それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

東京五輪のボランティア:愛国と少子高齢化と「おもてなし」のドラマ

2018-06-27 08:46:22 | テレビとラジオ
1.ボランティアってどういうもの?

 東京五輪のボランティアの募集が告知されている。

 もうすでにこの時点で、喧々諤々やって楽しんでいる人が沢山いる。

 私もその輪に加わろうと思って、このブログを書いている。

 そこでとりあえず、ボランティアの募集要項や、「ほぼ日」に出たボランティア担当者のインタビューなどを読んだ。



 ネット上の議論で目立つのは、このボランティアが集まらないのではないか、という危惧だ。

 予定では、11万人を集めることになっている。

 この数字が多いのかどうなのか、実際のところ、よく分からない。

 日本中でボランティアをやりたい人で、五輪中に休暇が取れる人を集めた場合、11万人になるのか。



 おそらく五輪委員会では、すでに事前のアンケートから応募者数を概算しているだろうと推察する。

 そのうえで、できるかぎり広告戦略を展開していくのだろう。

 数値目標については、必ずプランA(11万)だけでなく、BやCもあるはずだ。

 集まらなかった場合に選択する方策も事前に考えているだろう。



 もうひとつ注目が集まっているのが、その業務内容だ。

 通訳、救命、ドーピング検査補助、公式記録の入力などなど、専門的な知識が必要そうなものが並んでいる。

 批判する人たちは、素人に任せて大丈夫なのか、あるいは専門家を無償で働かせるなんて虫が良すぎるじゃないのか、と指摘する。



 こうやって考えると、今までのオリンピックはどうやってやったんだ?という疑問が出てくる。

 実際、ここ数年のオリンピックは、ボランティアをめぐって色々問題が出ていた。

 なにせ、SNSが発達してしまっているから、問題点などすぐに広まる。

 とはいえ、祭典そのものが破たんしたわけではないから、色々な人たちの犠牲のうえで、何とか成り立ったのであろう。

 だから、日本でもできるに違いない、というポジティブシンキングには、一定の理がある。



2.右から左まで「やりたくない」

 何より面白いのは、ネットの記事では右から左まで、ほとんど誰も「私はやるぞ!」「楽しみだ!」と言っていない。

 やたらポジティブなのは「ほぼ日」のスタッフさんくらいで、どういうわけかネトウヨの方々まで消極的姿勢である。



 五輪ボランティアは、結局のところ、誰かを攻撃する仕事ではないし、マウンティングの材料にもならない。

 だから、攻撃的な意味で「愛国」を唱える人にとっては、たまった鬱憤を晴らすものにはならないかもしれない。

 ネトウヨはネットを捨て、町へ出て、普段の生活や仕事でたまった沢山の鬱憤を無償であるボランティア活動で解消できるのか。

 普段の仕事と同じように、誰かに苛められたり、上手くいかないだけの経験になるか。

 それとも、自分が誰かの役に立っているという、超ポジティブな気持ちになれるのか。

 これは非常に面白い問いだ。ぜひとも多くのネトウヨさんたちに試してもらいたい。



 おそらく、まだ五輪ボランティアと愛国が十分に結びついていない。

 なるほど、愛国を考えるうえでは、これも問題だ。

 ナショナリズムとボランティアを結び付けることは、ある意味、最終手段だが、

 背に腹変えられず、委員会がこれをテレビで大々的にやったら、ものすごいことになるだろう。

 CMを電通がつくって、そこにゆずとかRadの歌を流して、政治的な発言で知られるタレントさんを沢山出せば、何かヤバいものが完成しそうだ。



3.ボランティアから見えてくるだろう本質

 まあ、そういう空想はさておいて、ボランティアの問題から見えてくるのは、日本の社会の基礎体力のヤバさだろう。

 もし沢山の人がボランティアに応募してくるのであれば、正直、私はすごく安心する。

 はっきり言って、ボランティアに応募できる人には、心と体の余裕がある。

 休暇もとれて、体力や気力もあって、金銭的に困窮していない。



 現役世代は、大半が企業に搾取され、毎日疲弊し、場合によって子育てで五輪休暇どころではない。

 日本の場合、「市場」という領域がやたらめったら大きい。

 会社以外の世界で自己実現しようという考えを持つ人が、非常に少ない。

 たとえ会社以外の世界の自己実現を重視している人でも、公共的なものではなく、きわめて私的(つまりヲタク的)なものが多い。

 こうした日本の場合、ボランティアが魅力的に映るのは、一体誰にとってだろうか。



 そう考えると、日本の場合、大学生がボランティアの主力になるかもしれない。

 昨今の大学生は非常に忙しいが、多くの場合、体力もあるし、スポーツや国際的なものに関心がある人も多い。

 五輪時の大学生を全部かき集めると、少なくとも250万人にくらいにはなるだろう。

 しかし、4年生は就活だから省くと、180万人くらいになる。

 それから、全国の大学生というわけにはいかない。

 主に東京の大学生だとすると、東京には全国の大学生のおよそ3割がいるから、主力になるのは60万人くらいか。

 活動できそうな大学生のおよそ2割が参加すると、11万人のボランティアは満たされることになる。

 しかし、2割は不可能なので、絶対に社会人やリタイアした人たちが必要になる。

 日本の場合、70歳以上の人口は2300万人くらいいるから、大学生よりも圧倒的に期待できる。

 高齢者中心のボランティアに大学生が加わり、ほんのちょっとだけ現役世代が入ると考えるのが、まあ妥当なところだろう。



 さて、70歳以上を中心とした組織が猛暑の炎天下のなか、果たして死者を出さずにどこまで頑張れるのか?

