本当に不思議な番組だった。
テレビ東京「紺野、今から踊るってよ」は、アナウンサーの紺野あさ美が、売出し中の女性タレントの自宅などを訪ねて、何の説明もなく、ただひたすらKARAやパフュームなどの曲に合わせて踊り続けるという番組である。
これだけ聞くと、読者諸氏は「何が面白んだろう?」と思うだろう。
そして、なぜブログでわざわざ取り上げるのかと訝る(いぶかる)だろう。
この番組はとにかく奇妙なのだが、何故だか魅力的でもある。
どう魅力的か。
端的に言って、この番組はまさに日本的な意味で可愛く、そしてセクシーである。
登場する女性たちのパフォーマンスはアイドルよりも下手で、演出も一切ない。
その結果、異常に生々しい。
極端に言えば、この番組はユーチューブの映像に限りなく近いがゆえに、登場する人々の何かが際立って見えてくる。
一体なぜこんなことになっているのか?
一体何が見えているのか?
紺野あさ美はアナウンサーではあるが、元モーニング娘。だ。
そもそも紺野という存在自体が、とても妙なのだ。
アナウンサーがタレント化して、すでに相当経った。
現在、多くのアナウンサーはニュース原稿を読むだけでなく、
タレントのように面白いコメントをしたり、体を張ったりし、容姿も端麗であることが求められている。
だが、アナウンサーとタレントを分ける一線は大きい。
フリーでもない限り、アナウンサーが最終的にタレントを押しのけて全面に出ることはない。
いくら容姿きれいだとしても、モデルではない。いくら面白くても、芸人ではない。
アナウンサーは、やはりアナウンス能力が不可欠で、それなりにジャーナリズムというものを担う人材なのである。
紺野はタレント化するアナウンサーの極北、ある意味では正反対に位置する。
そもそもタレントだったのだ。それがアナウンサーになったのだ。
その逆はいくらか考えられる。しかし、この紺野のパターンは衝撃的だ。
たとえ、女性アナウンサーが読者モデル出身だらけだったとしても、タレント、ましてアイドルとは大きく異なる。
その奇妙な存在である紺野が、アナウンサーとして今一度、テレビのなかで踊るのだ。
一体それはどういうことなのか。
元アイドルとして踊るのか。アナウンサーとして踊るのか。
その両方だ。
その両方として、われわれは彼女の踊りを見るのだ。
明らかにアナウンサーとしての再教育を受け、アナウンサーらしくなった紺野が、
踊り始めた瞬間にアイドルの顔になる。
アナウンサーなのに、アイドルの風格で踊る紺野。
踊りが上手い。
しかし、アイドルとしては上手くないのかもしれない。
分からない。
ただ、そこには確かに「紺野あさ美」という独特の存在があるのだ。
この奇妙さに、私は釘付けになった。
さらに問題は、紺野の隣で踊る女性と、踊る場所だ。
番組の謳い文句では、一緒に踊るのは「美女」。
そうだ。次から次へと紺野と一緒に踊る彼女たちは、間違いなくきれいだ。
モデルというか、タレントというか、まだ職業が未分化ですらある売出し中の彼女たち。
その女性、というか女子たちの生活している部屋や事務所などに紺野が行く。
普通に狭い部屋のなかで、何の説明もなく、「じゃあ、踊りましょうか」という紺野の合図だけで、
踊り始める女子と紺野。
映像は、紺野が持ってきたハンディカメラを固定しただけのものだ。
場所があまりにも普通で、それはまさにユーチューブと全く同じような環境と仕組みだから、
視聴者は、ユーチューブに無限に存在する一般人のダンスの動画と、自然に頭の中で見比べる。
そこで登場する女子たちの容姿のきれいさが際立ってくる。
一般人ではありえない、きれいさ。
美しさという「非日常性」と、普通の部屋という「日常性」が、違和感を強めながら、画面のなかに共存し続ける。
まるで、温めた洋酒を冷たいアイスクリームにかけて食べているような気持ちになる。
彼女たちのパフォーマンスは、決して上手ではない。
いや、上手な子もいるが、それはテレビでやるほどではない。
登場する女子も紺野も、そもそも歌って踊るアイドルではないのだ。
だが、これまで述べた奇妙な構造が、捻じれた構造が、その決してうまくないパフォーマンスを魅力的にしている。
上手くないからこそ、生々しい。
生々しいからこそ、美しい。
この番組の奇妙さと魅力は、禁じ手だ。
テレビの禁じ手だ。
ユーチューブに圧倒されつつあるテレビというメディアの、恐るべき反撃なのだ。
テレビ東京「紺野、今から踊るってよ」は、アナウンサーの紺野あさ美が、売出し中の女性タレントの自宅などを訪ねて、何の説明もなく、ただひたすらKARAやパフュームなどの曲に合わせて踊り続けるという番組である。
これだけ聞くと、読者諸氏は「何が面白んだろう?」と思うだろう。
そして、なぜブログでわざわざ取り上げるのかと訝る(いぶかる)だろう。
この番組はとにかく奇妙なのだが、何故だか魅力的でもある。
どう魅力的か。
端的に言って、この番組はまさに日本的な意味で可愛く、そしてセクシーである。
登場する女性たちのパフォーマンスはアイドルよりも下手で、演出も一切ない。
その結果、異常に生々しい。
極端に言えば、この番組はユーチューブの映像に限りなく近いがゆえに、登場する人々の何かが際立って見えてくる。
一体なぜこんなことになっているのか?
