それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

さぼてん

2011-09-27 09:03:46 | 日記
先週からゆっくりとしかし着実に精神の調子がダウンして、

彼女の家に着いて翌日についに爆発。

家を飛び出し、半長距離バスに飛び乗り、彼女は焦り、車を飛ばし、僕の実家にも電話し、小さな小さな騒ぎに。

後輩が亡くなってからずっとそのことを考えている。

重ならないその後輩と自分。

僕は色々なことにイライラしていた。

報告が終わって、次の学会の論文も書いて、イギリスの教官からメールも来て、後輩の祝いの儀式にも出て、一応日本での仕事が一段落した瞬間、

僕の精神は限界に達したのだろうか。

いつかどうにかなってしまうのだろうか。

ずっと色々なことが気になっていて、コップの水はいつも溢れそうになっていて、

そこに何かが加わるだけで、すぐにこぼれてしまう。

こぼれ方の問題。問題は。



僕の戦い方はとても分かりやすい。

ターゲットを絞ってひとつひとつ時間と労力をかけて撃破していく。

そのかわり、余計なターゲットが出現しないように、しても無視できるように、囲いをつくっていく。

人間関係もぎりぎりまで小さくして、

やるべきこともぎりぎりまで小さくする。

しかしそのやり方にも限界がある。

これはいつか破綻するゲームなのだろうか?

パーティ

2011-09-24 16:12:05 | 日記
サークルの愛すべき後輩の祝いのパーティに参加した。

遅刻してしまったが、なんとか義理は通せたと思う。

自分の過去が今の自分にとってどれだけ恥ずかしいものか思い知りつつ、色々無かったことにしたいと思ったけれど、

しかし、多くの人を巻き込んで、多くの人の人生と関わった数年間、それはやはり責任を伴うものであり、

その責任からは逃れようもないのだと僕は改めて知ったのである。

本当はもっと大事なことを話たかった。

でもそれは無理で、そういう場でもなかったし、あくまで義理を通すための儀式。

祝いの本番の日取りは決まっていたのだが、明らかに僕はそのとき日本にはいないため、おそらく今回がその代替になる。

(ただ、そうはっきりと件の後輩に言うことがどうしてもできなかったのだが・・・。)

僕が今心の深いところで感じていることや考えていることを、いつか後輩と共有できるだろうか?

それは分からない。

ただ、自分が今出来る限りの範囲内で義理を通しながら、やるべきことをやるしかないのかもしれない。

僕は今すごく孤独な気分だ。

でも、もう僕は思春期ではないわけだから。

でも、言いたい。せめてここでだけでも。もっと大事なことが話されるべきだったと。

(もちろん、一次会が終わってすぐに帰った僕が悪いのだが。ただもう限界だった。頑張ったと思う。)

Amazing Grace

2011-09-22 11:27:27 | 日記
Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see

素晴らしき恵み
なんと甘美な響き
私のような輩を救ってくださったのだ
一度道を見失った私だったが、今再び戻ることができた
一度何も見えなくなった私だったが、今は見える


'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved,
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.

私に畏怖することを教えた恵み
だが、その恵みは同時に私を怖れから解放してくださった
なんと尊き恵み
私が信じることを知った時


Through many dangers, toils and snares
I have already come.
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

多くの困難、苦難、誘惑に
私は出会ってきた
この恵みは私を安らかなるところへ運んでくださった
そして帰るべき家へと導いて下さるだろう



Amen

エイメン

記憶すること

2011-09-21 01:09:28 | 日記
ゆえあってある過去の記録を探している。

自分のためではない。

探しながら僕は何か感じているらしかった。

興味深いことに探しても過去の記録が全然ない。

捨てたんだな、とっくに。

留学準備と研究に全精力を注いでいたころ、邪魔だと思ったものを全部捨てた記憶がある。

自分は写真も撮らないし、特段その必要も感じていない。

過去に対する執着が一部欠けているのだと思う。

色々無かったことにしながら研究をしているのかもしれない。

そして研究だけ残っていくという具合に。

それで問題ないと思っていたのだけれど、でも。

もし誰かのことを思い出したくなったとき、物質的なものはないってことになる。

あるいは、誰かが僕のことを思い出したくなったとき、その人はどうするのだろう?

誰かのことを記憶するって、どうことなのだろう?

もちろん、その社会的な意味とか色々あると思うんだけど、でも、そういうことじゃなくて、

今問題にしたいのはもっとごくごく私的な領域の話で。

でも、記憶を集める前に大切なこともある気がしていて、

それで、なんて言うか、記憶を問題にするときに他の色々なことが問題になるというか、

まず記憶に対する自分の立場というか、資格が問題になっていて、

だから、記憶の在り方の問題だけじゃないんだよね。

それはずっと前から感じざるを得なかったことで、

だから、つまり僕は記憶の在り方以前の問題について考えるべきなんだと思わざるを得ない。

っていうより、僕はまだそこまで行っていないってことなんだと思う。

研究会終わりました

2011-09-16 11:47:15 | 日記
研究会がようやく終わった。

2日間に及び、正直とても緊張して疲弊した。

僕の報告は自分なりに良かったと思う。

積極的に評価してくれた先生方がいたのはもちろん嬉しかったのだが、

それ以上に頂いた的確な批判は素晴らしい財産になった。

懇親会で仲良くなった「酔っ払いの気のいいおじさん」と呼んでいる人が

僕の発表でものすごく的確な批判をしてくれたのだが、

この人がとても偉い人っぽいということがその後、徐々に分かって笑ってしまった。

他にも色々考えるところがあった。

学問共同体に対する疑念のようなものは大事にしたい。



そんなふうに陽気な研究生活をしていたが、先ほどある人の訃報を聞いた。

僕のなかでそれをどう整理して良いのかまだ分からない。

ただ何ということだろうか、関係者が近々一堂に会す予定になっている。

僕はその日までこのことを整理できないだろう。