それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「天然コケッコー」と、「歩いても歩いても」:まとめて感想

2011-06-29 20:50:49 | 日記
僕のなかで妙に邦画ブームがきていて、観たけどここに感想を書いていなかった2本の良質な映画についての感想をまとめて書こうと思う。

僕はつくづく映画素人だ。知識ゼロだ。ひどい。

だからこそ、ここで映画を考える練習をしたい。



1、天然コケッコー:みんな大好きなファンタジーの田舎

マンガ原作だそうであるが、僕は全く読んだことが無い。割合に高いこの映画の評判は前から聞いていた。

山下監督の他の作品では「リンダ・リンダ・リンダ」を見たことがある。大学生になったばかりのときに、映画館に友達と観に行った。僕の大好きな作品のひとつ。

「リンダ×3」は同時期に公開された「スウィング・ガールズ」とストーリーはすごく似ているのに、僕の心には「リンダ×3」だけが残っている。映画の良し悪しとはそういうものかもしれない。

脚本の渡辺さんの作品は「メゾン・ド・ヒミコ」を観たことがある。これは僕にとっては最も好きな映画のひとつ。マイノリティの老後をこんなに上手に物語にできることに衝撃を受けた。

渡辺さんは2010年にかなり話題になった「その街のこども」でも脚本をつとめられており、その映画も「何としても観なくては」と思っている。



「天然・・・」は過疎化した田舎の小・中学校(一緒になっている)の子供たちの生活を描いた物語。ストーリーの中心は、中学三年生の男女。女の子はその町で成長してきた子であり、男の子は東京から引っ越してきた子である。

このふたりの甘酸っぱい関係は魅力的。キャストも素晴らしい。

中学生くらいの男の子の嫌なところも、かわいらしいところもたっぷり描かれている。

嫌なところをしっかり描いたところに非常に好感がもてた。

この物語は田舎をとても純粋なものと捉えており、そこで育ったという設定のヒロインは必然的に純粋なものとして描かれる。

田舎のほのぼのとした感じと、ヒロインの天然ぶりが、この映画の重要な魅力だ(ファンタジックな魅力)。

ほかの子供たちも生き生きしている。子役の使い方が上手な監督さんは一流という説もあるが、本当にそう思う。

レイ・ハラカミの音楽もさすが。これぞ映画音楽。くるりの主題歌も最高。



気になったことはほんの少しだけ。

田舎の描き方だ。

田舎ってそんなに良いものかな、と思った。

僕の知っている田舎はこんなんじゃないよ。

郵便屋さん(しげちゃん)のあのねっとりした気持ちの悪さ。あれが田舎。

あそこは非常に良かった。あれこそ田舎。

田舎の嫌な部分をすべて背負っているのが、あの郵便屋さんだった。

田舎でも普通に殺人事件が起きるし、性的にはむしろ無秩序だったりもする。

おせっかいなおばさんや、おじいさんが本当に結構いるし、そこの政治を動かしている人たちの不合理さは都会のエリートでは考えもつかないほどだ。

分かっている。この映画はそんなものを描く映画ではないと。あれはあくまでファンタジーなんだと。

そして、あの郵便屋さんを登場させた以上、田舎の嫌な感じはもう十分描いただろうと。

そうだね、そうだと思う。そういう意味でこの映画は非常に気配りの行き届いたものだったと思う。



2、歩いても歩いても:どこにでもいる家族のリアルなホラー映画。

この映画は多くの人が思ったとおり、ある種のホラー映画である(笑)

物語は、老夫婦の大きな家が舞台。大きな事件は何も起きない。しかし、とにかく怖い。

久し振りに帰ってくる、娘夫婦と息子夫婦。

親や兄弟が抱える葛藤、すれ違い、強烈すぎる愛情が静かな物語のなかでギシギシ音を立てて、観客に人間の怖さを伝えてくる。

特に怖いのが、樹木希林。

昔死んだ長男への愛情が、その死の原因をつくった人間への強烈な復讐心に変わっている。

同時に次男への愛情によって、彼女はその妻(と連れ子)を「やんわり」と排除しようとする。

未だに忘れていない旦那の浮気への怒り。あてつけのように昔話を語る優しいおばあちゃん(笑)

これらは優しくて、おっとりしたおばあちゃんの端々に見える(観客から見ると)狂気の部分だ。

しかしこれは現実にある人間の狂気だ。

僕も目にするし、あなたも目にしたことがあるはずだ(女性の二重性と憎悪をはじめて知ったときの僕の記憶がいくつか蘇ってきた)。

愛情がある限り、人は誰かを憎むのだろうか?