 そして、英語やフランス語、スペイン語やらロシア語など多彩な言語が飛び交うなかで、どこまでグローバルに振る舞えるのか?

 すでにドラマの舞台はセットされているのだ!

 君たちの「おもてなし」の精神、「日本すごい」の精神の発露の時がきたのだ!



 まさに日本社会の基礎体力を象徴することになるであろう、ボランティア集団が一体どういう構成になるのか、

 これは日本の実態と未来を考えるうえで、きわめて重要なメルクマールになる。

 だから、この話は面白く、目が離せないのである。

某大学について

2018-05-25 08:06:06 | コラム的な何か
 話題になっている例の事件については、多くの人が書いていて、すでにツイッターも大喜利になっているので、ここに書くつもりはなかった。

 なかったのだが、件の大学について少しだけ書いておく。



 例の大学は非常に面白い組織だ。

 まず、学生数が日本で一番多い。マンモス大学の王である。

 数が多いゆえに入学式は日本武道館。

 OB・OGは有名人だらけ。



 それより何より、経営状況がすごく良いのである。

 私立大学の事業活動収入ランキングでは、2015年度一位だった。

 実際、私の分野の大学教員に聞いても、あの大学の評判はすこぶる良い。

 理系の場合も研究設備が相当整っていると聞く。

 教員もいわゆる生え抜きから外様まで色々在籍しており、バランスがいい。

 事務職員も生え抜きが多いのだろう。そして、その生え抜きの職員たちも教員をバカにしたり、圧力をかけたりしていないのだろう。
 

 
 その一方、経営のトップについては黒っぽい噂も聞く。

 特に理事などをめぐる学内の政治闘争は、熾烈をきわめるという。

 で、その政治闘争の主体が、どうも体育会関係のOB(OG)ネットワークらしい。

 だから、この理事は相撲部とか、○○はアメ○ト部とか、まあそういうことになっているそうだ。

 それは別にどうだっていいのだが、問題はさらにその関係者がいわゆる反社会勢力を利用して、その闘争を展開しているという噂である。

 最初、その話を聞いたときは「そんなわけないだろ」と、単なるゴシップとして受け止めたのだが、

 興味深いことに、4,5年前にアップされた某ネット記事で、この大学の文脈とは別のかたちでその噂を裏付けるように見えてしまう写真が出ていた。



 まあ、実際のところはよく分からないし、知りたくもない。

 ここでの話は、今回の事件とは実際何の関係もない。

 ただ、大学経営って凄まじい政治闘争なんだなあ、ということは頭に入れておきたい。

 考えてみれば、加○学園も政治力のお手本のような話だったわけで(違法かどうかは全く別にして)。



 そういうわけなんだけど、最後に言っておきたいのは「危機管理」って言葉の難しさね。

 たとえば、某大学の危機○理学部が、凄まじく揶揄されているじゃないですか。

 ただ、個々の教員からすれば、この話で公に意見を述べることほど、危険なことはないわけでね。

 つまり「危機管理」ってみんな簡単に口にしているけど、主語が大事なのね。

 そのうえで、その主体が何を目標にしているかってこと。

 某監督にとっての危機管理は、主語が監督個人で、

 選手を守るとか、大学の評判を守るとか、そんなことを目標にしていないわけで。

 だから、それはそれなりに合理的な行動ではあって。

 で、あとは政治力を全開にして、学内の圧力と闘うだけ。

 そうやって考えると、みんな、個人個人が自分を主語にして危機管理するしかないって教訓が引き出せる。

 言わずもがな、選手も。

アマゾン・プライム「有田と週刊プロレスと」:話の熱量と技術が心を動かす

2018-05-23 08:44:00 | テレビとラジオ
 ゴールデンのバラエティ番組の場合、台本に沿って大人数の人たちが流れをつくっていくことが多いが、

 昨今では、逆に一人の人間がじっくり自分の話したいことを話す、という番組も非常に熱い。



 いとうせいこうとユースケ・サンタマリアのトーク番組「オトナに!」や、

 惜しくも終了してしまったレキシとダイノジ大谷の情報バラエティ「アフロの変」などは、まさにそういう番組だった。

 ラジオで言えば、TBSラジオの「ウィークエンド・シャッフル」、その後継番組「アフターシックス・ジャンクション」なんかも、そういう番組だ。



 そのなかで、非常に評判が良かったのが、アマゾン・プライムの「有田と週刊プロレスと」である。

 くりぃむしちゅーの有田が、雑誌「週刊プロレス」のバックナンバーを一冊与えられ(どの号か有田は本番まで知らない)、

 そこから、一人のゲストとともに、プロレスについて語る番組だ。

 なぜ、この番組がそんなに面白いのか。

 重要なのは、ゲストの大半がプロレスを知らない人だということ。

 この番組では、有田がその人のためにプロレスの文脈を説明する。

 この番組を面白くしているのは、その説明における有田の熱量と話術が、信じられないほど凄いからだ。



 プロレスに興味がない人、プロレスを知らない人ほど、この番組に激はまりすること間違いなしである。

 有田の説明は、何より分かり易い。

 黒板を使って、丁寧に説明してくれる人間関係と歴史。

 凄まじいクオリティの選手のモノマネ。

 その場にいたかと錯覚するほどの、臨場感あふれる場面描写。

 プロレスの試合映像は一切放送されない。

 この番組の肝は、有田の話術一本。



 アシスタントの倉持明日香(元AKB)のプロレス愛と、多すぎない知識量も見事!

