それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

君のティラミスと僕の嘘

2012-03-31 17:08:18 | イギリス生活事件簿
バレンティーナがティラミスを作ってくれた。

僕はティラミスが大好物だ。

もし自分でティラミスを作れたら、タッパー一杯に作って一気食いするであろうほど好きだ。

バレはイタリア、イタリアといえばティラミス、彼女はちゃんとティラミスを作れる。



昨日ティラミスが出来て、すぐに誰かが食べた。

危機感を覚え、僕もすぐに食べた。

ティラミスは大量にあったので、まだ8割ほど残っていた。

夜、バレは僕がティラミスを食べていないものと思ったらしく、勉強中の僕にそれを差し入れしてくれた。

とても優しい。



ところが今朝見たら、ティラミスはもう残り1割になっていた。

確かにこのフラットには5人いる。

アレックスは甘いものが嫌いだ。ラケルは大変に小食だ(しかもベジタリアン)。

だから実質4人未満なのだが、エースが大食漢で(細い体で)、なんとなく彼が食べたのではないかと疑ってしまう。

最後のティラミス。

僕はそれを一気に食べた(お皿に移して)。

そして、空になった容器を冷蔵庫にそっと戻した。



また部屋で研究しているとバレが僕の名前を叫んでいる。

「チーズケーキ出来たから、一緒に食べよー!」

待て、すごいペースでケーキを作っているな、君は。

階下に下りると、彼女は言う。

「チーズケーキ作ったの。味見して。」

僕はさっきティラミスを食べたばかりで、もうお腹いっぱいだった。が、味見はしたいのでチーズケーキをもらう。

「ところで、ティラミス、もう無くなっちゃったの。誰かが食べたのね、一気に。でも、空っぽの容器をそのまま入れてたのよ!食べたんなら、洗ってくれなくちゃ!!」

ああ、それ、僕だよ。僕がやっただよ。

と心のなかでつぶやいた。

「きっと、エースね。」

ああ、エース、すまん。僕だよ、僕が犯人だよ。

と、再度心のなかでつぶやく。

このままじゃ、かわいそうにエースが犯人になっちゃうよ。エースは無実なんです、本当は僕なんです。いつも真面目で人のものを食べたりしないけど、ティラミスは全部食べました。しかも、空の容器を冷蔵庫に戻しました。

と、言えなかった・・・。



「じゃあ、たくさんチーズケーキ食べてね!」

バレは僕がティラミスをほとんど食べていないと思っている。

かわいそうなアジアの純真少年だと思っている。

僕はチーズケーキを食べた。

山盛りになったチーズケーキを食べた。

ティラミスを一気食いした直後に、またチーズケーキをしこたま食べた。

く、苦しい。

心とお腹が。はちきれそうだ・・・!

<場>へのフェティシズムへの憧れ

2012-03-28 22:47:09 | コラム的な何か
私の友人のなかに、<場>に非常にこだわりを持った人たちがいる。

そういう人に僕は強い憧れを抱いている。

こうした友人と言ってすぐに思い浮かぶのは、EとTさんの顔。

年齢はふたりとも僕よりも上なのだけれど(Eとはちょっとしか違わないが)、年齢の問題以前に僕は永久に彼らよりも大人になれないんだろうなあと感じている。

ふたりにはとっておきの場所、ひとりで行きたい場所、誰かと行きたい場所、そういう思い入れのある色々な場所が日本にも海外にもあるらしい。

これだけだと、まだふたりのフェティシズムが伝わらない。

ふたりはもっとある特定の<場>に深く関わろうとする。

見るとか遊ぶだけじゃなくて、そこで働くとかってことも含めて<場>を考えている。

でも、まだこれでは足りない。

ふたりと<場>の関係はもっと密接で、<場>とアイデンティティが結びついている。

「ある特定の<場>にいる自分」をどう考えるか、よく考えている。

僕から見れば、考えすぎというか、感じすぎというか・・・。

残念ながら、僕にはそういう感覚が全くなくて共感するのは難しいのだけれど、でも、おそらく彼らの感覚の裏側にはそもそも僕とは根本的に異なる主体性みたいなものがある、と感じている。

この人たちの自律性というか、「私」というものが、<場>というものを求め、あるいはそれを自らに引き寄せる動因になっているのではないかなと思う。

「私」がかなりはっきりと存在していて、その「私」がどこに存在するべきなのかにすごく拘っているのだ。

それはとてもかっこいい。

それは本当にかっこいい。

そういう感覚がもし僕にあったら、僕は全く違う感覚で生きているだろうと思う。

自分のこのブログにはそういう感覚が希薄で、なんというか、どことなく幼く少しふわふわしている。

そういう自分を僕は積極的に認めたいと思うし、そういう自分だからこそ感じられることがあると思っているけれど、でも、その友人ふたりにはどうしても憧れてしまうのであって、やはり何度も会って話を聞いて、少しでもどこか近づきたいという思いがある。

