それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

般若の肉体:カラダは口ほどにモノを言う

2017-02-28 11:02:16 | テレビとラジオ
 「フリースタイル・ダンジョン」について、ブームが陰ってきたという人がいるみたいだけれど、とんだ勘違いである。

 番組の熱狂的なファンは相当数存在し、一般人から芸人さん、アイドルさん、俳優さんに至るまで沢山。

 影響を受けたティーンたちは、遊びでフリースタイルをやり、場合によってはヒップホップアーティストのライブにも参戦している。



 そのなかで、「フリースタイル・ダンジョン」の屋台骨となっているのが、ラスボスの般若だ。

 この番組は、般若がラスボスとして、明確にその存在感を誇示していることによって成立している。

 般若なしでは、この構造は成り立ちえない。

 もしラスボスが鎮座dopenessだったら、どうだ!いや、逆に面白いけど!



 では、般若をラスボス足らしめているのは何だろう?

 そこが難しい。そこは色々ありすぎるから、何を言っていいのか分からなくなる。

 彼のキャリア、生い立ち、作品、人間関係。もちろん、それが前提だ。

 でも、そのうえでやっぱり言わなければいけないのは、あの肉体だ!



 般若の肉体はすさまじい。

 テレビで見ただけでも、オーラと迫力を放っている。

 どんなトレーニングをしているのか見てみよう。

 般若 2014.09.15 日比谷野音への道 CHAPTER 4

 およそ4分以降の映像がトレーニングの模様だ。

 完全に格闘家のトレーニング。

 これは見せるための体づくりではない。

 闘うための体づくりだ。

 そのストイックさ、心身の強靭さは見ているだけで震えがくる。



 ところで、なぜアイドルには水着審査があるのか?

 私は長年疑問に思ってきた。

 確かにアイドルは仕事によっては水着になるから、必要と言えば必要。

 でも、水着にならないと分からないことってなんだろう?と思ってきた。

 それについて、某アイドルプロデューサーがこう言っていた。

 「見て元気になれる裸と、そうじゃない裸ってあるんだよね。」



 僭越ながら、私もジムでトレーニングしている。

 筋肉のトレーニングやランニングを週4で毎回1時間程度のプログラムとして、こなしている。

 人生で運動なんて全然やってこなかったから、正直きつい。

 心身の健康のためと思ってやっているが、徐々に変化する肉体に、だんだん独特な意味があることに気が付き始めた。

 これまでは人の体型を見ても何も思わなかった。

 ところが、今は人の体型を見ると、どんな運動・スポーツをやっているのか考えるようになった。

 色々な人に聞いてみると、それぞれに特徴があり、非常に興味深い。



 さて、もう一度般若の話に戻ろう。

 要するに言いたいのは、彼の肉体の説得力、なのである。

 あれは表面的なものを見せるための筋肉ではない。

 もっと内面的な、研ぎ澄まされた精神を見せるための筋肉なのだ。

 それは極めて野生的であるが、同時に修行僧のようでもある。

 当たり前だが、野生動物の筋肉は凄まじいが、彼らは修行をしない。

 フリースタイル・バトルは戦闘だが、言葉によるものだ。

 言葉だが、身体的なアクションそのものでもある。

 それは手紙やメールのやりとりではない。生身の人間の営為だ。

 つまり、そもそもフリースタイル・バトルはアンビバレントかつ禁欲的な行為なのだ。

 その行為の頂点に君臨すべき肉体とは、どういうものか。

 それが般若の肉体なのだと私は思う。

 彼の肉体以上に雄弁なものがあるだろうか、諸君!

