それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

テレビ東京「紺野、今から踊るってよ」:世にも奇妙で魅力的な番組

2015-03-30 17:55:07 | テレビとラジオ
本当に不思議な番組だった。

テレビ東京「紺野、今から踊るってよ」は、アナウンサーの紺野あさ美が、売出し中の女性タレントの自宅などを訪ねて、何の説明もなく、ただひたすらKARAやパフュームなどの曲に合わせて踊り続けるという番組である。

これだけ聞くと、読者諸氏は「何が面白んだろう?」と思うだろう。

そして、なぜブログでわざわざ取り上げるのかと訝る(いぶかる)だろう。



この番組はとにかく奇妙なのだが、何故だか魅力的でもある。

どう魅力的か。

端的に言って、この番組はまさに日本的な意味で可愛く、そしてセクシーである。

登場する女性たちのパフォーマンスはアイドルよりも下手で、演出も一切ない。

その結果、異常に生々しい。

極端に言えば、この番組はユーチューブの映像に限りなく近いがゆえに、登場する人々の何かが際立って見えてくる。

一体なぜこんなことになっているのか?

一体何が見えているのか?



紺野あさ美はアナウンサーではあるが、元モーニング娘。だ。

そもそも紺野という存在自体が、とても妙なのだ。

アナウンサーがタレント化して、すでに相当経った。

現在、多くのアナウンサーはニュース原稿を読むだけでなく、

タレントのように面白いコメントをしたり、体を張ったりし、容姿も端麗であることが求められている。

だが、アナウンサーとタレントを分ける一線は大きい。

フリーでもない限り、アナウンサーが最終的にタレントを押しのけて全面に出ることはない。

いくら容姿きれいだとしても、モデルではない。いくら面白くても、芸人ではない。

アナウンサーは、やはりアナウンス能力が不可欠で、それなりにジャーナリズムというものを担う人材なのである。

紺野はタレント化するアナウンサーの極北、ある意味では正反対に位置する。

そもそもタレントだったのだ。それがアナウンサーになったのだ。

その逆はいくらか考えられる。しかし、この紺野のパターンは衝撃的だ。

たとえ、女性アナウンサーが読者モデル出身だらけだったとしても、タレント、ましてアイドルとは大きく異なる。



その奇妙な存在である紺野が、アナウンサーとして今一度、テレビのなかで踊るのだ。

一体それはどういうことなのか。

元アイドルとして踊るのか。アナウンサーとして踊るのか。

その両方だ。

その両方として、われわれは彼女の踊りを見るのだ。

明らかにアナウンサーとしての再教育を受け、アナウンサーらしくなった紺野が、

踊り始めた瞬間にアイドルの顔になる。

アナウンサーなのに、アイドルの風格で踊る紺野。

踊りが上手い。

しかし、アイドルとしては上手くないのかもしれない。

分からない。

ただ、そこには確かに「紺野あさ美」という独特の存在があるのだ。

この奇妙さに、私は釘付けになった。



さらに問題は、紺野の隣で踊る女性と、踊る場所だ。

番組の謳い文句では、一緒に踊るのは「美女」。

そうだ。次から次へと紺野と一緒に踊る彼女たちは、間違いなくきれいだ。

モデルというか、タレントというか、まだ職業が未分化ですらある売出し中の彼女たち。

その女性、というか女子たちの生活している部屋や事務所などに紺野が行く。

普通に狭い部屋のなかで、何の説明もなく、「じゃあ、踊りましょうか」という紺野の合図だけで、

踊り始める女子と紺野。

映像は、紺野が持ってきたハンディカメラを固定しただけのものだ。

場所があまりにも普通で、それはまさにユーチューブと全く同じような環境と仕組みだから、

視聴者は、ユーチューブに無限に存在する一般人のダンスの動画と、自然に頭の中で見比べる。

そこで登場する女子たちの容姿のきれいさが際立ってくる。

