それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

奇跡のボーカルの祭典:小田和正「クリスマスの約束」2011&2009

2011-12-26 15:00:06 | コラム的な何か
夜、夢を見た。

ゴスペルサークルでクリスマス・コンサートの練習をしているところの夢。

大学構内で僕は仲間と歌う練習をしていた。

歌って喉が渇いて自販機に行ったところで目が覚めた。



朝、朝食をとりながら小田和正の「クリスマスの約束」2011を見た(イギリスで)。

メインボーカルをはっている何十人ものアーティストが、コーラスグループとして30分ほどのメドレーを一気に歌う。

僕はあっけにとられた。

最後まで見た後、朝食を食べ終えた食器をそのままにして、論文を書くのも少し休んで、もう一度最初から映像を見た。

またあっけにとられた。



コーラスワークが素晴らしい。

大人数になるとそれはいわゆるゴスペルのクワイア(合唱団)のような編曲をするわけだが、コーラスワークを考えるのはかなり難儀する。

クラシックの合唱と違って、ゴスペルでもソウルでもポップスでも、大人数の場合にはリードボーカルとのコール・アンド・レスポンスが重要になる。

それは最初から楽譜になっているわけではないので、そのクワイアに合わせて編曲を行う。

簡単そうに思えるが、作るのも大変なら、それをひとりひとりに覚えてもらうのも大変なのだ。

コーラスを複雑にすればするほど、練習時間が必要になる。スケジュールを合わせなくていけない。

さらに編曲もどんどん修正する必要が出てくる。

まあ、大変。

「クリスマスの約束」2011のクワイアは、リードとコーラスのバランスが非常に良かった。

さらに矢継ぎ早にメドレーにしていくDJプレイスタイルが、興奮をどんどん高め効果的に作用した。



驚いたのは、「クリスマスの約束」2009の映像だ。

2009年のときにもやはりこの大部なメドレーをクワイアでやったのだが、しかし、その時の小田和正の構想への批判のすごさたるや。

制作の人間もミュージシャンもクワイアで歌うことの意味が全くつかめていなかったのだ。

ゴスペルをやってきた人間からすると、そんな批判が出ることに驚いてしまう。

人間の声は沢山集まって、それが大きくなり、さらにそれぞれの動きが複雑になったり、単純になったりすることで、人を簡単に感動させてしまうのだ。

ユニゾンの本当の強さを知っている人間こそ、本当に声の魅力を知っている人。

でも、TVやラジオからはそんなユニゾンの魅力を伝える番組はほとんどなかった。

クワイアによって感動するのは観客というよりも演者。それがクワイアの最大の魅力だ。

クワイアは、個人の集まりであると同時に、集団でもある。

集団は個人の和ではない。しかし、個人は集団の道具ではない。

クワイアの面白さと難しさは、この「個と全体」の絶妙な関係に集約される。

「クリスマスの約束」2009&2011はそれに成功した。

2009年版よりも、2011年版の方がコーラスワークは良く出来ていたし、長さもさらに増していた。

でも、おそらく2009年の方が感動したのではないかと思う。

異常な気持ちの高まりが2009年にはあった。

周り道が結果的に歌に通常ではありえないような心を入れたのだと思う。

もちろん、2011年にもそれに近いものがあった。



ゴスペルを歌っていた頃の自分をずいぶんと忘れていたと思った。

なんだか、恥ずかったことや悲しかったことなんかばかりが頭にあった。

今年は後輩の訃報にあって、いよいよどうすればいいのか分からない、取扱困難な思い出になっていたゴスペルだったけれども、

僕はもう一度、いつかもう一度、たくさんの人と一緒に大きな声で自由に歌えたらどんなにか素晴らしいだろうと思った。

(その前に、今書いている論文を何とか完成させなくていけない!)