この友人ふたりは、そういう僕の幼さをとても良く理解している。

というか、僕の友人の大半は僕の幼さをとても良く理解しているのだけれど、なかでもこのふたりはそこを心配している(笑・よく考えると、ふたりの性格はとても似ている。ふたりはとてもスマートで、隠れ努力家で、長男・長女タイプで、現実主義的ではあるがロマン主義的でもあり、非常に優しいがかなり厳しくもある)。

彼らは僕に大人の所作とか趣味とかをちょいちょい教えてくれてきたのだけれども、僕が馬鹿野郎なので一向に学習しない。

ただただ、感嘆して終わる。非常に申し訳ない。

でも、だからこそと言うべきか、またふたりにどこかへ連れて行ってもらって、何か教えてもらいたいと思っている(Eとはしばらく会っていない。なんだか忙しそうだ。日本に帰ったらいつか会えるだろう。このブログを読んでいるのだろうか。どうだろうか)。

急にそんなことを思い出した今日だった。

(というのも、ふたりとも今年に入って急にブログで自分たちの人生の転機についてのエピソードを語っていて、それをさっきさらと読んでこんな話を書くことになってしまったのだった。)

バレンティーナの誤解

2012-03-27 21:40:27 | イギリス生活事件簿
バレが僕をどのよう認識しているかはとても興味深い。

彼女は時々僕の服やカバンを褒めてくれる。

単なる世辞だと思っていたが、彼女は自身の友人に「彼、ちょくちょく良いセンスのものを着てるのよ」と言ってくれて、それで彼女が買った服やカバンを見せてはコメントを求めてくれる。

これは嬉しい評価だ。

しかし、完全に間違っている。

僕はお洒落ではない。

バレが褒めてくれたもので自分が選んだものがひとつもないからだ。

すべて僕の彼女が選んでくれたカバン、服、靴なのだ。

だから、僕のセンスは決して良くないのである。

でも、言いだせないぜ!

言いだすタイミング、逃したぜ!



彼女の興味深い僕への評価はこれだけではない。

彼女は僕のことを何となく子供だと思っている。

「小さな○○(僕の名前)、どう思う?」とか、

「かわいいねえ、おめかししてどこ行くの?」とか、

「沢山食べて大きくなりなさい!」とか、

「君は世界のマスコット!かわいい!」とか、

謎のセリフを言ってくる。

すぐにほっぺにチューしてくるようになったし。

アジア人は基本的にヨーロッパでは子供に見られる。

日本人にとってオジサンにしか見えない人でも、ヨーロッパでは子供に見られることがよくある。

たぶん、年齢認識の基準となるモデルが違うのだ。

要するに、顔の見方が違うのだ。

2年前聞いた、ある男性の話。彼は2児の父。僕から見ても、完璧なおじさん。でも、子供がいることをコースメイトに話したところ、「いつ結婚したんだ!子供なんて早すぎるぞ!」みたいなことを言われたとか。



別に問題はないのだが、しかしヨーロッパの社会ではコミュニケーションにおいて時々男性性が問題になる。

男性らしく振る舞い、男性同士の会話を楽しむ、という文化がはっきりとここではある。

日本でもあると言えばあるが、少し違う。

もっと男性であることを明確に意識している。

「ガールズトーク、オレ結構得意」みたいな勘違い野郎はここにはほとんどいない。

僕みたいな体格の、僕みたいな考え方の、僕みたいな顔の人間(ヒゲも一応生やしているのだが、効果は一切ない)は、そうした社会のなかで、今一度男性として振る舞う術を覚えなくてはいけない。

このことに気付いたのは去年のヨーロッパ人しかいなかったパーティでだった。

(ちなみに、イギリス人はまた大陸とは少し違うジェンダー観を持っているようだ。)

