それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

市民によるオーケストラ:これが社会の豊かさだ

2015-11-23 19:41:09 | コラム的な何か
 友人が参加している市民オーケストラのコンサートに行ってきた。

 「アマチュアのオケ」などと侮れない。まず規模がフルオーケストラ。しかも、複雑な近代の交響曲を完全に演奏してしまうくらい演奏能力が高い。指揮者や客演はプロで、2000人近いホールが満員になってしまうほどの集客であった。

 驚いてしまうのはそこで配られていたチラシで、他にも市民オケや大学のオケが近隣にあり、コンサートを開いているという。

 つまり、クラシック音楽のプレイヤーがとんでもない人数で存在しているのである。



 そうなってくると、簡単にオケに入るということもできない。私の友人は楽器が上手でオケでの演奏経験も豊かだから、今の市民オケにも参加できているわけだろうけれども、なかなかそういうふうにはいかないものである。

 そもそも、アマチュアの演奏家ということは日常、仕事をしているわけで、その合間を縫って演奏するということは、やはりそれ相応の熱量が必要だ。

 今日のコンサートは、もちろん世界の名だたるオケのような演奏ではないにしても、私の胸を非常に熱くするものだった。

 音楽というのは、まず音量である。実のところ、これは当たり前のようだが案外見逃されている。

 大勢の人間が集まり、一斉に音を出す。その音が重なり大音量になるとき、聴き手は感情を揺さぶられる。

 そこに調性が現れ、旋律ができ、律動が生まれ、心の熱がこもれば、おのずと人間は感動するのである。

 さらに音楽は物理的な空気の振動以外にも心を伝える。それが「気」だ。

 曲を通じて自分の心身のエネルギーを放出することで、仲間の演奏者と観客に何かを伝える。

 フルオーケストラという仕組みはこの点から考えて、すさまじい発明なのである。

 声だけ百人というのはそれほど難しくないが、楽器で百人以上一緒に演奏するというのは、そもそもきわめて困難なのだ。

 百人それぞれの役割をもって(力を削ぎ合うのではなく)合わせるということは、奇跡的なことなのである。



 ここまで言っておいて私はオーケストラで演奏するのは嫌いなのだが(大嫌いなのだが)、聴くのは本当に楽しいことである。



 それにしても、市民がフルオーケストラをつくってしまう日本社会。恐るべし。

 音楽教育の普及のレベルがすごい。これが豊かさだ。

 市民が音楽を通じて自発的に組織化し、オーケストラという一種のassociationをつくる。これが市民社会だ。

 きわめて明るい話じゃないか。

「ボクらの時代 紀里谷和明×岩井俊二×園子温」:クリエイティビティと摩擦

2015-11-22 14:03:35 | テレビとラジオ
 昔、映画「CASSHERN」を観たとき、すごくびっくりした。僕は大学生だった。

 それで「すごい映画だったなあ」と思っていたら、他の学生が「あの映画はダメ」と言っていたのを聞いて、「あれ?僕が映画を知らないせいなのかな?」と思った。世間では確かに批判的な評価ばかりだった。

 「花とアリス」の評判も微妙だったが、僕はすごく好きだった。あれも大学生の頃だった。

 どちらの作品も自分ではなんだかすごく良いと思ったのだが、世間が批判的なものだから、僕は沈黙することにした。

 「冷たい熱帯魚」や「地獄でなぜ悪い」を見たのはもうすっかり大人になってからだったが、やっぱりすごく好きで、で、こちらは世間の評判と一致していた。

 そういうわけで、紀里谷和明×岩井俊二×園子温、それぞれの作品のなかに僕の好きなものがあるが、その三人が対談するというのだから驚いたのである。



 僕は今もまったく映画に詳しくない。ただ少し大人になって、職業柄、物語としての構造や社会科学的な意味のようなものを分析するのは比較的得意になってしまったので、そういう視点から映画を見ている。

 でも大学生の頃、映画を見る時にはそういう感覚はまったくなくて、ただ映像と音が流れ込んでくる驚きだけが僕を支配していた。

 どちらが本当の観方なのだろうか、と思うことがある。

 「CASSHERN」も「花とアリス」も、映画をよく知っている人にとってはおかしなものなのかもしれないけれど、でも僕が感じたことに嘘はないので、きっと何かすごい魅力があるはずなのだ、と考えるようにしている。