2011年音楽評:3.11と倒錯

2011-12-25 07:32:07 | コラム的な何か
2011年は日本国内で大きな出来事が沢山あり、音楽もまたそれに影響されたかもしれない。少なくとも、日本国内で音楽を聴く人々の意識が変わったことは間違いない。

例年は私が個人的に注目した楽曲を取り上げるが、今年は少し違う角度で議論したいと思う。



・斉藤和義の年

2011年3月11日、震災が(想定外の)福島原発事故に発展した。その結果、多くのアーティストがコンサートを中止する事態になった。

特に東北でのコンサートはことごとく中止された。

これに対して、日本通のフランス人歌手、クレモンティーヌは福島でコンサートを行い、斉藤和義の「歩いて帰ろう」を歌った。

「歩いて帰ろう」は、せかせかして自分を見失いがちな都市の生活者に対して、のんびり生きる視点を提示する楽曲だと私は思うのだが、震災後はまた別の意味を持ったかのようにも思えた。

震災は人々を歩いて帰らせ、節電の結果、日本で暮らす多くの人々が家族や自分の生き方を見直させることになり、まさに「歩いて帰ろう」的な視点を人々が持つことになった。

ただし、「嘘でごまかして 過ごしてしまえば 頼みもしないのに 同じような朝」は来ないということが原発事故で判明し、資本主義という強大なシステムも、人間の嘘によって簡単に歯車が合わなくなることが分かった。



さらに、原発事故を批判する歌として斉藤和義は自身の楽曲「ずっと好きだった」の替え歌「ずっと嘘だった」をインターネットで発表した。

これは比喩でもなんでもない、限りなく直接的な原発批判の歌だった。

電力会社がスポンサーについているテレビ局やラジオ局がことごとく原発事故報道に失敗しているなかで、斉藤和義が直接原発を批判したのは、器用な方法ではなかったが意味のあることだったかもしれない。



今年は「家政婦のミタ」がまさかの高視聴率をたたき出したが、主題歌はこの斉藤和義の「やさしくなりたい」だった。

疾走感のある、マイナー調のロックサウンドは、私個人の斉藤和義ののんびりしたイメージとはかなり違った。

これまでもそうした楽曲を斉藤和義は作ってきたのかもしれない。しかし、震災後の日本で「愛なき時代に生まれたわけじゃない 強くなりたい やさしくなりたい」と歌われると、なんだか特別な意味があるように思われるのはどうしてだろうか。



さらにSMAPの最新シングル「僕の半分」も斉藤和義の提供である。

サウンドはこれまたマイナー調。内容は失った恋についてのもの。しかし、語り口調がかなり切なく物悲しい。

もしこの時期に、90年代的なノリノリの明るい楽曲(「Shake」とか)を出していたらどうだったろう。全くの嘘、カラ元気に見えたのではなかろうか?

(ちなみに、私個人は「やさしくなりたい」も「僕の半分」も楽曲として新しい特筆すべき存在だとは思っていない。)



・韓流なのか?

少女時代とKARAは今年もさらに売れに売れた印象だった。

しかし、CD売上で言えばAKBがダントツで、それにかろうじて食い下がったのが嵐だった。

他方、ダウンロード数は少女時代がかなり強かった。

AKBや嵐のCDが売れた理由は簡単で、CDという物体そのものがファンのフェティシズムを満たすからである。

ファンがAKBや嵐に関連するグッズを物体として持ちたいと欲望することでCDが売れたのであって、楽曲そのものが欲しいという欲求だけではCDは売れない。もちろん、ある一定のクオリティを楽曲がクリアしていることも条件である。しかし、それだけでは不足なのは間違いない。

他方、CDは売れなくてもダウンロードで成功すれば、やはりヒット曲を出したことにはなる。その点で言えば、まだ韓流が強いことは間違いないだろう。



・ジェンダーと倒錯

大衆音楽を考えるうえでダンスは重要である。

それゆえ、昨今ではアーティストとプロモーションビデオ(PV)との関係が密接である。マイケル・ジャクソン以来、PVで見せる「ダンス」と楽曲のヒットが密接になっている。

