それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

長い長い走馬灯、終わりの始まり:フジテレビ「27時間テレビ」

2015-07-27 13:17:11 | テレビとラジオ
 フジテレビの27時間テレビは、まるで終わりの始まりを告げる走馬灯のようだった。

 フィナーレで長い様々なダンスのメドレーが展開され、岡村隆史が懸命に踊り続けていた。

 テレビの黄金期だったと誰かが言い始めた、あのいつかの、昔の記憶にまつわる、踊り、踊り、踊り。

 沢山のお金をかけた豪奢で豪快なテレビ番組。そのオマージュに次ぐオマージュ。



 これは終わりを告げる走馬灯。

 もはや巨額の費用をかけた豪勢なテレビ番組は、まるで今の時代の風景を反映しない。

 高橋源一郎氏が「見える戦争と見えない戦争 (上)」(岩波の『図書』7月号)で指摘したとおり、現代人(特に若年層)にとっては、働くことそれ自体が戦争なのだ。

 安全保障の話、海の向こうの戦争の話。どれも分かるけれど、僕の周りの人間は過労や精神疾患で死にかけている。

 テレビもないような貧困世帯の子どもたちに、夢を与えるのはテレビではないだろう。

 豪勢なテレビ番組を懐かしみ、それを求めているのは一体誰だろう?

 美しい記憶だけでパッチワークされた、27時間。



 氣志團が言う、CDが売れない、音楽業界もピンチだと。

 一体誰が何のために音楽を買うのか?

 僕たちは馬鹿じゃない。

 音楽を聴く耳くらい、もうある。だって音楽はそこらじゅうに溢れてるのだ。もっとリアルな音楽を知っている。

 僕らがモノを買う理由は、昔みたいに単純じゃない。



 これは終わりの始まり。

 マッチョで向こう見ずで、多様性への配慮も無く、誰もが幸福だという勝手なシナリオのなかで、豪勢にやっていたテレビの終わり。

 さようなら、古いテレビ。

 僕たちはしばらく、あの幻の黄金期をオマージュした、あのまるで永遠に続くような走馬灯を見続ける。

 ありがとう、27時間テレビ。これからも幻だけを映し出して。

三宅隆太 著『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』:社会で生きるすべて人間に贈られた本

2015-07-23 09:11:45 | テレビとラジオ
 三宅隆太による『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』が非常に面白かった。

 著者は脚本家で映画監督、そしてスクリプトドクター。では、スクリプトドクターとは一体どういう仕事なのか?

 一言で言えば、迷走し行き詰ってしまった映画やドラマの脚本作りを第三者の視点から分析し、脚本完成を妨げている問題の打開を促す仕事である。

 映画でもドラマでも多くの人がプロジェクトに関わっている。それゆえ、脚本は脚本家だけによって作られるものではない。多くの人の利害を考慮し、様々な制約を前提にした上で作られるものなのである。制約とは具体的には、予算の制約、芸能事務所の利害で決まっているキャスト、スポンサーの要請などである。

 制約のためだけではないが、脚本の修正を繰り返すと、徐々に訳が分からなくなることがある(まるで『ラヂオの時間』)。その時、当事者同士の人間関係が危機に瀕するとともに、脚本ももはやどう直せば良いのか分からなくなってしまう。

 そこでその困った状態を抜け出す手助けをするのがスクリプトドクターなのである。三宅氏によれば、あくまで手助けというところが重要だそうだ。強権的にプロジェクトに介入して書きなおす、というのはスクリプトドクターの仕事ではないと彼は考える。