悪人は誰にとっても悪人なのではなく、ある人にとっては最高の愛情を注いでくれる人なのだ。

登場人物がほとんど戯画化されていないがゆえに怖い。

唯一ディフォルメされていたと言えるのは、長男の死に関わった青年くらいだろうか(あのシーンは痛々しかった・・・)。

彼がディフォルメされ、その後のお爺さんの心情吐露がストレートだったために、若干白けそうにもなったが(それまでの抑制の利いた演出とかなり違った印象を受けたため)、しかし踏みとどまった。



人間の嫌な部分が静かに、しかし濃厚に描かれているこの映画において、観客にとっての唯一の救いは、YOUの淡々とした演技だ。

彼女の自然でさっぱりした演技が、静かな物語の背後に潜むどろどろしたものを、若干和らげてくれる。

彼女のセリフをすべて他の女優が演技した場合を脳内でイメージしてみたが、それはそれは恐ろしかった。



脚本には全く無駄がない。

説明的なセリフは最後の最後のナレーションのみ。

メッセージもずっしりと伝わってくる。

音楽は全く記憶にない。あっただろうか。最高。


男の視点、女の視点

2011-06-29 17:36:58 | 日記
彼女とBefore SunriseとBefore Sunsetについて話す。

彼女はもうずっと前にこのふたつの映画を見ていた。

僕にも奨めたというのだが、僕はまったく記憶にない。



下の記事に書いたような話をすると彼女は笑っていた。

彼女はBefore Sunriseの方が断然好きだという。

僕が今のところそっちは全く好きではないというと、その理由を説明するまでは憮然とした様子。ある種のデジャブ。

彼女は言う。Before Sunriseは女の子の視点に比較的寄っている映画だと。

逆にBefore Sunsetは男の子の視点に近いという。

つまり、Sunriseの方は(僕の表現で言うと)「いつか王子様が・・・」思想であり、ある意味、女の子にとっての理想的な恋愛らしい。

これに対して、Sunsetは男の一方的な幻想がいかに勝手なものかを遺憾なく示していると彼女は指摘する。

そういうわけで、僕がSunriseを批判しSunsetを肯定したのも、彼女がその逆だったのも(ただし彼女は決してSunset否定派ではない)、そうした男女の視点や理想の違いに起因のするのではないか、ということになった。

実際はそうではないかもしれない。

Sunriseが好きではない理由は、僕の個人的な趣向の問題だし、男でそれが好きな人も少なくはないだろう。

ただ、Sunsetの解釈が分かれたのは男女の差異に起因してもおかしくないかもしれないと雑駁に思っている。

もちろん、男女の差異など幻想だ。男女に本質的な性質などなく、あくまでそのアイデンティティは相対的で流動的なのだから。

しかし、僕は「それを男女の差異である」ということそれ自体を楽しんでいる。

Before Sunsetも観たよ:こっちはすごく好きでした

2011-06-28 19:12:30 | 日記
Before Sunriseに文句を相当つけたあと、私の精神状態はどんどん悪化し、これはいよいよまずいと思ったわけですが、このままではじり貧だということで、もう一度Before Sunriseを見ること、さらによりしっかり集中してみること、そしてBefore Sunsetも一緒に見ることを自らに課した今日でありました。



