これまで能町みね子さんの著書を色々買って読んできた。『お家賃ですけど』が文庫になったのを良い機会に、早速購入し読んだ。
私はこの本がとても好きだ。とてもとても好きだ。
この本には、人間の可愛らしさや寂しさ、侘しさや趣深さなどが、とても複雑な色合い描かれている。
それは、私が言葉にしたかった何か、誰かに言いたかったけど言えなかった気持ちなのだと思う。
この本は、それを言葉で表現してくれている。
だから、この本を大切にしたいのだ。それは自分の気持ちを大切にすることだからだと思う。
本書はエッセーではない。自叙伝的小説である。入り口はあまり小説に思えないかもしれないが、読み進めていくと、これが確かに小説と呼ぶべきものだという確信に変わる。
だが、この本を無理にジャンルに分ける必要はない。むしろ、「古い築40年を超えた下宿風アパートを舞台にした、昔の東京の名残を探す、ちょっぴり生き急いでいる若者」の話だと思って良いと思う。でも、正確ではないかもしれない。
話しの舞台は、主人公が「加寿子荘」と呼ぶアパートであり、登場人物は主にそこに住む人々と、主人公が仕事などで出会う人々だ。
とにかく、この本の魅力は主人公の「観察眼」と「心の揺れ方」である。
主人公が出会う人々に見出す、可愛らしさや寂しさや侘しさや趣深さが絶妙で、これはきっと間違いなく能町みね子その人にしか描けない。
町中で出会うおばあちゃんのチャーミングさも、入院した病院で同室になった死と向き合うおばあちゃんの影の深さも、この小説では同じように大切に扱われる。
一方、主人公自身には生き方や世界観に様々な揺れがある。
例えば、どういう仕事をするべきか、どういう人たちと働くべきか、どういう働き方をすべきか、はっきりと決まっている部分がある一方で、常になんとなく揺れている。
正社員としてある程度決まったきっちりとした服装で、定時に会社へ行き、家とを往復する生活。主人公はそれを明確に拒絶する。
その一方で、アルバイトをしている会社の人たちに頼られ、正社員になってくれと言われると、それもいいかなとほんのちょっとだけ揺れる。
性別も揺れる。男性として住みだした「加寿子荘」。一度そこから引っ越し、今度は女性として戻ってくる。
こうした心の揺れは、どういう領域であれ、誰もが経験してきた揺れなはずなのだ。
最初から生き方を決めて、まっすぐ迷いなく生きてきた人がいるとすれば、それはとても珍しいだろうし、ある意味でとてもつまらないと思う。
境界線上を漂いながら、迷い続けるからこそ、人間は可愛いのであり、悲しいのである。
最後に私が一番ぐっときた場面ふたつを紹介しておきたい。
ひとつは、アルバイト先のひとつであるデザイン事務所の「師匠」が、奥さんの妊娠を機に焼き鳥屋さんになることを主人公に報告する場面。
師匠は、主人公と趣味がぴったりで、主人公は多くのことを彼から学び、そして日本酒の飲み友達になったのである。
師匠の事務所での仕事と飲み会は、いつしか主人公の生活の中心にすらなっていた。
そこで急に告げられる師匠の転職。
主人公は、一度にあまりに多くのことを告げられ、気が動転してしまう。そして、ぼろぼろと泣いてしまうのである。
【引用 121頁】
唐突に泣き出した私にお師匠さんは当然あわてたが、どうしたの、と聞かれても混乱のさなかで私は答えも見えず、「焼き鳥屋って、そんな、デザインをずっと一線でやっていたのに、いきなり焼き鳥屋って」という言葉が出ました。口に出しながら、これは答えじゃないと分かってきた。私は、いまここを満たしているオレンジ色の明かりがなくなることなんて考えられない。この嘘みたいなあたたかい光が消えるをことを考えていなかったんです。
【引用終了】
もし万が一、この本のこの場面が高校の国語の試験に出されたら、きっとこうなる。
「なぜ主人公はこの時、泣き出したのか。その理由を答えなさない。」