 *スクリプトドクターの詳しい説明は以下のラジオ番組も参照。
 https://www.youtube.com/watch?v=fCh1EHkN8fI



 本書は、そんなスクリプトドクターの仕事を解説するものなのだが、もっと深い内容になっていることをまず指摘したい。

 第一に、三宅氏は「人間が物語を書くとはどういうことなのか」を非常に平易な言葉でもって論じていく。

 人間は無意識のうちに自分の過去とともにある。自分が話を作り出す際には、必ず自分の記憶と歴史がそこに現れる。

 自分の物語はしばしば克服できない感情を隠そうとする。しかし、本当にその人が語るべき面白い物語は、自分が最も感情を揺さぶられる状況や情景を描くことなのだという。

 それは自分が体験した具体的な話ではない。そうではなくて、もっと「抽象的な構造」が実は自分の感情のスイッチとつながっている。

 物語には大なり小なり様々な抽象的構造が隠れていて(それはまるで動物の骨格のようなものだが)、それをよくよく認識する必要があることを三宅氏は解説する。

 プラクティカルな意味で、「抽象的な構造」は物語を書くうえでの手がかりになる。

 同時に「抽象的な構造」は自分の心のなかの葛藤を探る手掛かりにもなる。そして、その葛藤こそが自分が描く物語を魅力的にする源になるだという。

 本書には出てこないが、私の理解では例えば「エディプス・コンプレックス」などがそうした抽象的構造にあたる。言うまでもなく、エディプス・コンプレックスは単に親子関係や恋愛関係にのみ当てはまるものではない。これは人間の承認をめぐる葛藤の構造なのである。



 第二に、三宅氏は「脚本を書くということがどういう営為なのか」を適切に説明する。

 先に述べたように、ドラマや映画は多くの人が関わることで初めて完成する。だから、脚本を書くことはきわめて社会的な営みなのである。

 社会的な営みには当然紛争がつきものだ。様々な利害が絡み合い、ちょっと善意や悪意の無い言動が関係を掘り崩してしまう。

 脚本づくりは、その紛争の影響を大きく受けてしまう。

 それというのも脚本を書くということは、書き手の深いところにある感情を司る行為であるため、人間関係の悪化はプロジェクトのパフォーマンスに悪影響を及ぼすのである。

 つまり、脚本づくりはきわめて個人的で感情的であるにもかかわらず、同時に、非常に社会的で理性的な営為でもある。だから私から見ると、脚本づくりとははっきり言って、相性の悪い真逆の要素が結合した行為である。

 