一体何が見えているのか?
紺野あさ美はアナウンサーではあるが、元モーニング娘。だ。
そもそも紺野という存在自体が、とても妙なのだ。
アナウンサーがタレント化して、すでに相当経った。
現在、多くのアナウンサーはニュース原稿を読むだけでなく、
タレントのように面白いコメントをしたり、体を張ったりし、容姿も端麗であることが求められている。
だが、アナウンサーとタレントを分ける一線は大きい。
フリーでもない限り、アナウンサーが最終的にタレントを押しのけて全面に出ることはない。
いくら容姿きれいだとしても、モデルではない。いくら面白くても、芸人ではない。
アナウンサーは、やはりアナウンス能力が不可欠で、それなりにジャーナリズムというものを担う人材なのである。
紺野はタレント化するアナウンサーの極北、ある意味では正反対に位置する。
そもそもタレントだったのだ。それがアナウンサーになったのだ。
その逆はいくらか考えられる。しかし、この紺野のパターンは衝撃的だ。
たとえ、女性アナウンサーが読者モデル出身だらけだったとしても、タレント、ましてアイドルとは大きく異なる。
その奇妙な存在である紺野が、アナウンサーとして今一度、テレビのなかで踊るのだ。
一体それはどういうことなのか。
元アイドルとして踊るのか。アナウンサーとして踊るのか。
その両方だ。
その両方として、われわれは彼女の踊りを見るのだ。
明らかにアナウンサーとしての再教育を受け、アナウンサーらしくなった紺野が、
踊り始めた瞬間にアイドルの顔になる。
アナウンサーなのに、アイドルの風格で踊る紺野。
踊りが上手い。
しかし、アイドルとしては上手くないのかもしれない。
分からない。
ただ、そこには確かに「紺野あさ美」という独特の存在があるのだ。
この奇妙さに、私は釘付けになった。
さらに問題は、紺野の隣で踊る女性と、踊る場所だ。
番組の謳い文句では、一緒に踊るのは「美女」。
そうだ。次から次へと紺野と一緒に踊る彼女たちは、間違いなくきれいだ。
モデルというか、タレントというか、まだ職業が未分化ですらある売出し中の彼女たち。
その女性、というか女子たちの生活している部屋や事務所などに紺野が行く。
普通に狭い部屋のなかで、何の説明もなく、「じゃあ、踊りましょうか」という紺野の合図だけで、
踊り始める女子と紺野。
映像は、紺野が持ってきたハンディカメラを固定しただけのものだ。
場所があまりにも普通で、それはまさにユーチューブと全く同じような環境と仕組みだから、
視聴者は、ユーチューブに無限に存在する一般人のダンスの動画と、自然に頭の中で見比べる。
そこで登場する女子たちの容姿のきれいさが際立ってくる。
一般人ではありえない、きれいさ。
美しさという「非日常性」と、普通の部屋という「日常性」が、違和感を強めながら、画面のなかに共存し続ける。
まるで、温めた洋酒を冷たいアイスクリームにかけて食べているような気持ちになる。
彼女たちのパフォーマンスは、決して上手ではない。
いや、上手な子もいるが、それはテレビでやるほどではない。
登場する女子も紺野も、そもそも歌って踊るアイドルではないのだ。
だが、これまで述べた奇妙な構造が、捻じれた構造が、その決してうまくないパフォーマンスを魅力的にしている。
上手くないからこそ、生々しい。
生々しいからこそ、美しい。
この番組の奇妙さと魅力は、禁じ手だ。
テレビの禁じ手だ。
ユーチューブに圧倒されつつあるテレビというメディアの、恐るべき反撃なのだ。