私は迷いなくこう答える。
「理由をもし一言で書くならば、それはこの小説を冒涜することそのものだ。こんな問題二度と出すな。」
この泣き出す場面には、様々な文脈が流れ込んでいる。とてもとても主人公が泣いた理由を一言でなど書けない。
読者はこの場面で主人公と一緒に泣いているのだ。だが、その理由はとても言葉で言いたくない、とても大事なことなのである。
もう一つの場面はこちら。
OLとしてアルバイトしてきた会社をいよいよ辞めることになり、迎えた送別会の場面。
【引用 180頁】
ああ、これは泣くところだな、って思うと泣けてきた。台本みたいに。でも芝居で泣いたわけではなくて、ほんとうに泣ける気持ちになったから泣いたのであって、その傍らで、ここは泣くところだろうという意図のある自分もいて、なんだろうこれは、夢で、背景さえ自分の思い通りになっちゃうような、それと近いのかも、っていう。そういう、でも、泣けたのはほんとう。悲しみでもうれしさでもなくて、涙っていう、ただそういう感情があるんじゃないかと思いました。しかしざっくり言うと感謝か。感謝なのかな。
【引用終了】
ここには主人公の誠実さと同時に生きにくさがよく表れている。
人間に与えられた社会的な役割、というものを常に観察し相対化している主人公。だからこそ、それがとてもバカバカしく思えてしまう一面がある。
だから、主人公はこの場面で社会関係としての「表層的な涙」の機能を突き放してしまう。
だが同時に、人間の本質として心から誰かに感謝して、ただただ涙が出るという自分も見つける。それを「涙という感情」として受け止めるのである。
ふたつの場面の涙は同じ涙でも、まるで色合いが異なる。
筆者が見つける多種多様な人間をめぐる色合いが、この小説にはびっくりするほど沢山描きこまれている。
もし、読者諸氏が生きる中で色々なことに揺れてきたなら、この小説は必ずやピンとくるだろう。
(変なドラマ化など絶対にしないで、とただただ願うばかり)
私はこの本がとても好きだ。とてもとても好きだ。
この本には、人間の可愛らしさや寂しさ、侘しさや趣深さなどが、とても複雑な色合い描かれている。
それは、私が言葉にしたかった何か、誰かに言いたかったけど言えなかった気持ちなのだと思う。
この本は、それを言葉で表現してくれている。
だから、この本を大切にしたいのだ。それは自分の気持ちを大切にすることだからだと思う。
本書はエッセーではない。自叙伝的小説である。入り口はあまり小説に思えないかもしれないが、読み進めていくと、これが確かに小説と呼ぶべきものだという確信に変わる。
だが、この本を無理にジャンルに分ける必要はない。むしろ、「古い築40年を超えた下宿風アパートを舞台にした、昔の東京の名残を探す、ちょっぴり生き急いでいる若者」の話だと思って良いと思う。でも、正確ではないかもしれない。
話しの舞台は、主人公が「加寿子荘」と呼ぶアパートであり、登場人物は主にそこに住む人々と、主人公が仕事などで出会う人々だ。
とにかく、この本の魅力は主人公の「観察眼」と「心の揺れ方」である。
主人公が出会う人々に見出す、可愛らしさや寂しさや侘しさや趣深さが絶妙で、これはきっと間違いなく能町みね子その人にしか描けない。
町中で出会うおばあちゃんのチャーミングさも、入院した病院で同室になった死と向き合うおばあちゃんの影の深さも、この小説では同じように大切に扱われる。
一方、主人公自身には生き方や世界観に様々な揺れがある。
例えば、どういう仕事をするべきか、どういう人たちと働くべきか、どういう働き方をすべきか、はっきりと決まっている部分がある一方で、常になんとなく揺れている。
正社員としてある程度決まったきっちりとした服装で、定時に会社へ行き、家とを往復する生活。主人公はそれを明確に拒絶する。