 スクリプトドクターという仕事は、絶対に上記のことを前提にしなければならないのだと、三宅氏は指摘する。

 問題となる脚本が一体どういう構造のものなのか。

 さらに、脚本家の心の中に存在する構造はいかなるもなのか(彼/彼女がこだわっていることは何か=魅力は何か)。

 脚本家と他の関係者の人間関係はどういうものなのか。

 脚本をめぐる様々な関係を理解したうえで、脚本づくりの問題は解決されるのだと三宅氏は述べる。

 三宅氏は仕事の合間をぬって心理カウンセラーの資格を取るだけあって、クライアントを深いところまで理解しようと努める。



 読者諸氏はもうお気づきかもしれないが、この本の内容は人間が人間と関わり生きていく以上、何が問題になり、何がその解決の糸口になるのかを克明に記している。

 私の仕事が大学および研究関係ということもあって、この本の示唆は非常に深いものであった。

 だがおそらく、この本の示唆は多くの人に意味があるはずだ。なぜなら、仕事とは社会的な活動だから。

NHK・Eテレ「きょうの料理」:マロン、20分の死闘

2015-07-21 10:03:05 | テレビとラジオ
昨日の「きょうの料理」では、料理研究家マロン氏が20分間で3品の献立を作る、という企画をやっていた。

それが近年稀に見る激しく面白い料理番組だったのである。



マロン氏と言えば、マイルドなオネエキャラの料理研究家で知られている。

話しが上手なだけでなく、全体におしゃれで、スタイリッシュな雰囲気の料理をプロデュースしている。

辻調理師専門学校を卒業後、フードスタイリストとしてのデビューは83年だそうで、もうベテランの料理研究家のひとりである。



そのベテラン料理研究家マロンの本気が垣間見えたのが昨日の「きょうの料理」。

料理を単に20分以内で作るのではない。

材料を切り、調味料を量るのもすべて20分以内なのである。

これは案外難しい。

いやもちろん、簡単な料理を20分以内で作るならば、なんてことはないのである。

けれども、しっかりとした料理3品を20分で作るのは神業と言って良い。

昨日作っていたのは、「農園グリーンパスタ」、「クレソンハニービーフ」、そして「にんじんドレスの満腹スパサラダ」。

いずれも野菜を数種使っていて、味も美味しそう。クレソンハニービーフに至っては付け合せのじゃがいもまで付いている。

普通に作れば、一時間はゆうにかかりそうなメニューである。



マロンは収録前のリハーサルで、実は20分の制限時間をオーバーしていた。

つまり、そもそも無理に近いプログラムをこなそうとしていたのだ。

だが、マロンは自らのプライドにかけて、このメニューを20分で作りきる決意をしていた。



時間がなく、出来る限り効率的に動くために、アシスタントのアナウンサーは遠くから声をかけるのみ(いわゆる、天の声)。

マロンの集中力は半端ない。

料理が始まると、マロンはいつもの流暢な話し方で料理を説明しながら作っていく。

スタートから本気モードだ。なぜなら、リハーサルで時間をオーバーしているのだ。

あっという間に5分が経過する。

刻むべき野菜は無限にある。フードプロセッサーを使うものの、それでも大変だ。

ゆでるパスタは二種類。

肉も焼く。

パスタのソースもフライパンで作らなければならない。

ガス台はふたつだから、時間差でうまく処理していく。

ジャガイモも電子レンジにかける。



時間がどんどん減っていく。

焦るマロン。

マロンの手つきはどんどん素早くなっていく。

質問するアナウンサーの声をしばしば無視するマロン。

飛び散る野菜、鳴り響くタイマー。

マロンの所作はいよいよダイナミックになっていく。まるでジェイミー・オリバーのごとくだ(マロンにとっては心外かもしれない)。

5分が減り、さらに5分が減る。

アツアツのじゃがいもの皮を剥くマロン。

最初は熱いと言って布巾を使っていたマロンだったが、遂には素手で皮を剥くマロン。

アナウンサーに「褒めて!」と愚痴るマロン。

明らかにペースがまずいらしく、マロンはいよいよ素早くなる。

そして、遂にはこうつぶやいたのだ。

「マロン、落ち着け・・・」

まるでマンガのようなセリフ。それは本来心の声。これがマロンの本気。

マロンにこの言葉を呟かせるNHK・Eテレ。なんて恐ろしいテレビ局!



アナウンサーが言う。

「そんなに時間を気にしなくて大丈夫ですから!」

明らかにカチンときたマロン。

時間を気にさせているのは誰だ!貴様たちNHK・Eテレだろ!マロンが料理研究家プライドをかけてやっているんだぞ、黙れ!

そんなふうに言いたげなマロン。

だけど、マロン。一体、この料理は誰のための料理?

あなたの腕前でしか20分で作れない料理って、私視聴者には一体どういう意味があるの?

でも、関係ない。そんなの関係ない。

これは格闘技。

時間内に料理をつくる格闘技。

この番組はスポーツなのだ!料理というスポーツを楽しむ番組なのだ!



遂にサラダができた、ステーキもできた。

しかし、無情にもそこまで!

20分が過ぎた!

その一分後、パスタが出来たが、もう時間は終了している!

マロン、苦悶の表情。しかし、最後は笑顔でフィニッシュ!!



試食も何もなく、料理が出来たところで番組終了。

これはスポーツ番組、試食などというヌルいパフォーマンスはいらないのだ!!

ありがとう、Eテレ!ありがとう、マロン!