 プロレス弱者のゲストのチョイスや、週刊プロレスのバックナンバーのチョイスも、なるほどと唸ってしまう。

 番組スタッフのプロレス愛も半端ないことが分かる。



 しかし、何よりプロレスそのものが持つ魅力も忘れてはならない。

 暴力が嫌いな人、体育会系が苦手ない人。大丈夫。それもこの番組は面白いはず。実際、僕もそうだから。

 プロレスのポイントは、「本当のルール」がきわめて不明瞭だということにある。

 どういうことか。



 まず、プロレスの場合、勝敗はどこでいつ決まるのか?

 試合のなかで?試合の前?

 試合の前だとしても、それはどういう政治力学で決まるのか。

 スター選手は、どういう基準を満たすとスターになるのか。

 選挙をするわけでもない。試合の勝敗だけでも決まらない。

 人事を決める人たちのなかでの評価と、ファンの評価も一致しない。



 次に、プロレスの「良い試合」とは何か?

 技が多い?派手?いや、そういうわけでもない。

 お互いが技を全力で受け合い、掛け合う試合が良い試合?

 説得力のある試合こそ良いという人もいる。説得力って何?

 

 暗黙のルールで「本当に」蹴ってはいけない場所や、かけてはいけないタイミングや技があるらしいのだが、

 それはプロレスを沢山見ないと分からない。



 で、何が言いたいのか。

 プロレスには、人間が社会のなかで直面するあらゆる現象が凝縮されている。

 複雑で不透明で、勝敗や人事には多様な諸力がいちいち作用している。

 リングの世界と、裏の世界。メディア上の世界と、そこに描かれない世界。

 嘘と本当が混ぜこぜになっている。しかし、それでもリングで選手たちが傷つき、命がけで試合をしていることは本当。



 この虚実ないまぜの世界に垣間見える、誠実さや途方もない努力は驚くほど美しく、見るものを勇気づけてくれる。

 プロレスの世界で評価されるのは、肉体的な努力だけではない。

 社会的関係を司る努力もそれ以上に重要だ。

 それゆえに、様々なプロレス専門用語が芸能界の専門用語となり、テレビを通じて一般人が口にする普通の言葉になっている。

 たとえば、「ガチ」とか、「しょっぱい」(=つまらない)とか。

 あるいは、AKBのシステムも明らかにプロレスの影響を受けているようにしか見えない(実際、秋元さんは大のプロレス好き)し、

 ももクロのパフォーマンスにもプロレスの影響が色濃い。

 

 要するに、プロレスは教養になってしまっている。

 そして、それに値するほどの内容だということ。

 もしそれを知りたいのなら、そう、有田のこの番組が何よりおすすめなのだ。

誰もプロフェッショナルなんか知らないし、知りたくもない。

2018-05-22 13:49:46 | テレビとラジオ
 昨日、ある登山家の方の訃報を聞き、そして彼についての登山家コミュニティの意見を知って、なんだかモヤモヤしている。

 登山家コミュニティの意見では、その方の挑戦は、大学野球の選手がメジャーリーグのホームラン記録に挑戦するようなものだから、

 登山という試みの性質上、生命を落としてしまうかも、という話だった。そして、実際にそうなったという話。

 テレビなどのマスメディアや、よく分かっていないスポンサーが彼を死に追いやったという意見もあった。



 テレビというメディアはすごく怖い。

 その怖さは、しばしば人間を手段にして、何でもやってしまうところにある。

 台本をつくって、必要な部品として人間をかき集める。

 芸人さん、アイドル、文化人などなど。

 その文化人の枠内に、研究者が存在している。

 社会科学の研究者、自然科学の研究者、人文学の研究者、そして(研究をしていないという意味で)研究者ではないが、「研究者」という肩書きで出てくる人たち。



 番組に研究者という部品が必要になった時、テレビ局はその部品が純正のものか、それとも模造品なのか気にしない。

 それよりも、番組の台本にぴったりはまる部品がほしい。 

 研究者でも「もどき」でも、収録で話したことは切り刻まれて、ちょうど良い部品に加工され、番組の一部となる。

 民放のバラエティ番組になってしまえば、もはや特定の役割を演じさせられ、台詞を言わされてしまう。

 そういうわけで、多くの大学教員にとって、テレビに出ることはリスクとなる。

 それでもテレビに出る人は、使命感のある人か、(メディアの扱いに長けた)相当な実力者か、天真爛漫な人か、承認欲求が非常に強い人かのいずれかである。



 (研究コミュニティにいないという意味で)一般の人々は、テレビに出ている専門家が、専門家コミュニティでどれほどの存在なのか知る由もないし、知りたくもない。

 何なら「専門家コミュニティは、鼻につく貴族のような連中」ということで、目の敵にしている人もいる。

 昨今、エリートや専門家といった存在は、とにかく攻撃の的とされ、一般人の感覚こそ優位しており、彼らは嘘つきで既得権益を不公正に消費している悪者であるとされがちである。

