それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

NHK「ミュージックポートレイト」:みうらじゅんはピーターパンか、それとも

2015-10-28 23:05:45 | テレビとラジオ
NHKに、みうらじゅんが出ていた。関根勤と対談している。これは見るしかない。

みうらじゅんも関根勤もどこかピーターパン症候群的な様子で、それが自分の内面と呼応してしまい、なんとも言えない気持ちになった。

みうらじゅんは、大学を出た後、イラストレーターとしておしゃれな絵を描いて生活するようになり、結婚もして子供もできて、それで特段不自由なく暮らしていたのに、「三宅裕司のいかすバンド天国」を見て急にそうした生活を棄てて、自分らしい破天荒な生き方を目指すようになった、と番組で語った。

そして、例のサングラスに長髪のスタイル、そしておばさんみたいな服、なのである。



最近、仲の良い後輩とランチをしていて、それで僕が大人になることを拒絶している自分について話したところ、彼はこう言った。

「同年代の人たちを見ていると、もう結婚していたり、仕事で偉くなっていたりします。そうすると、もう20代の終わり頃には、(スゴロクで言うところの)『上がり』になってしまうようで、そこで急におかしくなる人が結構いるんですよ。」

なるほど、そう言えばそうかもしれない。

研究の業界は、基本的に20代で「上がり」ということはない。少なくとも40歳になるまでは、全力で走ることが求められる。

特に強烈な知能を要する一部の理系の分野では、パフォーマンスの全盛期は30代で終わる。

文系の場合そこまでシビアではないが、しかし30代で基本的な方法論や使用可能なアプローチの範囲は、ある程度決まってしまう。

だから、一般社会人の20代で上がっておかしくなる、というのはあまり当てはまらない。

全盛期が終わっても研究はチームでやることも出来るし、教育も重要。あとは学内業務もある。メディアに出て自己実現の人もいる。

要するに、そこから第二の私の始まり、というわけだ。

というわけで、研究者は大人になって人生の在り方が決まって、詰まらなくなって、おかしな方向に行くまでにすごく時間がかかるのである。あっという間に50代になってしまう。



けれども、そんな研究者の世界でもセンセイになるという通過儀礼がある。

これを拒絶する人と、しない人がいる。

ピーターパンはここで問題になる。

拒絶する人は、徹底した反権威という理念でやっている場合もあれば、本当にピーターパンの場合もある。

はてさて。



そこで、みうらじゅんなのである。

みうらじゅん、みたいな人になりたいのかどうかなのである。

徹底してふざけていて、突き抜けて面白い。

思うに、ピーターパン症候群も中途半端だから詰まらないのかもしれない。

もう徹底して拒絶して、自分の面白いと思うことを追求していたら、それはそれで完成に近づくのかも、と思う。

でも難しい。

大人になっていくと、どんどん社会的な圧力も増していくものである。

それでもやっぱりふざけ続ける、みうらじゅん、みたいな人は、そういう意味では凄い人なんだろうな。

そういう人の色気っていうのは、確かにある。

それは単なるピーターパンではない。

TBS「有吉弘行のドッ喜利王」:これはドッキリでも大喜利でもない新しい何か

2015-10-24 14:10:54 | テレビとラジオ
 パッと題名を見て、正直面白くなさそうだと思った。ドッキリは嫌いだし、大喜利もやり過ぎて食傷気味だ。それを組み合わせても・・・と思っていた。

 ところが見てみると、面白い。スタッフに藤井健太郎氏(水曜日のダウンタウンやクイズ☆タレント名鑑でおなじみ)の名前が。それは面白いはずだ。



 番組の展開は単純。まず大喜利をやり、その後でその答えを実行に移す。

 例えば、「水をかけられた後にそれがチャラになる出来事とは?」というお題がある。

 それに対して、「横で矢代亜紀が雨の慕情を唄ってくれた」(かねきよ(新宿カウボーイ)の回答)と答えれば、その数カ月後、実際にそれをやってみて、回答した本人がどういうリアクションをとるのかを観察し、点数をつける。

