それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

テレビ東京のドラマ「アオイホノオ」:クリエイティビティの地獄と天国

2014-08-30 15:30:27 | テレビとラジオ
テレビ東京のドラマ「アオイホノオ」が一部で話題だ。

1980年代の、アニメ作家や漫画家などのクリエーター志望の(大阪芸術大学の)学生たちが織りなす、強烈に劇画的な青春群像劇である。

現在活躍しているクリエーターが実名で劇中に登場するため、どのタイミングでどのように、我々の良く知っている人たちが出てくるのかもひとつの見どころだ。

例えば、エヴァでおなじみの庵野秀明は、劇中で極端に芸術家的なキャラクターで描かれている。

それは明らかに実物とは異なるだろうが、しかし、本当の創造性を持っている人間という点で妙にリアリティがある。

極端な脚本を地に足つけたものにしている役者陣が素晴らしい。

主演の柳楽優弥をはじめ、周囲の個性的な俳優陣は、キャラクターだけでなく、演技の面でも高いクオリティを示している。



劇中で起きていることは何気ないことばかりだ。しかし、学生たちが新しいものを創造する際に体験する、無限の苦悩は、まさにクリエーターが必ず直面する地獄そのものだ。

例えば、劇中で主人公が女性のキャラクターをマンガのなかで描こうとする。

ところが主人公は叫ぶ。

女子がどういう体型で、どういう顔で、どういう髪型なのか分からない!!と。

そうなのだ。文字でも絵でも、とにかく何かを描写することは、思いの外難しいのである。

よく考えると、人間がどういう肉体で、どういう服装で、どういう声で、どういう思考で、どういう行動をとるのか、思い出そうとしても思い出せない。

まして、新しいキャラクターを創るとなれば、全く思いも寄らないのである。

そこで主人公はまた叫ぶ。

木を隠すなら森!女性のキャラクターを少女マンガから盗んで来よう!!

ゼロから何かを創るのは、本当に大変だ。びっくりするくらい辛い。

そこですぐに思いつくのが、マネである。

芸術でも学問でも、いかなる仕事でも、とにかくマネから始まる。

だが、問題はクリエーターになりたい場合、最後は確実にマネを超えなければいけない、ということなのである。

超えられないで剽窃やら盗作をしてしまう人たちもいる。

それはクリエイティビティの地獄に足を取られた人たちである。

その無限の地獄から一歩だけ這い出て、オリジナリティに到達する人たちがいる。わずかにだが、確かにいる。

そこにあるのは狂気だ。

まともな人間は地獄で葛藤し、狂気をもって一歩ずつ進むなどということはしない。

どうしても、自分でやらなければ気が済まない人がその一歩を踏み出すのである。



オリジナリティを信じて表現する。

その先に待っているのは、歓待と強烈な批判だ。

クリエイティビティの地獄は、まだ続く。

消費者や評論家が自分の思った通りに、作品を受け止めてくれるわけではない。

重要なことは耐え忍び、それでも自分を貫きながら、洗練させていくこと。

言うは易し、行うは難し。

かく言う私も、最近、投稿した論文をめぐって、クリエイティビティの地獄で戦っていた。

査読を通っても、なお分からない到達地点。

ゴールは見えている。言いたいこともはっきりしている。

はずなのに、自分の筆力が、知能が追い付かない。

諦観か、妥協か、闘争か。

修正を続け、最後の締切がくる。

「締切こそが最も創造的なもの」とは、私の恩師の一人の言葉だ。

私は論文を提出した。うっすらと悔し涙を浮かべながら。

それでも戦うのは何故?

理由なんて聞くな!理由は私の存在そのものだ!

