それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

しくじり先生、ホリエモンはかく語りき:そうかこれが社会だったのか、よしそれならもう一度!

2015-04-26 06:55:14 | テレビとラジオ
しくじり先生にホリエモンこと、堀江貴文氏が登場した。

彼が色々なことでしくじったことは、おそらく世間の誰もが知っている(その時、物心さえついていれば)。

彼はあの時代の何かを象徴する存在だったようにすら感じる。



彼の授業の内容はこうだ。

当初、IT企業の創業に成功し、一躍、時代の寵児となったホリエモン。

ところが、彼は社会を甘く見てしまう。服装、挨拶、あらゆる形式・儀式を否定し、ビジネスで結果を出しさえすればいいと考え、そういう「形だけのもの」は不要なのだと考えた。

しかし、それが全ての失敗の根本的原因だったと述懐する。

具体的にはこれから少しずつ書いていく。



正直言って、この記事を書くべきかどうか少しだけ逡巡した。

このホリエモンの授業は内容が非常に素晴らしかった反面、ホリエモンが関わった事案の一面的な説明しかしていない。

ホリエモンが語る「失敗」の背後にある、錯雑した関係者の力学はテレビでは語りえないし、ホリエモンにすら語りえないだろう(彼がすべてを理解しているとは思えない)。

だから、ホリエモンの「説明」は話半分で聞く必要がある。

その一方、「彼がそこから何を見つけたのか」については、真摯に耳を傾ける価値がある。



彼がやったしくじりと言えば、球団買収、ニッポン放送買収、衆議院議員立候補、そして証券取引法違反である。

そのすべてで失敗した。

球団買収の際、ホリエモンは球団を買い取るだけの資金を持っていた。

ところが、彼は買収できなかった。

今までの企業と何ら変わることなく買収できると彼は思っていたのにである。

彼はこう説明する。

「(球団関係の)大ボスの人たちは自分たちを特別だと思いたいのである。だから事前に知らせる必要があった。」

しかし、彼はそうしなかった。しかも、その後の球団設立の試みも、根回しに失敗し、楽天に取られてしまった。

彼は言う。ちゃんとスーツにネクタイで挨拶しなかったのが原因だったと。もっと言えば、彼は既得権益を持った人々のネットワークに入ろうとせず、敵としてだけ認識されてしまった。

彼は彼のことを「異質な他者」として認識していた関係者の心をまったく感知できず、感知していても重要なことではないと軽んじ、そして、協力を得られなかったのである。



テレビ局の買収では、いよいよメディアにネガティブキャンペーンを張られて世の中から反感を買ったホリエモン。

ここでも彼は社会が彼に持つイメージをめぐって、敗走する。

彼は自分の社会イメージを十分に認識できず、そして、それをフジテレビ側をはじめ、既存のメディアにいいように操作され、敗北した。

ホリエモンのベンチャー的経営哲学がそもそも公共的なものの経営に適合するのかどうか、人々は大いに疑問を持っていたのであり、ホリエモンはそれを覆すことが全くできなかった。