 回答者たちは、大喜利がそれ自体で終わっていると思っているので、まさか実現するとは思っていない。もちろん、実現しないような答えが非常に多い。



 この番組がめっぽう面白いのは、ドッキリでは絶対に思いつかない企画が出てくるところだ。

 例えば、「こんな心霊ロケは怖がりづらい。どんなロケ?」に対して、原西(FUJIWARA)「うっすらとおさかな天国が聞こえてくる」。

 実際やってみると、これが面白い。何が面白いって、おさかな天国が暗闇の神社でうっすらかかっている、という情景が面白いのである。

 逆に実際やってみると、まったくドッキリとして成立しないものもある。

 しかし、大喜利を実際に実現したらどうなるか、というところがとても面白いのだ。

 それは地獄のようにくだらない。

 しかし、大喜利の答えを実際にやってみることはかなり大変で、そのバカバカしい一生懸命さが本当に素晴らしいのだ。



 ドッキリがなぜ廃れたのかははっきりしている。

 ただ過激になっていったからだ。

 そこに笑いの深みはない。

 (ドッキリを二回同じ展開でやってもらい面白さを競うという、まさにメタ構造的かつ芸人の技芸を楽しむとんねるずの企画は素晴らしかったが、そういうものは例外。)

 この番組はくだらいことを徹底的にやっていて、本当に素晴らしかった。



 ただ、最大の弱点は同じ企画が二度とできないことだ。

 大喜利が実現する可能性を演者が知ってしまったら、番組は成立しないのである。

 だから、この番組は一回限りのミラクルだった。

テレビ東京「SICKS ~みんながみんな、何かの病気~」:すごい加速度、鋭角で

2015-10-24 13:45:13 | テレビとラジオ
 おぎやはぎとオードリーのコント番組がテレ東の佐久間プロデューサーのもとで始まるということで、一部のファンからは大きな期待が寄せられていた。

 で、この番組がすごい。

 しかし、その凄さをうまく説明できる自信がない。



 この番組はコント番組である。そのなかでも、社会的な空気/病気を扱う番組だ。

 この番組のウリは、変なキャラクターがおかしな行動をとることではない。そういうコントの特性も無いことはないが、それがウリではない。

 また、最近のニュースを表層的に取り上げて、軽い笑いを詰め込むコント番組でもない。



 この番組は、まず芝居がうまい。

 どれくらいの上手さかと言うと、かつての「サラリーマンNEO」くらいうまい。

 だから、コントの嫌らしさ、狙っている大げさ感が薄い。



 また社会的な空気/病気を扱ううえで、この番組が優れているのは、視聴者に迎合しようとしないところである。

 これはテレ東の深夜の圧倒的な強みだ。

 誰にでも分かりやすい話しを必要以上に解説するかのように脚本を作るのではなく、おかしな世界の住人の日常をストレートに物語するので、そこに妙な説得力が増す。



 この空気/病気の中心になるのがインターネットだ。

 インターネットのレビュー、ニュース、論争/炎上、情報流出。日本社会の病気の中心的な<場>がインターネットだというのは間違いない。

 かく言う私も、テレビ番組のレビューをブログに書くなどとは、まさに一種の病いである。

 ネット上の「社会」に振り回せられる人間の姿。

 それをここまでちゃんと描いたのは、この番組が最初であろう。

 よく日本の映画で登場する犯罪者のキャラクターとして、ネルシャツでメガネの目つきの悪い、パソコンマニアの男という虚像がある。

 そういうキャラクターが登場する映画は、コントよりコント的だ。

 何が言いたいかといえば、インターネットに振り回され、病的な行動をする人々は、われわれそのものだし、まったく普通の一般人である。

 ヘイトスピーチの主体もひとりひとり見ていくと、まるでどこにでもいる普通の人であって、「犯罪者でござい」みたいな人の方が圧倒的に少ない。



 つまり、病的な空気の中に居ればいるほど、その空気をつかむのが難しい。

 その空気を上手いこと鋭くつかんでいるのが、この番組なのである。

 この番組をどのように理解するかは視聴者ひとりひとりの自由だ。

 どのような解釈をするにしても、通して見ていけば、おそらくその面白さが徐々に浸透しいくことだろう。



 遂に最新の回では、それぞれのコントのストーリーが連結し、笑ってしまうような奇妙な伏線の回収が展開された。

 こんなふうに説明しても、おそらく伝わるまい。初回から一気に見てほしいところ。

 テレ東、すごい。佐久間Pおそるべし。

 それにしても、このブログはまさにこの番組が取り上げる病いそのものだな・・・(苦笑)