NHK「君が僕の息子について教えてくれたこと」:環世界がつながる瞬間の奇跡

2014-08-28 14:36:10 | テレビとラジオ
この番組は、自閉症を抱える作家、東田直樹氏が書いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』が世界各国でどのように受け止められたかについてのドキュメンタリーである。

この本は、アイルランドの作家、デイヴィッド・ミッチェル氏によって翻訳され、世界中でベストセラーになった。

彼自身も自閉症の子どもがおり、その子との接し方に悩んでいた時にこの本に出会ったのであった。

たまたまミッチェル氏は日本に住んでいた経験があり、ある程度、日本語が読めたため、この本を理解することが出来たのである。

私はこの番組を見るまで、この本の存在を全く知らなかった。

この本が大きなインパクトを持った最大の理由は、この本が、今まで何を考えて行動しているのか分からなかった自閉症の人たちの思考や感覚の一部を、言葉によって説明する可能性を拓いたからである。



言うまでもなく、自閉症の人もそれぞれ思考は異なるし、趣味だって異なる。能力も色々である。

無知を承知で申し上げれば、東田氏は高機能自閉ということなのかもしれない。

高機能自閉と言えば、私が敬愛するテンプル・グランディン博士がいる。彼女もまた自らの手で自閉というものを分析していた。

東田氏の本は、自閉症の人たちがしばしば共通して取る、「不可解な」行動の理由を人文学的に説明する。

その文学性こそが、世界中の人々に彼の世界、さらには自閉症の世界の一端を理解させる力になっている。



この本の最も重要な点は、自閉症の人たちに人間としての尊厳があり、社会的な主体性があり、声を上げるに十分な思考があることを明らかにしたのだ。

つまり、自閉症を患っているということは、不完全で擬似的な人格なのではない。そうした人もまた、誰とも価値の違わない立派な人格を備えた存在なのである。

もちろん、自閉症の人が誰でも東田氏と同じように感じているわけではないだろう。

しかし、この本は身近な自閉症の人たちが感じていること、考えていることを知るための手がかりや、出発点を提供している。



この番組を見ていて私がとても興味を持ったのは、東田氏が感じていることを私も少なからず感じていたということだ。

それは私が自閉症だという意味ではなく、人間は多かれ少なかれ、人間が構成する社会的ネットワークに適応しきれていないということであり、他者の感情を読み取ることで多くの苦痛を感じているということである。