一般人ではありえない、きれいさ。

美しさという「非日常性」と、普通の部屋という「日常性」が、違和感を強めながら、画面のなかに共存し続ける。

まるで、温めた洋酒を冷たいアイスクリームにかけて食べているような気持ちになる。



彼女たちのパフォーマンスは、決して上手ではない。

いや、上手な子もいるが、それはテレビでやるほどではない。

登場する女子も紺野も、そもそも歌って踊るアイドルではないのだ。

だが、これまで述べた奇妙な構造が、捻じれた構造が、その決してうまくないパフォーマンスを魅力的にしている。

上手くないからこそ、生々しい。

生々しいからこそ、美しい。

この番組の奇妙さと魅力は、禁じ手だ。

テレビの禁じ手だ。

ユーチューブに圧倒されつつあるテレビというメディアの、恐るべき反撃なのだ。

テレビ朝日「しくじり先生」オリラジ中田再び:構造と意志、あるいは因果律と奇跡

2015-03-27 08:37:34 | テレビとラジオ
「しくじり先生」が深夜枠での最終回を迎えた。次回からはゴールデンに移動する。

その最終回で、初回に登場したオリエンタルラジオの中田が再び登場した。

彼は「しくじり先生」がゴールデンに移動するにあたり、エールを送りに来た、という。

中田はいつもの整然とした論理と、芸人ならではの修辞法と、情熱的な身振り手振りでもって、やはり見事にエールを送っていった。



彼の教えは、およそ3つにまとめられる。

第一に、番組がうまくいくかどうかは誰にも分からない、ということ。

どんなに手練手管の作家陣を従え、どんなに多くの予算を費やし、どんなに有名な芸能人を出演させても、

視聴率が高くなるかどうかは結局、予測不可能だと指摘する。

そうでないならば、特定の番組が無限に続くことになるが、実際にはそうなっていない。

正論に次ぐ正論の中田。



おそらく、なんらかのかたちでモノを売っている会社なら、必ずこれが当てはまる。

何が売れるのかは、結局のところ、予想がつきにくい。

株式市場の場合、とんでもなく複雑な数式を扱う人々が株の値上がり・値下がりを予測しようとしているが、結局のところ、完璧に予想などできていない。

ノーベル経済学賞をとった経済学者ですら、投資で失敗しているのだ。

まして、バラエティ番組である。

人間の「面白い」は数値化できない。

もし正確に数値化でき、年齢、性別、職業、地域などで数値傾向を把握できれば、面白い番組はつくれるかもしれない。

しかし、それも一瞬のことだ。

なぜなら「面白い」には、意外性が必要で、予想を裏切られるということが必要だからだ。

つまり面白いの数値化、つまり定式化は内容の予測可能性を高めてしまい、それ自体によって「面白くない」になるのである。

社会科学では、こういう人間および社会によって繰り返される構造的認識の傾向のことを「再帰性」と呼ぶ。



オリラジ中田の第二のメッセージは、いかなる番組も必ず終わるのだから、その準備だけはしておけ、ということ。

バラエティの場合、終わりは悲惨だと中田は言う。

バラエティにゴールはないので、視聴率が落ち、てこ入れ・改良・入れ替え、すべてやってボロボロになって、そして終わる。

中田はゴールデンの番組を何本か潰した経験から、そのように結論する。

しかし、ここからが大事だ。

中田は、番組の終わりは始まりでもあると指摘する。つまり、一つの番組が終わっても、またどこかで別の番組がはじまる。

番組で共演したスタッフや演者とは特別な関係であり、次の現場で会えば、必ず強いパートナーになるのだと。

同じスタッフ、同じ演者で番組をやることは二度となくても(戦犯だから)、業界内では必ず誰か彼かに再会するのだと。

つまり、番組の終了に際して関係をめちゃくちゃにしてはいけないのだと中田はアドバイスする。



このように、オリラジ中田はバラエティ番組というものが、そもそも成功し難いものであり、したとしても最後は悲劇に終わる、という構造的不可能性を指摘してしまう。