インターネットの画像配信システムの発達により、一層ダンスが楽曲の魅力のひとつとして重要になった。韓国のアイドルはその点を強く意識し、ダンスの質も非常に高い。

ダンスは社会のジェンダーを強く反映すると私は思う。

韓国の「女性は女性らしく、男性は男性らしく」の文化はまさにダンスの上手さ、セクシーさに象徴されている。これはアメリカでも同じである。

日本でもこうしたセクシーさには需要がある。

韓流だけでなく、Exileもそうした日本の隠れた需要にこたえた結果ヒットしたと言える。



他方、日本固有のアイドルのダンスは「大人は子供のように踊れ」が重要である。これはセクシーさの需要には応えないが、別の根強い日本の需要に応えてきた。

日本のアイドルがダメというわけではない。

ダンスが妙に拙いことによって感情移入を誘ったり、ロリコンを刺激したりすることでヒットする。

AKBも、ももクロも一生懸命やっていることが異常に伝わるようにダンスが構成されている。

上手いとか、セクシーとかではなく、「拙いながらも一生懸命」がメッセージである。

これはつまり芦田愛菜の逆である。

つまり、子供が上手くやることが面白いのではなく、大人が下手にやることで子供みたいに見えるということが面白いのである。

これと似た倒錯はアニメ、声優でも見られる。大人が子供の声を出すことで萌えるという現象である。

この倒錯したフェティシズムは日本だけではなくヨーロッパでもうけるらしく、日本のガラパゴス的市場がもはや世界に打って出ることのできる唯一のソフトとなってしまったというのは、何とも面白おかしい。



・まとめ

ここまで斉藤和義を通じて3.11と大衆音楽の関係を考え、日韓のアイドルを通じてあいかわらずの日本の「倒錯」について考えた。

2012年も引き続き3.11の影響が続くだろう。それは明るい能天気なサウンドに対する違和感である。

しかしその結果、バブルの影響が深刻になる直前の90年代懐古主義が反動的に出てくる可能性がある。そうなると、結果的に能天気サウンドの復古になるかもしれない。

他方、日本の倒錯したフェティシズムの需要と、明確なジェンダー分離に基づくセクシーの需要は、引き続き強い音楽的ヒットの鍵となると思われる。

映画「冷たい熱帯魚」

2011-12-20 06:12:20 | コラム的な何か
ここ2,3日、疲れが出て何もできなかった(かろうじて、研究書を少しずつ読めるくらい)。

ようやく回復して、その日を終えようとしたところで、誤って映画「冷たい熱帯魚」を見てしまう。

2010年の超ド級のダークファンタジーとして話題沸騰だったこの映画。

見ちゃいけない、自分の趣味には合わないと思っていたのだが、「もう、今日は寝るだけだし ヘ(゜∀゜*)ノ」

なんて調子に乗って見はじめたら、もう目が冴えてしまって・・・。



「愛犬家殺人事件」という実際にあった事件を基にしているそうだけれども、とにかくとんでもない殺人鬼が登場する。

その殺人鬼(+妻)の連続殺人に気の弱い主人公(おじさん)とその家族(若い後妻と娘)が見事に巻き込まれてしまい・・・という話。

見どころはもう沢山の人がブログで書き、評論家もメディアで沢山発言しているので今さら書くことはないのだが、しかし行き場のないこの気持ちをここに書かざるを得ない。

残酷描写がとにかくすごい。しかし、それ以上に言葉のやりとりの恐怖感が信じられないくらいすごい。

殺人鬼が人を騙したり、言いくるめたりする言葉づかいのリアリティと巧みさ。

彼はマッチョで、豪胆。いわゆる経営者風の男。で、良い人そうな瞬間もありつつ、あまりにも冷酷な雰囲気もありつつ。

しかし、よくよく見れば軽薄で短絡的。

主人公もそれに薄々気づいているにもかかわらず、殺人鬼の巧みな戦術でいとも簡単に籠絡されていくのでした。

それはこの殺人鬼が人の弱い部分、心の暗部を見事に見透かすことが出来るから。

ある有名編集者も言っていたが、相手のコンプレックス、心の弱い部分を理解することが相手を説得することの鍵・・・。



残酷描写の苦手な私は途中何度か目をつぶっていたわけですが、もう耳もふさぎたくなるような展開が最初から最後まで。

脚本、映像、音楽、いずれをとっても恐ろしくレベルの高い作品で、海外での評価が高いのも頷ける。



唯一気になったのは、終盤、エディプス・コンプレックスの話になるところ。

物語の最後の推進力として、主人公と殺人鬼の父親殺し(比喩)の問題になり(最後の最後では娘も・・・)、さらに殺人鬼の特殊な性格も幼少期のある体験が原因らしいと示唆される。