 対談のなかでは、この三人の学生時代の思い出が出ていたのだけれど、それが僕はすごく好きだった。

 共通するのは、小学校の沢山の奇妙なルールに疑問を持ったということだ。

 極端な例は、園がなぜ学校には服を着ていかなくてはならないのかと考え、全裸で登校したというエピソードだが(彼のエピソードはすべてぶっとんでいる)、それは真っ当な疑問だ。

 考えるということを突き詰めると、われわれは一度「悪い市民」にならざるを得ない。

 そんな園の父が大学の教員だったという話は、なんだか納得できる。



 また、三人が共通して語った日本の映画スタッフのめちゃくちゃさの話も好きだった。

 競争が無いから、それぞれ勝手な判断ばかりで全然仕事をしてくれない、という話。

 研究者も小さな島でぬるま湯に浸かっている人は、それはそれはひどいのだ。

 結局、クリエイティビティそっちのけで、全然どうでもよいことに力を使っていたりするのである。

 つまり、映画や研究そのものにリスペクトが無いのだ。



 僕は院生の時からそういうクリエイティビティの無い態度がすごく嫌いで、そういう人を心から馬鹿にしていた。

 でも大人になってみると、そういう人たちの人生に対する想像力がついてきて、

 昔みたいな怒りがあまり出なくなってきていることに気づく。

 もし怒らなくなったら、自分のクリエイティビティはどうなるのだろう。

 それでも僕は重なる業務のなかで、あの時の自分に認められるほど研究に誠実でいられるだろうか?

 それは単にぼんやり望んでいたもダメだ。本当にクリエイティブな瞬間や空間をできる限り維持、創造していくことが必要だ。

 来年、僕は同じことを言っていられるだろうか?

一億総「クラウド・ファンディング」社会:CDを買うことの意味が変わる

2015-11-14 10:05:47 | コラム的な何か
 最近、CDを買った。どうして買ったのかということを自分に問うと、それは次の作品を作ってほしいから、という結論に達した。