構造的に絶対最後は失敗に終わるのである。

その始まりと終わりを通して、業界人としてどのように対応すべきかを中田は指南する。



しかし、である。

そのような不可能性を前提にして、中田は最後にこう問う。

「もし『今回の番組には社運がかかっているので、絶対結果を残してくださいね』と問われたら、どのように答えますか?」

その答えは「お任せください!」なのだと中田は言う。

それは手術を執刀する医師と同じなのだと。

患者の家族から「先生、助けてください、お願いします」と言われて、「がんばります」とか「難しいですねえ」とかの答えはあり得ないのだと。

バラエティの構造的成功不可能性を前提にしながら、それでもなお「お任せください」と言う中田。

問われているのは意気込みなのだから、これが正解なのだと。

だが、中田の最後のメッセージはそれ以上のことを示唆している。

バラエティは構造的に成功が難しい。しかし、奇跡を起こすには人間の意志の力しかない。

商品を売る以上、それは因果律に縛られている。売る前から売れるかどうかはある程度決まっている。

しかし、作り手・売り手の意志の力を示すこと。それを信じること。

それが人間同士のきずなを強め、一回の番組の成否以上のことにつながるのだと、中田は示したのである。

「バカリ・大吉・SHELLYの一週間日記つけてくれませんか」:心地良い大人の温度の娯楽性

2015-03-25 19:09:09 | テレビとラジオ
CBS制作の「バカリ・大吉・SHELLYの一週間日記つけてくれませんか」が、すごかった。

市井の人々に匿名で1週間日記をつけてもらい、それをスタジオでバカリズム、博多大吉、SHELLYが読み、トークするというバラエティ番組。

一般の人がテレビに登場するのは全く新しいわけではないが、しかし、これは新しい。

何が新しいかというと、日記は本人の自筆で、本人が語りたいように本人の言葉で語ることだ。

NHKのドキュメント番組でも、民放の素人参加型番組でも、本人の物語の「明暗」は作り手の演出次第である。

音楽と切り方、ナレーションひとつで「悲しい物語」にも「陽気な村人の話」にもなる。

われわれが日々体験している「現実」は、悲しい部分も楽しい部分も散らばって存在しているのだから、それは決して驚くべきことではない。

この「一週間日記つけてくれませんか」の新しさと良さは、そのテレビの作り手の演出(極端に言えば権力)から、一般人がある程度自由になれることだ。



例えば、番組で紹介された主婦の日記。

3人目の子どもを妊娠中。しかし旦那が明らかに浮気している様子。

夫婦関係が明らかに悪いこの主婦の1週間の日記には、「物語」あるいは「娯楽」の構造が要求する破綻も解決も出てこない。

主婦の主観的な語りから見えてくる、非常に閉塞的な情況と悲哀。

それが淡々と語られる。

匿名の日記だから登場人物や状況の説明が最低限しかなく、視聴者の想像を激しく掻き立てる。

例で挙げてこの日記は、事例として分類してしまえば、日本中に相当数あることが予想される悲しい現実の一つに過ぎないかもしれない。

しかし大事なことは、この日記の筆者がどのように感じ、どのような言葉でそれを語っているか、なのである。

それはその本人にしか語ることが出来ないし、視聴者も各々の経験をもってそれを感じ取ることができる。

本人が心の底から感じたことを吐き出した言葉は、確かに人に伝わるものがある。



こうした日記が、色々な職業、性別、年齢の人によってつけられ、演者3人によって読まれていく(アナウンサーなどが読まないのがとても良い)。

楽しい話もあれば、悲しい話もある。

けれど、どれも極端なことがない。

(確かに極端な経験をしている場合が稀に出てくるが、その当人にとっては比較的普通だから、演者との温度差がまた絶妙に良い。)