NHK「オイコノミア」:社会科学の理論と向き合う千鳥・大悟の活躍

2015-07-11 17:48:32 | テレビとラジオ
NHK「オイコノミア」は、経済学によって、われわれの身近な問題を考えるバラエティ番組である。

パーソナリティはピースの又吉。彼の落ち着いた語り口と独特のセンスが番組にぴったりである。

又吉とともに番組を進めるのが経済学を専攻する研究者で、それは番組のテーマによって変わる。



先日の「それっておトク?飲み屋選びの経済学」では、千鳥の大悟がゲストで呼ばれた。

大悟がすごく良いコメントをしていたので、今日はこの番組を取り上げることにした。

大悟は酒豪として知られ、それでこの回に呼ばれたらしい。

面白かったのは次の場面。

経済学の研究者が飲み放題はどこまで得なのか考えてみることを提案。

(*ちょっとややこしいので、適当に読み飛ばして。)

例えば、仮に飲み物をビールに絞って考えてみる。

まず、一杯目のビールにいくら支払いたいか(主観的な希望支払額)。・・・それを仮に500円とする。

では、二杯目は。・・・ちょっとビールにも飽きるので、400円としてみる。

これを繰り返すと、どんどん値段は下がり、6杯目は0円になる(と仮定してみよう)。

仮にビール一杯が単品で300円だとすれば、3杯目の時点で満足度は0になる。

単品でビールを3杯飲むと900円だが、支払希望額は1200円となる。

ということは300円得をし、それ以上、飲んでもこの「得」(支払いたい金額-実際の金額)は増えない。

もし、飲み放題を1500円とすると、どうなるか。

支払希望価格が1500円になるには、ビールを5杯飲む必要があり、この場合、飲み放題の価格と支払希望価格が一致する。

ということは5杯飲んだ場合、「主観的に支払いたい金額」=「実際に支払う金額」、になる。

もし6杯以上飲んでも、本人はまったく満足度がないため、意味がない。

この場合、飲み放題にしても、まったく得をしないという結論になる。



すごく簡単に言えば、飲み放題は沢山飲めば一見安いように思うが、実はそれは間違っている、ということ。

沢山飲んでも満足しないのだから、飲み放題にしても多くの場合、意味がない。

それを数値を使って説明すると以上のようになるのである。



しかし、この話に大悟は納得しない。

大悟は言う。「先生、2杯目からも1杯目と同じ満足を得られる人もおるのです。」

そうだ、主観的な満足は人それぞれなのだから、当然飲み放題が損とは限らない。

研究者は言う。「そのとおり、その場合、支払希望額の減り方が少ないんですね。そういう場合、飲み放題は得になります。」



さらに大悟は言う。「先生、途中で仲間が入ってきたら、また満足度が上がる場合もあります。」

そうだ、主観的な満足は外部的な要因によって影響があり得る。

例えば、三杯目でビールと相性の良い料理が出てきた場合、急にビールの満足度は上昇する。

研究者は言う。「そのとおり、この計算は外部的な要因を除外しています。」

大悟は追撃する。「先生、居酒屋は外部的な要因だらけです!!」



いいぞ、大悟。素晴らしいぞ、大悟。

そうなのだ。いかなる魅力的な社会科学の理論も、実際の社会ではまったく非現実的な場合も多い。

というか、そういう理論の方が多い。

理論は一度机上で組み立て、様々な要素を除外することで、成立する。

理論は、その後の様々な修正によって少しずつ現実的になっていくのである。

経済学の研究者の説明は決して無意味ではない。

しかし、それをそのまま鵜呑みにしてもダメだ。



もし、鵜呑みにしたらどうなるか。

鵜呑みにした人は、飲み放題の時に毎回、自分の支払い希望額を計算するだろう。

そして、それで損したのか、得したのかを考えるようになる。

この場合に何が起きているのか。

実は、理論が人間の主観を乗っ取ってしまっているのだ。

普通なら全く別の基準で自分の満足度を測っていた人間が、「理論」というものを飲み込んだ結果、満足度の基準を変更してしまった、というおかしな現象が起きたのである。

つまり、社会科学の理論は、人間の主観を乗っ取って変えてしまう場合があるのだ。