Before Sunriseはやっぱり二回目見てもイライラした。

Before Sunsetを見て、その理由がようやく分かってきたような気がする。

ここでもう一度、Before Sunriseのどの点にイライラしているかはっきりさせる。

もう一度否定的なことを書くので、読む場合、そのつもりで読んでもらえないだろうか。



Before Sunriseについては何度も言っているとおり優れているし、革新的だったということも積極的に認識している。

自分のイライラは自分の趣味の問題という非常に狭小な話だ。

その意味で本当に申し訳ない・・・。

物語において私が気になったのがイーサン・ホークだ。

Before Sunriseのなかで、こいつの話を何度繰り返し見ても聞いても、私はどうしても彼から「軽薄」という印象をぬぐうことが出来なかった。

この物語はいわばロマン100%で出来ている。

主人公ふたりはともに若く、互いに現実の社会に出る前のいわばモラトリアムの時期を謳歌した瞬間に、偶然出会い恋に落ちる。

物語は二人の会話の軽妙さと、彼らが話す自分たちのバックグラウンドのみの求心力で進んでいく。

私は個人的な趣向として、この軽妙さは好きではなく、彼らの話すバックグランドにもあまり興味を持てなかった。

だから、その時点で私はこの物語のロマンに乗ることができなかったため、イライラしてしまったのだ。



ところが、Before Sunsetは素晴らしかった。

なぜ素晴らしかったか。

まず設定上、二人はすでに現実の社会のなかで生活し、彼らが体験したロマンと幻想の世界とは対極的な世界で、多くの経験をしてきている。

だから会話の中身に重みがあり、別のリアリティがある。

まずヒロインについて。

環境保護団体に勤めている彼女は言うことがきわめてヨーロッパのコスモポリタン・エリートのそれだ。

社会に対する関心がきわめて高く、人道主義的でリベラル。僕がイギリスで沢山出会うエリートたちのエートスだ。

彼女のリアリズムと、相手の男性のあいかわらずのロマン主義が交差する。会話の中身が素晴らしい。

中身に意味があるとか無いとかというより、ロマンと幻想と記憶の世界とのコントラストが効いている。

男性は作家であり、いわば物語を紡ぐ人間。彼自身が過去のロマンチックな記憶に生きていることを示唆することで、男女のすれ違いの妙が際立つ。

だがこの物語が特に素晴らしいのは、後半ふたりが車に乗ってからだ。

彼女が抱えていた葛藤(そのあと、男性が抱えている現実の問題)が徹底的に描写されることで、物語は男女の単なるすれ違いの話を越えて、現実の社会とロマンチックな幻想との衝突と矛盾に至る。

前作と異なり、ここで物語は非常に奥行のあるものになる。

もはやここでイメージされるロマンは、モラトリアムを謳歌する学生のそれとは全く違う。

現実の社会に生き、傷つき、多くの葛藤を経たのち、もう一度取り戻されようとするロマンチックな物語。

主人公ふたりのぐっと老けた顔は、何よりも説得力がある(特にヒロイン役のジュリー・デルピー)。

それでこそ本当に美しい・・・(と私は感じた)。



秀逸なのは最後の場面。

完全ネタばれですけど、

「飛行機乗り遅れるわよ」をNina Simoneのモノマネで言ったヒロインに対して、男性が「分かってるさ」と返して終わり。

「分かってるさ」がグッとくる。

「分かっている」とは一体何を分かっているのか。

色々分かっているのだ。

それは現実の社会的葛藤、困難、そうしたものをすべてを「分かってるさ」ということなのだ。

同時にそれはロマンチックな世界がもう一度現実の社会に勝利する瞬間であり、だからこそ何より官能的なのだ。

映像がそこでばっさり切られるちゃうから、もう最高。

我々はありとあらゆる想像力を動員されざるを得ない。

前作と違い、曲終りがNina Simoneの深みのある声であることが、たまらなく官能的。

映画Before Sunriseをみる:西洋コミュニケーションあるある

2011-06-28 08:33:01 | 日記
昨晩、この映画もみた、と書いた。忘れないうちに感想を書きたい。

邦題は「恋人までの距離」というそうである。

結論から言いたい。なるほど、この映画はすごい。ドキュメンタリータッチというか、主人公ふたりのリアリティが秀逸。

セリフがセリフではないようであり、表情など演技が本当にその人なんじゃないかと思うようなもの。



しかし、僕はこの映画は今まで見た映画のなかで最も嫌いだ。

出来の悪い映画は別に嫌いにはならない。ただ忘れるだけだ。

けれど、この映画は良く出来ているがゆえに嫌いだ。

映画の出来・不出来とは全く関係ないところで、僕はこの映画が大嫌いなのでそれについて書いていこうと思う。

ただ、あんまり僕がこの映画を嫌いな理由は伝わらないかもしれない。



この映画のなかの英語は素晴らしい。

英語初学者には本当に勉強になるだろう。

どのようにか?英語圏でよく耳にする表現、日常的に使う表現がたくさん出てくる。

そして何よりコミュニケーションの在り方が完全に西洋的なそれなのだ。

僕がイギリスで見聴きしてきた沢山のコミュニケーションがこのなかに詰まっていた。

僕にとってこれは「西洋コミュニケーションあるある」の映画なのだ。



どんな「あるある」が見えたか書いていこう。

1、たわいもない冗談を言う

男女の間でたわいもないことをすぐに冗談にできる男性は出来る人だというのが僕の意見。

西洋ではこれが当たり前。どこでもすぐにジョークを言う。ちょっと気の利いたことを言う。

あーーー、本当イライラする(笑)

