それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「風立ちぬ」:戦争だけが無い、本当に美しく倒錯した物語

2013-07-29 21:46:05 | コラム的な何か
精神の状態が悪い日が続いている。

理由はいくつかある。

そうした状況に少しでもプラスになるだろうと思い、友人と「風立ちぬ」を観に行く。

すでに評判の映画だ。ジブリ映画のなかでもこれだけ前評判の高い映画は久し振りだ。

軽く鬱状態の私は友人に軽く迷惑をかけたかもしれないが、この映画を一緒に観ることが出来て本当に良かった。



この映画は、零戦の設計者である堀越二郎をモデルにしたものである。が、必ずしも史実に基づいているわけではない。

零戦の設計者、というところがクローズアップされるが、話しのメインは七試艦上戦闘機と、九試単座戦闘機の開発である。

最初に述べておきたい。

この映画は本当に美しい。

そして、ある意味、不気味だ。

この映画には戦争がない。



物語のなかでは、震災があり、不況がある。

つまり、この映画には奇妙な既視感がある。

我々が知らないのは、戦争だけだ。

そして、この映画にも戦争はほとんど出てこないのである。

確かに戦争に関する「言葉」は出てくる。

だが、実質的に戦争が出てこない。

だから、この映画を戦争の間接的な賛美ではないか、と捉えるのは間違っている。

この映画はそもそも戦争のことを絶妙に避けている(その強烈な時代設定にも関わらず!)。

そんなことが可能なのか?

可能だったのだ。宮崎駿だからこそ、可能だったのだ。

それは何故か?

