それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

フジテレビ「めちゃ×2イケてるッ!」:三中卒業の脚本の完成度

2016-02-28 10:36:03 | テレビとラジオ
 三中元克が「めちゃイケ」を卒業した。

 今回の卒業劇は非常に練られたシナリオに基づく、よくできたものだった。

 卒業するかしないかという結果自体は、それほど重要なことではない。結果についての予測はあっただろうが、それをガチかどうか問うのは、実のところあまり意味がない。

 それよりもコンビ結成からお笑いの事務所へのオーディションに至るまでの流れ、そして漫才の脚本の出来、どれもフジテレビらしいもので、プロの仕事を感じた。

 いわゆる脚本上で起きるイベント、出てくるキャラクター、様々な笑いと感動の仕掛けが、「めちゃイケ」のスペシャルそのものだった。



 その一方で、視聴者には戸惑いもあっただろう。

 コンビ間でのケンカ、事務所とのやりとり、これらはいずれも「ドッキリでした」と番組内で明された。

 そして、「これは三中の決意を試すためのものだったんですよ」と理由づけされた。

 しかし、そうなると、どこからどこまでを「作り物」として見れば良いのか、分からなくなってしまう。

 そうなると感動的な演出をされても、なんだか押しつけがましく見えてしまう。



 もうひとつ戸惑ったのは、「三中の決意」とは一体何か、という問題だ。

 プロの芸人になりたい、という決意。それはよく分かった。

 しかし「めちゃイケ」の残留と、プロの芸人になることは、どう関係するのか?

 いくらプロの芸人になるプロセスを感動的に描いたとしても、「めちゃイケ」それ自体とは関係がない。

 そうなると、視聴者は三中らによる最後の漫才を一体どう見れば良いのか分からなくなってしまう。



 それと関連して、漫才の内容にも戸惑った。

 脚本はよくできていた。ビックリするほどよくできていた。そこはやはりめちゃイケの仕事である。

 三中らの紹介、スタッフいじり、プロレスの件。いわゆるめちゃイケの視聴者が共有しているであろうネタを使い、漫才が番組の流れにピタッとはまるようになっている。

 しかし、この「漫才=めちゃイケ」の図式は、やっぱりどうしても飲みこめない。

 なぜ三中は漫才師になる必要があるのか?

 いくら「自分の夢です」と言われても視聴者としては納得できないものだから、漫才のネタが内輪ネタになってしまうと、いよいよ「漫才師になるって、そういうこと?」という疑問が強くなる。

 たとえ、めちゃイケ内部では承認されても、視聴者としては乗っていけない。



 だから、視聴者は最終的になんだか腑に落ちないまま投票することになった。

 ところがである。

 こうした内的矛盾を解決する方法が脚本上ひとつだけあったのだ。

 それは三中を卒業させることだ。

 卒業させてしまえば、「外部との温度差」という問題がしっかり物語の結末に反映されるわけである。



 これがガチだったかどうかは実際どうでもいい。

 ここで言いたいのはただひとつ。今回の脚本は本当によくできていた、ということなのである。

 すべての矛盾は最終的に解決されているのだ。

バレとの再会

2016-02-25 22:53:27 | 日記
 久しぶりにバレと再会した。イギリスで別れて以来だから、もう何年振りだろう。

 メッセージでやりとりして一応場所を決めていたが、本当に彼女がその場所に来れるのか、すごく不安。

 彼女は「大丈夫!」と自信満々な返事。

 仕事のパートナーも一緒に来るらしい。まあ、例によっていい感じの男だろうなあ(いつも違ういい感じの男性が彼女の隣にはいるのだ)。

 予定では、日本人の友人が来てくれて、総勢5人になるはず・・・。

 

 お店には僕が最初に到着した。それは当然。幹事だから。

 誰も来ない。本を読むが集中できない。

 30分経ってようやく日本組が到着。

 そこでバレからメッセージ。

 「駅に迎えにきてくれる?」

 ですよね。結局、そうですよね。

 オーダーを日本組に頼んで、駅に直行。



 バレは自分がいる場所の写真を送ってくれた。

 (そのネットの技術あるなら、店まで行けそうなんですけど。)

 その場所まで行くと、彼女たちがいない。

 また写真が来た。おいおい、移動してやがる。待っててって言ったのに。

 そこまで移動すると、また別の写真。

 逃げてる?もはや逃げてる?



 出口を再指定し、あたりをぐるりを見回すと、バレがそこに!