そのことはここにも何度か書いたと思う。

でも、今年は居心地が良い。

どう認識されていても、僕は僕なんだし、それをフラットメイトたちはきちっと受け入れている。

そこには誤解もあるだろうけれど、人間が人と人との関係で人格を構成されているとすれば(間主観的存在だとすれば)、ここでの僕は間違いなく、オリジナルなのだから。

エースがご飯を作ってくれたこと

2012-03-27 19:08:17 | イギリス生活事件簿
エースが階下から呼ぶから何かと思ったら、「ご飯沢山できたんだ、一緒に食べない?」と言う。

エースは日本にも3,4年住んでいたので自炊もできるのだが、それほど料理上手ではない。

というか、それほど料理が好きではないらしい。

けれど、タイ料理とかインド料理とかには目が無く、そういうのはちょこちょこ作っている。

エースはたまに本当に料理が辛そうだったり、食材が異常な時間放置されたりしているので、そういうとき、僕の分と一緒に一気に作って一緒に食べることがあった。

僕は人に料理を振る舞うのは好きだ。ただ、あんまり作り過ぎると、その人の労働意欲を削いだり能力の発展を阻害したりすることをイギリスで学んだので、そのサジ加減をよくよく考えるようにしている。

エースは律儀なやつらしく、僕やラケルやバレにご飯を振る舞ってもらうのを申し訳ないと感じていたそうだ。

そんなことを気にしなくていいから、毎日洗い物をちゃんとやったり、掃除を手伝ったりしてくれよと思ったが、人間には出来ることと出来ないことがある。

そんなこんなで、エースが今日ご飯を作ってくれたわけだ。



風邪をひいてずっと具合が悪かったのだが、今日はかなり回復していて、もう人と話しても大丈夫になった。エースによれば、風邪がここらでも流行っているという。

原因ははっきり分かっていて、僕がフラットメイトと外で飲んだり、日本人学生と飲み会をしたりしたのが連続したためだ。季節の変わり目でもあって、それも原因だろう。

フラットメイトたちにうつしても悪いからと引きこもっていたけれど、エースのおかげでようやく久し振りに談笑できた。

ラケルもバレも外出中だったから、久し振りにエースとふたりだった。

年末以来だ。

わずか4か月にも満たない期間だけど、僕らの関係はとても変わった。



エースの作ってくれた料理はタイ料理で、ココナッツミルクを使ったブロッコリーと鶏肉の炒め物だった。

エースらしい、とても優しい味だった。

彼は料理が上手になった。

音楽がパクリかどうかの議論に欠けている論点:パクリにこだわる人間の能力の問題

2012-03-26 22:01:55 | コラム的な何か
ある音楽がパクリかパクリじゃないかという議論がよくあるが、いつも思うのは、一般の人の認識している音の世界と、一流の作曲家、特に音大出身で何でも書けてしまう作曲家の認識している音の世界がかなり違うのではないか、ということだ。

音楽の才能にひときわ恵まれた人間は、認識している音の一単位がおそらく相当大きい。

聴いた音楽の縦(例えばコード)と横(一度に認識できる旋律と律動)の脳内での再現率が、一般人の何千倍、何万倍だと考えられる。

例えば、クラシックの交響曲の楽譜をみてほしい。それは単にコツを覚えれば作れるような音楽ではない。

クラリネットの音域やチェロの音域が分かっていれば書けるというものではない。



そこから何が言えるか。

まず、こうした一流の作曲家は、いくつかの旋律やコード、律動を頭のなかで再現することにかかるコストが異常に低い。

だから記憶することも楽だし、それを再現することも通常の人間が考えているよりもはるかに楽だ。

それゆえ、既存のメロディが頭のなかから出てきてしまう場合、かなり正確に元々の楽曲が再現される危険性が高くなる。

それがどの曲なのか、あるいは自分で思いついたものなのか判然としない場合、かなりそっくりなものがオリジナルとして発表される可能性がある。



もうひとつ、さらに重要なことがある。

一般の視聴者の大半はこうした一流の作曲家の能力を持たない人間である。それゆえ、認識の単位が小さく、ある特定の旋律の一部が再現されたり、コードが再現されただけでも、とても大きなパクリであると考えてしまう。

だが、もし一般の視聴者が全員、現在よりもはるかに高い音楽の認識単位を持っていたらどうだろうか。

どこまでそっくりだとパクリなのかの単位が間違いなく変わるだろう。



これは律動についても同じことが言える。

日本人は律動の認識単位が少ない。大半の視聴者はスウィングもポリリズムも認識できていない。文化的に異質だから、ちゃんと説明を受けないと頭のなかで認識するのに必要なモデルが形成されない。

それゆえ、律動がパクリかどうかなど、考えない。つまり、旋律とコードのみが重視される。特に歌謡曲の旋律はどんな馬鹿でも聴けばある程度認識できるので、どうしても旋律偏重になる。



ここまで議論してきて、読者諸兄はある特定の楽曲がパクリかどうかこだわるのはどういう人だと考えるだろうか。

それは言わずもがなであろう。