この映画があまりにも美しいからだ。我々の意識はすべて人間の生の美しさに注がれるのである。



この映画において美しいものはふたつある。

ひとつは飛行機で、もうひとつは女性(ヒロイン)だ。

だが、その美しさは絶妙なバランスの上に成り立っている。

そのバランスとはこうだ。

まず、本作は今までの宮崎アニメとは比べ物にならないほど、登場人物にリアリティがある。

もちろん、それは他の映画と比べれば、決定的なものではない。

やはり、相当なデフォルメ感がある。

しかし重要なのは、飛行機の圧倒的な美しさが、ファンタジーの物語に回収されていないのだ。

飛行機の美しさは、造形の美しさであり、飛行する行為そのものの美しさであり、科学技術に内在する美しさである。

もし登場人物がすべて完全なファンタジーで構成されていたら、とても薄っぺらい物語になっただろう。

この物語には人間の生の儚さと強さが何度も出てくる。

そのリアリティがこのアニメを地に足の着いたものにしている。

そして、飛行機の美しさを裏から支えている。



ヒロインの美しさも同じだ。

この点が、これまでの作品よりも群を抜いている。

このヒロインは強いだけではなく、決定的に儚い。

彼女が背負った運命のなかで、力強く美しくいようとする。

そこには人間の強い意志がある。

このヒロインの美しさは、人間の意志の美しさに起因している。



この美しさは、アニメそのもののあまりの精巧さによって構成されている。

言葉ではなく、映像が、絵ひとつひとつがこの飛行機それ自体の本質的美しさ、人間の意志の美しさを創り上げている。



だが、何度も言うが、この映画には戦争が無い。

それが良いことなのか、悪いことなのか判断しかねる。

言葉として出てくる戦争、ヒトラー、中国、アメリカ・・・。基本的にすべて説明なのだ。

朝鮮に至っては、言葉としてもほぼ出てこない。

それでもこの作品を観て我々が心動かされるのは、飛行機と女性が美しいからだ。それは人間の生の輝きそのものである。

戦争を語らずに、戦前・戦中を舞台にして人間の生の輝きを映した物語。

これは壮大な倒錯だ。

恐ろしいほどに美しい倒錯なのだ。

優しい国

2013-07-28 17:38:04 | ツクリバナシ
父さんによれば、日本は昔、GDPの一番を目指して頑張っていたんだって。

今はまるで時間が止まったみたいだ、と言ってる。

僕には良く分からないけれど、僕が生きているこの社会が今日よりも明日の方が進歩してるって気は全然しない。

それより良く生きるってことを、みんな考えているんだと思う。

「いつ変わったの?」と、父さんに聞くと、いつもこう返してくる。

「日本の国歌と国獣が変わった時かな。でも、それも結果に過ぎないのかもしれない。」って。

日本の国歌は昔、「君が代」って歌だったらしい。

いや、正確には今も「君が代」なんだけど、でも、もう誰も歌えないんだ。

そもそも国歌を増やすとき、「君が代」を歌える人は少なかったみたい。意味もみんなよく知らなかったんだってさ。国歌なのに?

今のメインの国歌は「優しい国」ってやつで、おじいちゃん達は「奇妙な歌だ、でも嫌いではない」って言ってる。

僕はこの歌、とても好きなんだ。だって、とってもきれいなんだから、メロディ。

なんでも、作曲者は「すぎやまこういち」って人らしい。っていうか、「ドラゴンクエストのテーマ」って曲だったんだって。

つまり元々はゲームの音楽だったんだけど、それに歌詞を付けて国歌にしたのさ。

そんな国はどこにもないって、父さんは言ってる。まあ、そうだろうね。「でも、それで良かった」とも言ってる。

一体、どっちなんだよって言うと、「戦争はもう嫌だからなぁ」と返してくる。

第一次東亜戦争っていうのがあったんだって。第二次だって言う人もいるけど、僕には良く分からない。

あの戦争は革命だったって父さんは言ってる。

何が起きても変わらなかった日本がようやく変わったんだって。

でも、父さんもお爺ちゃんからその話を聞いただけで、体験はしていないんだよ。

あの戦争で変わったのが、国歌ともうひとつ。国獣さ。

それまで国獣なんてものは、日本になかったらしいよ。

でも、遂に決めることになって、それで「トトロ」になったのさ。

トトロは平和の象徴だって。

なんでも、空想上の動物でもいいらしんだ、国獣は。シンガポールだってマーライオンだし。

首都も何もかも戦争で変わっちゃったらしいんだけど、この国獣と国家が新しい日本を象徴しているって父さんは言ってるよ。

映画「地上5センチの恋心」:フランスの下流社会の愛らしさ

2013-07-26 21:53:37 | コラム的な何か
この映画を観て、私はイタリア人の友人バレのことを思い出さずにはいられなかった。

というのも、まず第一にこの映画の原題(=主人公の名前)は、バレがSNS上で使用している名前だったからである。

バレがこの映画からその名前を取ったのか、それとも他のところから取ったのかは分からない(彼女に聞いてみたい)。

それ以上に、この映画の中心的な舞台である主人公の女性のアパートが、イタリアのバレの家にとてもよく似ていたのである。



この映画は、いわば中年の女性のシンデレラストーリーである。

主人の女性オデットは夫に先立たれ、すでに成人した息子と娘とともに暮らしている。

オデットの暮らしはとてもつつましい。昼間はデパートで、夜は内職で生計を立てている。

子供たちの問題、アパートの近所づきあいでの問題、仕事の問題。彼女は色々辛いことを抱えている。

けれど、そんな彼女をある作家の小説が支えていた。

ある日、その作家のサイン会に行くチャンスを得て、彼女はいよいよその作家と会う。

そして、作家とオデットをめぐる不思議な運命が動きはじめる。



映画のなかでこの憧れの作家の小説はまさに大衆小説で、階級で言えば下の人たちが読むもの、として批判されている。

その言い方はいかにもフランス的な皮肉に満ちた言い方で、オデットはまさにこの階級に属している。

職業はもちろん、部屋のファンシーな装飾や趣味に至るまで、下流社会の一種のデフォルトになっている。

下流とは言え、貧困層ではない。が、中産階級でも知識階級でもない。

バレの家もまさにこれだった。

もちろん、それはイタリアの話だったのだが、とてもよく似ていた。

ファンシーな部屋の装飾、アパートの変な(異常な)ご近所さん、仕事が見つからない子供たち、いずれも僕がイタリアで見た光景そのものだったのである。

ただ、はっきり言っておきたいのは、バレのお母さんはかなりのインテリで(何せラカンの心理学を大学で勉強していたのだ)、バレもなんだかんだ言って、複数の言語をほぼ完璧に使い分けられるのであるから、教養に関してはかなり高い。

