それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

日本のロックバンドの改変期:英語の本格化と、ミクスチャー風味

2014-11-27 23:32:27 | テレビとラジオ
今年のもうひとつの特徴が日本のロックバンドの本格的な英語化だ。

オオカミの被り物(?)で有名なMan with a Missionと、若者から相当の支持を集めているONE OK ROCK。

どちらも、これまでのロックバンドの「なんちゃって英語」とは質が異なる。

英語で歌うロックバンドと言えば、X Japanが先駆だが、英語はかなりの日本語である。

*もちろん、日本にはゴダイゴというモンスターバンドがいたが、これについては分析が難しいので割愛する。

その後、英語で全部歌うBEAT CRUSADERS(略称、ビークル)が登場した。

ビークルの場合、ボーカルのヒダカトオルが日本語教師であることも手伝って、英語は大分良くなかったが、それでもかなり間違いが多く、メロディに内在しているリズムも若干日本語的であった。

相当に英語圏のロックに同化した草分けが、RIZEである。

英語も堪能で、楽曲も見事なミクスチャーロック。

RIZE以降は、ミクスチャーロックがメジャーシーンの前提となり、同時に英語の歌詞も本格化する。

もちろん、ミクスチャーに関してはドラゴンアッシュをはじめ、様々なバンドが実践してきた。

ただ、ミクスチャーと本格的な英語は、非常に親和的である。なぜなら、本格的な英語を話すバンドのほとんどがミクスチャーだからだ(ただし、その逆は偽)。

「英語の本格化」が意味するのは、ロックの英語圏への同化である。

Man with a Missionも、ONE OK ROCKも、日本の文脈で言えば、こうした英語本格化の流れの最新潮流と言っても良いだろう。



他方、日本のロックシーンを考えるうえで、もうひとつ重要な変化がミクスチャー時代の日本型ロックの登場だ。

揶揄するわけではないが、それは「ミクスチャー風味のJロック」と呼べるだろう。

洋楽のようなクールさと、邦楽の湿り気が混ざった独特のサウンドを私はこうカテゴライズしたい。

もちろん、日本の大衆音楽の歴史は長く、多様な要素が複雑に絡み合っているので、実際にはもっと趣深い呼び方をすべきだろうが、ここではこのように呼ぶ。

特徴は、ダンサブル、あるいはトリッキーなリズムと、情感をやや抑制した洋楽的なコード進行と日本的な旋律、さらによく練られた語感の日本語歌詞。と無理にまとめてみたい。

その草分けがRADWIMPSである。

初めて聴いた時にびっくりするようなトリッキーなリズムやリフ。そして、耳に心地に良い見事な日本語の歌詞。

最近では、グッドモーニングアメリカ、キュウソネコカミ、KANA-BOON、空想委員会など、ひとつの時代精神を示しているとも言える、バンド群が登場している。



この「英語の本格化」と「ミクスチャー風味」という2つの潮流は、無意識的にせよ、相互に影響し合ってきたのは疑いない。アーティストが意識しないとしても、リスナーは両方を聴き比べている。だから、市場としてその影響は相互的だと言える。

GLAYやラルクと比べて聴いてみると、まるで隔世の感である。

コード進行はともかく、ここ最近のロックのリズムの変化はかなり大きい。

正確にはアンダーグラウンドにのみ存在していたものが、メジャーシーンに浸透したと言っても良いのかもしれない。

今年聴いた音楽雑感、ざっくばらん

2014-11-27 21:47:38 | テレビとラジオ
音楽不況などと言われて久しいが、発表されている楽曲の量は、いやはやとにかく膨大。

年末ということで、自分が聴いたJPOPを何となく振り返ります。


1.Base Ball Bear「そんなに好きじゃなかった」

まずは、4人組のギターロックバンド、Base Ball Bear(以下BBB)の一曲。

今年、ようやく待ちに待ったアルバム「29歳」を発表した彼ら。

そのなかで、この「そんなに好きじゃなかった」を私は何度もヘビーローテーションした。

BBBのサウンドの特徴は、独特のギターロック。シンプルなギター、ベース、ドラムの構成であるが、しかし、やっていることは、非常に技巧的。ダンサブルなリズム、一捻りされた洒落たギターリフ、そこにキャッチーでポップなメロディが乗る。

