それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

誰もプロフェッショナルなんか知らないし、知りたくもない。

2018-05-22 13:49:46 | テレビとラジオ
 昨日、ある登山家の方の訃報を聞き、そして彼についての登山家コミュニティの意見を知って、なんだかモヤモヤしている。

 登山家コミュニティの意見では、その方の挑戦は、大学野球の選手がメジャーリーグのホームラン記録に挑戦するようなものだから、

 登山という試みの性質上、生命を落としてしまうかも、という話だった。そして、実際にそうなったという話。

 テレビなどのマスメディアや、よく分かっていないスポンサーが彼を死に追いやったという意見もあった。



 テレビというメディアはすごく怖い。

 その怖さは、しばしば人間を手段にして、何でもやってしまうところにある。

 台本をつくって、必要な部品として人間をかき集める。

 芸人さん、アイドル、文化人などなど。

 その文化人の枠内に、研究者が存在している。

 社会科学の研究者、自然科学の研究者、人文学の研究者、そして(研究をしていないという意味で)研究者ではないが、「研究者」という肩書きで出てくる人たち。



 番組に研究者という部品が必要になった時、テレビ局はその部品が純正のものか、それとも模造品なのか気にしない。

 それよりも、番組の台本にぴったりはまる部品がほしい。 

 研究者でも「もどき」でも、収録で話したことは切り刻まれて、ちょうど良い部品に加工され、番組の一部となる。

 民放のバラエティ番組になってしまえば、もはや特定の役割を演じさせられ、台詞を言わされてしまう。

 そういうわけで、多くの大学教員にとって、テレビに出ることはリスクとなる。

 それでもテレビに出る人は、使命感のある人か、(メディアの扱いに長けた)相当な実力者か、天真爛漫な人か、承認欲求が非常に強い人かのいずれかである。



 (研究コミュニティにいないという意味で)一般の人々は、テレビに出ている専門家が、専門家コミュニティでどれほどの存在なのか知る由もないし、知りたくもない。

 何なら「専門家コミュニティは、鼻につく貴族のような連中」ということで、目の敵にしている人もいる。

 昨今、エリートや専門家といった存在は、とにかく攻撃の的とされ、一般人の感覚こそ優位しており、彼らは嘘つきで既得権益を不公正に消費している悪者であるとされがちである。

 これは日本に限らず、先進国であれば、ほぼすべての地域で類似の現象が見られる。

 自然科学も社会科学も同じで、極端な話、近年では「地球は平面である」という主張を繰り広げて、専門家コミュニティに戦いを挑んでいる人たちもいるという。

 ここまでではないとしても、私たちはマイナスイオンをはじめ、無数の似非(自然)科学に楽しく翻弄されている。



 人間個人の世界観と物語、

 大企業が打ち出したい世界観と物語、

 政治政党が打ち出したい世界観と物語、

 マスメディアが打ち出したい世界観と物語、

 たくさんの欲望をかなえてくれる、似非専門家。それはまるでドラえもん。

 本当か嘘かなんて、どうでもいい。

 僕たちが欲しいのは希望であり、夢であり、愛だ。マッチ売りの少女が束の間みるような、暖かい世界。

 似非専門家は、少女が消費するマッチ。

 輝きを放って、そして、消えた。

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