 これは日本に限らず、先進国であれば、ほぼすべての地域で類似の現象が見られる。

 自然科学も社会科学も同じで、極端な話、近年では「地球は平面である」という主張を繰り広げて、専門家コミュニティに戦いを挑んでいる人たちもいるという。

 ここまでではないとしても、私たちはマイナスイオンをはじめ、無数の似非(自然)科学に楽しく翻弄されている。



 人間個人の世界観と物語、

 大企業が打ち出したい世界観と物語、

 政治政党が打ち出したい世界観と物語、

 マスメディアが打ち出したい世界観と物語、

 たくさんの欲望をかなえてくれる、似非専門家。それはまるでドラえもん。

 本当か嘘かなんて、どうでもいい。

 僕たちが欲しいのは希望であり、夢であり、愛だ。マッチ売りの少女が束の間みるような、暖かい世界。

 似非専門家は、少女が消費するマッチ。

 輝きを放って、そして、消えた。

漫画「BLUE GIANT」:色々言いたいことはあるけど、それでも感動したと言いたい

2018-05-13 06:40:02 | コラム的な何か
 「BLUE GIANT」を読んでいる。ジャズの漫画だ。

 私のゼミ生が熱心に薦めてきて、じゃあ読んでみようかなあとなった。

 妻の評価は「まあまあ」といったところで、その理由も納得のいくものだった。

 しかし、私は読んでいて何度か涙が出た。なんでそうなったか、少しだけ書いておく。



 この漫画の問題は、ストーリーが早すぎることと、10巻に至っては若干安易に流れてしまっていることだ。
 
 すごく重要な人物の登場でも、さらーーっと通り抜けてしまう。

 また、脚本で一番やってはいけないとされる「物語上邪魔になった人物を交通事故に合わせる」というやつをやっていること(ネタバレになるから、詳しくは書かない)。



 そうした内容への不満はあるのだが、しかし、この漫画は音楽漫画に私が求める、非常に重要なポイントを押さえている。

 それは音楽を演奏している時の感覚や葛藤、その先に目指すイメージだ。

 私自身、ブラックミュージックを大学の時にやっていたから、よく分かるのだが、

 この領域の音楽の場合、途中で「自分の壁」が出てくる。

 どういうことかと言うと、ソロでアドリブをかましている時、どうしても「いつもの手癖」や「ありきたりなフレーズ」に悩まされる。

 自分自身を驚かせるような、新しい何かを生み出せない葛藤が生まれる。 

 フレーズはいつもと同じでも、違う弾き方、歌い方はありえる。

 何かを変えたい。新しい境地に行きたい。

 何を変えればいい?新しいアイディアとは何だ?