作曲家としてのボーカル小出氏は、きわめて職人的である。

また、小出氏の歌詞の世界も曲と同様、よく練られた言葉によって構成されている。これまでの世界観は何とも甘くて酸っぱいものだったが、メンバーの多くが20代の終わりを迎えたこともあり、歌詞の内容も心地よく成熟しつつある。

これから、さらなる飛躍が期待されるバンドだ。



2.岡村靖幸 with 小出祐介「愛はおしゃれじゃない」

そんな小出氏が作詞したのが本作。

今年は岡村靖幸が完全復活した年で、一連の作品はどれも素晴らしかった。

どれも体が自然に踊りだしそうな楽曲。

歌詞と曲のシンクロ具合が凄い。小出氏の岡村靖幸リスペクトをひしひしと感じる。

とにかく、この「愛はおしゃれじゃない」では、岡村の可愛らしさが全面に出る。

クールな彼のこれまでの世界観だけではあまり見えてこなかった岡村の魅力が、新しいかたちで出たと言えよう。

「Viva Namida」とともに、今年のヘビーローテション曲のひとつになった。



3.清竜人25「Will♡You♡Marry♡Me?」

打って変わって、一部で天才と呼ばれているシンガーソングライターの清竜人の一曲。

アルバム毎に全くコンセプトが異なることから、もはや一枚一枚別のアーティストにすら思えてしまう彼。

しかし、私個人の感想では、彼は確かに何か進化している。このままだと、下手をすると時代よりも先に行ってしまうかもしれない。

そんな彼の最新プロジェクトが、清竜人25。

これは「一夫多妻アイドルユニット」という恐るべきコンセプトのプロジェクト。清竜人に加えて6人の「夫人」からなるユニット。それは、もはやアイドルなのか?

