それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ミステリー

2011-04-30 20:00:27 | 日記
少しスランプ。

オレは焦っている。

焦ってはいかんな。



何に苦悩しているかというと、

ミステリー小説って、事件があって、謎が出てくるじゃない。

それで、中盤どんどん謎が深まって引き込まれるとか言うじゃない。

だいたい、作家はそこに伏線をいくつも張っていて、後半、回収のフリとかダミーとか色々あって、終盤一気に回収されるじゃない。

論文も同じなのです。

で、これまで中盤の謎がどんどん深まるところまでは書いたわけ。

ところが、伏線回収がなんかうまくいかない。

書いてはみたんだけど、自分の中でなんか引っかかってる。

回収しきれてるか?回収の様が美しいか?

書くってむずかしいンだ。

ロイヤル・ウェディングについての雑談

2011-04-29 12:02:48 | コラム的な何か
今、イギリスでは英国王室の結婚式の話題で盛り上がっている。

しかし、BBC(イギリス)とCNN(アメリカ)を見比べ続けると、BBCよりも圧倒的にCNNの方が結婚式の話題を取り上げている、というのが面白い。

アメリカ人が持ちえないもの。それは王様(女王様)。

民主主義が世界中に浸透した(失敗も含めて)世界で、今さら人工的に「王様」や「女王様」を据えるのは難しい。

CNNの興奮は、失われた王様への憧れなのか?



報道を見ていて面白いのが、ロンドンの警備を担う警察へのインタビューだ。

出てくる責任者が皆、女性。おばさんなのだ。おじさんではない。

女性が警察組織のなかで、管理職にまでのぼっている。

日本ではどうだろう?



日本との比較で言えば、民間と皇室の関係を誰もが想起しているに違いない。

多くの報道が「英国王室は、ダイアナでの失敗から何かを学んだか?」と論じているように、

日本の皇室は皇太子妃での失敗から何か学んだか?



日本つながりで言えば、CNNの興味深かった報道に、日本の結婚式に関するものがあった。

震災後、結婚式の申し込みが急増、また指輪を夫婦やカップルで購入する人が増加したという。

災害が多くの人の人生観を変え、家族観を変えたのだろう、という話。

日本は初めて、市場以外に良き生の追求の場があることを知ったのだ。

村上龍が言うような「今、日本には希望がある」という現実がどこまであるのか分からないが、

神格化されてきた市場や経済の合理性が、ひとつの選択肢として格下げされる方向にはあるだろう。

続ハヤシライスの会(?)

2011-04-27 22:10:09 | 日記
Tさんが遊びに来ました。

彼と会うのは本当に久しぶり。

わざわざ来てくれたので、ご飯を作りました。

とはいえ、昨晩作ったばかりのハヤシライスと、韓国で買ったキムチを使ったスープ、ですけど。

昨年イギリスで結成されたハヤシライスの会はこんなかたちで生き残っているのであります(?)

前回僕がこちらで作ったハヤシライスには問題点があった、ということを認めたいと思います。

野菜が多すぎて、味が濁りました。すいませんでした。

思ったような味になりませんでした。第一回のハヤシライスに完全に負けたと思います。

今回、その反省を生かして作ったので、かなりうまくいった手ごたえが・・・。

それをTさんが食べて見届けてくれました。彼も会員です(彼は会の存在すらしらないのに)。

会員ナンバー4です(僕は3とかだと思う)。



彼が今日ここに来た目的は、地震の話をするため。

彼の世界観もまた大きく変わったらしく、彼からはとても興味深い話が沢山出ましたよ。

その世界観の変容ぶりに僕はかなり衝撃を受けたのですが、それはあまりここでは書かないでおこうと思います(個人の心の問題なわけだから)。

が、それにしても・・・。

日本人共同体を外から見ていた彼が、突如共同体の一員として何をすべきかという考えに至り(それにはかなりの道理があった)、

さらに文明やら生き方やら色々なものが見直された様子。

逃げた逃げない、とか、体験したしていない、とか、悪い悪くないとか、共同体そのものを見なおさせ、強め、同時に弱めた今回の震災。

彼の心は察するに余りあります。

結局、本質的にはまさにTさんそのものでした。

ただ、彼の話し方がかなり速くなったということと(=普通になった)、より積極的に話すようになった(=無口ではなくなった)という点で、外見だけでもずいぶん変わった、とも言えます。


恋愛の話だけ、とんでもなく笑えたのですが・・・(笑)そして、思いっきり突っ込みを入れたかったけど、抑えました。

(内容を書きたい・・・、でも人のことだから勝手に書けない、書けないことないけど・・・。)



