それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

NHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」:性悪説で制度設計する以外あり得ない

2014-07-28 14:16:25 | テレビとラジオ
話題のNHKスペシャル。まず、小保方氏にケガをさせたのは、NHK取材班の大失敗である。

はっきり言って、もうSTAP細胞の問題は小保方氏個人の問題ではないのであり、それがNHKスペシャルのメッセージだった。だから、彼女に無理に取材することが効果的とは思えない。



今回このレポートが秀逸だったのは、笹井氏について言及したところだ。ほぼ、そこだけだったと言っても良い。

このレポートが指摘した笹井氏の役割は、次の2点だ。



第一に、小保方氏(を中心とした執筆陣)の論文がネイチャーに掲載されるように修正したのが、笹井氏だった。

それも単なる修正ではなく、論文として一級品になるように構成し直した。

彼の「論文を書く技術」は天才的だったというのである。

どんな論文にも弱いところがある。

文系でも理系でもそうだ。

「論文を書く技術」は、その弱いところを如何に隠し、強い部分を全面に押し出し、そして、その研究上のインパクトをどれだけ分かり易く伝えるか、というところにある。

やはり、その点も文系・理系に共通する。

ただし、文系の場合、論文の構成やデータの扱いに加えて、修辞法という古典的な技術が加わる。もちろん、社会科学の場合、修辞法は原則禁止で(というのも、それで読み手の印象が変わるからであり)、その禁止の範囲内でどこまで修辞法を使うかが、それぞれの筆者の技量ということになる。

話を戻すが、要するに笹井氏は、ネイチャー、セル、サイエンスという有名雑誌に次から次に弾かれた論文を、天才的な力で一級品に変えてしまったのである。

これは凄い力量である。



第二に、笹井氏は単に論文を修正したということにとどまらず、政府、企業、大学からなる再生医療分野の、総合プロデューサーのような存在だった。

彼は研究がどういう意味を持っているのか、企業や政府が何を欲しているのか、どこが予算獲得のツボなのか、天才的に把握していたという。

文系の場合も、予算獲得にツボがある。だが、理系と決定的に違うのは、予算の規模だ。

文系は巨大なインフラを基本的にほとんど必要としない。また、民間企業がべったりくっつくことも少ない。

もちろん、特定の省庁や企業が特定の分野、特定の大学の学部にくっついているケースはあるが、かなりレアだと言っていい。

笹井氏が関わった再生医療分野のカネの流れは、研究街をつくってしまうほどの量だった。

小保方論文は、その彼の構想のなかに丁度良いタイミングで登場したのであり、そのプロジェクトがもし軌道に乗ってさえすれば、爆発的な研究資金の獲得につながったことは疑いえない。