アイドルかどうかはさておいて、重要なのは、清竜人が6人の女性の中心で歌って踊っていることだ。

恐ろしいほどグル―ヴィーでセクシーな竜人。

これは凄いユニットだ。

どういうカテゴリーで見るにしても、かなり強烈な香りである。病み付きになるか、それとも拒絶するか、いずれにせよ、インパクトは凄いはず。



4.ゲスの極み乙女。「猟奇的なキスを私にして」

でもやっぱり、今年はゲスの極み乙女。の年だったんじゃないですかね。

メジャーデビューから大ブレーク、という印象。

ゲスの極み乙女。の世界観では、人間の「本音」と「社会性」の隙間がぐりぐり描かれる。

人間って打算的で、わがままで、利己的。でも、友情とか愛とか語っちゃうよね(半笑)。とゲスな笑みを浮かべるそんな歌詞。

ボーカル川谷絵音の気だるい中性的な声と歌い方が見事に合っている。

その一方で、曲は見事なリズム隊の技術によって、非常にグル―ヴィ。流石と唸る。

ピアノも正確かつ美しいフレージング。楽曲の華になっている。



5.サカナクション「さよならはエモーション」「蓮の花」

もはや王者の風格を漂わせているのが、サカナクション。

「グッドバイ」「ユリイカ」で一層成熟したアーバンでダンサブルなサウンドを展開した流れで、この2曲がつい最近発表されたばかり。

「蓮の花」は、リズムを強調しながら、エコーやリバーブなどのエフェクトを過剰なくらい施すダブ的な手法が用いられている。

浮遊感のなかに、きらりと美しい旋律が光る。

歌詞は文学的で、それが曲と見事に化学反応。

あまりにも見事な楽曲だ。

他方、「さよならはエモーション」では、細かくビートを刻み独特のグルーブ感を出す「ドラムンベース」の手法が使われている。

悲しげなメロディは、切なく美しい。

しかし、このバンドの特徴は、楽器がとにかく抜きんでて技巧的だということ。

特に草刈愛美のベースは、何度聴いても舌を巻いてしまう。

どうしたら、こんなタイミングで音を繰り出せるのか。どうしたら、こんなにグル―ヴィに弾けるのか。と思ってしまう。

とにかく心配なのは、多忙なスケジュールで仕事をこなすボーカル山口の体調である。

以前Remixを担当したコーネリアス小山田の、「彼らにはスケジュールを気にせずに楽曲製作させてあげたい」というコメントは、頷くより他ない。



6.Negicco「サンシャイン日本海」

誰もはっきり言わないまま、密かに始まった90年代ブームのなか、Negicco「サンシャイン日本海」はその最新潮流。

田島貴男(ORIGINAL LOVE)によるプロデュースが見事。

はっきり言って、近年のアイドルの楽曲はフレーバーがきつ過ぎて、かなりの胸やけになっていたが、この楽曲はその正反対。

見事な逆打ち。そう、相場は逆を打たなきゃ。

評判が良いのも頷ける良質な楽曲に何だかほっとする。



7.大森靖子「絶対絶望絶好調」

書くべきか迷ったが、気になっているので書く。

今年は、シンガーソングライターの大森靖子の存在感が徐々に滲み出てきた、と言って良いだろう。

芸大出身だけあって、ポップアートのようなパフォーマンス、というのは気のせいだろうか。

楽曲の世界観はサイコパスであり、椎名林檎のような「企図」が感じられ無い分、心配になる(笑)

どちらかというと、ちょっぴり芸術的な「神聖かまってちゃん」のような印象。

アーティストもアイドルも密かにサイコパスな時代に、大森の楽曲と世界観が怪しげな光を放っている。

NHK「生きづらさに向き合って~ある精神科クリニックの挑戦~」:誰が患者なのか、いや、誰もがそうだ

2014-11-18 13:17:33 | テレビとラジオ
ETV特集「生きづらさに向き合って~ある精神科クリニックの挑戦~」が、非常に興味深かった。

内容は、札幌のある精神科クリニックで実践されている、「当事者研究」と言われるアプローチに関するドキュメンタリーである。

この精神科はかなり有名だそうで、この当事者研究について学ぶべく、多くの人が訪れているという。

この番組から理解した限りで言えば、当事者研究とは、病院のスタッフと複数の患者さんがともに協力して、患者さんそれぞれの見ている世界を明らかにし、その問題と向き合っていく、というものだった。