そういう意味で、社会科学の理論は一見、普遍的で中立的に見えるが、実際には人間の形成そのものに関与しているので、中立ではないのである。



ゲストである千鳥の大悟は、自分の経験と経済学の理屈をうまく比較して、人間と社会科学の相互作用を見事に照射してみせたのであった。

NHK・Eテレ「ねほりんはほりん」:第一回目から伝説的

2015-07-02 21:11:17 | テレビとラジオ
NHKのEテレ、それは今最も進んだ番組をつくるテレビ局。

そのEテレが放送した「ねほりんはほりん」は、NHKというよりスカパーなみにディープな番組だった。

「ねほりんはほりん」は、ぬいぐるみが話をする。つまり、マペット放送局的な番組である。

しかし、それはインタビュー番組である。

実名や顔を出せない人がインタビューに答える。インタビューアーは南海キャンディーズの山ちゃんとYOU。

ふたりはモグラのキャラクターに扮して、ゲストのブタさんから話を聞きだす。



最初のゲストは「プロ彼女」。

まず、この選択がすごいのである。

「プロ彼女」とは、能町みね子さんが考え出した概念で、芸能人やスポーツ選手などの男性と付き合うために様々な努力をする「素人」の女性のことである。

よくニュースで俳優や芸人さん、スポーツ選手が「一般女性と入籍」などと報道される。

では、この一般女性とは一体誰なのか?

「プロ彼女」の概念はその謎に見事に答えてくれる。

それは特別な「素人」なのだと。

元グラビアアイドルとか元モデルとかの経歴だが、インターネットで検索しても名前が出てこない。

スタイルや顔立ちが美しく、料理も得意で、気立ても良い女性。

この概念には皮肉が込められているように思える。

これはもはや「一般女性」ではないのだ、と。

そして、そんな摩訶不思議な生き方をする「プロ彼女」とは一体なんだろう、と。

有名人をねらう、という姿勢だけ考えれば、なんだかとても計算高いように見えてしまう。



ところが、である。

このNHKの「ねほりんはほりん」は、そうした私の先入観を打ち破ってくれた。

ゲストはスポーツ選手と結婚したばかりの「元プロ彼女」。

彼女は、スポーツ選手と知り合う手段について熟知し、スポーツ選手が必要とする料理や栄養学の知識を学んでいる。

もちろん、スタイルにも気を付けており、それを相手に見せる方法にも気を配っている。

さらに、スポーツ選手の仕事以外の趣味を丁寧に、そして秘密裏に調べ上げ、偶然を装って話を合せるのだ。

なぜ、そんなことをするのか?

彼女は言う。自分は誰かに認めてほしかった。親や同級生から疎外されてきた人生のなかで、自信を持ちたかったのだと。



YOUはこう言った。話を聞くまでは反感を持っていたが、聞いてみるととても気持ちが良い。女性はすべからくそうしたことをやっている生き物だ。やっていないで恋人が欲しいと愚痴る女性は多いが、それは努力が足りないだけだと思う、と。

私もそう思った。

いいじゃない、そういう生き方もいいじゃない。立派じゃない。

ある目標を持ったら、よく調べ、考え、努力し、天命を待つ。それはどんなものにでも当てはまる。

恋愛はまるで運命と奇跡から出来ているように思えるが、実際には意志と因果律と偶然の作用である。

だから、プロ彼女のやり方を非難する理由を私は見つけられなかった。



だが、同時に大事なことがある。

プロ彼女をもてはやしてはならない。

それは間違っている。

プロ彼女という概念はやはり皮肉なものだ。

モノ好きな人もいるなあ、という距離感がある。

それでいいのだ。

有名人と結婚することを女性の目標だなどと言い始めたら、社会は終わりなのだ。

人間の生は多様で、当然、善き生が何であるかは、それぞれの人が人に迷惑をかけない程度で決めれば良い。



話しは番組に戻る。

要するに、こういうことをNHKのEテレが取り上げる意味は何か。

もうEテレのEは単なる「教育 education」のEではない。

それはもはや「啓蒙 enlightenment」のEである。

「ねほりんはほりん」は、現在の日本の社会と人間を掘り下げようとする啓蒙的番組なのである。