同じ境遇の視聴者にとっては「あるある」ネタだろうし、

全く異なる境遇の視聴者にとっては好奇心を満たす内容だろう。

あるいは、これをジャーナリスティックなものと捉える人もいるかもしれない。



この番組が良かったのは、バカリズム、大吉、SHELLYのニュートラルな温度だ。

極端に盛り上げようとか、悲しくしようとか、楽しくしようというのではなく、

適度に節度をもって、コメントで上手にフリをつけながら、日記を読んでいく。

それに対する感想も、心地よい大人のテンションだ。

巷に流布するバラエティのセンセーショナリズム(過激さや極端さを売りにして人々の関心を惹きつけようとする態度)に疲れた人には、心に染み入る番組となったことだろう。

レギュラー化を望む。

吉田健一『東京の昔』:僕とTさんとイギリス

2015-03-21 10:57:32 | コラム的な何か
イギリスでひっそりと暮らしていた時、最も僕のことを気にかけてくれた友人がTさんだった。

僕は毎日研究ばかりしていて、それでまるで外の世界に出ないものだから(イギリス風に言えば、socializeが足りない)、

Tさんは僕をちょくちょく連れ出したり、飲み相手になったりしてくれた。

今でもTさんとは電話をする。

ひどく便利な世の中になったもので、Tさんがイギリスにいて、僕の方が日本にいても、無料で電話出来てしまうのである。

どういう流れか忘れたが(食べ物の話だったか、東京の話だったか)、Tさんが僕に吉田健一の本を薦めてきた。

全く不勉強な僕は、吉田健一の名前と「吉田茂の息子」であること以外に何も知らず、何を書いた人なのかも全く知らなかった。



僕の勝手な印象だが、ものをよく知っている(特に文系の知識に秀でている)人びとが読んでおかねばならない作家群がリストとしてあって、

しかし、それは大抵の人が名前を聞いても「?」と思うような作家たちなのに、どういうわけかインターネットで検索すると膨大な情報と熱狂的なレビューがすぐに発見できる、

そういう一群の作家の書いた本が日本には幾つかあるのではないか、と僕は思っている。

それで最近は、出来る限りそういう本や作家を見つけたら、とにかく読んでおこうと決めている。

僕はその(頭のなかの)フォルダーのなかに、Tさんから勧められた「吉田健一」を入れた。



すぐに吉田健一の本を何冊か買って、それで最初に読み始めたのが『東京の昔』だった。

個人的な事情から、今は昔の東京に興味がある。

それで小説とも知らずに、とにかく題名だけで買って読み始めたのである。



この小説をインターネット検索すれば、とにかく熱狂的なファンのブログが沢山出てくる。

だから、僕はその内容を俯瞰するのではなしに、僕の具体的な思い出と結びつけて、ここにその感想を書いておきたい。

この小説では、何も事件らしい事件は起きない。

話しの筋だけで言えば、第二次大戦前の日本で、東京の本郷信楽町(信楽町は架空の地名)という場所に住む主人公が、ただただ、とにかく色々な人とお酒を飲み、食事をし、会話を楽しむ話である。

それゆえに、この小説を面白いと思わない人が沢山いるのは当然である。



にもかかわらず、僕はこの小説がとてもとても好きになった。

最大の理由は、この小説に登場する主人公と、飲み仲間の帝大生(フランス文学を研究)の関係が、Tさんと僕の関係にすこぶる似ていて、会話の内容まで似ていたからだ。

主人公のプロフィールが面白い。

まず、彼は帰国子女である。ヨーロッパに住んでいたことがあり、ヨーロッパの風物をじかに見て、よく知っている。

ちょっと商売を時々やって、それでお金をつくっては、また本を読んだり飲み歩いたりする生活をしている。

教養があって、酒好きで、それでちょっとだけ世話好き。誰かに依存することなく、飄々としていて自由。

自分のことを「僕」とか「私」とか言わず、「こっち」と言う。そこに独特のセンスがある。

彼はいつも東京とヨーロッパの諸都市をなんとなく比較しながら、比較は不可能で、どちらが良い悪いではないと思いつつ、東京の街並みを観察する。そして、日本にとっての「外国」とは何かを考える。