彼は「人の視線が痛い」と言う。確かに彼に向けられる視線は特別なものだろう。

けれども、人の視線が痛い、ということは私も強く感じている。

日本にいる時の居心地の悪さは、それ以外に形容しがたい。

イギリスにいる時の私の自由さは、この視線からの解放だった。

私も人と目を合わせるのは苦手だ。

私も自分をコントロール出来なくなることがよくある。

実際、私の妻は私を発達障害スペクトラムのなかで軽度にある、と考えている。

だが、それは社会的には相当数の人間が当てはまるものではないかと、私は推測している。

私が言いたいのは、自閉症の人たちを「他者」と勝手に決めつけないでほしい、ということなのである。

我々は何らかのかたちで、我々の体に窮屈さを感じている。

程度の差がどれだけあるのか、ということなのではないだろうか。



そんな、ややこしい話はさておいて、私はこの番組を見て泣いた。

何故だろう。

それはおそらく、人間それぞれがもつ環世界がつながった瞬間を見たからだ。

環世界とは、人間を含む生き物がそれぞれに感じている世界のことである。

生き物はそれぞれの器官をもち、それにしたがって「世界」を構成している。

人間のような五感によって構成された世界ばかりが「世界」ではない。

だが、突き詰めれば、人間がそれぞれに持っている環世界も同じではない。

それが自閉症の人と自閉症ではない人の間で、明確になっているだけなのである。

だから、人間の環世界同士がつながることが、本当に奇跡なのである。

私は単に良いことを言おうとしているのではない。

それこそが、私が小さい頃から感じてきたことだからなのである。

私はいつもいつでも、他人と世界が決定的にズレていると感じてきたし、それをひどく不安で苦痛に感じてきた。

私が社会科学の研究者になったのは、そうした感覚が根本的な動機にあるからだろうと思う。

だから、私は環世界が少しでもつながる、ということに激しく感情を揺さぶられるのである。

けれど、きっとそれは人間だれしもそうなのではないか、とも思う。

だからこそ、きっとこの番組は反響を呼んだに違いないと私は考えるのである。

権威主義的教育は、笑えるか。それとも笑えないか。

2014-08-27 13:40:41 | テレビとラジオ
『水曜日のダウンタウン』が良い。くだらないが、しかし、同時に相当攻めている企画が多い。

もうかなり前の話になるが、「PL学園野球部がこの世で最も地獄なのかどうかを検証」するという企画があった。

様々な高校および部活の「指導」の仕方が話題にされた。



日本で学校生活を送った人々にとって、権威主義的な教育はよく聞く話だ。

実際に自分で体験した人も多いだろう。

権威主義的教育の特徴は幾つかある。



まず徹底的な「禁止」があげられる。

何より「娯楽」を禁じられる。雑誌や菓子、映画およびテレビなどがそこに含まれる。

この「娯楽」には極端な場合、一切の情報収集も含まれることがある(テレビや雑誌が禁じられる以上、新聞の禁止までの距離は短い)。

また、移動の自由もそこに含まれる(移動の自由、それはすなわち「脱走」なのである)。

簡単に言えば、刑務所、あるいは軍隊と同じ仕組みなのである。

部活の場合、娯楽だけではなく、かつては「水分補給」が禁じられる場合もあった。『水曜日のダウンタウン』では、窓を開けること、すなわち酸素の吸入を制限される、という部活に言及があった。



もうひとつは「暴力」である。

明確な理由や合理的な根拠がないまま、殴られたり蹴られたりする。

抵抗する意志というのは、極度の疲労と極端な存在価値の否定によって、失われる。

洗脳が言葉と物理的な暴力によって実行されるのは、そのためである。

番組で登場した「教育」は「洗脳」と同じ手法であった。

教育と洗脳は距離が近い。

距離が近ければ、教育は教化になる。

そもそも教育が社会のなかで機能する人間を作り出すことである以上、それもある種の洗脳なのである。

ただ、洗脳によって生み出される人間は、無意味なまでにルールに従順で、自分が受けた暴力を下位の人間に数倍にして与える、抑圧移譲を行うためだけに存在する空っぽの主体である。



ゲストのひとりの経験が興味深かった。

そのゲストが入っていた部活の顧問は、元々日本軍の軍人だったそうである。

それゆえ、軍隊の訓練がそのまま部活に応用されていたのだと。

軍隊と言っても色々だ。日本軍の場合、徴兵で嫌々入ったのか、エリートとして前のめりで入ったのか、によって全く違う。

人間によっては合理性を失い、暴力的になり、戦争を経験することでPTSDに苦しんだりしている。

一体、この顧問はどういう人間だったのだろうか?興味深いところである。

いずれにせよ、徹底的な禁止と暴力による教化がなされていたのであり、それは単純に軍隊の文化だった。



この番組が検証しようとしたテーマにあるように、高校野球こそ、この日本軍式の強化の重要な組織(セル)だった。

それが合理的な文化に変容したのか、それとも全くしていないのか、それは明らかではない。

ただ、幾つかの体育会系の部活の出身者(私より若い)が、「セミを食べさせられた」とか、そういった体験をしてきたのを私は聞いている。



日本人は、とにかく残酷SHOWが大好物なのである。

高校生がボロボロになって、野球以外の目標が無くなって、そして、試合に負けて嗚咽するのを見たいのである。

野球部を何らかの理由でドロップアウトして社会的にも排除された敗者を前提に、そして彼らを無視し、とにかく最終的に「美しく儚い瞬間」がグラウンドに訪れるのを見たいのである。