けれども、彼らの生活ぶりはまさに映画のそれとそっくりだった。



しかし、階級がやや下であるということが駄目だとか悪趣味だとか言う人がいれば、それは大いに間違っている。

その階級の文化はそれ自体で価値がある。

そして、いつ何時、その文化が上流階級の文化にカウンターパンチをお見舞いするかは分からないのだ(例えばアメリカのヒップホップ)。

何より、日本人から見れば、この「地上5センチの恋心」に登場する部屋や暮らしぶりは、(映画であるから、というのもあるけれど)やはり「おしゃれ」なのである。

無論、イタリアで僕が見たバレとマンマの生活と趣味も最高だったのである。



この映画はとにかく愛らしい。

まず主演のカトリーヌ・フロのたたずまい、雰囲気、容姿が本当に愛らしい。

アメリ的な「空想演出」もかわいい。

さらに劇中に出てくるチョイ古のヨーロッパの音楽(例えばフレンチ・カンカン)がとても良い。

だが、それ以上にそれに合わせて踊る役者の動きが素晴らしい。

特にカトリーヌ・フロの踊りはキレキレだ。

この人の演技ですべて持っていかれてしまう。

セリフのフランス語の調子も耳に心地よい。

この愛らしさこそ、ラテン語圏の愛らしさなのだ!