 本番こそ最高の練習で、そこで直面する壁こそ、成長にもっとも近い壁なのだ。



 この漫画は、ブラックミュージックのその独特の壁が良く描けている。

 そして何より、それを越えた時の感覚が、新しい地平に行けた時の、観客を巻き込んだ「おーーーーー」という感じが見事に描けている。



 主人公は天才なのだが、物語の(国内編)前半はそれを開花させるまでのプロセスが面白い。

 だが、(国内編)後半は事実上、主人公とトリオを組むピアニストが中心になる。

 彼は天才的ではあるものの、自分の壁を乗り越えるうえで、かなりの苦労を強いられる。

 それは彼の精神世界の問題そのもので、そことどう向き合い、取っ組み合うのかが見どころだ。

 その過程を読みながら、私は昔のことを思い出しつつ、何度か泣いた。



 この漫画を読みながら、自分が大学生の頃に親しくしていた、ジャズピアニスト志望の青年のことを思い出さざるをえなかった。

 それにまつわる記憶は、正直、あまり思い出したくない。

 だから、その思い出の箱を開けるのは、嫌だった。

 でも「ブルージャイアント」を読みながら、以前とは違う気持ちで過去を振り返ることができた(ような気がする)。



 私が親しくしていたピアニスト志望の青年は、自分の壁を越えようと、ライブで毎回苦闘していた。

 特に、アマからプロへ移行しようとした時期は、本当に毎日激しく闘っている様子だった。

 そんなある日、彼が大きく変わる事件が起きる。

 いつものように、地元のミュージシャンとライブをやっていた時、彼はやはり壁にぶつかっていた。

 しかし、その前から、彼には自分を変える方法がひとつ見つかっていたのだ。

 それは呼吸法だ。

 詳しくは書かないが、彼は新しい呼吸法でピアノをプレイすることで、新しい境地に進もうとした。

 ところが、その呼吸法は若干危険というか、訓練が必要なものだったらしく、

 ソロの途中で、なんと彼は突然気絶してしまう。

 ブラックミュージックをやったことがない人は分からないかもしれないが、

 この領域の音楽は、実のところ、普通では考えられないようなことが身体に起こる。

 私は吹奏楽やオーケストラでも演奏したことはあるが、ブラックミュージックのうまくいった時の興奮は異常で、

 いわゆるシャーマン的な、呪術的なものなのである。

 それゆえ、ある意味で危険と言えば危険なのだ。

 さて、気絶した彼はその後、どうなったのかと言うと、それが不思議なのだ。

 演奏が終わり、みんなが彼に気絶したことに気付いた時、観客も含め、心配の後に爆笑になったわけだが、

 驚いたのは、気絶以前と気絶以後の演奏が、まるで別人のようになったということなのである。

 音色の輝きがまるで違うのだ。



 で、その彼は最終的にプロになって、今、東京で活動しているのだが、

 「ブルージャイアント」との関連で言えば、彼や彼の周りの音楽家たちが究極的に目指すものは、漫画とは異なるように思う。

 「ブルージャイアント」では、ジャズが古典音楽化し、聴き手が減って、ポップスなどとの距離があることを一つの問題として措定している。

 そして、主人公たちがその垣根を越え、同時にジャズの根源に帰りながら、人気を博すという流れを目指している。

 けれども、私が知っているプロの人たちは、もっとすごいというか、別の精神世界での高みを目指しているように思える。

 売れる売れないというよりも、もっと本質的かつ反資本主義的な世界。

 私は当事者ではないので、詳しくは書けない。

 詳しく知りたい人は、ぜひ東京のアンダーグラウンドのジャズシーンを見てみてほしいのだが、

 みんなが想像できないほど純粋な人たちが、そこにはいたりする。

 「ブルージャイアント」が示す目標は、悪く言えば即物的だ。

 物語にも、そういう価値観とは異なるプレイヤーがぜひ登場してほしいと思っている。

理系と文系の「成果」についての相互の誤解

2018-05-08 06:45:25 | 日記
 日本の大学が、文科省の政策などを原因に没落し始めて久しいが、

 困ったことに、貧窮し始めた研究者がお互いにいがみ合う場面が見られるようになった。

 特に理系の研究者が、文系の研究者の様態を誤解したまま、少しズレた批判をすることが多々あって、非常に心を痛めている。

 そうした批判がなぜ出てくるのか、それらに理がないのか、などについてちょっとだけ触れておく。



1.ナショナルな影響

 文系の研究は、自分が所属する社会の影響を強く受ける。
 
 どういうことかと言うと、イギリスで重要とされる研究は、必ずしも日本では重要ではなく、

 日本で重要とされる研究は、必ずしもイギリスでは重要とされない。

 もちろん、これは理系でもありえることだろうが、文系の場合、これがかなり強烈だ。



 たとえば、法律について考えてみよう。

 イギリスの法律と日本の法律を比較する研究は当然存在する。

 しかし、日本の民法の細かい研究は、当たり前だが、イギリスではほとんど意味がない。

 悲しいかな、歴史的な経緯もあって、日本におけるイギリスの法律の研究以上に、イギリスにおける日本の法律の研究は価値がない。

 あるいは、軍隊の経営管理の研究も、同様に日本とイギリスでは価値が異なる。

 イギリスは世界各地で実践を経験しているため、軍隊の経営管理に関する研究には価値がある。

 ところが、日本は自衛隊が軍隊なのかどうなのか不明確なうえ、事実上、実践を経験していないので、(とりわけ学会では)軍隊の経営管理に関する研究にはまったく価値がない。

 