しかし、これは簡単に言っているが、相当高度なことである。

患者さんの言葉から、他の患者さんやスタッフがゆっくりと、その世界を解き明かしていく。そして、問題を共有し、どうすれば良いのか考えていく。

閉じた世界を開き、患者者自身もそれを可視化していくというプロセスだ。

私は専門家でも何でもない、ということには留意していただきたい。



精神疾患の人口は、現在、300万人を超えているという。

これはあくまでも「医療機関に受診している(入院・外来を含む)患者数を推計したもの」(厚生労働省HP)で、潜在的な患者はその数には含まれていない。

精神疾患の患者はもっといるとも言えるし、そもそも患者とは何かという問題もある。

重要なことは、もしこの人口をひとつのコミュニティとして考えれば、政令指定都市どころか、相当なメガシティになるということだ。

この人数を消費者と捉えれば大きな市場と考えることも出来る。

健常者と比べればマイノリティだが、簡単に無視できるような人数は決してないことは明らかだ。



精神疾患はそもそもずっと人間の社会に存在してきた。

日本の場合、精神疾患の患者はしばしば個人の家屋に幽閉されていることもあった。

また、精神病院が登場した後は、彼らを集中的に隔離もしてきた。

ヨーロッパでも日本でも、特定の政治思想など何らかの理由で迫害された人々が、精神疾患をでっち上げられて隔離されることもあった。

1970年代に入り、欧米で社会改革運動が発展すると、隔離は批判され、改革が実施されていった。

乱暴に言えば、地域のなかで緩やかに隔離しながら、精神疾患の患者を治療、観察するシステムに変化した。

社会に再統合される人々もいれば、そうではない人もいる。

精神疾患は誰でもなりえるが、簡単に治療できるものでもない。

ひとつの病名でも、症状は千差万別で、治療もそれぞれの文脈で変わってくる。

当事者研究は、そうした大きな構造のなかで出現した。そう私は捉えた。



以上が私が番組から理解したことだ。

ここから先は、私の個人的な考えを書く。

近年、差別主義的な言説がネット上でも、現実でもともに広く見られるようになった。

そうした言説の主体(どういう人がそういうことを口にしているのか)に関するルポを読んでいると、ひとつの考えが私の脳裏をよぎったのである。

彼らの多くが、あまりにもパラノイア的な言動を示しており、一種の妄想性パーソナリティ障害なのではないか、と思えて仕方がないのである。

根拠のほとんどないような情報で、特定の人間および集団を執拗に攻撃する人々は、多くのルポが明らかにするところでは、論理的に一貫しておらず、常にヒステリーを起こしている。

この場合、外部からの説得も説教も意味がないし、逆効果である。

つまり、うつ病の人に「元気を出して!」と言っているようなものなのである。

だが、もし彼らが何らかの精神疾患だとしても、彼らが精神病院に通院することはないだろう。

彼らは自傷行為をするのではなく、普通に他者に攻撃を加えているのであり、それが法的に裁け無い場合、いよいよどうしようもない。

つまり、社会的に考えれば患者だが、個人的には患者ではない、ということになる。

我々が知っている精神疾患は、個人が精神に何らかの問題を抱え、それが自傷をはじめとした生命の危機につながった時、そして、彼らが民間の病院に受診した時に、初めて出現する。

だが、本当に精神疾患におけるこの「私的構造」は、精神疾患を考えるうえで十分なのだろうか。

私にはそれが少し不思議なのである。

法的にグレーゾーンの行為に偏執している人々は、患者ではないのだろうか。

もちろん分かっている。この議論はあまりにも危険だ。全体主義的すぎる。

だが言わせてもらいたい。

ならば、そのパラノイアの被害を受けている人々はどうすればいいのか?



