、その変化はとてもいいことなのだと。

 矢沢は自分の故障した背中のことを例に、ダメなことや障害となっていることも、すべて予定通りだと言う。最前線で戦っている人には必ず何かある、それが普通なのだと。

 だから、自分だって体調が悪くなったりしてもいいのだ。だって、矢沢がそう言っているんだもの。

 矢沢永吉、ロックスター。

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