バブルを笑うものがバブルと同じ空虚さのなかにいる:バブル懐古とTSUTAYA図書館

2015-10-20 22:38:05 | テレビとラジオ
 最近、テレビやラジオのなかでまたバブルを懐古する番組がちょっとずつ現れている。

 ただ、単に懐古するというよりは、ちょっと半笑いで振り返るという感じでもある。

 オードリーの若林は、バブルの頃に出された図書を読んだ感想として、「価値観のピラミッドがたった1つしかなかった時代」、「しかも、今ではまるで共感できない価値観」とラジオで述べている(「オードリーのオールナイトニッポン」10月17日)。

 この意見には私も大いに賛同する。バブルの頃の価値観は、今見ると異常に空虚だ。

 若林が指摘するように、当時「一流の何か」を盛んに求める言説が全盛だったが、今になってみると、その「一流」に合理的な魅力を感じることが難しい。

 例えば、一流のホテルの高級なレストランの食事の「効用」が一体どれほどのものなのか。

 今の日本社会では、同じコストでもっと自分独自の「善き生」を追求することがより合理的であるとされる。

 そこまでは良い。



 ところが、バブルが終わった後の日本社会は、徹底した合理性の追求ばかりが目立ち始めた。

 そのひとつの象徴がホリエモンだ。

 一見すると無駄にしか思えない儀礼(服装、あいさつ回り、根回しなどなど)をすべて否定し、経済的な利潤のみを良しとする経営。面白いことを徹底的に求め、最終的には既存の経営者層から大きなしっぺ返しを食らった。

 あの当時、すなわち2000年代半ば、彼の行動は痛快だった。

 日本を滅茶苦茶にした(としか思えなかった)既得権益に対する反逆のように見えたからだ。

 例えば、球団の買収では、古い経営によって野球の人気がどんどん低下しているなか、既存の経営陣の馬鹿げた政策は、多くの市民にとって害悪にしか見えず、ホリエモンはそれに対する救世主のようだった。

 合理性の追求は小泉政権の「構造改革」のスローガンとも調和し、あの時代の日本の精神を反映していた。

 自分たちの善き生を見つめ、社会的につくられた価値観を相対化することが、あの時期の若者の指針だったように思える。少なくとも私はそうだった。



 ところが、最近になって、その合理性の追求が置いてきたものについて考えざるを得ない事態が起きている。

 TSUTAYA図書館の問題だ。

 民間と協力した公的な図書館。まさに公共経営論的には合理的以外の何ものでもない試み。

 民間のノウハウを生かし、市民の満足度を引き上げ、経営も合理化する。

 素晴らしいことが起きるはずだった。

 ところがである。

 蔵書を古本で買ったところまでは良いとしても、そこで購入した本は滅茶苦茶な実用本の類いだった(これは報道の通り)。

 それ以上に問題だったのが、郷土資料などを廃棄していたことだ。

 利用者数、市民全体の満足度という指標では、ほとんどの人が読まないような郷土資料は捨てられるということらしい。

 これは実に興味深いが、実に絶望的な事態であった。

 郷土の歴史は郷土を形づくる根幹だ。

 歴史は書いておかなければ消える。歴史が消えれば、その町のアイデンティティそのものが消える。

 はっきり言って、その町は空き地だ。

 考えてみよう。もし、日本から日本史が無くなったらどうなるか。

 日本史が無くなったら、日本も無くなる。

 TSUTAYAの経営には、結局、カネを儲ける合理性以外に何の哲学もないんだな、と私は思わざるを得なかった。

 ヨーロッパなら笑いものだな。



 そんなことを思っていたら、そういえば、文科省の大学改革も似ている。

 文科省の最終的な目的は、単なる文系廃止ではない。

 これまでの流れを見れば分かるが、大学そのものを統廃合するつもりだ。

 大学関係者は知っているが、理系は経営が難しい。文系は研究結果や教育をするうえでコストが安く済むので、比較的経営しやすい。

 地方の大学で地方のサブエリートを生んでいない大学は、文系だろうと理系だろうと文科省は不要だと考えている。

 文系廃止は始まりにすぎない。

 私はこうした方針には一定の合理性があると思う。だから、文科省の方針をすべて否定するつもりはない。

 ただ、このまま行けば、日本で培われてきた文化や教養が崩壊寸前まで行くだろうとは思う。

 地方の中小大学は、案外、日本の文化や教養の集積地になってきたからだ。

 だが、それも維持できないほど、日本の経済状態は悪化しているのだということかもしれない(反社会勢力が分裂するくらいだから)。



 私だってこんなことは言いたくないが、日本の文化や教養は封建制の遺産とも言うべきエスタブリッシュメントの階層によって構築されてきた、

 それが日本各地に散らばっていて、北海道ですらその恩恵に浴してきた。

 北海道の地方都市ですら、十分に本州で戦えるエリートを生み、文化を育んできた。学問はもちろん、古典芸能から西洋芸術に至るまで、十分な消費人口と知識人が各地にいたのだ。