その必要にすら彼は気づいていなかった。



その後、選挙に出て亀井氏と戦い敗れた。彼と自民党との関係は、政治家と政治に対する我々の不信を一層強めた。

そして、彼の無茶な経営の結果、証券取引法違反で捕まった。

授業ではこれについては上手に逃している。

彼の罪状やその経緯については全く触れない。それが正しい。

もう裁判で決まったことだ。関係者が亡くなったこともあった。だが、それについても全く触れない。それしかない。それは別の人が著書でやってくれればよいことだ。

だが、一つだけ言えるのは、ホリエモンの経営哲学の「怪しさ」をこの事件が結果として「裏付けた」ということなのである。

事実はともかく、この時、社会は、市場のなかでもベンチャーという独特の領域の原理が公共領域に侵入してはいけないのだと、戒めたと私は捉えている。



そして、彼は刑務所に入った。そこで彼のいかにも苦手そうな単純作業を延々とするはめになる。それが刑務所の仕組みだ。

興味深いのは、刑務所の単純作業やコミュニケーションの徹底した制限が、実際に人の意識を変える機能を現実に果たしているということだ。

ホリエモンに限らず、それを多くの受刑者が口にするわけだが、ホリエモンは言う。

「嫌な仕事、与えられた仕事でも工夫して、自ら面白い仕事に変えることが大事。」

ただただ、紙を折るという作業でも、どのように工夫すれば早くできるようになるのか。ノルマを超えられるようになるのか。

彼はそこに小さなクリエイティビティを発見する。そこで今までの仕事観をおそらく修正したであろうホリエモン。



さらに、彼は一連の経験からオバマ的な「We Me Now理論」を提唱する。

これは要するに、「自分の話をして距離を縮める。共通点を相手と見つけ連帯感を醸成。自分のやりたいことを伝える。」というもの。

相手が全く自分の本当の姿と真逆の像を抱いてしまい、反感を買ってしまうという問題を克服するための理論である。

まさに、彼がした一連の失敗の根幹に関わることだ。

球団買収も放送局の買収も、あれは市場の領域の問題ではなかったのかもしれない。

あれは政治そのものだった。

政治はお金だけでなく、権威も必要だ。血筋や理念、儀式、様々なものが権威をつくる元になる。

ホリエモンは政治を知らなかった。まったく知らなかった。

ただ純粋に市場的な領域にいれば良かったのである。それなら、政治など限定的でよかった。

だが、彼はそうしなかった。

市場が経済合理性によって適者生存が決まる領域であるとするなら、社会は人間の認識や規範の操作によって優位が決まる領域と言えるかもしれない。

ホリエモンのおかげで、われわれは改めて社会というものの仕組みの一部を知ったのである。



だが、彼はこれだけの失敗を経てもなお挑戦し続ける意志を持つ。

「しくじってもマイナスにはならない。ゼロになるだけだ。」

そう淡々と語る。

そして「過去にとらわれず、未来におびえず、今を生きる。」というスローガンを打ち出す。

過去の失敗から再発防止策を練るのは良いが、その後は忘れるべき。未来を不安に思うのではなく、明るいと思うべき。そして今、一生懸命に自分の仕事をすべき。最大のパフォーマンスをせよ。

いわゆる自己啓発的だが、私はこの彼の言葉がとても好きだ。

これは私に必要な考え方だと思った。

これほどの失敗を繰り返してもなお、「なるほど、よし、それならもう一度!」と叫ぶのである。

それはまさにニーチェを思わせるような、生の哲学だ。

もちろん、これは「社会」というものに対する理解が奇妙にも欠如していたからこそ出てくる強さでもある。

だが、社会の拘束性は我々の想像力のなかにあるのだ。

ホリエモンは、それを超える想像力を提案しているのである。

FOOT×BRAIN:サッカーと社会の関係の謎

2015-04-21 22:01:03 | テレビとラジオ
僕はサッカーをほとんど観たことがなかった。

イギリスに行ってはじめて欧州のサッカーを観たり、ワールドカップを観たりした。

あまりにも知識がなく、そして、どこをどのように見れば良いか分からないまま、僕は日本に帰り、そして今に至っている。

ところが最近、欧州のサッカーの試合を突如ちょくちょく家で見るようになった。

僕の見方はおかしいのかもしれないのだけれど、とにかくゴールはどうでもよくて、どんなふうにボールがつながっていくのか、ただそれが見たくてサッカーを見るようになった。