自己犠牲と権威主義が好きで好きでたまらない日本人。

その奇天烈さと気持ちの悪さと、そして悪趣味さ。それが大江健三郎の小説のライトモチーフのひとつであった。



ダウンタウンの『ガキの使い』では、「熱血浜田塾」というかたちで、その教化のパロディが展開された。

とにかく、笑える。不合理な指令によって、塾生たちがボロボロになっていく。

この笑いが今の日本そのものだ。

我々はこれまでも、そして今も実施されている権威主義的教育が、規範的に正当化不可能であることを知っている。

その代り、権威主義的教育を懐かしみ、その不合理さを笑うことが、日本の現状なのだ。

現状存在しているのに懐かしんでいる。そこに「規範的偽善」が存在する。

要するに、笑うことで許容し、諦観しているのだ。

これはなんと無力な笑いだろうか。

音楽番組、ヒキコモゴモ

2014-08-18 16:30:03 | テレビとラジオ
今、日本では音楽番組は夜11時以降が基本になっている。

深夜番組のコンテンツとして、音楽番組は非常に人気だと言っても良い。

ここ2年くらいの音楽番組のなかで、私が特に興味を持ったものを幾つか取り上げたい。



日本の大衆音楽のなかでも、ロックの進歩は著しい。

それが私の実感だ。

ソウル音楽が総じて厳しい状況にあるなかで、ロックは常に元気。

ところが、その最新の潮流、あるいはアーティストの音楽文脈を取り上げる番組は非常に少ない。

これもまた非常に面白い現象だ。

そうしたギャップのなかでも、最新の潮流に何となくアンテナを向けているのが、「魁音楽番付-eight-」(フジテレビ)。

ベーシスト同士の対談など、軽くて面白い企画を通じて、日本の音楽の潮流をちょっとだけ感じ取ることが出来ることがある(そうじゃない場合もある)。



音楽番組で重要なのが、ミュージシャンの力をどうやって引き出すか、という問題。

幾つかの番組はそれに成功していた。

残念ながら終わってしまったが、「アーティスト」(TBS)は素晴らしかった。

音楽家の演奏を小さなライブハウスのセットのなかでやってもらう。

MCの大宮エリーがとにかく最高。ゲストのメンタリティを柔らかくしていき、音楽のための空間が出来ていく。

例えば、クラムボンの原田郁子の回は本当に秀逸だった。この番組でしか出来ないことがあった。



同じように、ミュージシャンの力をうまく引き出しているのが、「The Covers」(NHKBSプレミアム)。

MCのリリー・フランキーのトーク力はもちろんのこと、名曲のカバーをゲストにさせるという企画が素晴らしい。

選曲のセンスだけでなく、解釈力、歌力まで、アーティストが裸になる様子が垣間見える。



逆に、実力不足がモロに露呈しているのが、「UTAGE!」(TBS)。

「夜もヒッパレ」のような仕組みの番組で、ゲストが昔のランキングに沿って、曲をカラオケしていく。

驚くほどレギュラーとゲストの歌が下手なことが多いため、それはそれで正しい音楽番組である。

ただ、見る方は毎回かなり苦痛なレベルなので、成功しているとは言えない。



ライブと言えば、今の時期は音楽フェスだらけである。

WOWOWでは、幾つかピックアップしたり、一挙に流したり色々しているが、見るのは結構きつい。

フェスはやっぱりその場に行かなければ意味がない、ということがよく分かる。

ただ、テレビで見ることで、知らないアーティストを知る機会を得たり、一気に今の音楽の潮流を勉強することが出来るので、かなり便利である。



日本の大衆音楽が元気に発展している今だからこそ、若手の面白いアーティストの対談とライブがテレビでちょくちょく見られたら、本当に良いと思う。

確かそんなことをハマ・オカモトもラジオで言っていた。正確には、ゲストのサカナクションの山口一郎が言っていた、

SMAPの何を我々は消費しているのか?:アイドルの本質

2014-08-07 09:33:46 | テレビとラジオ
急性腸炎になったらしく、発熱し寝込んでいた。昨日、ようやく回復した。

