それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

シンポジウム、授業準備

2013-01-28 21:46:27 | 日記
やたらと忙しかった。

とにかく先週はシンポジウムの準備に時間を取られていた。

そのシンポジウムでは、とにかく沢山の留学生に沢山働いてもらうプロジェクトで、その管理を僕がやっていた。

お金のことから何から何まで、考えなければいけないことは思いの外あるもので。

もちろん、それは本当に働くということから見れば、なんてことはないのかもしれない。

ただ、多少なりとも責任が生じると、なんともそれに専心してしまうものである。

そのイベントの後の打ち上げの盛り上がり様ときたら。

その前日までの空気は、不穏で一触即発で、そしてあまりにも研究者の悪い癖である自分勝手さの集合体のような様子で、僕はひどく辟易していたのである。

全く、研究者というものが頭でっかちというのは、マネージメントでは悪い方向にしか進まないのではないかと思っているのである。

そんな考えを登壇してくださった先生のひとりに打ち明けると、全くもって深く同感するどころか、全国的な問題であるとの意見。

これでは日本の大学の未来なんぞ、いやはや思いやられる次第なのである。



最近は投稿する論文をまとめるほか、自分の論文を翻訳したりもしている。

面接試験の準備もせねばならぬ。

が、さらに来期からの授業の準備が始まった。

それはなんてことはない数の授業数なのだが、それでも正直初めてのことだから、色々考えながら準備するのである。

先輩の話なぞを聞きつつ、自分なりに思いをめぐらせるのは、決して悪いことではない。

これまで自分が習ってきた授業のノートなぞを振り返ってみると、先生方の授業のレベルの高さに改めて舌を巻いてしまったりもする。

やっぱり「初めてのこと」は、どう考えてみても「初めてのこと」なのである。

しかし、どういうわけであろうか、教える段になって、いよいよ学問の面白さと難しさを発見するというのは。

先生からのメール

2013-01-16 14:37:54 | 日記
今朝、メールをチェックしたら、イギリスの指導教官からメールが来ていた。

読むと、博士論文を提出しても良い、よく頑張りました、と書いてあった。

嬉しかった。もう一度、修正することもあり得ると思っていた。だから、驚いた。

でも自分としては、内容に関しては相当良くなったとも思っていた。

だから、先生たちの結論は自分としても納得している。


先生たちが論文を読んでくれている間に、日本語の論文を直したり、書いたりしていた。

ひとつは前から準備している論文で、もうひとつは書きはじめたばかり論文。

後者は、博論でカットされた部分を簡単にまとめたものだ。

書きながら、なぜカットになったのか、あらためて理解した。

でも、独立した論文にしてみると、やっぱりなかなか面白い(と僕は思っている)ので、

ちゃんと発表できるところまで持って行きたい。

今年は日本語で色々発表したいと思っている。


特に面白い話もなくて申し訳ないのだが、日記としてどうして書いておきたかった。

知らない学生からメール

2013-01-08 22:44:53 | 日記
イギリスのメアドに、知らない日本の学生さんからメールが来た。

イギリスでの進学相談のメールだった。同じ大学の修士の学生。思わず、長々と返信してしまう。

日本の師匠も言われたが、海外Ph.D組はなかなか真似できないキャリア・パターンの人が多い。

あまりの偶然やら天才やら超人やら大金持ちやら色々いて、「これをやればこうなる」というのがなかなか見えにくい。

自分の場合、そうした人と比べて馬鹿みたいに普通の人間で、結局、偶然および神様の意志と言うしかないかたちで、イギリスに渡った。

しかも、Ph.Dをとったから全部解決というわけではなく、その後のあれこれもある。僕は今、「その後のあれこれに」のなかにいる。日本でやることは沢山あるのだ。

そういう諸々を思い出したり整理したりしながら、仕事の合間にメールを書いた。

研究とは違う業務をやるのは、なんだか不思議な感覚である。今日はそちらに忙殺された。博論と執筆中の邦語論文が一段落したから、そちらに集中することにした。

けれど、メールではうまく書けないものだ。結局、僕の頭にあるのは、自分が見てきた研究者の背中だ。なんだかんだ言って、彼ら・彼女らの生き方なのかも、もし指針があるとすれば。