それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

邦語論文を書きなおし続けている

2013-02-27 20:38:53 | 日記
締切がまだ遠いけれども、確実に書かねばならない邦語論文を書きなおしている。

全面的に書きなおすのは2回目だ。

前回のチェックは知り合いの最も信頼している研究者の一人にお願いし、今回のチェックはいつまでも敵わない兄弟子にお願いした。

やっぱり、この兄弟子の実力はすごいもので、本当に的確なアドバイスをもらった。

この人は情にあふれた言動ではないため、彼の言葉は心にもろに突き刺さるのだが、しかし度量は本当に大きい。

日本に僕がいた間は第二の先生として色々学んできた。

その彼のアドバイスを受けて、再度全面書き直し。

けれども、私は全面書き直しについてそれほど違和感はない。

それというのも、最初に発表した共著の仕事で、私は先生から散々全面書き直しを食らったからだ。結局、7回くらい書きなおして世に出た。

もちろん、書きなおし無しで一発でうまく書きたいのだが、それが難しい(前回の共著の仕事はあまり書きなおしが無かったのだが・・・)。

それにはちゃんと理由があるのであって、私はそれを知っているのでこの状況を受け容れる。というか、書き直せて本当に良かったのである。

逆に問題点に気づかない方がはるかに問題がある。

イギリスからの知らせ

2013-02-24 09:40:32 | 日記
今朝、イギリスの大学から訃報が届いた。

教授陣のひとりである優秀な女性の若手研究者が逝去されたとの報だった。

彼女の専門は私のそれに近く、彼女がまだ博士号を取りたてだったことから、非常に興味深く彼女の研究を拝読していた。

見た目にもきれいな人で、快活な話しぶりが記憶に残っている。

私が日本に帰ってきたあたりかどこかで入院していたらしいのだが、メールによればホスピスに入ってということで、病状はすでに重かった様子である。

ショックだった。というのも、彼女は私の記憶のなかではあまりにも若く、あまりにも元気そうだったからである。

私にとって彼女はイギリスの優秀な若手のひな形のような存在だった。



丁度その報と重なるかたちで、イギリスの指導教官から研究グループに入るようにとのメールが来た。

イギリスの大学の場合、研究センターをつくりプロジェクトを色々やって、それによって予算をもらうという仕組みらしい(これについてはまだ私はよく知らないが、日本の大学の仕組みもやや似ている)。

私が在籍している学部の場合には、私が入学して以降、2つのセンターが設置された。もちろん、事務所などあってないようなもので、ホームページがあればいいだけのようだ。

ちょうど私が博士号取得を間近にしたということで、そこに入れてもらえるらしいのである。

センター側からすれば、参加者は多い方が良い。

こちらからすれば、もし何かのプロジェクトに絡めるならそれはとても嬉しい。

ちょうど一昨日も、日本の大学の隣接学部のプロジェクトに巻き込まれたので、なんだか不思議な気持ちなのである。

私が不思議に思っているのは、博士号というものが確かにひとつの記号として機能しているということであり、さらにはどこかに一応職員として在籍する(予定になっている)ことがまたひとつの記号として機能しているということなのである。

その光景は私が学部生の頃から先輩や講師の先生たちを見ながら感じていたことなのではあるが、それをいざ自分のこととして直面するとなると、私は一層不思議な気持ちになるのである。

これについて私はまだ多くを語る気にはなれないのだが。

近況

2013-02-14 08:20:10 | 日記
GW明けにイギリスに行き、そこで最後の面接試験を受けることになった。

提出は1月末だったのだが、査読をしてくださる先生方の日程調整などの結果、そうなった。

イギリスの場合、博士号も修士号も全国で質を一定にするように国が定めている。

大学によって低いレベルの博士号が出ないようにしている。

修士号も同じで、一応監査が無作為に入ることになっている。

博論における外部の査読者の選定は、いわばその質を保障する制度のひとつだ。

日本の大学と決定的に違うのはこの点だろうと思う。



3年間で学んだ色々なやり方で大学の事務をせっついたりしたのだが、結局、特に時期を早めることはできなかった。

その代り、事務の方は今後の手続き上の流れをすべて詳細に教えてくれた。

今になって分かるのは、指導教官に直接言う必要があったということだ。

けれど、非常にフェアだと思うのだが、副指導教官は査読者とのやりとりを全て転送してくれて、それでどういう経緯でその日になったのかよく理解できた。

指導教官はふたりともベストを尽くしてくれたように思え、彼らに不満など全くない。むしろ大いに感謝している。

ちなみに査読者の2名は候補リストのなかから選ばれてはいたものの、最初に指導教官と相談して決めた第一候補ではなかった。

これについても特に不満はない。



ところで、一昨日、日本の学会の噂話を散々聞かされる羽目になった。

日本の大学での指導教官と先輩方の飲み会の幹事になったからだ。

学会の人間関係やら評価やらの情報は確かに大事だが、実のところ、僕はそういう話が好きな御仁をあまりよく思わない。

本当に創造的な人間や集団がそんなことを考えているとは、僕にはどうしても思えないからだ。

研究者が創造力を維持するのはとても難しい。

本当に創造的な場と力が生まれる場所が日本には少ないように思える。