TBS「カルテット」:結婚=虚構と真実の組み合わせ

2017-02-17 15:13:37 | テレビとラジオ
 「カルテット」が話題だが、実際、このドラマは面白い。すごく面白い。

 人間の本質がいくつも照らされる。しかも、ストーリーのテンポが見事。ひとつ斜め上をいく展開。

 さらに楽曲、衣装、キャスト、台詞回しなどの細かいギミックが凝らされていて、飽きさせない。

 語りたくなる余地を沢山残し、視聴者に多くの余韻を楽しませる。

 凄まじいレベルで作りこまれている。主演の俳優陣のお芝居にもしびれる。



 ここから、「カルテット」にまつわる僕の幾つかの記憶の話をする。それを僕の「感想」とする。

 それを書かないと感想にならない。これは、そういうドラマ。



 僕の友人のイギリス人が、昔、結婚式場のアルバイトをしていた。彼は牧師の役をやっていて、少し訛りのある日本語で、お客さんに誓いを立てさせていた。

 言うまでもなく、彼は教会関係者ではなく、それどころか、おそらく限りなく無神論的な人だった。

 でも、僕は友人として、彼が自分の結婚式で牧師役をやってくれるなら、それはそれですごくいいかもな、と思った。

 日本の式場は「教会」ではない。教会風の建物で、そこにキリスト教徒はいない。

 つまり、結婚式の会場の多くは、虚構だ。みんな、それを分かって使っている。



 一方、式場で演奏している演奏家たちは本物。芸大を出た人たちは、演奏会で食べていくことはできない。

 音楽の先生になるか、いや、そんな需要はない。家庭教師になる?これまた、それほどの需要はない。

 一流の経歴の音楽家と知り合う機会が度々あって、彼らの重要な仕事に結婚式での演奏があった。

 僕は彼らの一流具合を知っていて、彼らが演奏するなら間違い無い、と思った。

 つまり、縁もゆかりもない演奏家の多くは、実のところ、本物だ。



 さて、めでたく式を終え、結婚して夫婦になった後、お互いに何を求めるか、お互いにどういうストーリーを構築するか、それは大きな課題だ。

 最近読んでいる研究書では、複数のアクターが関係を結ぶ場合、アクターそれぞれが合意を「誤解」することこそ、平和と和解につながる、という切ないテーゼを実証していた。

 もし、それぞれの「本心」がすべて分かってしまったら、紛争だ!とその研究書は主張していた。

 夫婦の関係は、虚構と真実の組み合わせで出来上がっている。それは、夫婦関係の始まりである結婚式から、すでにそうなのだ。



 このドラマの本質は、今言ったところにかなり集約されている。

 主人公たちは、それぞれの過去をもった(クラシックの)演奏家。

 それぞれの欲望に基づいて、偶然を装い、弦楽四重奏団を結成することになる。

 第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ。

 それぞれに嘘をつき、それぞれに本心があり、それが入れ替わり、立ち代りしながら、徐々に関係を築いている。

 そこには「結婚」というライトモチーフが、絶妙なテンションで扱われている。

 結婚に憧れているとか、そういうクソくだらないことではない。

 結婚とは、一種のサスペンスだ、という話。

 まあ、ドラマを見てください。としか言いようがない。

 

 一緒に演奏するということは、深く力強いコミュニケーションだ。それを性的なものに例える人はとても多い。

 音は人間性をすべて曝け出す。僕はこれまでの経験から、そして、出会ってきた多くの音楽家たちから、そう言われたし、考えるようになった。

 結婚もそれに似ている。毎日一緒にいることは事実だし、そこに嘘はない。

 だけど、お互いの主観的な物語すべてが一致しているわけではない。そこにはお互いの勘違いがいくつも絡み合っている。

 どちらが先に好きになった?この間の喧嘩の原因はどっち?あの時のプレゼント、本当は嬉しかった?そうでもなかった?



 もし、白黒つけようとすれば、すべてはグレーになる。

 でも、すべてを赤白にしようとすれば、ピンクになる。

 虚構と真実は、混ざると何色になるだろう?それはお互いに何色を持ち寄ったかで変わってくる。

 第5話まで見て、僕はそういう感想をもった。

 このドラマは、ここからさらに急転換していくらしい。見た方がいいと思う。

 もし僕の感想を信じるなら、だけど。

フジテレビ「突然ですが、明日結婚します」:なんでこんなに心の底からイライラするんだろう

2017-02-14 12:51:19 | テレビとラジオ
 「突然ですが、明日結婚します」を見ている。けれど、毎回、テレビをバットでぶん殴って破壊したいほどの怒りが心のなかに生まれる。(#゚Д゚)!