 「良かった!」思わず、口から日本語が出る、私。

 久しぶりの再会にぎゅっと抱擁。

 隣にはいい男、イタリア人。



 お店に戻って食事をスタート。

 いつもバレの英語。変わらないバレの英語。

 僕の会話力は前より下がっているかもしれないが、しかし楽しい。久しぶりとは思えない。

 思い出話をして、イタリアの話をして、そして、日本組の話を聞いてくれない(笑)

 写真を撮って、また何度も抱擁して。

 別れ際にボロボロ、ボロボロ泣いたイギリスのことを思い出した。

 でも、今日はさすがにそんな感じにはなりません。でも、本当に嬉しかった。熱い気持ちです。

フジテレビ「めちゃ×2イケてるッ!」:三中問題の面白さ、下劣さ

2016-02-21 10:08:27 | テレビとラジオ
 久しぶりに「めちゃイケ」が賛否両論の注目すべき展開になっている。

 岡村不在の時期に「素人枠」で参入した三中元克が、お笑い芸人として事務所に所属した(=プロになった)ことから、めちゃイケオーディションを受けなおす、ということに。

 次回、視聴者による投票が行われ、クビか継続か決定するらしい。



 三中問題は、テレビを見る人なら誰でも何か言いたくなるものを含んでいる。

 第一に、テレビが「素人」を使い続ける難しさや問題、という論点がある。

 これはアイドルと似ている。

 アイドルは「大人」のプロデュースを受け、常に作られた「下手」をパフォーマンスで見せる業種だ。

 「下手」は幼稚さ、可愛らしさを視聴者に感じさせ、支配したい欲望の受け皿になるという意味があり、それを利用して観客を惹きつけるのである。

 テレビが「素人」を使うことの意味は、素人による想定していないリアクションが視聴者に異常なリアリティをもたらす狙いがある。

 想定していない、ということにはやはり「下手」が含まれる。それをテレビは「純粋」と形容する(実際、めちゃイケでもそう表現した)。

 だが、アイドルがそうであるように、人間である以上、アイドルも素人も「意思」がある。自分の意思が芽生え、やりたいことが出てくる。ある程度売れれば、自分の能力に自信もつく。

 そこでプロデューサーの「大人」と、作られた「子供」である素人の衝突が起きる。

 めちゃイケにおける三中は、禁断の果実だった。ずっと子供のままになどしてはおけない。どんな可愛い子犬もいつかは大人になる。

 身体的にはこれ以上成長しないが、心は変わる。お金ができて、ちやほやされれば、どんな「子供」でも「純粋さ」という奇妙な性質を維持することは不可能だ。

 お笑い芸人のプロになる、というシナリオがどこから出てきたものかは分からない(番組の言うとおりなら自発的ということになるのかもしれないが・・・)。

 しかし、それはあまり問題ではない。結局のところ、素人という「子供」を維持できなくなったという現状は確かなのである。



 もうひとつ問題なのは、三中という存在を視聴者誰もが捉えきれていない、ということだ。

 どこにでもいる普通の人のようでもあるし、異常に何もかもが鈍い人のようでもある。あるいは、面白い天然の人のようでもある。

 三中でなければいけないのか?彼は本当に特別なのか?という嫉妬が入り混じった感情で、市井の人々は彼を見る。

 番組は彼を特別に頑張る素人にすることで、作られた純粋さを維持しながら、強靭なタレントとしての人格を涵養しようとした。そして、失敗した。彼はそうした無茶苦茶な企画に耐えられるようなタイプの人ではなかった。

 そこが面白いのだ。

 失敗する、逃げ出す、調子の乗る。人間なんだから、それは仕方がない。

 では、その場合、テレビに出る資格はどうなるのか?

 たまに出てくる名物素人ならともかく、レギュラーとなるとどうなのか?