もし、以上の仮説が正しいとすれば、精神疾患の患者数は遥かに多くなる。

必要以上に患者認定をすることが良いとは思わない。

ただ、私が言いたいのは、精神疾患というものを簡単に線引きするのは、あまりにも浅薄であり、それを他者の問題として片づけるのも間違っている、ということ。

そして、ことによれば、社会的に対応すべき精神疾患が存在するのではないか、ということだ。

私は何もそうした潜在的な人々を柔らかく隔離せよ、と言うのではない。

そうではなくて、社会はそうした病理を取り扱う責務があるのではないか、ということなのである。

取り扱うとは単なる刑罰のことではなく、むしろリハビリのことを意味する。

もちろん、それが権力的だとは分かっている。だが、放置する方が明らかに暴力的だということを我々はそろそろ理解すべきだ。

「ざっくりハイタッチ」鬼越トマホークが非常に面白かった件

2014-11-16 17:58:17 | テレビとラジオ
テレビ東京の「ざっくりハイタッチ」は、一癖ある深夜のお笑い番組である。

テレ東特有の低予算ながら、一工夫された企画は実験的だが、しかし当たると本当に面白い。

先日は、鬼越トマホークという吉本の5年目の芸人が登場した。

鬼越トマホークは、正統派の漫才を繰り出すコンビだが、ボケとツッコミがともに巨体でいかつい、強面の男性である。

両者はしばしば場所を選ばず派手なケンカするため、様々な先輩が止めに入ってきた。

ところが、そこで鬼越トマホークのボケの坂井(スキンヘッドの方)が、わざわざ止めてくれた先輩に対して、芸に関する的確な批判をして言い返してきた、という。

上下関係に厳しい吉本で、先輩に批判を言い返すなどと言うことは前代未聞だそうだ。

そんなとんでもない事態が実際に何度も起きてきたわけだが、しかし批判があまりにも的を得ているということで、それを番組の企画としたのである。

すなわち、ふたりがケンカをして、それを誰か先輩が行って止める。そして、坂井氏に批判される。というクダリを繰り返すのである。



鬼越トマホークの強面加減は、当初のサンドウィッチマンのやくざな雰囲気よりも、はるかに高いレベルの強面である。

街で見かけたくないレベルである。

体も恐ろしいほど、がっちりしている。

しかし、ボケもツッコミも本当に面白い。

単なるギャップでウケるのではなく、本当にボケの切れ味もツッコミの切れ味も鋭い。

当初の企画趣旨は、先輩に(的確な)ダメだしをする恐るべき後輩、ということだったのだろうが、徐々に、何度も繰り返される鬼越トマホークのケンカそれ自体が非常に面白くなっていった。

偶然面白くなったのではなく、確実に鬼越トマホークが面白くしていた。



わざわざ、それをここに書いた理由はもうひとつあって、それは鬼越トマホークの坂井氏が小藪に放った一言、「スカパーだけやってろ!」が、私のツボに入ったからである。

小藪一豊がMCをやっている「バズーカ」(BSスカパー)という番組は、かなり大人向けの番組で、あまり人に勧められるものではないのだが、しかし、本当に面白い。

というよりも、あの番組は小藪一豊の良さが最も生きている番組だと私は思っている。

バズーカには、扱いが難しいアウトローな人々が度々登場する。緊張感のある場面も少なくない。

小藪はそれを見事に裁いていく。いつ見ても関心、感嘆してしまうのである。

彼の人間力、話術の力。恐れ入ってしまう。

鬼越トマホークの坂井氏が同じ見解かどうかは分からないのだが、しかし、本当に小藪にはバズーカを長く続けてもらいたいと言う気持ちが私にもあり、あの指摘は全く見事だったなあと思ったのである。



鬼越トマホークは、これから一気に来るのだろうか。

地上波向きなのかどうか、私には分からない。

しかし、面白い。

これからの更なる活躍が期待される、と一視聴者として思った。

あの日のアンディモリ

2014-11-07 14:17:49 | 日記
イギリスに住んでいた時に聴いていた音楽を聴くと、あの時感じた色や光や匂いをはっきりと思い出す。

アンディモリというロックバンドのアルバムは、特にそうだ。

「10年経ったら旅に出よう。南の国がいいな。

みんな、きっと驚くって。絶対ね。

Life is Party。胸の中、そっと燃えるランプについて、

友達も知らないよ。分かってないよ。」(“Life is Party”)



朝からずっと研究して、夕暮れになると、部屋に赤い日差しが入り込む。

狭い部屋には何もない。

本とパソコン。それに硬いベッドだけ。

この先、どうなるか分からない。不安だから、また研究する。



キッチンに誰かいると少し安心する。そして、少しだけイライラする。

料理を作る。

いつでもお腹が空いていて、いつでも何か美味しいもののことを考えている。

でも、お金が全然ないものだから、結局、ありあわせのショートパスタを作って、さっさと食べ終わる。

インターネットで日本のバラエティ番組を見て、ほんの少しだけ気を紛らわせて、また研究に戻る。



時間が経って、もう研究出来ないというところまで来たら、

少しお酒を飲む。

今自分のなかで流行っている曲をかけて、ため息をつくように、お酒をちびりちびりやる。

部屋の匂い。家の匂い。街の匂い。イギリスの匂い。

僕は音と匂いに溶け出して、夢を見る。



「10年経ったら旅に出よう。南の国がいいな。」

確か、あの歌詞のように、僕はそんなことを思っていたかもしれない。

ずっとイギリスにいるつもりはなかった。

それどころか、出来るだけ早く離れたかった。

でも、帰るところもなく。

だから、僕はとりあえず眠ることにした。



あれから随分時間が経った。

あの時、確かに生きていたなって。そう思える。

凄い情熱で研究してたはずで。

自分のすべてをかけて研究してた。

今の僕は、あの日からどれだけ変わっただろう。