日本でこれが出来る人と言えば、デーブ・スペクター。日本で西洋的な冗談を言いまくると逆に寒い人だと思われるので注意したい。

しかし日本人でも今は積極的に冗談を言う時代だ(内容は違えども)。黒船来航ですよ、もう。


2、すぐにダンスをしたがる

音楽があるとすぐにダンス。

街かどでもすぐにダンス。

ダンスは西洋において重要なコミュニケーション方法のひとつ。

日本人にはダンスが足りないというのが菊池成孔の意見。


3、宗教とか哲学の話をすぐにしたがる

西洋のひとたちと話すと、宗教や哲学の話がしばしば出てくる。神秘主義も含めて、この話はよく盛り上がる。

この映画では子供のころの記憶などを絡めて何度も宗教的な話が登場するが、要するにこれは対話している相手と自己の内面にある特別なもの共有しようとしている、ということを意味する。

共有できたら「僕たちウマが合うね」という意味になる。

映画では占いも効果的に出てくる。


4、言語の話をすぐにしたがる

ヨーロッパは多言語の国。

西洋人が沢山集まれば、しばしば言語も多様。

アメリカ人やイギリス人が英語しか話せないことも含めて、言語ネタはもはや鉄板。


5、芸術などの自分なりのアイディアを話したがる

「こういう映画を撮ってみたいんだ」とか言う男にろくなやつはいない!というのが男性としての僕の意見です(笑)

リリー・フランキーも言ってたけど、自分の空想を凄く魅力的に語る男性はもてます。でも、そういうやつにろくな男はいない!(リリー)。

西洋の男性たちはとりわけこういうことを話すのが好きだと僕は思う。


6、家庭環境を分析しながら自己分析

「どういうふうに育って、こういうことが欠如している気がする」みたいな話がまあ良く出てくる。これも宗教・哲学と同じで、内面の特別なものを共有するという話。

この映画では男女の不均等感がいい。恵まれた家庭で育った女性と、そうではなかった男性。

自分たちの生い立ちを語り、主人公たちの一種のコンプレックスが紹介される。

そこからは、ふたりの「恋愛の後に続く愛情のモデル」の微妙な差異が何度も示唆されていて、そのたびに僕はふたりのことが心配になってしまった。

こういう語り口っていうのは、うーん、やっぱり精神分析の国って感じがしたんだよなあ。もちろん、どの国の人(おそらく特に先進国)でもそういう話はある程度するんだろうけど、ここまでしないような気がしている。


7、パブで恋愛の話を面白おかしく話す

ヨーロッパのパブと日本の居酒屋の違いは沢山あるが、基本的にパブは店が汚く(基本的にご飯を食べることが主な目的ではないことが多い)、客が好きなように移動し、好きなようにお酒を飲める自由な空間。

パブにはしばしば独特の落ち着いたおしゃれな雰囲気があり、居酒屋よりもむしろプライベートで落ち着ける空間の演出、ということが感じられる。

映画で登場する場所はクラブのなかにある、もう少しやんちゃな雰囲気のパブ。イギリスでもよく見かけるような感じ。そこで恋愛遍歴について話すという場面が出てくる。


8、絵画やクラシックなどのハイカルチャーの話、歴史や建築などの教養的な話が好き

基本、ヨーロッパの人はハイカルチャーや教養が好き。それこそがインテリの証しなのだ。

日本のアカデミックでも、そういう知識が一種のステータス・シンボルになっている。



どうです?この「西洋コミュニケーションあるある」。

僕はこのすべてが嫌いです。

ないですか?あるよ、絶対あるよ。だって僕、毎日なんとなく目にしてるもん。

イギリスに来て、その日常の生活にちょっと疲れて、逃避しようとしたときにこの映画。

逆に日常で耳にしてきたものを凝縮した世界に入った瞬間の僕のイライラと言ったら!!

要するにこういうこと。疲れたサラリーマンが疲れたサラリーマンの話を見るって感じね。

だから見ていて、すっごく疲れたんだよね。

ああ日常・・・、ああ日常が襲ってくる・・・って感じで。

この映画は海外に行きたい人と、それが終わって懐かしんでいる人が見た方がいい。

僕があまりにも日常のなかに観察していることが出てき過ぎる。



ストーリーには一寸の無駄もない。主人公ふたりのあらゆる行動に十分な理由がある。いかにも西洋の人たちの旅の仕方。

突飛なシチュエーションのようで、全くそうではない。

要するに「この奇跡、あるかもしれない」と思わせる強靭な説得力。

しかし僕はここに出てくる恋愛に全く感情移入できなかった。

お互いにお互いのことが全然良く分かってないじゃねーか、自分のことを相手のなかに見ているだけじゃねーか、と感じた。

っていうか、この男の子大丈夫?だめんずっぽいよ!