 だから文系の場合(一部の経済学分野などを除き、という注釈がいるが)、英語の学術雑誌の価値は理系の場合よりも、圧倒的に低いのである。

 要するに、文系の場合、普遍的に共通して重要なイシューが圧倒的に少ないのである。

 私自身、イギリスで博士号を取得するまでは、そのことを軽く見ていた。

 ところが、行ってみて、そして帰ってきてみて、二度のカルチャーショックを経験し、

 このことが研究者個人の行動にきわめて大きな影響を及ぼしていることが分かった。



 インターナショナルな査読論文というものはある。

 あるのだが、アメリカかヨーロッパのいずれかの社会的・学術的文脈を前提にしている。

 そこに投稿し、掲載されるのには非常に労力がいる。

 にもかかわらず、日本での評価にはあまりつながらない。

 それゆえ、海外博士号も研究の意義を日本の文脈に合わせてうまく売り込まないと、評価されないことも少なくない。

 私自身、この点ではやはり苦労した。



 だから、文系の場合、英語でアメリカかヨーロッパの「インターナショナル」な学術誌に投稿することは、

 注意深くやらないと、日本の学会での評価につながらないため、無駄骨になる。

 それゆえ、文系の研究者があまり英語論文を出そうとしないのは、出すことに強いインセンティブがないからなのである。

 ここが理系の研究とかなり違うところで、よく誤解されてしまう。

 でも文系の研究者が皆、サボっているのではない、ということは理解してもらいたい。



2.本の価値

 もうひとつ理系の研究者に批判されてしまうことがある。

 それが「本」をめぐる評価である。

 この点については、微妙に理系からの批判にも理があるのだが、以下に説明しておきたい。



 日本の学会特有の問題があって、それは「本」の評価が異常に高いことである。

 しかし、(日本の)学術本には査読(他の研究者からの審査)がない。

 にもかかわらず、ある特定の本は評価される。

 評価の基準は幾つかある。

 ①有名出版社かどうか

 ②何らかの学術賞を取っているか

 ③学会で評価されているか



 ①以外、すべて事後的な評価になる。

 そもそも有名出版社だったら、何なのか。

 いや、実はこれが事実上の査読なのである。

 有名出版社の場合、出版にこぎつけるには、複数の編集者による「査読」を通らなければならない。

 学術的な意義はどうか。そして、何部売れそうか。

 学術的意義だけでなく、商業的なハードルも越えなくてはいけない。

 英語の本の場合、商業的なハードルは若干低いのだが、研究者による査読がある(場合がある)。

 これに比べると、日本の本は実に奇妙な評価基準であると言わねばならない。

 しかし、日本式の有力編集者による「査読」は、かなり実を伴っている。

 それゆえ、実質的に機能している。だから、どうしても評価基準として捨てられないのである。



 もちろん、②・③は事実上のピア・レビューなので、納得してもらえるとは思う。

 ただ、ここで重要なのは、その価値を示すには、出版それ自体だけでなく、学会での評価を示す別の証拠を出さなければいけないということだ。



 本について、もうひとつ誤解されていることがあって、

 それは何かというと、論文に比べて、期待される内容のレベルが圧倒的に高いということだ。

 どういうことかというと、まず理系について考えてみたい。

 理系の場合、インターナショナルな学術誌のなかでも、ランクの高い学術誌での掲載は、自動的に価値が高いはずである。

 ところが、文系の場合、論文一本で明らかにできることに限りがあるため、

 どうしても最終的に本(モノグラフ)のかたちで論じることが求められる(一部の経済学や心理学などの領域を除く)。

 本(モノグラフ)の場合、要求される内容の量がとんでもなく多い。

 論文のなかでは簡単に触れるだけで済んだ部分も、長尺で論じなくてはならない。

 だから、誤魔化しがきかない。

 しかも、日経新聞を読んでいる層全体に理解してもらえるくらいの分かり易さを要求される。

 文系の研究の場合、広くエリートに理解してもらえることを目指す必要がある。

 本はその点、売れる必要があるため、必然的に分かり易くせざるをえない。

 それゆえ、文系の場合、本(モノグラフ)の評価が高いのである。



 理系の研究者から見ると、本の評価が高いことが理解できないため、

 文系の人たちが査読を嫌がって本を出していると誤解してしまうことがある。

 違うんだ、そうじゃないんだ。

「赤い公園に石野理子が加入」のニュースのことばかり考えている

2018-05-07 10:34:48 | テレビとラジオ
 仕事が忙しくて、書くエネルギーを全部そっちにもっていかれていた。

 GWは遊んだり休養したりできたので、ようやくエネルギーがまた、たまってきた。

 そんななかで聞こえてきたのが「赤い公園に石野理子が加入」のニュースだった。

 それからしばらく、僕はそのことばかり考えている。



 「赤い公園」は公園の名前ではなく、バンド名である。

 元々は女性4人のロックバンドだったのだが、昨年末、ボーカルの佐藤千明が脱退し、3人になっていた。

 赤い公園の楽曲は、独特の熱量がある。

 歌詞はかわいらしい一方で、情念に満ちていて、

 曲はポップである一方、どこか捻じれている。

 誤解を与えそうなイメージで言うと、ある意味で「エヴァンゲリオン」みたいな感じ。

 つまり、外見はロボットっぽいんだけど、実質的には、よく分からないグロテスクな生命体に、それらしいフォームを与えたみたいなこと。

 ひとつひとつの楽曲は凄まじい衝動や情念が基礎になっているものの、巧みなポップスの方法論で、きっちりと仕上がっている。



 絶妙なバランスなのは、楽曲だけではない。

 赤い公園の世界観は、ギターの津野米咲による作詞・作曲と、佐藤のゴージャスかつキュートなボーカルが混ぜ合わさることで、絶妙なバランスで成り立っていた。

 佐藤のボーカルの技術は凄まじい。キャリアを積むごとに、年々パワーアップし、現在、最高地点を更新している最中だ。

 彼女の声や歌唱は、時にイノセントな少女のようでもあり、時に妖艶な女性のようでもある。

 歌いあげ過ぎない一方で、過不足なく楽曲の情念も体現する。

 そのボーカルをギター、ベース、ドラムが有機的に混ざり、支える。

 特に津野のギターは変幻自在で、動きが複雑だ。

 正確には「津野文法」みたいなものがあって、それに沿ってコードなりリフなりを鳴らしている。

 それが年々拡張し、ますます自由になっている。