 この気持ちの悪さこそ、今はこの番組の面白さになっている。

 視聴者がまるで疑似革命のごとく、テレビのリモコンで彼をクビにする(=処刑する)という残酷ショーもよし。

 あるいは、やはりタレントとして特別なのだ、という疑似民主主義のような投票・承認もよし。

 この番組に品格など求めるなかれ。

 この下劣さは日本社会の下劣さそのもの。

 テレビはわれわれの欲望を映す鏡だ。

日本テレビ「アイキャラ」

2016-02-07 00:31:22 | テレビとラジオ
 「アイキャラ」という番組が面白い。

 二次元のキャラクターを生み出し、それをプロデュースしていく、という趣旨の番組。

 何がいいって、この番組のキャストだ。

 バカリズムに加えて、ベース・ボール・ベアのボーカル小出祐介、でんぱ組の夢眠ねむ、声優の新田恵海。

 特に、最初の三人のチーム感の良さが見事。

 プライベートで交流のある三人だからこそだせる「間」が、視聴者に一体感を与える。

 ナレーションの杉田智和もいい。落ち着いているが、何かわくわくさせるものがある。



 もうひとつ面白いのは、キャラクターを生み出す時に見えてくる市場や社会の構造だ。

 架空のキャラクターをつくり出すということは、沢山のストーリーをつくり出すということに他ならない。

 身体的なデザインはもちろん、年齢、性格、家族構成、周囲の人間との関係、キャラクター自身の目標。

 一貫性やリアリティはもちろんこと、感情移入できるかどうか、という点も重要になる。

 さらに、そのキャラクターが商品としてどのように市場で受け止められるのか、というポイントもある。

 市場でどのように認識されるかは、市場に今現在どういうニーズと商品が存在しているのか(ことによれば潜在的に)、によって推測できる(可能性がある)。

 この番組はそうした論点をシンプルだが、的確に処理していく。


 
 さらに面白いのが、実際にキャラクターができていく過程だ。

 それは子供が成長する驚きにも似ている。

 視聴者はプロデューサー目線だからこそ、不可避的にそのキャラクターに思い入れを持ってしまう。



 一億総批評時代のなかで、誰もが「アイドル」や「二次元キャラクター」に一家言持ってしまいそうになる。

 けれど、僕自身はもちろん大半の人間は素人である。素人なのに何か考え、言おうとする。

 ところが、実はそういう素人だからこそ、この番組から見える景色は面白いのである。

「あの花」:痛みの仕舞い方

2016-02-02 21:26:24 | テレビとラジオ
 大仕事が一段落した日、僕は「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」を朝から晩まで見た。

 溜りに溜まったストレスを吐き出す方法がその日は他に見当たらなくて、それでこのアニメを一気に見た。

 この物語のストーリーは、よくできている。

 主人公は、引きこもりの高校生の男の子。そこに小さい頃に死んでしまった幼馴染の女の子が幽霊として現れる。

 彼女の姿は主人公にしか見えないのだが、とにかく、彼は彼女を成仏させようと奔走を始める。

 その過程で、昔一緒に遊んでいた仲間たちともう一度再会し、色々なことが巻き起こる。



 引きこもりの主人公の痛々しさがいい。引きこもりなったきっかけが、物語の展開とともに丁寧に描かれる。

 そこに加えて、昔の仲間たちの抱える悩みや痛みが明かされていき、物語の大きな推進力になっていく。

 自分にだけ見える可愛い幽霊、という設定はファンタジーだが、それ以外の部分が非常に地に足が着いている。

 お金を得るには一生懸命アルバイトをしなければいけないし、引きこもりを打ち破ろうとするにも、なかなか上手くいかない。

 現実の厳しさがしっかりアニメの中に存在するからこそ、「幽霊」という存在そのものの切なさが、じわっと見ているものに浸透していく。



 先にアニメを見ていた友人に感想を聞いたところ、「まあ、ああいう青春があったらいいなあ、っていう、そういうアニメ。」と答えてくれた。

 アニメを見終わってみると、どうしてそういう感想になったのか、まったく理解できない。

 あのアニメの世界について、何一つ羨ましいところはなかった。

 主人公の立場になってみれば、好きだった幼馴染は死んでしまっているし、引きこもりだし、他にも色々大変だし、友人たちもそれぞれに、もがいている。



 ただ、唯一羨ましいと思ったことがある。

 それは、最後のクライマックスで、幼馴染の仲間たちが一堂に会して、それぞれの見たあの過去と、それぞれの抱えていたものを一気にぶちまけるところだ。

 現実の世界では、ぶちまけられない。

 モヤモヤした過去の解釈は、うまく言葉にならないし、それを本人に言うこともできない。

 自分の痛みがどういうもので、自分が何を背負ってしまっているのかとか、すべて自分のなかに仕舞いこんでいる。

 このアニメの登場人物同様、誰もがそれを忘れようとして、今を懸命に生きている。

 もう放っておいてくれ、と皆が口にする。思い出したくない、と。

 その痛みが見ている僕の心に残る。

 現実にはあんなカタルシスのあるクライマックスにもフィナーレにもならない。

 色々なことは心の奥に仕舞って、それで風化するまで埋没させておくものだ。

 大人になるにつれて、そういう痛みが分かるから、だから、他人を放っておくタイミングというのも少しずつ自分なりに作られていく。



 アニメを見たのはもうずっと前だが、急に思い出したので、思わず感想を書いてしまった。