 だが、それも消費されきった。

 私はそれを肌で感じている。北海道の地方都市は確実に消滅する。文化を担ってきたエスタブリッシュメントの遺産ももう廃れている。

 悲しいから、これ以上具体的なことは言いたくない。



 私は職業柄多くの研究者に出会ってきたが、エスタブリッシュメントの出自の者は非常に多い。

 私は全くそうではないので、そうした人々に対する反骨心をずっと持ってきた。

 留学先もそうやって選んだし、自分自身の学問的アプローチも考え方も、それが反映されている。

 それが私のユニークネスにつながったから、それはそれで良い。

 言いたいことは、そんな私ですら、これ以上、エスタブリッシュメントの遺産が消えたら日本はまずい、ということである。

 こんな保守的なことを言う時代が来るとは思わなかった。

 でも、これ以上、教養と文化を支える基盤が消えたら、日本の政治は終わる。

 これは悲しい予言だ。

 イギリスは成長や発展を諦めた過去の帝国になったが、教養と文化は消えず、政治の強さが維持されている。

 日本はそれを支える地盤が消えかけている。

 これを意識化しないと大変なことになる。

 私は政治について基本的に全般楽観的だが、最近では、長期的には絶望的だと感じている。



 私は新しい教養の時代が到来するのではないかと考えてきた。私の周囲に空虚な合理性を超えて、文化や教養を備えた人たちが沢山いたからだ。

 しかし、社会の趨勢はその反対の方向に向かっているように見える。

 バブルを笑うのは良い。だが、我々は空っぽだ。あのバブルの時と全く変わらない。我々は笑われるべき存在だ。

台所3

2015-10-18 09:47:34 | ツクリバナシ
 近所から電子ピアノの稽古の音が同じ旋律を繰り返し、同じところでつっかかっている。

 その日は仕事終わりで、先生は友人の亀倉君と部屋で飲んでいた。

 「それでカフェーの女給さんとはどうなったのですか。」

 先生は頬杖つきながら、焼酎をちびりとやって、

 「そうだな、食事を一緒に一度した。」と言った。

 「で、どんな具合なのですか。」

 亀倉君はとにかく驚いていた。なにせ、あの学問以外に興味を持っていなそうな先生が女性と食事に行ったというのがどうしても信じられなかったのである。

 先生は焼酎の入った杯をテーブルに置きながら、つまみに作ったチャンジャとクリームチーズの和え物を箸でひょいと口に運ぶ。

 「どんな具合と言ってもね。普通に飯を食っただけだよ。」

 「どういうことで食事をすることになったんですか。」

 「質問がいやに多いね。いつもの会話とはまるきり違うじゃないか。何度も説明しているとおりさ。カフェーでどういうわけか話が弾んで、それで食事に行くということになったのだよ。」

 「そんなわけはない。」

 亀倉君から思わず本音が漏れてしまった。

 「失礼、そんなわけはないというのは間違いで、つまりですね、女給さんが先生のどこに興味を持たれたのか、ということなのです。」

 「知らんよ。ただ、洋行の話をしたところ、それがひどく彼女の興味を引いたようだよ。」

 「なるほど、洋行ねぇ。異国に興味があると。」

 「そうだよ、日本だってもう鎖国の時代じゃあないんだから。異国の風物に興味がある人だって、そりゃあどこかしこにも居るだろうさ。」

 亀倉君はまだ納得できないという様子で、先生特製の薬味の乗った冷奴を口に運んだ。

 「で、先生はその方にご興味がおありで。」

 「興味か、そうだな。無いとは言い切れない。まだ良く知らないし。」

 「歯切れが悪いですねえ、相変わらず。いけませんよ、そんなふうじゃ。女性相手なら、言うことはびしっと言わなくちゃ。」

 亀倉君はその女給さんのカフェーにひとりで密かに行ってみることにした。お店の場所は先生から聞いていたので、実際に彼女を見てみたいと思ったのである。