 このドラマは、「逃げ恥」の真逆である。

 「恋愛」のことばかり考えている登場人物たちが、ひたすら不合理で非効率的な行動を取るという、物語である。

 主人公は、27歳の女性。銀行の法人営業課に務めていて、金融に関する数々の資格を持つ仕事ができる人物だという。

 その主人公が27歳の誕生日に彼氏にフラれるところから話が始まる。

 彼女は結婚願望が強く、結婚後は主婦になるという目標を持っている(と、何度も何度もウザいほど言ってくる)。

 その彼女をめぐって、アナウンサーのイケメン君と、証券会社の凄腕営業マン君が三角関係を展開する、という話。

 アナウンサーのイケメン君は主人公のことを好きだし、主人公もイケメン君を好きなのだが、イケメン君が「誰とも結婚は絶対にしない、したくない」と(=なんかトラウマ的なものがあるよと示唆するクサいセリフで)何度も主張するものだから、どうしても相容れない。

 そのイケメン君は過去に関係があったらしい年上の女優さんと、まだ何やら親密で・・・。



 あらすじを書いているだけで、手に蕁麻疹が出そう。

 ヒドイ。あまりにヒドイ。あまりにもヒドイ。責任者誰だ!!!!

 パソコンを投げ飛ばしたいほどイライラしているよ癶(癶;:゚;益;゚;)癶

 

 しかし、それだけ一部の視聴者イライラさせるというのは、何かが非常に良く出来ている証しでもある。

 このドラマの強さは、イケメンとイケてる女性が恋愛する、という本当にどうでもいいことに的を絞っていることだ。

 背景にある婚姻をめぐる社会的な変化やニーズの多様性は、このドラマではすべてきれいに無視される。

 生きにくさと戦っている人も、働くなかで透明な壁や天井と向き合っている人も、社会制度的に認められていないかたちでパートナーを探している人も、このドラマの眼中にはない。

 このドラマは、恋愛をどうやってしたらよいのか分からない人を存在しないものとして扱っているか、あるいは馬鹿にしている。

 フジテレビらしく例えると、テラスハウスくらい頭の悪い登場人物が、エリートの役として登場し、テラスハウスみたいな浮ついた恋愛話を延々と語り続ける話である。

 (#゚皿゚)≡〇)Д`)゚。 「これは貴様たちのドラマで無視されたり、馬鹿にされたりしている人たちの分だ!!」 

 っ゚Д゚)Ξ⊃)゚3゚)  「これは歪んで描かれているエリートたちの分だ!!!」

 o( `Д´)==○)θ゚)∵「そして、これは貴様たちのドラマで大切な時間を消費した、私の分だ!!!!」



 まだ、このドラマのひどさが分からないと言う人ために、第3話に出てくる会話を紹介するね!
 
 役名だとアレな感じが伝わらないので、俳優さんの名前で書いておこう。

《場面:多国籍料理のお店で、結婚について語る主人公たち》

 中村アン「だっておかしくない?結婚って制度自体が。同じ人を一生愛せるかって話しじゃん。人間って動物でしょ?」

 小野広紀「僕はペンギンタイプだから大丈夫。超一途。」

 岸井ゆきの「まあ、本能に逆らった制度ですよね。節操なくなっちゃうから、作ったんでしょうけど。」

 西内まりや「違うよ。好きな人と一緒にいたい、そばにいたいと思うから作ったんだよ。」

 岸井「そんなのは一時的でしょ?永遠には保てない。だから、私は愛のない結婚をおすすめしたい。初めから割り切っていれば、嫉妬とか憎悪とかなさそうだもん。」

 椿鬼奴「一緒に過ごしてるうちに、愛が生まれちゃったりするわけじゃない。そうなると、やっぱり複雑になってくるのよ。どっちにしたって人と向き合うって、そう簡単じゃないから。」

