友人が参加している市民オーケストラのコンサートに行ってきた。
「アマチュアのオケ」などと侮れない。まず規模がフルオーケストラ。しかも、複雑な近代の交響曲を完全に演奏してしまうくらい演奏能力が高い。指揮者や客演はプロで、2000人近いホールが満員になってしまうほどの集客であった。
驚いてしまうのはそこで配られていたチラシで、他にも市民オケや大学のオケが近隣にあり、コンサートを開いているという。
つまり、クラシック音楽のプレイヤーがとんでもない人数で存在しているのである。
そうなってくると、簡単にオケに入るということもできない。私の友人は楽器が上手でオケでの演奏経験も豊かだから、今の市民オケにも参加できているわけだろうけれども、なかなかそういうふうにはいかないものである。
そもそも、アマチュアの演奏家ということは日常、仕事をしているわけで、その合間を縫って演奏するということは、やはりそれ相応の熱量が必要だ。
今日のコンサートは、もちろん世界の名だたるオケのような演奏ではないにしても、私の胸を非常に熱くするものだった。
音楽というのは、まず音量である。実のところ、これは当たり前のようだが案外見逃されている。
大勢の人間が集まり、一斉に音を出す。その音が重なり大音量になるとき、聴き手は感情を揺さぶられる。
そこに調性が現れ、旋律ができ、律動が生まれ、心の熱がこもれば、おのずと人間は感動するのである。
さらに音楽は物理的な空気の振動以外にも心を伝える。それが「気」だ。
曲を通じて自分の心身のエネルギーを放出することで、仲間の演奏者と観客に何かを伝える。
フルオーケストラという仕組みはこの点から考えて、すさまじい発明なのである。
声だけ百人というのはそれほど難しくないが、楽器で百人以上一緒に演奏するというのは、そもそもきわめて困難なのだ。
百人それぞれの役割をもって(力を削ぎ合うのではなく)合わせるということは、奇跡的なことなのである。
ここまで言っておいて私はオーケストラで演奏するのは嫌いなのだが(大嫌いなのだが)、聴くのは本当に楽しいことである。
それにしても、市民がフルオーケストラをつくってしまう日本社会。恐るべし。
音楽教育の普及のレベルがすごい。これが豊かさだ。
市民が音楽を通じて自発的に組織化し、オーケストラという一種のassociationをつくる。これが市民社会だ。
きわめて明るい話じゃないか。
「アマチュアのオケ」などと侮れない。まず規模がフルオーケストラ。しかも、複雑な近代の交響曲を完全に演奏してしまうくらい演奏能力が高い。指揮者や客演はプロで、2000人近いホールが満員になってしまうほどの集客であった。
驚いてしまうのはそこで配られていたチラシで、他にも市民オケや大学のオケが近隣にあり、コンサートを開いているという。
つまり、クラシック音楽のプレイヤーがとんでもない人数で存在しているのである。
そうなってくると、簡単にオケに入るということもできない。私の友人は楽器が上手でオケでの演奏経験も豊かだから、今の市民オケにも参加できているわけだろうけれども、なかなかそういうふうにはいかないものである。
そもそも、アマチュアの演奏家ということは日常、仕事をしているわけで、その合間を縫って演奏するということは、やはりそれ相応の熱量が必要だ。
今日のコンサートは、もちろん世界の名だたるオケのような演奏ではないにしても、私の胸を非常に熱くするものだった。
音楽というのは、まず音量である。実のところ、これは当たり前のようだが案外見逃されている。
大勢の人間が集まり、一斉に音を出す。その音が重なり大音量になるとき、聴き手は感情を揺さぶられる。
そこに調性が現れ、旋律ができ、律動が生まれ、心の熱がこもれば、おのずと人間は感動するのである。
さらに音楽は物理的な空気の振動以外にも心を伝える。それが「気」だ。
曲を通じて自分の心身のエネルギーを放出することで、仲間の演奏者と観客に何かを伝える。
フルオーケストラという仕組みはこの点から考えて、すさまじい発明なのである。
声だけ百人というのはそれほど難しくないが、楽器で百人以上一緒に演奏するというのは、そもそもきわめて困難なのだ。
百人それぞれの役割をもって(力を削ぎ合うのではなく)合わせるということは、奇跡的なことなのである。
ここまで言っておいて私はオーケストラで演奏するのは嫌いなのだが(大嫌いなのだが)、聴くのは本当に楽しいことである。
それにしても、市民がフルオーケストラをつくってしまう日本社会。恐るべし。
音楽教育の普及のレベルがすごい。これが豊かさだ。
市民が音楽を通じて自発的に組織化し、オーケストラという一種のassociationをつくる。これが市民社会だ。
きわめて明るい話じゃないか。