クラブチームによって、選手の連動の仕方は異なり、ボールの繋がり方も異なる。

個人の球際の強さがとてつもないチームもあれば、それほどでもないチームもある。

*「球際」とは、サッカーではボールをキープしたり、奪ったりする能力を指すらしく、私が最近覚えたばかりの言葉である。



そんなサッカー弱者、あるいはフットボール弱者の僕が関心して見るテレビ番組がある。

それがFOOT×BRAINだ。

急に色々なサッカー番組を観るようになったが、この番組がことのほか気に入っている。

何が面白いかというと、要するに、この番組はサッカーが強い社会について様々な観点から考え続けているからだ。

それはまさに、「民主主義が根付いた社会」、「根付いていない社会」について考える社会科学のような様相なのである。



最近、中国が国としてサッカーに力を入れる、というニュースが流れ、「なぜ中国はサッカーが弱いのか?」という問いが新聞に出ていた。

中国でサッカーの指導を行ってきた岡田武史氏によると、自由に考えることを許さない社会ではサッカーは根付きにくい、のだという。

岡田氏は中国で当局からの不合理な介入を相当に受け、そして、選手も相当に思考停止で、そのことに彼は相当悩まされたらしい。

その分析が正しいのか、社会科学的に論証する必要があるが、かなり難しい。

というのも、サッカーが強い社会の要件が全く不明だからだ。

そんなものが分かっていたら、とっくに日本はもっと強くなっているはずである。



例えば、コートジボワールについて考えてみよう。

コートジボワールは、FIFAランキングで、現在のところ、およそ20位の中盤くらいに位置している。

これに対して、日本は50位ほどである。

前回、日本がワールドカップで戦い、完膚なきまでに敗北したことは記憶に新しい。



では、コートジボワールの国力について考えてみよう。

この国のGDPは、日本の0.6%ほどである。

この国の人口は、日本の15%ほど。

2000年代前半は内戦になって、平和維持活動の対象地域になった。

つまり、政治的に闘争せずに、暴力で闘争してしまったのであるから、民主主義が十分に根付いているとは言い難い。

経済力でも、民主主義の浸透度でも、日本は遥かに上回っている。

それでも全然勝てなかった。

つまり、経済力も民主主義のレベルも全然関係ないのである。



コロンビアだって同じようなことが言える。

経済力や民主主義のレベルはもちろん低い。さらにコロンビアは犯罪率の高さでは世界トップ10に入る。

テロ組織や麻薬密売組織が跋扈し、アメリカが民間軍事会社を使いながら撲滅しようとしているが、全然改善していないコロンビア。

誘拐は日常茶飯事で、旅行すべきではない国の最たるものなのである。

にもかかわらず、FIFAランキングは10位以内。

なんでだ!!

なんでなんだ!!



そうなってくると、経済力でトップクラスの日本がサッカーではそれほど強くない理由が他に色々あるはずなのである。

単に「歴史が浅い」は答えになっていない。

歴史が長くなると、一体何が変わるのか。何が蓄積されるのか。

そうなってくると、様々なことが問題になる。

それを一つ一つ考えることが必要になる。

そこへ来て、FOOT×BRAINなのである。



メディアの在り方、学生のリクルートの問題、肉体の使い方、指導の仕方、サポーターの在り方、通訳、とにかく論じるべきことが無限に出てくる。

そうなのだ。

それを論じるのが、もはや娯楽なのだ。

欧州リーグで見事なプレーを見て、

Jリーグで満足したり、できなかったりしてみる。

僕のような素人が自分なりの見方で見る。ブログに何か書き、考える。

それがすべてサッカー、フットボールの楽しみ方なのではないか。

FOOT×BRAINは、そうしたフットボールの奥深い魅力に触れる素晴らしい番組です。

映画「セッション」:日本の吹奏楽部のトラウマを思い出させてくれる、あるいは私のトラウマ映画

2015-04-20 21:01:22 | テレビとラジオ
 映画「セッション」がジャズ音楽家の菊地成孔氏に酷評され、映画評論家の町山智浩氏によって支持され、ちょっとした良い感じのビーフ(公開のヒップホップ的言い争い)になっている。

 だから、僕は急いでこの映画を見ることにした。

 映画にとって良質なビーフは即効性がある薬になるのかもしれない。

 この映画の見事な批評はすでにネット上に色々出ている(驚くほど的外れなものもあるが)。

 そこで、ここでは「日本の吹奏楽部」という視点から少しだけ感想を書くことにする。



 映画「セッション」の原題は「Whiplash」(=鞭の先)というもので、映画の内容を正確に伝えているのは原題の方であるので、そのことを念頭に置いてほしい。

 あらすじは以下。

 主人公はプロのジャズドラマーを目指して、アメリカの名門音楽大学(そういうことになっているが、本当か?)に入ったばかり。凄腕の学生がわんさかいるなかで、なかなか目立てないでいた。

 そんな中、ビッグバンド部の鬼教師の目にとまり、少しずつ実力をつけ、なんとビッグバンド部のレギュラーの座を獲得する。

 ところが、そこから彼を待ち受けていた運命は大変なものだった・・・。



 とにかく、この映画はジャズの映画ではない、と割り切って欲しい。ジャズっぽい音楽が聞こえてくるが、これはジャズではない。

 そうではなくて、これは日本の高校の吹奏楽部を描いた映画だと思って観てほしい。

 本作に登場する白人の鬼教師の指導は、無茶苦茶暴力的で教育的効果があるのか疑わしい。学生たちは確実に心と体を蝕まれている。

 鬼教師はジャズというか、ブラックミュージックに最も必要なグルーヴをまったく大切にしない。とにかく、バカの一つ覚えで、正確なリズムと音程のことしか言わない独裁者。

 ブラックミュージックに必要なものがごっそり抜け落ちている。

 その先生に一生懸命付いていこうとする真面目で馬鹿な学生たち。音大の学生なんだから、音楽の全体像が見えていても良いだろうに、こんなバカな先生にとにかくひれ伏してしまう。