それはともかく、27時間テレビのSMAPのライブがとにかく話題だった。

私も遅ればせながら見た。

なるほど、素晴らしかった。しかし、一体何が素晴らしかったのか、と言われると説明に窮する。



今、SMAPをめぐる評価はどちらかと言えば、かなり高い。

「歌、下手じゃん(笑)」「芝居、一種類じゃん(笑)」という評価が主流だった時期もあった。

しかし、今、そういう「売れてるけど、実力ないよね」という評価は下世話、無粋ということになっている。

まず、かつてのNHKの「プロフェッショナル」において(そして、他の番組でもちょくちょく)SMAP自身が「僕たちは実力がない。だから、5人が全力でやるしかない」とはっきり言ったので、他者がそんなことを批判する意味が無くなったのである。

彼らはトップアイドルにもかかわらず、慢心が少ない。解散をネタに出来るのも、「解散してしまえば、自分たちは無価値」という彼らの自意識を、日本の消費者も一定程度共有しているからである。



もうひとつSMAPの評価を押し上げているのが、彼らの出している「結果」である。

ドラマや映画、芝居、いずれにおいてもSMAPのメンバーは偉大とは言えないまでも、確かな実力を示してきた。

もちろん、彼らの芝居が上手いかどうかは論争的である。

しかし、彼らの代わりが出来る役者を探すのが難しいことも事実。

特にキムタクの役を他の人間がやることは不可能である。なぜなら、キムタクは全ての活動を通じてキムタクを演じてきたのであり、日本の消費者はそれを前提にキムタクを見るからである。

それ以上に重要なのが歌だ。

彼らの楽曲は、本当にずっとクオリティが高い。

デビューの初めからソウル音楽のテイストが混ざっている、ダンサブルなナンバーが多い(だから、ライブがものすごく盛り上がる)。

そして、彼らは90年代から今日に至るまで、確実に着実に売れてきた。代表曲だらけだと言って良い。

R&Bブームの時には「らいおんはーと」、アイデンティティ・ブームの時には「世界に一つだけの花」。

他にも、シンガーソングライター・ブームの時には、「夜空ノムコウ」「セロリ」。

さらに、エレクトロ・ブームの2000年代後半、遂に「Battery」(2013年)を発表。

この楽曲はまさかの全編英語。しかも、韓流に全く負けない、驚くほどのレベルの高いダンスナンバーだった。

2000年代後半のジャニーズの多くが韓流の影響を受け、中途半端なダンスナンバーを売り出したのに対して、SMAPが出したこの曲は、衝撃的なクオリティだった。

彼らは今でも次々と若手実力派アーティストの楽曲を採用する(例えば、さかいゆう、サカナクションの山口一郎)。

さらに、バラエティでも彼らのプレゼンスは高い。特に中居は並みいる芸人を押しのけ、一級の司会者との評価を得ている。



そんな「自意識は低いけれど、やっぱり凄いじゃないSMAP」という時流のなかでの27時間テレビである。

フジテレビはやっぱりフジテレビ。この選択はさすがだ。

SMAPを苦しめるだけ苦しめ、発揮できる実力をすべて発揮させ、そして、ボロボロの彼らが懸命に歌い踊る。

彼らの最大の武器は「一生懸命さ」。何せ、本人たちがそう言っているのだ。

一生懸命だから何なんだ!社会は結果が全てだ!と言う人もいるだろう。

そうだ。社会は厳しい。

だが、我々は一生懸命を消費したいのである。人がボロボロになりながら、笑顔をつくり、踊り歌うところを見たいのだ。

これは一種の残酷SHOWであり、ドラマである。

我々が見たいのは、完璧なパフォーマンスではなく、ほころびがあるものの、感情移入して応援して感動できる主体なのである。

それはAKBも同じで、要するに、それが「日本のアイドル」なのである。

それが27時間テレビでSMAPを通じて我々が消費したものなのだ。



だが、AKBとSMAPは違う。

AKBは学校で、SMAPは職業だ。

AKBは必ず卒業が来る。だが、SMAPに卒業は来ない。

果たして、どちらが本当に残酷な運命だろうか?