前回と今回の探検バクモンが素晴らしかった。
探検バクモンは爆笑問題が様々なテーマで、日本の様々な場所に潜入しレポートする番組。
今回は大阪西成の釜ヶ崎を取材。
西成と言えば、昔だけでなく近年にも暴動があった場所として知られている。だが、メディアに出ることはほとんどない。
いわば日本のなかでも相当特異であるにもかかわらず、奇妙に無視されてきた場所でもある。
それを今回真正面から取り上げるわけだが、それをユーモアをもって出来るのは今や爆笑問題のこの番組しかない。
もちろん、映せないものも映せない場面も相当ある。それでも上手く番組をつくり、的確に解説していく(今回の解説ゲストは水野阿修羅さん)。
釜ヶ崎には全国から「最後に行きつく場所」として人が集まる。
日雇いの仕事や炊き出しなどで、多くの人々がその日その日を生きている。
そこでは人間のネットワークも厚く、ひとつの「社会」を構築している。
国家の管理から相当距離があり、市場経済のなかの末端でもある。だが、そこは日本で最も人口密度の高い場所でもある。
国家、市場、そして社会。釜ヶ崎からは、人間が生きるアリーナの在り様が生々しく浮かんでくる。
釜ヶ崎には演歌があり、浪曲があり、ヒップホップがある。
第二回の放送では、ラッパーのSHINGO☆西成がゲストに登場し、この場所の営みを解説してくれた。
音楽は本来、社会に根を張って育つ。そのなかでも今やヒップホップは、最も社会のことを反映した音楽である。
大阪、神奈川、名古屋、さらに様々な地方都市のなかでヒップホップがぐんぐん育っている。
話しはすこずれて、最近、Tさんとスカイプで話していた時にギリシャの話題になった。
Tさんはギリシャを旅行し、そこで地元の人々の「生」の軸足が「社会」の領域にあったことを教えてくれた。
Tさんは続ける。日本ではどうして生が「市場」にばかり依拠してしまうのかと。
日本のなかで「社会」という単位を独立して体感できる場面は実のところ少ない。
教育のなかでもその存在をうまく教えられていない。
だが、経済の発展が緩やかになり、社会システムが成熟に成熟を重ねつつある今、日本が社会をどう捉え直すべきかが問われている。
この問題は移民を本格的に受け入れる際にいよいよ大きな問題になるだろう。
探検バクモンの取材から見える「釜ヶ崎」は、そのヒントを何らかのかたちで我々視聴者に与えている。
だが、こうした視点はすでに19世紀半ばに日本で発見されていたものなのだ。
我々はこの健忘症から脱し、社会を再発見すべき時期に来ている。
探検バクモンは爆笑問題が様々なテーマで、日本の様々な場所に潜入しレポートする番組。
今回は大阪西成の釜ヶ崎を取材。
西成と言えば、昔だけでなく近年にも暴動があった場所として知られている。だが、メディアに出ることはほとんどない。
いわば日本のなかでも相当特異であるにもかかわらず、奇妙に無視されてきた場所でもある。
それを今回真正面から取り上げるわけだが、それをユーモアをもって出来るのは今や爆笑問題のこの番組しかない。
もちろん、映せないものも映せない場面も相当ある。それでも上手く番組をつくり、的確に解説していく(今回の解説ゲストは水野阿修羅さん)。
釜ヶ崎には全国から「最後に行きつく場所」として人が集まる。
日雇いの仕事や炊き出しなどで、多くの人々がその日その日を生きている。
そこでは人間のネットワークも厚く、ひとつの「社会」を構築している。
国家の管理から相当距離があり、市場経済のなかの末端でもある。だが、そこは日本で最も人口密度の高い場所でもある。
国家、市場、そして社会。釜ヶ崎からは、人間が生きるアリーナの在り様が生々しく浮かんでくる。
釜ヶ崎には演歌があり、浪曲があり、ヒップホップがある。
第二回の放送では、ラッパーのSHINGO☆西成がゲストに登場し、この場所の営みを解説してくれた。
音楽は本来、社会に根を張って育つ。そのなかでも今やヒップホップは、最も社会のことを反映した音楽である。
大阪、神奈川、名古屋、さらに様々な地方都市のなかでヒップホップがぐんぐん育っている。
話しはすこずれて、最近、Tさんとスカイプで話していた時にギリシャの話題になった。
Tさんはギリシャを旅行し、そこで地元の人々の「生」の軸足が「社会」の領域にあったことを教えてくれた。
Tさんは続ける。日本ではどうして生が「市場」にばかり依拠してしまうのかと。
日本のなかで「社会」という単位を独立して体感できる場面は実のところ少ない。
教育のなかでもその存在をうまく教えられていない。
だが、経済の発展が緩やかになり、社会システムが成熟に成熟を重ねつつある今、日本が社会をどう捉え直すべきかが問われている。
この問題は移民を本格的に受け入れる際にいよいよ大きな問題になるだろう。
探検バクモンの取材から見える「釜ヶ崎」は、そのヒントを何らかのかたちで我々視聴者に与えている。
だが、こうした視点はすでに19世紀半ばに日本で発見されていたものなのだ。
我々はこの健忘症から脱し、社会を再発見すべき時期に来ている。
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