 こうしてメンバーが全員著しく成長して完成したのが、2017年のアルバム『熱唱サマー』だった。

 まさに名盤としか言いようがない、恐ろしいアルバムで、技術も情念もポップセンスも、すべてが過剰なのだ。 

 この過剰さゆえに、アルバムの香りを「良い匂い!」と言うのか、それとも「臭ッ!」と言うのかは、人それぞれだと思うが、

 僕は、誰にとっても聴けば聴くほど、味わいがあるアルバムだと思っている。



 この『熱唱サマー』の発表と同時に、ボーカルの佐藤の脱退が明らかになった。

 多くのJロックのリスナーたちが一体、赤い公園はどうなるのか興味津々で見ていた。

 そして、先日のロックフェスで、まさかの新ボーカル加入のニュースである。



 新ボーカルは石野理子。

 この間、惜しまれながら解散したばかりのアイドルネッサンスのメンバーだった人物だ。

 アイドルネッサンスは、アイドルのなかでも異彩を放っていた。

 何と言うか、青春のイノセンスを徹底追求したようなグループだった。

 だから、早期の解散は、すごく理に適っているのだが、ファンに与えた衝撃も凄まじいものだった。

 何せ、これから数年の間に大ブレイクしても、おかしくなかったからだ。



 そのなかで、一際力強い、芯のある、エッジの効いたボーカルで目立っていたのが、石野だった。

 石野は、普段の言動も思春期特有の危うさをはらんだ人物で、

 それは彼女の衝動や情念の強さをよく示していると、僕は解釈していた。

 石野の歌も表情も、危なっかしい言動も、すべてを含めてスター性があった。

 グループが解散すると知ったとき、多くのファンが石野の何らかのかたちでの音楽活動の継続を望んだ。

 彼女の才能は、埋もれさせるにはあまりにも惜しい!と。



 で、まさかの赤い公園への加入である。

 おそらく、日本のポップスをよく聴く人たちは、どちらの文脈もある程度知っていただろう。

 だからこそ、めちゃくちゃ衝撃だったのだ。

 そこがそういうふうにつながるのか!?という驚き。



 赤い公園のメンバーは20代後半で、石野は若干17歳だ。

 ある意味で、すごく良いバランスである。

 石野の可能性は、すさまじい。

 赤い公園の古参のファンのなかには、離れる人たちもいるだろう。

 その一方、新しいファンがどんどん増えるのも、明らかだ。

 石野の声は、赤い公園を敬遠していた層にも、一定程度届くだろう。

 そして、それが逆に佐藤千明の評価にもつながるだろうから、みんな得である。

 本当、小説よりも奇なり。

サカナクション「NFパンチ」と「魚図鑑」

2018-04-02 10:49:59 | テレビとラジオ
 サカナクションのベストアルバム「魚図鑑」が発売されて、予約していたものが家に届いた。

 サカナクションを知ったのは、留学先のことで、そこで友人がその良さを沢山教えてくれた。

 当時のサカナクションには、すごく北海道っぽさがあって、それが具体的に何かはうまく言えないんだけど、

 あの独特な自然のなかにいた人たちの「違和感」が楽曲のそこかしこに散らばっていた、そんな気がしていた。



 以降、ずっとサカナクションは聴いていたんだけど、

 徐々に距離ができていて、それはなんていうか、サカナクションが当初持っていた違和感みたいなものが

 かなり薄らいできたなあ、という印象があったからだと思う。

 アルバム「kikUUiki」までは、楽曲が明らかに歪(いびつ)で、どこか不器用な印象すらあって、それがすごく温かかった。

 その後は、楽曲の完成度がますます上がって、信じられないレベルに進んだのだけど、

 その分、自分が親しんできた歪さが無くなってしまった。



 だけど、やっぱりサカナクションは時代の空気を創っているのであって、

 山口一郎氏の葛藤や創造力は、あいかわらず、自分の研究をすごく刺激してくれている。

 だからこそ、私は今回のベストアルバムを聴いてみて、色々考えてみたかったんだと思う。

 サカナクションがどう変わってきたのか、また、自分がどう変化してきたのか。



 ベストアルバムを聴いて分かったのは、サカナクションがとても沢山のライトモチーフを最初から一貫して持っていて、

 しかもそれが結構沢山で、しかも現在まで継続している、ということ。

 北海道で培った沢山のエネルギーや感覚で、ものすごく沢山の音楽をつくってきたんだなと思った。

 インプットできる時間が減って、オリジナル・アルバムの制作がめちゃくちゃ遅くなってきた理由がすごく分かった気がした。



 サカナクションのことが気になりすぎて、いつの間にか、山口一郎が企画・出演しているスペシャの「NFパンチ」も見るようになってしまった。

 前回、前々回は「サカナ屋」(ミヤネ屋のパロディ)と題し、アーティストや音楽関係者を読んで、芸能ニュースを語り合っていた。

 そして、今回がラスト。

 すごく面白かった。

 アーティストの生身の人間としての大変さ(「ファン」らしき人間に殴られた、とか)など、この番組でしか知ることができない情報が沢山あった。

 山口一郎はキュートだ。そして、どこかすごく脆いように思えて、心配になる。



 なんでこんなにサカナクションにこだわっているんだろうと考えてみると、

 結局、自分にとってサカナクションは、北海道の人が東京で生きる面白さや難しさの象徴そのものなんだよな。

 この数日で、そのことを改めて思い出して、

 ますます私はサカナクションの次のオリジナル・アルバムが楽しみになった。

めちゃイケが終わって、何が終わったのか

2018-03-31 23:34:25 | テレビとラジオ
今月は、めちゃイケの過去の企画を色々見返していた。

びっくりするくらいユニークで面白い企画も沢山あった。

どんな企画会議だったのだろう、、と想像したくなる。



Twitter上でも話題になっているが、めちゃイケはBPOを通じたテレビのコンプライアンスが一般化し始めたとき、最初に取り上げられた番組のひとつだった。

批判された「しりとり侍」は、ひとりの人間を袋叩きにする場面が面白いとされる以上、リンチを社会的に肯定するというメッセージになっているという指摘だった。

2000年代以降は、とにかくコンプライアンスが厳しくなると共に、テレビが多様な批判を受ける時代になった。

暴力や虚偽はダメという倫理的なものから、「友情は国境を越えない!ウソをつくな!」という政治思想的なものまで、ありとあらゆる批判が吹き出している。



コンプライアンスがバラエティを殺す。という話は沢山ある。