 主人公は馬鹿で真面目で一生懸命で、目の前の楽譜と鬼教師のことしか見えていない。だから、この教師の指導を内面化してしまう。そして、それがこの映画の後半の波乱につながる。

 これはまさに、日本の中学か高校の吹奏楽部のようだ。



 私は中学校の時、吹奏楽部だった。高校でも続けようとしたが、入部直後に先輩と考え方が合わなくて退部し、別の音楽の部活を友人と作った。大学ではブラックミュージックをやっていた。そういう私の小さな歴史を前提に読んでほしい。

 

 中・高の吹奏楽部は基本的にスパルタになりがちだ。強い学校も弱い学校もそうだ。だが、音楽と指導法がちゃんと分かっている教師は一握りにすぎない。だから、その点、体育会系の部活と似ているかもしれない。

 学生は基本的に音楽のことを知らない。虫食いだらけの知識か、真っ新な白紙で挑むから、教師の言うことが全てになる。

 教師は吹奏楽部では小さな独裁者になる。正解はすべて教師の頭のなかにあり、学生は必至でそこに至ろうとする。

 可哀そうに、教師の頭のなかにある答えは、まず不正解なのに。

 音楽のリテラシーが無いばかりに、無駄な犠牲となる学生たち。音楽は楽譜と教師の向こう側に広がっているのに・・・。

 

 映画「セッション」のなかの鬼教師の化けの皮は、映画の最後の方ではがれる。

 彼がバーで演奏している陳腐なピアノ。心が痛くなる。

 しかも、最後まで主人公を痛めつけようとする鬼教師。完全に病気というか、犯罪者。

 この映画の最後の最後にはカタルシスがあった、という評者もいる。

 だが、私にはそうは思えなかった。敢えて言うなら、主人公は鬼教師の呪縛から逃れたようにも見えるし、結局、マインドコントロールされたままのようにも思える。どっちなのかは分からない。



 だが、この馬鹿な鬼教師は私自身でもある。

 大学のサークルでブラックミュージックのリーダーを務めていた私自身だ。

 ろくに音楽も知らないまま、滅茶苦茶やっていただけだった。

 だから、この映画は私のすべての音楽にまつわるトラウマを掻き毟る映画だった。

 どうあがいても、私はこの映画のなかにいる。

 私は馬鹿な生徒であると同時に、無能な指導者でもある。今もなお。

ダイノジ大谷の爆発:ラジオとテレビの距離

2015-04-19 09:05:34 | テレビとラジオ
 ダイノジの大谷が深夜のテレビを中心にじわじわと浸透し始めている。

 大谷について語ることは難しい。これまでの様々なトラブルを含め、大谷にまつわるエピソードを複合的に知らないと本当の意味で彼を評価することは出来ない。

 けれども、そういうことをよく知らない視聴者として、今日はダイノジ大谷について考え、そこからラジオとテレビの関係について検討する。



 大谷は、その独特のナルシズムと勘違いから扱いにくい芸人として長らく忌避されてきたが、ここにきて彼の個性が生かされつつある。

 ダイノジ大谷の個性は、(1)比較的音楽に詳しいこと、(2)ものすごく熱いテンションで真面目なことを語ること、そして、(3)ラジオが大好きなことだ。

 そもそも最初のふたつの個性がダイノジ大谷のラジオ・パーソナリティとしての資質につながっている。

 しかし元々は、その変なテンションとナルシズムが多くの人から失笑される原因になっていて、本人としてはそこを笑われたくないと強く思っていた。

 ところが、大谷がオールナイトニッポンのパーソナリティを経て、大谷=「ラジオの人」という図式が(テレ東のゴットタンで)出来上がったため、扱いにくかった個性がものすごく扱いやすくなったのでる。



 ラジオではパーソナリティと聴取者の距離が近く、その分、本音でぶつかりやすい、とよく言われる。私も深夜ラジオのリスナーでよく色々な番組を聴いている。

 ラジオの場合、パーソナリティがどれだけ聴取者を引き込める世界観を構築できるかが勝負だ。ラジオは映像が無い分、聴き手の想像力に訴えかけることができる。

 そのフィールドで説得力のあるパーソナリティは、やはりモノを書いたり作ったりしても面白い人だと思う。

 ダイノジ大谷には、良くも悪くも独自の世界観がある。テレビではそれは扱いにくかった。テレビ番組では、番組の世界観に出演者が合わせることの方が多いからかもしれない。

 だが、深夜のテレビ番組では、しばしば出演者の個性を生かす良質な番組が増えている。

 そこで大谷=「ラジオの人」という図式が出来てしまえば、「あー、ラジオの人だから暑苦しいのか。面白い人だな。」というように、スムーズに大谷の世界観をテレビのなかでも受け止められるのである。