この主人公は、僕にとってのTさんそのものなのだ。

驚くほど、Tさんはこの小説の主人公そっくりなのだ。

実際Tさんは帰国子女で、東京とヨーロッパの諸都市の比較をしつつ、文明論的なことを口にする。



他方、この小説に出てくるフランス文学専門の帝大生が、どういうわけか僕に少し似ている。

この帝大生はとにかく一生懸命フランス文学を研究している。

それで、本からの知識が頭の中に積み上がっている。

ところが、それを実際に見たことがない。

戦前の日本でヨーロッパに行くとなると、それは相当にお金と時間がかかる。

そのうえ、ヨーロッパに行ったからといって、日本に帰国して立身出世に役立つわけでもない。

だから、この帝大生は実際に自分が読んで想像してきたことを確かめたいわけなのだが、なかなかそれが出来ないのである。



小説では、主人公がこの帝大生を当時の日本で「外国」が存在した銀座に連れて行って、飲みながら外国について語り合い、その場所を外国にしてしまう。

この当時の日本にとって「外国」(特にヨーロッパ)はあまりにも異質で、登場人物のセリフのなかに出てくるように、外国人がまだ同じ「人間」として感覚されていなかった。

地理的物理的距離感だけでなく、理念的な存在として「外国」(特にヨーロッパ)は日本からきわめて遠いところにあった。と、主人公は考える。

主人公と帝大生はそのことを議論の前提にしながら、色々なことを語り合う。

(この文明批評の点がこの小説の評価されるポイントのひとつであるらしい。)



僕のイギリスの生活でも、僕はTさんととにかく、この帝大生と主人公のように、日本とイギリスやヨーロッパの関係について語り合い続けた。

政治の話から文化の話、言語の話に至るまで、あらゆることを語り合った。

Tさんの話し方は理性的だし論理的なのだが、根っこにある感性は人文学的であり芸術的だった。

彼は読書家で勉強家だったが、見て感じたことを正確に言葉にする能力と、そうする意識を備えていた。

だから、イギリスで生きる人々の言葉遣いや感覚みたいなものを非常に繊細に語ることが出来た。

そのうえで、彼を交えながら、世界各国の人たちと食事をしたり、あるいは二人きりでイギリスのパブで飲んだりすることが、とても楽しかった。



この吉田健一の小説を読んだとき、家や大学の外になかなか出ない僕が、日本から出られない帝大生と重なり、そして、主人公がTさんと重なり、そして、戦前の東京が今(新たな戦前にならないことを願うが)の東京と重なり、

そして、僕はこの小説をとても好きになったのである。

研究者が匿名で一般向けに記事を書くときに気を付けたい5つのこと

2015-03-20 10:37:52 | コラム的な何か
文系・理系問わず、近年、多くの研究者がインターネット上で、匿名で専門的な情報を発信することが増えている(とはいえ、割合では言えば研究者全体のごく一部にすぎない)。

311からSTAP細胞問題にかけては、様々な理系の研究者のネット上の情報発信が注目された。

これまではアクセスが難しかった専門知識を研究者が比較的分かりやすく解説したり(例えば、原子力問題)、あるいは、公表されている情報を集団で再検討して間違いを見つけたり(例えば、STAP細胞問題)したのである。

文系はどうかと言えば、あえて一つ挙げれば、やはりイスラム国関係の問題があろう。

この問題は日本社会の注目を集めたが、様々な専門知識なしには考えにくい問題だった。だから、専門家の情報発信が不可避的に重要になった。



だが、ここで問題が出てきた。

研究者が実名で情報を発信するなら、それは特段問題はない。とりわけ文系の研究者の場合、昔から新書や新聞への投稿などが存在するわけで、今更一般向けの情報発信は新しくはない。