小説「博士の愛した数式」:科学者および科学への尊敬と愛を感じるから、良しとしたい物語

2013-07-24 17:45:12 | コラム的な何か
授業のあと、さらに補講などというものをやらなければならず、長い休み時間が出来てしまった。

私が授業している大学は、所属している大学とは違っている。おかげで大学生協がどこにあるのかもよく知らない有様だった。

補講に備えておやつでも食べてやろうと思い、職員の人に場所を聞いて生協に向かった。

生協は小さくこじんまりとしていて、食べ物と本が同じ場所で売っているという、あまり見たことのないタイプのお店だった。

しかし、どういうわけか本の配置がとても見やすく、私は気が付くと文庫本を物色していた。

イギリスでとてもお世話になった後輩が教えてくれた作家、梨木果歩の小説がすぐに目に入った。

彼女から梨木の本を借りてから、自分でも買ったり、図書館に行ったりした。それほどお気に入りになった。

その梨木の本の隣に小川洋子の「博士の愛した数式」が置いてあった。

一旦は無視した私だったが、なんだかどうしても気になってしまい、飲むヨーグルトを手にしたあとで、もう一度その本のところまで戻り、一緒にレジに持って行った。



理系男子のことが書いてある、という点が私の心に引っかかっていた。

なにせ付け焼刃的に科学史をやたらめったら集中的に勉強した私であるから、小説家がどのように理系男子を描くのか気になったのである。

あらすじはこうだ。

主人公は30歳手前の家政婦。派遣された先は、元大学教員で専門が数学だった老人の家だった。

彼は事故で記憶が80分しかもたないため、主人公は常に新しい家政婦さんとして彼と過ごすことになった。

しかし、彼女の小学生の一人息子のことがきっかけとなり、主人公はこの老人と数学の世界の魅力に徐々に気が付いていく。



この小説には起伏がない。

私が勝手に作り出した「何気ない日常を取扱いながら、細かな洞察と描写によって人間の本質へ迫るアプローチ」の小説群に、この小説は属する。

一見して「この小説は毒にも薬にもならない」と捉える人はいるだろうと思う。

日常系の小説には、触ると壊れてしまうような儚さへの敏感さや、どこまで付きまとう影のようなものへの感性が定番だと私は思う。

けれど、この小説にはそれがあまりない。

だから主人公の何気ない日常は、設定の「老人の記憶が80分しかもたない」ということ以外、あまり外的な圧力に曝されない。

主人公の送ってきた半生はなかなか厳しいものだったが、そこから生じるストレスは、この小説では言うほど出てこない。

それを「薄さ」と思う人もいると思う。

けれども、それゆえ際立つのが「老数学者の人柄、異常さ、温かさ」である。

研究者のフェティシズムと行動の異常さが、ユーモアたっぷりに描かれている。

この小説からは数学者への尊敬と愛が感じられる。

私はその点に大いに好感を持ったのである。

多くの研究者に共通する異常さは、簡単にバカにできる。

どう捉えても異常であり、必ずしも好ましいものではない。

私も本当によく彼女から異常さを指摘される。物事の捉え方がどうしてもズレているのである。

私の場合、他の人にとって当たり前のことをそのまま認識できず、一から頭のなかで再構成しなければいけないらしい。

けれど、それも含めて科学という世界に入ってしまった人間の性は、悲しくもあるが愛らしいものでもある。と、この小説は主張する。

もちろん、そんな無邪気さは数学なら良いが、武器に転用できる領域になると、話はかなり変わってくる。

とはいえ、これだけ愛のある視点ゆえに、私はこの小説を称賛したいと思う。

「正解の返し」問題、つまり好感度の高い人を受け容れられない私の心の問題

2013-07-20 16:18:15 | コラム的な何か
挨拶しておかねばならなかったのだが、ずっと挨拶出来なかった研究者に、昨日の研究会でようやく挨拶できた。

事情を話すとあまりにもややこしいだけではなく、私が今お世話になっている大学のことをこと細かに書くことになるので省く。

この研究者の見た目は非常に華やかで、誰が見てもプラスの評価をする見た目である。

研究者で見た目がここまで良いのは、かなり珍しいと言われている。

私が彼女に挨拶したとき、彼女の返答はすべて「正解」だけで構成されていた。



「正解の返し」という概念がぼんやりある。

バラエティ番組が全盛の昨今だからこそあるのだろう。

下世話な話題をどうせだから話そうと思うが、昨晩のテラスハウスでも「正解の返し」という言葉が出てきた。

イケメンの(自称)写真家の男性が、フラットメイトの女性たちに対して「正解の返し」をし続けていた。という場面である。

「正解」とは何だ?それは文脈による。

テラスハウスのこの場面では、おしゃれで、相手の好意を引き出せて、男性的で、遊びはあるがやや落ち着いた雰囲気の回答のことを指していた。

ちなみに、僕に某研究者が行った「正解」の返しは、相手(=僕)の感情に上手く訴え、確実に仲間であることを伝えつつ、しかし深くは関係しないようにする、IQと好感度の高い、適切な返答である。

どちらも要するに、「高感度が高くなる返答」なのである。

もちろん「正解」には色々ある。

客観的に基礎づけられるわけではない。あくまで主観的なものだ。

「空気を読む」の「空気」に似ている。

突き詰めると無いが、無いと言うには有り過ぎる。



僕が言いたいのは、「正解」が何か客観的に決めようとか、そういう馬鹿みたいなことじゃなくて、

「正解」を口にすることが正解であったとしても、

「正解」をそのまま受け取ることが正解なのかどうかは分からない、ということなのである。

容姿が整っていて、

物事の理解が早く、

人から嫌われないタイプの人が、

見事に「正解」の返しをする、という状況。

私はどうしても解せないのである。

それはどこまで信頼できる相手なのだろうか?

答えはこうだ。

お前(私)の信頼を彼らはそれほど欲していない。

私が卑屈なのか?

そうだ。私が卑屈なのだ。

だからこそ、あえて言いたい。

好感度の高い返しは、卑屈な人間にとっては「正解」とは限らないということを!

いや、知っている。

これは強がりだ!