 つい先日のダイノジをフィーチャーした「ゴットタン」(テレ東)も、司会を務める「アフロの変」(フジテレビ)も大谷の良さが凄く生きている。



 ここから見えてくるのは、テレビとラジオが微妙に接近しつつあるということかもしれない。

 テレ東の佐久間プロデューサー(ゴットタンなどのスタッフ)が色々なところで、予算が無い分、出演者の個性を生かす番組づくりをしてきた、と発言しているが、ある意味、それをやってきたのがラジオだった。

 ラジオは出演者の個性だけで出来ていると言っても過言ではない。結果的に一部のテレビで、特に予算の限られた深夜の番組でそれが共通しはじめている(実際、佐久間氏のラジオ好きは有名)。

 「水曜どうでしょう」のディレクターだった藤村氏も、「大事なのは人間模様」と常々語ってきた。

 もちろん、(日本の)テレビは基本的に大きな予算で、一般人にアクセスが難しい情報を伝えたり、日常では作れない大がかりなセットでコメディやドラマをつくるものだ。やはり、そこがテレビのあるべき姿だと思う。

 しかし、それだけでは満たされない部分が人間にはある。

 それは人間が人間と結びつきたいという欲求であり、人間が生身の人間を感じ取りたいという気持ちだろう。

 それがラジオや一部のテレビで満たされる。これからも、そういうラジオとテレビが続いてほしい。

フジテレビ「今日、ちょっと紹介したい人がいるんです。」:大宮エリーの力です

2015-04-03 00:31:52 | テレビとラジオ
「今日、ちょっと紹介したい人がいるんです。」という番組の大宮エリーのパートが興味深かった。

この番組では、大宮エリーが友人の柴咲コウに、これまた友人の板尾創路を紹介した。

いわゆる鼎談番組である。

このタイプの番組として代表的なのが「ボクらの時代」だ。

それと一体どう違うのか、と聞かれると少し弱い。



あえて言えば、友人に友人を紹介する、というその緊張感がこの番組のウリだった。

友人に別の友人を紹介するのは難しい。

自分の友人だからといって、それぞれの相性が良いかどうかわからない。

だからこそ、初対面の友人同士の緊張感が面白い。

そして、そこで生まれる未知の化学反応は、予定調和にはなりえない。



この番組はコンセプトそれ自体が優れていたというよりは、大宮エリーを選んだこと、つまり人選が素晴らしかった。

大宮エリーは多彩な人で、作家/脚本家/映画監督/演出家/CMディレクター/CMプランナーの肩書を持つ。

頭が切れるだけでなく、ユーモアと豊かな感性が光る、非常に魅力的なクリエーターである。

彼女は社交的に見えるときもあるが、内向的に見えるときもある。

知り合いがとても多いイメージだが(実際、彼女が司会の音楽番組ではそのネットワークがいかんなく発揮された)、人見知りのようにも見える。

彼女の陰影は独特だ。



その彼女の友人が柴咲コウ、というのがとても面白い。

そして、大宮と柴咲のやりとりが非常に魅力的だった。

ふたりはそれぞれモノを作る意識を強く持っている。

それぞれの熱量やアプローチの違いが会話のなかで見えてくる。

お互いを尊敬し、モノづくりに真剣なふたりの表情や言葉は、すごく誠実でなんだか嬉しくなってしまう。



そこに登場する板尾創路がまた凄い。

大宮エリーとの出会い、はじめて一緒に食事した話、いずれも板尾の凄さを見事に示す面白いエピソード。

とにかく、板尾のクールさと優しさ、そして知的な佇まいが大宮と柴咲の空気と上手く溶け合っていく。

この3人がひとつのテーブルについて創りだす空気の不思議。

大宮エリーの才能がそこに沁み出ている。



大宮エリーを通じて、誰かの魅力が見えてくる番組と言えば、「アーティスト」という音楽番組があった。

終わってしまったのがとても残念な番組だった。

大宮エリーの魅力が存分に発揮される番組がもう一度見たいものだ。