しかし、エディプス・コンプレックスや幼児体験の問題をやや短絡的に描いていると私は思う。

いや、確かに父親殺し(比喩)の問題はギリシャ神話よろしく、より映画を寓話的にする重要なモチーフであり、それ自体監督のライトモチーフなのかもしれない。

その点では確かにクライマックスの展開は納得できるし合理的だ。また、主人公の男性が比喩的な意味で去勢されていることを示唆するには素晴らしく効果的だった。

とはいえ、終盤に至るまで凄まじいリアリティだったにもかかわらず、最後にこういうかたちで飛ぶと、やや誤った社会的メッセージになるという指摘もあるのではないかとも思う。

どういうことかというと、詳細は省くが、要するに小説『土のなかの子供』について、村上龍が芥川賞の選考員として「誤った幼児虐待の理解」と批判したのと同じことである。

幼児虐待→異常な性格、という図式には問題がある。

また、それよりは瑣末な点ではあるが、主人公と殺人鬼の関係をエディプス・コンプレックスに収斂させると、せっかく丁寧に描けていた事件の構図を矮小化してしまう(ただし、それによって観客は救いのないダークファンタジーからほんの少しだけ救われるので、私にとっては良かった・・・)。



最後にひとつ書いておきたいが、私がこの映画を見たあと本当にぞっとしたのは、ある方の感想のブログでこの殺人鬼のような性格の人が実際に近くにいた話が書いてあったこと。

もちろん、この映画が実際の事件に基づいているということで現実感はより高まっているのだが、その感想ブログでより一層悪寒が走ったのでありました。

システム

2011-12-17 09:29:42 | イギリス生活事件簿
飛行機で移動することが多かったこの2か月。

どういうわけか、突然「座席調整」というものに出会う。

「座席調整」をよく知らない私。

とにかく席を変更するというのだが、それが1ランク上にアップするという・・・なんと。

そんなに変わらないだろうと思ったが、周囲の客層が全然違う。

みんな「大人のビジネスマン」だらけ。何かに気圧される私。

出てくる食事もランクアップ・・・。

サービスもちょっとランクアップ・・・。

席も広い・・・。

飛行機に乗る前に伊坂幸太郎の『モダンタイムス』を読んでいた私。

この小説は簡単におおざっぱにいえば、「巨大で自律したシステムである国家が人間を部品として取り込み翻弄する話」である。

巨大なシステムにひょんなことから気付いてしまった主人公たちが、思いもかけないようなトラブルに巻き込まれていく・・・。

まさかこの座席調整は罠では・・・?

「どうだ、資本主義はすごいだろ。資本主義で軽く成功すれば、こういう世界に入るんだぞ。資本主義のシステムは素晴らしいだろ?」

資本主義を否定したことなんてないですよ、オロオロ(礼讃してもいませんけど)。

「システムに反逆することを選んだら、どうなると思う?」

分からないです、オロオロ(っていうか、排除でしょ)。

このようにして、座席調整により巨大システムに取り込まれた私であった。



そのとき観た映画は『クマのプーさん』(2011年)。

まさかの本格的シュール・コメディ。

不思議の国のアリスのようなキャラクターと展開。

はちみつ中毒者であるクマのプーさんと、その仲間たちの不条理劇。

幻覚に苦しむプーさん。妄想に基づいて暴走する仲間たち。

絵本を基にしたメタ構造。

本当は怖いディズニー映画。

それにしても英語の美しさ、韻の美しさが素晴らしかった。

傑作。

雑記

2011-12-09 14:41:59 | 日記
精神的不調。自己防衛機能せず。

立川談春の談志追悼文を読む。彼のメンタリティは良く分かる。文系研究者の師弟関係も落語家のそれに近いのかもしれない。

師匠そのものがアイデンティティになる、あるいはそこに深く食い込んでしまうことの哀切。創造力を最大のエネルギーとする職種の性というべきか。

ひとりの落語家として師匠に接されたときの談春の焦りと孤独、まして師匠の死から受けるストレスは、あまりにも不甲斐なく見えるが、本当にリアルで共感せずにはいられず。


ある小説家が大作を書き上げた結果、精神に多大なダメージを受けると発言していたことを併せて思い出す。生み出すことの苦悩。躁鬱の嵐。

共著の初校ゲラを本日返送。直し出すと切りがない。師匠から学んだ日本語添削のルールをようやく思い出す。初心忘るべからず。

TPPの議論、未だ立場を決めかねる。役所の試算も信用できないが、賛成派の試算もどこまで信じるべきか。