 モノを買うということの意味が、自分のなかで少しずつ変化している、ということに気づかされる。

 これまでは、例えばCD=3000円だとすると、そのCDがその値段に値するのかどうかを検討してきた。

 もし、その値段以上に値するのであれば、それを買うという決断になるわけだ。

 ところが「次の作品を作ってほしい」という考えは、「CDの値段3000円=次の作品への投資」ということになる。

 なぜそんなことをいちいち考えたのかと言うと、音楽は今あまりにも「無料」を前提にしているからだ。

 動画視聴サイトはもちろん、定額で聴き放題のビジネスも乱立しはじめており、それは限りなく「無料」に近い状態なのである。

 だから、CDを買うという圧倒的に時代遅れの行為を再定義する必要があるし、自分のなかの動機を明確化することに迫られたのだ。



 確かに、ある特定の商品を買うということは、元々一種の投資の機能がある。

 しかし、それは少し間違っている部分もある。

 なぜなら投資した場合には、投資者はその出資金がどのように使用されるのかチェックできるべきだし、次のプロジェクトに対する優先的な立場を得られるはずだからだ。

 翻って、CDを買うことは、商品とお金を交換したことによって完結する。だから、それ以後のプロジェクトへの特権は存在しない。

 それにCDの売り上げが十分でなければ、そのCD作製のプロジェクトのコストを回収できないわけだから、次のプロジェクトの投資どころではない。

 投資ということになるには、十分な利益が出ることが前提になる。



 けれども、そうだとしても、CDを買うことの意味を投資という方向に変えてみてはどうかと思うのである。

 今のCDの売り方は、CDに特典を付けることで、つまりオマケを付けて売るという方法だ。

 まったくのオマケなしがダウンロードによる購入。

 それよりもっとコストの少ない消費の仕方が定額視聴サービス、さらには「YOU TUBE」による視聴(ただし公式アカウントによる)。

 だが、それを次のプロジェクトへの投資という位置づけに変えると消費者の意識も変わるかもしれない。

 というか、すでにその方向に変わりつつあるのではないか。



 もしこの方向で変えると、CDを買うことによって次のプロジェクトについての知る特権が増える、ということになる。

 大きな出資者となれば、CDに名前が載ることもあるだろう。

 何よりCDの購買を投資として大々的に位置付けること自体に、それ相応の効果があるかもしれない。



 考えてみると、音楽をはじめとする芸能のライブやショーは、最近ではよく「物販でもっている」「グッズ販売が重要」などといわれる。

 消費者もそれを多少知っている。

 そこで売られるグッズにはもちろんそこでしか買えないという付加価値がある。

 だが同時に、次につなげたい、という意識がある場合も少なくないはずだ。

 例えば、小さな規模のラジオ番組などは、ライブ活動を行うことでスポンサー無しに維持している場合がある。

 リスナーはそのことを番組を通じて知らされており、それゆえにライブに行き、グッズを買うのである。



 こういう次のプロジェクトへの投資という考え方は、クラウドファンディングに似ている。

 クラウドファンディングとは、プロジェクトを立ち上げ、その企画内容を一般に知ってもらい、そのうえで広く寄付・投資を募る、というものだ。

 すでにベンチャー的なモノづくりや、映画製作で実行されている。また、もっとレベルの低い様々な企画をネット上では沢山目にする。

 これはどこまで広がりえるものなのだろうか。



 だが、ここで言いたいことは、クラウドファンディングそのものの可能性というよりも、消費や購買の意味の再定義の流れなのである。

 それは単に意識を変えるということではなく、その先に商品を提供する側の在り方も変えることになる。

 膨大なコンテンツが無料を前提にしつつある時代に、これは数少ない希望のようにも見える。

 ただ、これはすべて無知から生じる勘違いかもしれない。

ササダンゴマシン、「水曜日のダウンタウン」に登場:テレビは何を表現するのかが問われている

2015-11-12 23:53:23 | テレビとラジオ
スーパーササダンゴマシンというプロレスラーがいる。「DDT」という団体の選手で、非常にアイディア豊かな人だ。

彼が「水曜日のダウンタウン」に登場した。

ササダンゴマシンは最近少しずつテレビに出始めている。「アフロの変」ではもはや準レギュラーだ。

「水曜日のダウンタウン」の演出の藤井さんは大のプロレス好きで知られ、そのためこのキャストにつながったのだろう。

そのササダンゴマシンがテレビに出始めている、ということは非常に象徴的である。

それはテレビが何をどのように表現するのか模索していることを示唆している、と私は思う。



ササダンゴマシンはいわばプロレスを全く違う方法論で生き返らせてきた。

番組で紹介されたとおり、DDTは人形やほうきとプロレスをしたり、公園や本屋、工場などでプロレスしたりしてきた。

あるいは、パワーポイントを使ったプレゼンテーションを取り入れたりもしている。

これらにはすべて理屈があり、社会科学的な面白さがある。

我々がプロレスの官能性をどのように認識しているのか。DDTはその根本に迫り、批評的に試合を構築している。



あらゆる格闘技がそうだが、すべてにはルールがある。

リングがあり(場所が限定される)、選択できる行為/できない行為が決められる。時間にも制限がある。

すなわち、時間・空間・行為が規定されることで試合が成立する。

これは生の現実ではなく、規定されたコミュニケーションだ。

(そうであっても私はあらゆる格闘技が嫌いである。人を物理的に攻撃するということが気持ち悪いのである。)

それが守られた試合が繰り返されることで伝統や規範になる。

テレビも同じだ。

番組にもルールがある。ルールに沿って現実が切り取られ、一つの幻影が出来上がる。

それが繰り返され、伝統と規範が作られる。

ところが、それがプロレスやテレビの限界をつくることにつながってきた。

暗黙の了解として問うてはいけないことが沢山生まれている。



では、どうすれば良いのか。と、テレビが混迷の時代に入り、そう問われ始めている。

インターネットとの競合のなかで、テレビの在り方はどうなのか。

ひとつの回答は、テレビが前提にしていることを問い直すことだ。

テレビが現実をどのように切り取り幻影をつくってきたのか、もう一度よく考えることだ。



重要なことだが、人間の本質は全く変化していない。

少なくとも百年間はそれほど変わっていない。

切り取り方の工夫や幻影のセンセーショナリズムではなくて、

人間の本質(例えば官能性)にどのように迫れるのかが、テレビに問われている。

ササダンゴマシンの「プロレスの表現、多様になっている説」は、テレビの在り方そのものに対する問いかけではなかったか。