僕自身の世界観にもとても大きな影響を与えている今回の災害ですが、

イギリスの陽気(天気やら市民やら)にほだされて、何かすっかり毒気が抜けたこの一週間。

急に大事なことを思い出したような気持です。

僕なりに出した答えを彼に伝えました。でも、答えを確定する必要はまだ無いのだろうと思っています。

まだ何も終わっていないのですから。

・・・しかし、論文は書かねばらなりません。

論文執筆

2011-04-27 21:40:56 | 日記
ここ数日、論文の執筆に没頭。

日本を発つ前から大きなプレッシャーを感じていた。

今回の章は書けるだろうか?とずっと気に病んでいた。

毎章、毎章、研究の対象が違う。

そのせいで、毎回、いちから新しいことを勉強する。

だから、毎回不安だ。

しかも、英語。



今回、ようやく壁を越えた。

何かが見えた。確かに書けている。

英語の作文にも手ごたえがある。

今日ようやくそう感じた。

今回、書くまでが長かった気がする。

今までにない量の文献を分析したが、今回ほどサラサラと手からこぼれていく不安に苛まれたことはない。

でも、何かを握っている。今、たしかに。

田舎のコンサートの思い出:音楽理論は魔法ではない

2011-04-24 16:23:00 | コラム的な何か
1、クラシックが田舎の民衆の手に渡った瞬間

書く気になったら書こうと思っていたことがあった。

日本にいたとき、北海道の片田舎であった、あるコンサートの話。

教育テレビの某五重奏音楽バラエティの編曲者兼ピアニストの彼が、札響を連れてツアーを行っていた。

それが何と、僕が滞在していた片田舎にも来るというのである。



会場に行ってみると、そこは体育館だった。小学校や中学校の体育館みたいな建物。いや、まさに小学校の体育館そのもの。

そこにフルオーケストラが待機している。

台に乗っているわけでもない。

観客と同じ高さで、観客のほぼ目の前にいる。

ちょっと歩けば、彼らに触ることすらできる。

なんと奇妙な情景だろうか。

会場には田舎らしい服装をした町人、村人が続々集まっていて、それはまるで一種の祭りのようだった。



指揮者で編曲者でピアニストでもある彼が、子供の遊戯室にひっそりと待機している。

控え室、楽屋、などといった気の利いたものなど無い。なぜならそこは田舎の体育館。

オーケストラの団員達は、体育館の隅で楽器を弾いたり、おしゃべりしたりしている。

すべてが丸見えだ。しかし、観客は見えていないふりをするかのうに、演奏が始まるのを待つ。



団員が席につき、指揮者兼ピアニスト兼編曲者の彼が花道から来た。

あのいつもの髪型、いつものメガネ、いつもの服装。

演奏が始まる。

オーケストラの音がどこかに吸収される。ここはコンサートホールではない。田舎の体育館だ。

音響の設計などもちろんされていない。反響する場所がないのだ。

オーケストラの素の音が観客に届く。演奏者たちはさぞ演奏しにくいだろう。



僕はその奇妙な光景に不覚にも心動かされてしまった。

前近代と近代が混ざり合っているような情景。

クラシックという権威が田舎の民衆の手に渡った瞬間。

そして、そんな瞬間はおそらく今後もうほとんど無いだろうという妙な切なさ。



曲目は、彼独特の編曲を加えられたクラシックやポップスのナンバー。

特に、ラテン系の楽曲が秀逸。

ブラスセクションがとにかくうまい。クラシックのオーケストラの強さを見せつける。

日本の童謡から、昭和のヒット曲まで、彼の音楽観があふれている。

コンサートはアッという間で、観客は本当に感動している様子だった。



2、音楽理論は魔法ではない

ところで、僕はある音楽バラエティの映像を久し振りに見返した。

例の菊地さんと大谷さんのアレだ。

彼らの本を何冊か読んだおかげで、色々なことが分かった。特に黒人音楽の仕組みや歴史については前よりも詳しくなった。

それを基にした番組。



生徒がいる。真剣に聴いている。プロのミュージシャンもいる。

彼らは何を求めるのだろうか。

理論に何を期待するのだろうか。



習熟したバークリー・メソッドで編曲された楽曲には、それなりの特徴がある。

別にバークリー・メソッドが分からなくても、そういうたぐいの曲を聴いていれば、だんだん「これ、そうかな」くらいは分かってくるだろう。

同様に、ある程度音楽を聴いていれば、「こっちの人はクラシックの作曲を勉強してきたな、芸大出だな」というのも分かる。別に素人だって。

アキラの編曲はまさに芸大出身のそれだ。

バークリー病という言葉があるように、バークリー・メソッドを習熟しすぎたあまりに、そのを使いすぎる人は本質を見逃す危険性がある。

人が理論や技術を使うのではなく、理論や技術が人を振り回してしまうことはよくあることなのだ。

しかし、アキラは人を、特に大衆を感動させるツボを心得ていた。良く計算されていた。

それはおそらく彼がそれまで沢山こなしてきた仕事によって学んできたことだろう。



音楽の理論や技術は魔法ではない。

しかし、知らなければ魔法のようなものだ。

逆に、ある程度、技術や理論を知って、それで初めて見えてくる天才の魔法もある。

あるいは、魔法でもなんでもなかった理論や技術も、多くの経験を積めば、魔法に変わるかもしれない。

それが本当の魔法だ。

魅力的な演奏家が持つ魔法。



感動は理論や技術から出てくるわけではない。

理論や技術を魔法のように使っても、すぐに見破られてしまう。

感動は、精神それ自体から生まれる。



片田舎で、建物もひどくて、そこには音楽的なインフラなど何もなかったとしても、感動は生まれる。

そこに本当の魔法をもった演奏家と、真摯な聴衆さえいてくれれば。