問題は、ネット上に匿名で色々書く人々が出てきたことである。

例えば、萌えキャラに扮して、専門情報を発信するというやり方がある。

かわいいキャラクターが、研究者のような専門知識を平易な口語で発信するから、そこにギャップが生じて面白くなる。

専門家が趣味としてそれをやるのは、特段責められるようなことではない。

よっぽどおかしな情報で社会を混乱させるのではない限り、何の問題もない。

口語で私的につぶやくだけなら、出典も特段必要ないし、剽窃も問題にならない。

もちろん、ネット上の表現は必ずしも私的ではないので、著作権は重要である。

だが、そのまま、まるまる重要な部分を切り取って著作権者に許可なく公開するのでなければ、また、それによって商業的利益を得るのでなければ、あまり問題はない。



では何が問題かと言うと、ネット上に匿名で記事を書く場合に、いくつかの条件が付くと(極端に言えば)途端に剽窃がきわめて重要な問題になるということだ。

研究者の間では、通常、当然、自分の名前でモノを書き、発表する。そこでは出典を出来る限り明確にし、追跡可能にする。

引用箇所を明確にし、どこからがオリジナルなのか読者に分かるようにする。

そうしないと、同じような「発見」が世界中であふれかえり、学問の進歩を阻害するからだ。

剽窃がダメなことは大学教育で叩き込まれるので、研究者にとってそれは自明でり、その是非は問題にならない。



では、このブログのように、匿名でやっているものはどうだろうか。

このブログは当然誰でも閲覧できる。私には何の商業的利益も発生しない。

だが、特定の本を長々と無断で引用し、本の著者の利益を侵害するような場合は問題があるだろう。

歌詞だって勝手にどんどんブログに全部書いていったら問題になる。

誰かの小説を全部書き写したら、訴えられる。



もうひとつ問題なのは、人の発明したアイディアや発見を自分が考えたかのように言うことだ。

この場合、是非の線引きが難しい。

ネットの片隅で、人のアイディアや発見を自分のもののように言っても、誰も見ないようなブログだと問題にならない(ただし、誰でも見られるようにしている以上、問題自体はある。表面化しないだけで)。

ところが、それが有名なニュースサイトや有料のブログやメールマガジン、あるいは著名な人のブログとなると話が変わってくる。

そうなると影響力が大きくなるので、オリジナルの人の業績や利益に損害を与える可能性が出てくる。

同時に、努力なしに不当に他者の果実を奪って、自分の利益にすることになるので問題になる。



インターネットはタテマエは公的空間だが、実質的には何かしらの線引きがある。

研究者にとっては、そこがなかなか分かりにくい。

まして、匿名で架空のキャラクターに扮してしまうと、余計訳が分からなくなってしまう。

どこまで学術的なルールが適用されるのか、方向感覚を失ってしまう人が出てきている。

ネット上の私的なつぶやきが、一線を越えて、最後は訴えられるところに行ってしまう。

だが、ネット上の性格から、その一線がなかなか見えにくいのである。

研究者だけではなく、出版業界の人にとってもそうらしい。



ルールをある程度明確にしておかないと、私的報復によってのみ、利益が維持されるという困ったことが起き続けるかもしれない。



そこで、私なりに研究者がネット上に匿名でモノを書く際に気を付けなければいけない5つのことをメモしておこうと思う。

1.まず何より、匿名で専門知識を書くことで自意識を満たそうとすることはやめよう。それはプロの所作ではないぞ。

2.出来る限り、読者が主張の根拠を追跡できるようにしよう。情けは人の為ならず。親切は自分のためでもあるぞ。

3.匿名でモノを書く場合には商業的利益を得たり、公的な名声を得たりしようとすべきではない。特に、研究者としてどこかの機関に所属しているなら、実名の研究や記事で有名になろう。

4.誰かの利益を侵害するようなものを書くのはやめよう。あくまで、よっぽど内部告発する道義的な理由がある場合だけに限定しよう。

5.とても重要なことだけど、結構多くの研究者が忘れがちなので言うけど、研究者は全然偉くないし、尊敬されるようなものじゃない。普通にお仕事している人の方がよっぽど偉い。だから、モノを書くときに尊大な態度(教えてあげているみたいな態度)は絶対にやめよう。