それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

創造力

2013-03-24 19:59:17 | 日記
イギリス行きのチケットを取った。未だにチケットをとる作業はなかなか面倒で、そして少し憂鬱で、それが終わるだけでずいぶんとほっとする。

あのイギリスにいた瞬間、いや瞬間と言っても3年間もいたのだが、でもそれはもう再現することが出来ないのだと知っている。

いや、再現する必要などないのかもしれない。僕が今生きているこの環境を切り開いていくことに集中するべきかもしれない。

サカナクションの簡単なドキュメントやら、秋元康の結構長いドキュメントやらを見た。

いや、もう結構前のことだ。

僕は創造力のことを考えている。

音楽家でも何でも、最初は創造力は無限に出てくるはずで、そういう衝動というものが無い人はそういう世界には入らないものだ。

しかし予算が大きくなったり、契約が出てきたり、とにかく芸術家も大人になるにつれて創造力が追いつかなかったり、枯渇したりする。

研究者もまあ色々なしがらみがどんどん出てくるはずだ。

けれど、そのなかでもとにかく何かをどんどん吸収して、そしてみんながちょっぴり驚くような面白いことをやってやろう、という気持ちを持ち続ける限り、きっと面白いことが続けられると僕はまだナイーブに信じている。

サカナクションのドキュメントのやり方は興味深い。

つまり、創造力の産物である音楽だけじゃなく、その創造力の過程や場まで商品としてパッケージしてやろうというのだ。

そうすることで、一般の人のリテラシーも上がるし、かなり野心的な試みだ。

研究者も同じことができるだろうか?

出来たとして、そうする必要があるだろうか?

自己満足を避けながら、創造力の過程や場をパッケージにするのは難しい。

それが全部売りだせるのは、やはり資本主義にしっかりと乗っている一流の芸術家のみだろう。

風邪をひいた

2013-03-13 20:24:40 | 日記
風邪をひいた。

ちょっと前までは全く薬を飲まない方針だったのだが、最近は市販の感冒薬を飲むことにしている。

明らかに副作用もあるが、症状を抑えた方が研究がしやすくなる気がしているので、一応飲んでいる。

柔らかめの雑誌に出す論考も一応書き終えた。いや、まだ直している。

思ったより短くなった。関連論文を色々読んでいると少し自信がなくなる。もう少し詰めたいのだが、なかなか込み入っている。

どの領域にも愛すべきオタクたちがいる。

自分が研究すべきことについて、また模索している。方向性、立ち位置、そういうところはいいのだが、戦略、武器、戦い方がまだ分からない。

口頭試験の準備を始める。受験者用のビデオを見て嫌になる。日本に帰ってきてから時間が経ったせいもあり、英語でどこまでディフェンスできるのか不安。

練習と準備が必要。その方法は分かっている。体力がいる。

久しく会っていない人たちにメールでもしたいのだが、如何せん勇気がでない。今朝ひとり、イギリスからメールをくれた。渡英した時に会えるかもしれない。

無限のフロンティア

2013-03-07 21:35:04 | 日記
最近まで博論の次のプロジェクトについて思い悩んでいた。

何せ、まだ面接試験が終わっていないのだ。

けれど、私は学問のフロンティアに向かっていないと毎日が苦痛で仕方ない性質なので、自分が次にどこに向かうべきか考えていた。

先月の研究会はそのヒントになった。

それでもまだ具体的なことははっきりしていなかったのだが、今日は多くのヒントをもらった。

イメージが出来てきた。とにかく、よく観察していないと・・・。

見逃してしまいそうな小さなニュースや出来事が、大きな像を部分的に照らしている。


ある有名なアニメ監督が次のような言葉を残している。


「新しい作品を創り始めたときには、いつもこの世界の誰も見たことのない最高傑作だ、と感じる。

ところが、その作品が出来上がる頃には、もうそれは最高傑作ではなくなっている。

成長した自分がさらなる最高傑作のイメージを持ってしまっているからだ。

生きるとはそういうことだと思うし、そのプロセスが大事なのだ。」


研究もまったくその通りだと思う。

劇場のイドラ

2013-03-05 21:20:41 | 日記
授業の準備をしていた。

予想もしていないほど発見があり、自分のなかに新しい感覚が出てきているような気がしていた。

それどころか、ありそうな「現実」に近づいているような気さえしていた。

けれども、僕が語ろうとしている物語を何度も精査しているうちにようやく気付いた。

世界のことなど、分かるわけがない。

また勘違いするところだった。

そんなもの分かるわけがないのだ。

いくら本を読んだって分かるわけがない。

当事者に話を聞いたって全然分からない。

しかし、そのなかでも確かな強度で残る「知」があるとすれば、それは小さいながらも拠って立つべき場所なのかもしれない。