それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

理解の外側

2013-09-30 21:53:01 | 日記
小さい頃から世界とうまくつながらない。

まるでいつも0.5次元ズレているような感覚。

誰かとつながるとか、理解し合うとか、途中でようやく諦めがついた。

それがいつの頃だったかは分からない。

でも多分、小学生だったと思う。

孤独っていうのは腹を据えて「受け入れる」という覚悟が必要になる。

期待とか希望みたいなものとかをちゃんと捨てて、自分を保つために丹田あたりに力を入れる。

留学したとき、そういうことを一度忘れた。

そういう力の入れ方を忘れて、力を抜いても十分研究できるのだと知った。

そして、日本に戻ってきて、力を抜いたまま生活したのだが、やっぱりうまくいかず、

僕はまた腹に力を入れた。

それが今月のこと。

研究を始めた時のことを思い出した。

孤独で、ひどく孤独で、そのずれた次元の隙間から、

僕はモノを書くことで、どうにかやっていた。

それで今、もう一度そういう気持ちに戻って、

でも、僕はイギリスで出会ったことをもう知っているので、

やっぱりもう昔の僕ではないのである。

だから、というわけではないのだが、

ここを出るべきだと思っている。

どうにかして、今お世話になっている大学から出るべきだと。

それはつまり、僕が留学する直前の気持ち。きっとそれに近い。

そしてきっと、少しだけ違う。

社会と信頼:日本社会は信用というものをよく知らない

2013-09-25 19:46:57 | 新生活の記録
今の住まいを借りるときにひどく時間がかかっただけでなく、親にも迷惑をかけた。

保証人をなかなか見つけられなかったのである。

父親だけでは十分ではないという理由で、親戚をあたることになった。

結局、母親の親戚に頼んだのであるが、その人とは本当に久しぶりに会ったのである。



イギリスにいた最後の年、民間のフラットを出ていくときに大家さんが

「必要だったら推薦書を書くわね!」

と言ってくれた。

その時は全く何のことか分からず、「あ、ああ、ありがとう。」的なことを言った。

その後、よく分かった。

次のフラットを探す場合、その前の大家さんの推薦書にとても意味があるのだ。

このアジア人の小男(筆者)に部屋を貸すうえで、次の大家さんは

「こいつ、信用できる?」

と思うわけである。

そこで登場するのが前の大家さん推薦書だ。

「この子は家の掃除も一生懸命で、とてもきれいに使ってくれました。家賃も一度も滞納していません。」

なるほど、こいつは信用できる。なら、貸そう。ということになる(かもしれない)。

私のことをよく知らない親戚と、私の家の使い方をよく知っている大家さんと、どっちの意見に意味があるだろ?

イギリスでは、大家さんだと考える。



けれども、日本ではこういう考え方はない。

信頼できるのは、お金と親戚。

人間がコミュニケーションのなかで信頼を築き、それを増やし、次のチャンスにつなげるという発想が希薄である。

突き詰めれば、日本のケースはお金のことしか考えていない。住む人の使い方にも人格にも興味が無いのだ。

あるいは、それを理解する力が欠如しているのである。

仕事の世界ではどうだろうか?

私は大学なぞというよく分からない世界にいるので、これまたちょっと違うのだが、

要するに英米的な、「上司の推薦書とともに転職」、ということがおそらくまず無いのではないかと想像する。

そういう世界が健全だとは言わない。

しかし、日本の場合、最初にお金や親戚が十分ない人間はどうすればいいのだろうか?

この考えを敷衍すれば、「この人の血統は信用できる、お金持ちだし」→「最高なのは華族か、天皇家だよね」

ということになる。

そんな永遠のしがらみのなかで生きていくのだろうか?

それはとても不健全だ。

そういう社会でまともな競争や成長が起きるのか、私には分からない。

タイと僕と、時々ブリ

2013-09-24 18:44:16 | 新生活の記録
実家から出て、もうすぐ2週間になる。

留学の時を少し思い出すくらい充実していると思う。

私は自分の参照点が完全に留学(特にその3年目)になってしまったことをとても不思議に、また少し切なく思っている。

何を体験しても過去と比べるのは、悪いことではないが、なんだか後ろ向きであり、あまり好きではないのである。

しかし、それでも私はその時間に囚われてしまう。

それは私がそれまでに体験したことが無い諸々のことがあまりにも多く起きたからなのである。



まあ、それはともかく、私は独立して2日目にしてタイ飯をつくった。

小さなタイがやたら安かったからだ。

タイをグリルで焼き、それを米と水と細切りのニンジンと生姜、そして調味料の入った土鍋に入れる。

あとは炊くだけだ。

炊きあがったら、タイの身を骨から外し、飯に混ぜる。

はっきり言って、最高にうまい。



しかし、私はふたつのことを間違えた。

まず、買ってきてからもう一度ウロコを落とすべきだった。

魚屋さんの作業だけでは十分ではない。

もうひとつ、臭いだ。

その時はあまり気が付かなかったのだが、タイはかなり臭いが強い。

食べる分には何も問題がないのだが、部屋に臭いが残るのである。

あとでパートナーに叱られた。



にもかかわらず、私はまた次の週に、タイを買ってきて煮てやったのである。

これまた小ぶりのタイではあったが、なんと半額で3匹250円という魚にも獲った人にも悪い安価であった。

それを生姜と大根と煮てやった。

ポイントは湯から煮ることであると私は考えている。

今度はウロコもしっかり落とした。

煮る時間も完璧だった。煮魚は煮る時間が長いととんでもないことになる。

味はもちろん最高だ。



しかし、臭いがやっぱり部屋に残った。

私はパートナーからまた叱られ、遂にもう二度とタイを加熱して調理しちゃダメヽ(`Д´;)ノ
と命じられた。

色々な魚があるが、タイほど加熱した時の臭いが残る魚も珍しい。



そこで私はもう二度とタイは買わないぞ(刺身以外は)、と心に決めた。

そして、今日授業と業務のあとでとある魚屋に寄った。

今日はパートナーが夕食を外で済ませる日である。

・・・タイは無かった。あっても買わないけどね(o^-')b  

その代り、ブリのアラが250円で売っていた。

・・・・・・・デジャブ?

私はそのアラをブリ大根にすることにした。



とんでもなく、力強いアラ。量もおそらく600グラム以上ある。

それでもアラがそんなに安いのは、アラの調理は手間がかかるからだ。

熱湯にくぐらし、血合いを丁寧に取る。

ここが結構面倒なのだ。

あとは生姜と大根とで煮る。

アクを取り、その後でまず砂糖、みりんを入れる(甘さはしみにくいからだ)。

落としぶたをしてに続け、その後、醤油を入れて煮る。

20分以上経ったところで、火を止め、味がしみるようにする。

味見をする。

・・・・・・ウマい! ヘ(゜∀゜*)ノ ワッショイ!

・・・あれ、・・・臭いが、・・・遅れて、・・・臭ってくるよ。

( ゜∀゜) アヒャヒャ