しかし、コンプライアンスを新聞やテレビで真正面から批判する人はごく少数で、反論は匿名や無名のネットに限られている。

なぜなのか。

それは、テレビ局も企業だからだ。

私やあなたの働く会社が取引先や顧客の顔色をうかがうのと一緒だ。

沢山のクレームが来れば、たとえ少数でもソンタクする。

そこに少しでも正論があれば、すぐに引き下がる。

コンプライアンスは企業一般の話で、テレビだけに限られない。

特に消費者を直接相手にする企業は、より敏感になる。



だから、めちゃイケは終わるが、コンプライアンスは終わらない。

誰が何を言っても、無駄だ。

だから、コンプライアンスをどうにかしようとするのは、

あなたや私が自分の働く企業の方針を大きく変えるのと同じように不可能である。

開き直るしかない。

コンプライアンスで失われるものもあれば、得られるものもある。

BPOのおかげで、デマや詐欺を流した番組は表だって止められるようになった。

コンプライアンスをネタにした笑いもある。



もし放送の規制から逃れたいのであれば、Amazonプライムなどの有料のネットコンテンツしかない。

つまり、公共性をあまり持たない番組なら、望み通りのエロでも暴力でも可能だ。

このやや奇妙な役割分担はもうすでにあるだけでなく、これからもっと激しく、明確になるだろう。

ネット番組なら、すでにデマでもフェイクでも何でも流れている。

それがもっとずっと有り難がられ、それぞれ自分の正義感を満たしていく時代になるだろう。



ただ、この役割分担は、社会そのものを分断し、公共圏をいつか食い潰すだろう。

めちゃイケのコンプライアンスが牧歌的でかわいいものだったと回顧する時代がすぐにくる。

私たちは批判もクレームもやめられない。ネットもやめられない。

政治をめぐって宗教戦争みたいなことになっている日本社会は、

あらゆる領域をその宗教戦争のフィールドに変えるだろう。

放送業界の自由化が進めば、

極端な民族主義者、人種主義者、ホモフォビア、

その逆のコスモポリタン、反人種主義者、クイア主義者、

入り乱れて殴り合い、テレビは戦場になる。



めちゃイケを終わらせたのは、視聴率の低下だ。

ただそれだけだ。

けれど、それとは別に、バラエティの公共性そのものも、実は瀕死なのかもしれない。

テレビが面白くなくなっているのではなく、

私たちがテレビを面白がれなくなっているのだ。

現状はまだテレビは面白い。面白がる努力さえすれば。

それもいつまで持つかな。

でんぱ組.inc「おやすみポラリスさよならパラレルワールド」がすごい

2018-03-12 06:39:12 | テレビとラジオ
でんぱ組.inc「おやすみポラリスさよならパラレルワールド」MV


でんぱ組の新曲がすごい。

かなりの衝撃がある。



作曲は、H ZETT M。不安定な調性の強烈なAメロは、いかにも彼の作曲という感じ。

演奏もH ZETTRIOなのだろう、衝動的で技巧的なベース、ドラム、ピアノが迫ってくる。

H ZETTRIOの演奏は、もちろん技術的にすごいわけだが、意図して「青臭さ」を残してもいるように思える。

この僅かな「青臭さ」については、非常に説明が難しいのだが、とにかく良い意味なのである!

たとえば、もしこれをプロパーのジャズ・プレイヤーが弾いたとしたら、かなり違った印象になるだろう。

もっと角の取れた、クールすぎる、引っかかりの無いものになるかなと思う。

H ZETTRIOは、いずれの楽器もアタックがかなり強い。手数が多い。

さらに、ジャズ特有のラグがそんなになくて(あるにはある)、グルーブがかなり軽く(しかしグルービィではある)、ロックやポップスと相性が良い。

それが、でんぱ組の声や表現と絶妙な化学反応を生んでいる。



Aメロはもちろん、調性が不安定な感じも、新生でんぱ組の「モダンアートっぽさ」「不思議なアダルトさ」とぴったりだ。

でんぱ組は、活動の最初からミキオサカベなどの気鋭のクリエーターとのコラボレーションが行われるなど、プロデューサーの卓見が光るグループだった。

秋葉原を中心とした日本の現代文化を再構成して発信しようというコンセプトも、アートに精通しているプロデューサーならではアイディアだ。

コンセプト倒れのアイドル・グループも少なくないなか、でんぱ組の実現力というか、パフォーマンスでの説得力は、破格と言わざるを得ない。

新生でんぱ組は、そこにブレがない。

アイドルをはじめとする日本のユニークな現代文化のなかで、さらに新しい世界を切り開き続けるという確かな意志が今回の楽曲からは強く感じられる。

H ZETTRIOの起用はもちろん、彼らのスタイルをかなりそのまま取り込んで、良い化学反応を起こしてしまうという点で、

(プロジェクトとしての)でんぱ組の実力はとにかく恐ろしいのである。

今回の楽曲の衝撃は、初めて東京事変を聴いた時の衝撃にも通じる。



作詞は、漫画家の浅野いにおだ。

でんぱ組での作詞と言えば、「あした地球がこなごなになっても」だが、この曲と今回の曲を聴き比べるのは非常に意味がある。

「あした地球~」は、アイドルとしての、あるいは女性としての、強さと弱さを絶妙なバランスで描いた、恐ろしいほどキュートな世界観だった。

でんぱ組は、そもそもアイドルである女性たちの半生を赤裸々に描くことで、多くの人生と共鳴した、ひどく奇妙なグループだった。

だから、「あした地球~」の歌詞の世界観が、彼女たちの文脈とどう関係するのか、リスナーたちが色々な思いを巡らせることができた。



今回の作詞もそうだ。

「おやすみポラリスさよならパラレルワールド」は、SFチックな世界で、明確な解釈を拒絶する抽象性があるものの、

明らかに新生でんぱ組の文脈とリンクする内容になっている。

最上もがが脱退していなかったら。そもそも彼女たちがそれぞれアイドルになっていなかったら。

そんな様々なパラレルワールドを想像しながらも、

最終的には、今おかれた世界で、自分が選択してきた道でやるしかない。

でんぱ組のコンセプトに立ち返り、それを追求していくしかない。



日本社会がパラレルワールドを想像しながら、平成の終わりに微睡んでいる(まどろんでいる)なかで、

でんぱ組は、その微睡(まどろみ)から抜け出して、前に行く進むことを謳っている。

女性アイドル・グループが先陣を切るように、これだけ未来を見据えてメッセージを発信している日本って、

なんだか、とても日本らしい。

だから、新生でんぱ組の波に乗れない人たちは、もう少し微睡んでいたい人たちなんだと僕は解釈している。

日本もいつか永遠に微睡む社会になるかもしれない。

でも、それには、まだちょっと早いでしょ。