 ぅおーーーーーーーーーーーーーーー、頭の悪いセリフーーーーーーーーーーーーーーーーー、お前ら、中学生かーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
(ノ#゚Д゚)ノ〃┻━┻

「亜人ちゃんは語りたい」:黙ってこの物語に耳を傾けよ

2017-02-14 10:17:10 | テレビとラジオ
 「亜人(デミ)ちゃんは語りたい」というアニメを見ている。

 毎週見たくなるアニメである。原作はマンガだが、そちらは未読。

 ストーリーは次のような感じ。

 世界には、「亜人(あじん)」と呼ばれる人々がおり、差別の対象になってきた。バンパイアや雪女といった伝承は、そうした亜人と呼ばれる人々が元になった話とされる。

 亜人はそれぞれ個性があり、その個性ゆえに、社会ではなかなか生きにくい傾向にある。

 例えば、亜人としてのバンパイアは酷く貧血になりやすい人たちのことで、血液を摂取することが体質的に必要である、とされる。

 また、五感が鋭く、強い光や臭いに拒絶反応を示す傾向がある、という。

 かつては社会的に迫害されてきた亜人だったが、近年では亜人への理解が深まり、公的な支援体制も整備されてきた。

 若い人々の間では、「亜人(あじん)」という呼び方はカタくて格好が悪いということで、「デミ」と呼ぶようになっている。

 そんななか、とある高校で、亜人(デミ)の女子高生らと生物教師がハートフルな日常を過ごす。



 亜人はマイノリティであり、ある意味で身体的な特性ゆえの困難を抱えている。

 彼らは日常生活を過ごすのに、しばしば誰かの助けを必要とする。

 例えば、首と胴体が分離している女の子(デュラハン)や、ちょっとしたことで異性を性的に興奮させてしまう先生(サキュバス)が登場する。

 デュラハンは、首を持って移動しなければならないので、通学などで不便が生じる。

 サキュバスは、周囲の人々を興奮させないように満員電車に乗れない。などなどである。

 それゆえ、この物語は視聴者が生きている世界の様々なマイノリティの人々について想起させる。

 実際、物語のなかでも、教員が亜人(デミ)の学生をどのように支援するかについて色々検討しているし、しっかりと説明している部分も少なくない。

 けれど――――――。

 僕はこの物語について、現実社会への示唆をあまり語りたくない。

 というのも、この物語はそうしたある種の「押しつけがましさ」から距離を取ろうとしているように思えるからだ。



 この物語の登場人物たちは、皆、とてもキュートだ。真っ直ぐで誠実で、優しくあろうと努める。

 それでいい。このアニメはそれでいいのだ。

 アニメ的なラブコメ要素も、結局、それほど何も起きない日常系の安心感も、僕はそのまま受け止めたい。

 社会科学っぽい偉そうな口ぶりや、小難しい解釈は、このアニメの前では逆に不謹慎に思える。

 確かに、物語の主人公とも言うべき男性の生物教師は、高校の教員としては問題があるかもしれないギリギリの行動を取りすぎである。

 学生たちとやたらハグしたり・・・。

 僕はひとりの大学教員として、見ていて頭を抱えてしまう部分もある。

 けれど、そういう部分こそラブコメなのだし、どうしてマイノリティの話になった途端に、すべてが聖人君子にならねばいけないのだろう、と思う。



 それよりずっと強く評価すべきなのは、このアニメが絶妙なバランスで、「マイノリティをめぐる悲哀の消費」を避けていることだ。

 「可哀そうな人々が一生懸命生きる様子」とか、「周囲の悪意でやたら苛められるドラマ」とか、そういう安直な物語を書いてしまうことの方がよっぽど本質を見逃してしまう。

 誰にだって日常があり、誰にだってちょっとだけドキドキする瞬間があり、誰にだってすごく優しくなれる場面がある。

 このアニメは、亜人(デミ)という特徴をもったキャラクターが、どのような日常や瞬間を生きているのか、まったりと眺めるもので、それでいいし、それがいい。