それと女の子。劇中でも過去の恋愛の話になってましたけど、だめんずウォーカーっぽいぞ!!気を付けて!!

総じて、恋愛中毒者の恋愛・・・って感じ。これ、冷めたらどうなるんだよッ!

だからこそ恋愛映画としていいんだと思うんです、特定の人にこれは本当に効果的なストーリーだとも思うんです。

冷めたらどうなるかを知るために、映画「Blue Valentine」も観ろよ!!

2011-06-27 22:02:41 | 日記
寒い日が続いたが、昨日の午後から一転して晴れ。そして酷暑。

暖房をつけていたのが、急に冷房が必要なくらいに。

今日もその流れでピカピカのイギリス晴れ。

「夏だどぉーーーー!!」

と思わず叫びたくなるような夏の匂い。

僕は思わず外に出て、行くあても特になく、会いたい人も特にいないため、とりあえず大学にいくことに。

図書館には今年から博士課程用の特別な部屋が出てきていて、そこは冷房があり、静かで人が少ないという素晴らしい環境。

そこで研究することに。



夕食時になって家に帰る。

映画「フラガール」を観た。

本当は違う映画を見るつもりだったのだが、それが見つからなかった。

ところどころ多少のケチをつけながら、僕は三回泣いた。

映画を見て自然に泣けるのだから、年を取るというのも悪くないことである。

何より、蒼井優は「花とアリス」もそうだったけど、踊らせたらもう何も言えないくらい素晴らしい。

動きのキレや手足の長さはもちろんだが、あの少女キャラとのマッチングの妙と言ったら!



他方、映画を見て気になったことが幾つか。

メインキャラクター以外の物語がほとんどないのは少し残念。彼女たちがそれぞれの家庭のなかで、「家事」という巨大な仕事をしながらどのようにフラガールとなったのだろうか。

炭坑夫の「妻」であり「母」である、ということがもっと深く描けていたら、僕はこの3倍泣いただろう。

物語全体の重さ、軽さのバランスは人それぞれの趣味だとは思う。

正直、僕にとってこの映画の描き方は少し軽かった。

炭坑、田舎、ジェンダーの閉塞感と失望感、そこにさらなる重さがあったなら、娯楽作品としてのポップさは失われただろうけれども、カタルシスは何倍にも増しただろう(とはいえ、かなりうまくそうした描写が入っていたとは思う)。

もうひとつ、フラダンスを教えてくれる「先生」のキャラクターが気になった。非常に分かりやすいのはいいのだが、松雪の芝居のせいもあって、ちょっと戯画化されすぎな感じ。それが良くもあり、悪くもあった。

セリフがアニメみたいで、そこにはリアリティよりも「萌え」を感じてしまった。

ああいう気の強いキャラ、ツンデレキャラ、僕は大好きです(笑)

それと豊川悦司の役柄なんだけども、僕にはどうしても掴みきれないものがあった。

トヨエツはもう存在しているだけで説得力があるからいいのだが、町の「保守」と「革新」の立場のなかで彼なりに葛藤している部分がもう少し見たかった。

正直、彼の動きからはそれが感じられず、葛藤があるんだかないんだか、フラガール支持派なんだか反対派なんだか、よく分からなかった。

要するに、困っている妹(主人公)を助ける良き兄貴であり、困っている先生を見守るかっこいいお兄さんである、という以外に意味のある人物ではなかったという印象。物語上は不可欠である、ということは間違いないのだが。

しかし彼の最後の笑顔のシーン。あの怖さというか、そこはかとなく漂う死の影は素晴らしかった。

あと、これも言っておきたい。

ジェイク・シマブクロの音楽について。メインテーマは素晴らしい。基本的に良かった。しかし、ところどころ良くなかった。

例えば、お葬式の場面。曲のコード進行が軽い。他の場所の音楽もそうなんだけど、コード進行の色が単純かつちょっと濃いめ(例えば、F→G→Amみたいな)で、場面の雰囲気や役者の雰囲気を軽くぶち壊している場面があった。

映画音楽の場合、客に感じ取られ過ぎるような楽曲はダメ。音楽家としての論理が先行しすぎているきらいがあったよ、ジェイク。

他にも色々気になったことはあるのだが(しずちゃんの芝居がかなり厳しいとか)、しかし結局3回も泣いてるわけだから、そんなことどうでもいいのである。



そして、そのあと研究してからもう一度目当ての映画を探し出し、遂に観たのであった。その感想はまた。