その一方で、アルバイトをしている会社の人たちに頼られ、正社員になってくれと言われると、それもいいかなとほんのちょっとだけ揺れる。
性別も揺れる。男性として住みだした「加寿子荘」。一度そこから引っ越し、今度は女性として戻ってくる。
こうした心の揺れは、どういう領域であれ、誰もが経験してきた揺れなはずなのだ。
最初から生き方を決めて、まっすぐ迷いなく生きてきた人がいるとすれば、それはとても珍しいだろうし、ある意味でとてもつまらないと思う。
境界線上を漂いながら、迷い続けるからこそ、人間は可愛いのであり、悲しいのである。
最後に私が一番ぐっときた場面ふたつを紹介しておきたい。
ひとつは、アルバイト先のひとつであるデザイン事務所の「師匠」が、奥さんの妊娠を機に焼き鳥屋さんになることを主人公に報告する場面。
師匠は、主人公と趣味がぴったりで、主人公は多くのことを彼から学び、そして日本酒の飲み友達になったのである。
師匠の事務所での仕事と飲み会は、いつしか主人公の生活の中心にすらなっていた。
そこで急に告げられる師匠の転職。
主人公は、一度にあまりに多くのことを告げられ、気が動転してしまう。そして、ぼろぼろと泣いてしまうのである。
【引用 121頁】
唐突に泣き出した私にお師匠さんは当然あわてたが、どうしたの、と聞かれても混乱のさなかで私は答えも見えず、「焼き鳥屋って、そんな、デザインをずっと一線でやっていたのに、いきなり焼き鳥屋って」という言葉が出ました。口に出しながら、これは答えじゃないと分かってきた。私は、いまここを満たしているオレンジ色の明かりがなくなることなんて考えられない。この嘘みたいなあたたかい光が消えるをことを考えていなかったんです。
【引用終了】
もし万が一、この本のこの場面が高校の国語の試験に出されたら、きっとこうなる。
「なぜ主人公はこの時、泣き出したのか。その理由を答えなさない。」
私は迷いなくこう答える。
「理由をもし一言で書くならば、それはこの小説を冒涜することそのものだ。こんな問題二度と出すな。」
この泣き出す場面には、様々な文脈が流れ込んでいる。とてもとても主人公が泣いた理由を一言でなど書けない。
読者はこの場面で主人公と一緒に泣いているのだ。だが、その理由はとても言葉で言いたくない、とても大事なことなのである。
もう一つの場面はこちら。
OLとしてアルバイトしてきた会社をいよいよ辞めることになり、迎えた送別会の場面。
【引用 180頁】
ああ、これは泣くところだな、って思うと泣けてきた。台本みたいに。でも芝居で泣いたわけではなくて、ほんとうに泣ける気持ちになったから泣いたのであって、その傍らで、ここは泣くところだろうという意図のある自分もいて、なんだろうこれは、夢で、背景さえ自分の思い通りになっちゃうような、それと近いのかも、っていう。そういう、でも、泣けたのはほんとう。悲しみでもうれしさでもなくて、涙っていう、ただそういう感情があるんじゃないかと思いました。しかしざっくり言うと感謝か。感謝なのかな。
【引用終了】
ここには主人公の誠実さと同時に生きにくさがよく表れている。
人間に与えられた社会的な役割、というものを常に観察し相対化している主人公。だからこそ、それがとてもバカバカしく思えてしまう一面がある。
だから、主人公はこの場面で社会関係としての「表層的な涙」の機能を突き放してしまう。
だが同時に、人間の本質として心から誰かに感謝して、ただただ涙が出るという自分も見つける。それを「涙という感情」として受け止めるのである。
ふたつの場面の涙は同じ涙でも、まるで色合いが異なる。
筆者が見つける多種多様な人間をめぐる色合いが、この小説にはびっくりするほど沢山描きこまれている。
もし、読者諸氏が生きる中で色々なことに揺れてきたなら、この小説は必ずやピンとくるだろう。
(変なドラマ化など絶対にしないで、とただただ願うばかり)