それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

映画「冷たい熱帯魚」

2011-12-20 06:12:20 | コラム的な何か
ここ2,3日、疲れが出て何もできなかった(かろうじて、研究書を少しずつ読めるくらい)。

ようやく回復して、その日を終えようとしたところで、誤って映画「冷たい熱帯魚」を見てしまう。

2010年の超ド級のダークファンタジーとして話題沸騰だったこの映画。

見ちゃいけない、自分の趣味には合わないと思っていたのだが、「もう、今日は寝るだけだし ヘ(゜∀゜*)ノ」

なんて調子に乗って見はじめたら、もう目が冴えてしまって・・・。



「愛犬家殺人事件」という実際にあった事件を基にしているそうだけれども、とにかくとんでもない殺人鬼が登場する。

その殺人鬼(+妻)の連続殺人に気の弱い主人公(おじさん)とその家族(若い後妻と娘)が見事に巻き込まれてしまい・・・という話。

見どころはもう沢山の人がブログで書き、評論家もメディアで沢山発言しているので今さら書くことはないのだが、しかし行き場のないこの気持ちをここに書かざるを得ない。

残酷描写がとにかくすごい。しかし、それ以上に言葉のやりとりの恐怖感が信じられないくらいすごい。

殺人鬼が人を騙したり、言いくるめたりする言葉づかいのリアリティと巧みさ。

彼はマッチョで、豪胆。いわゆる経営者風の男。で、良い人そうな瞬間もありつつ、あまりにも冷酷な雰囲気もありつつ。

しかし、よくよく見れば軽薄で短絡的。

主人公もそれに薄々気づいているにもかかわらず、殺人鬼の巧みな戦術でいとも簡単に籠絡されていくのでした。

それはこの殺人鬼が人の弱い部分、心の暗部を見事に見透かすことが出来るから。

ある有名編集者も言っていたが、相手のコンプレックス、心の弱い部分を理解することが相手を説得することの鍵・・・。



残酷描写の苦手な私は途中何度か目をつぶっていたわけですが、もう耳もふさぎたくなるような展開が最初から最後まで。

脚本、映像、音楽、いずれをとっても恐ろしくレベルの高い作品で、海外での評価が高いのも頷ける。



唯一気になったのは、終盤、エディプス・コンプレックスの話になるところ。

物語の最後の推進力として、主人公と殺人鬼の父親殺し(比喩)の問題になり(最後の最後では娘も・・・)、さらに殺人鬼の特殊な性格も幼少期のある体験が原因らしいと示唆される。

しかし、エディプス・コンプレックスや幼児体験の問題をやや短絡的に描いていると私は思う。

いや、確かに父親殺し(比喩)の問題はギリシャ神話よろしく、より映画を寓話的にする重要なモチーフであり、それ自体監督のライトモチーフなのかもしれない。

その点では確かにクライマックスの展開は納得できるし合理的だ。また、主人公の男性が比喩的な意味で去勢されていることを示唆するには素晴らしく効果的だった。

とはいえ、終盤に至るまで凄まじいリアリティだったにもかかわらず、最後にこういうかたちで飛ぶと、やや誤った社会的メッセージになるという指摘もあるのではないかとも思う。

どういうことかというと、詳細は省くが、要するに小説『土のなかの子供』について、村上龍が芥川賞の選考員として「誤った幼児虐待の理解」と批判したのと同じことである。

幼児虐待→異常な性格、という図式には問題がある。

また、それよりは瑣末な点ではあるが、主人公と殺人鬼の関係をエディプス・コンプレックスに収斂させると、せっかく丁寧に描けていた事件の構図を矮小化してしまう(ただし、それによって観客は救いのないダークファンタジーからほんの少しだけ救われるので、私にとっては良かった・・・)。



最後にひとつ書いておきたいが、私がこの映画を見たあと本当にぞっとしたのは、ある方の感想のブログでこの殺人鬼のような性格の人が実際に近くにいた話が書いてあったこと。

もちろん、この映画が実際の事件に基づいているということで現実感はより高まっているのだが、その感想ブログでより一層悪寒が走ったのでありました。

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