そこから生じる権力構造は計り知れない規模であっただろう。



もちろん、笹井氏=真犯人、という単純な結論で済ますわけにはいかない。

問題は、日本の企業でも大学でも、内部告発を徹底的に弾圧する風土があることだ。

制度上、企業も大学も内部告発を形式的に認めているだけで、制度上は何の保護も与えるつもりはない。

科学者のなかの研究不正を監視する公的な組織もほぼ皆無と言っていい。

研究倫理はあくまで研究室単位で個人個人が徒弟制のなかで教えていくものだというわけである。



10年前の日本の大学なら、この徒弟制度による研究倫理の徹底は機能していたかもしれない。

しかし、今は違う。

決定的なのは、学生の大学間の移動が奨励され始めたことである。

私は文系の研究者なので、あくまで文系の話になるが、この10年で大学間移動の評価は180度変わった。

以前は、大学を移動する人間はキワモノ扱いされがちだった。

ずっと一所にいる学生を模範としてきた。

ところが、この10年の間に、公的資金の獲得においても、就職活動においても、大学間移動はむしろ優れた人材の証明と見なされるようになった。

私自身も留学とともに、指導教官を変えることになった。それはより専門的な教育を受け、研究を実施するためだったわけで、この変化は決して不思議なことではない。

そして、小保方氏も見事に研究室を渡り歩いてきた(さらには、文科省お墨付きの研究資金を次から次に獲得していった)。




人材の流動性を高めることは、単に優れた人材が国内外を移動することを意味するだけでなく、若手研究者を不安定な立場に追いやってもいる。

結果を出さなければ、生活も研究も行き詰るようになっている。

この点も見逃してはならない。

近年、大学院の重点化が先走り、研究者の人数が増加し、立場の不安定化に拍車がかかってきた。



ところが、人材の(グローバルな)流動化を推し進めておきながら、公的な制度として、研究「不正」を監査する機能は、どの研究機関も大学も政府も構築してこなかった。

これが最大の問題である。

すなわち、研究「不正」を押しとどめていた組織文化の破壊と、「不正」をはたらくインセンティブの醸成が同時に成立しているのが、今の日本である。



だが、日本ではそのことに目をつぶってきた。

そもそも、研究の世界だけではなく、広く一般的に日本では内部告発を否定してきたのである。

内部告発をした人間がその後、弾圧された事例として、雪印の事件が今も私の記憶に強く残っている。

内部告発は、いわば告発者の社会的ネットワークを破壊することにつながる。

ところが、国家は全くそのことに無頓着で、社会もまた告発者への制裁は当然としている。



以上から明らかなことは、これから日本での研究不正は増加するしかない、ということだ。

増加する理由はあっても、減少する理由がひとつもない。

ちなみに、不正を働いているのは、理系だけではない。文系にもある。

海外の論文の主張をそのまま自分の論のようにする研究者や、適当な論文を複製して業績を増やしたり、おかしな引用、出典、データを利用したり、とにかく色々見受けられる。

だが、文系の場合、動くお金の量があまりにも少ないので、問題にならない。

ただ、一部の真面目な研究者の間で、そういう研究が無視されたり、さげすまれたりするだけでなのである。

このSTAP細胞の問題は、また必ず社会問題として日本に再登場する。

その時はきっと全く別の研究者による、全く別の研究分野で。

バンプ・オブ・チキンがMステに出た件:コミュニケーション障害について歌うバンドとメディア露出

2014-07-26 22:31:24 | テレビとラジオ
バンプ・オブ・チキン(以下、BOCと略記)がミュージック・ステーションに出演した。

バンプ・オブ・チキンはこれまでTVには基本的に出演してこなかった。

だから、今回のMステ出演は一部でずいぶんと話題になっている。

なぜ、やたら話題になるのか。

それは、コミュニケーション障害について見事に歌い上げているBOCが、TVに露出すること自体によく分からない強い不安、あるいは一種の悲しみを感じるからだと私は思う。

BOCの歌が私は好きだ。私は藤原氏の書く歌詞に強烈に共感している。

BOCの曲は自分に寄り添う。これは単なるラブソングを歌うバンドへの支持とは全く異なる。

曲と自分の距離がとても近くなる。

テレビは、その距離感と食い合わせが酷く悪い。

テレビは演者と視聴者の間にとても距離があるメディアだ。それはとても不思議なことだ。

例えば、ラジオと比べるとそれは明確になる。

BOCはひっそりと自分の傍にいてほしいと、おそらくコミュニケーションに問題を抱えるファンの多くが感じているのではないか。

だから、奇妙にもBOCのMステ出演には、賛否の両方が出てきたのである。



では、他のバンドはどうだろう。

比較したいのは、SEKAI NO OWARIだ。

彼らの楽曲は、ひとつの世界観で一貫して作られている。

SEKAI NO OWARIをよく理解しないで批判することは容易い。しかし、よく理解したうえで批判することは苦しい。

彼らの楽曲に一貫しているのは、歌詞の主人公が明らかに強烈なコミュニケーション障害を抱えている点で、しかもその克服が仮想空間のなかでの克服なのではないか、場合によって単なる空想なのではないか、と示唆する点だ。

例えば、代表曲RPGは典型だ。

「空は青く澄み渡り 海を目指して歩く

怖いものなんてない 僕らはもう一人じゃない」

そして、題名の「RPG」。

冒険、絆、そして、それはまるでゲームの世界。

もう一人じゃなくなる前は、どれだけ孤独だったのだろうか。

でも、今感じているその絆はそれはリアル?それともバーチャル?あるいは、空想?

では、リアルの世界ではどうか。

ライブのなかで一際異彩を放つ一曲が、「銀河街の悪夢」である。

これは精神疾患を患った人の長い一日を歌ったものである。

これがリアルで、先の曲がバーチャルだったら、本当に辛い話である。しかし、それは日本に沢山いる若者の話である。

この明暗の世界観が背中合わせになっていることで、SEKAI NO OWARIはアーティストとして、とても深いのである。

SEKAI NO OWARIの世界観は、メディアに非常に強いと私は思う。

曲はJPOPへの尊敬が随所に込められている。だから、驚くほどキャッチーで沁みてくる。

そして、歌詞は奇妙なほどバーチャルで、奇妙なほどコミュニケーション障害で、しかし、とても明るくファンタジックなのである。

こんなにテレビに向いているアーティストがいるとは思えないほどの世界観。そして、彼らはあまりにも個性的であり、技巧的なのである。



BOPとSEKAI NO OWARIは、ともに強烈なコミュニケーション障害系バンドとしての共通点がある。

しかし、両者の世界観は似ているが、アプローチが決定的に異なるため、テレビ出演の是非が支持者のなかで変わらざるを得なかったと私は解釈している。

ドラマ「アラサーちゃん」:すべてがコジれた少子高齢化社会の教科書

2014-07-26 20:59:01 | テレビとラジオ
マンガ『アラサーちゃん』がドラマ化された。

私は原作のファンである。

主人公はアラサーの女性。有名私大出身で、年収およそ500万。日本のなかの典型的な女性像ではないが、結婚しないで恋愛を楽しむ、一定程度自立した女性像である。しかし、結婚願望がないわけでは決してない。

『アラサーちゃん』の面白さは、主人公が暴露していく人間の「自意識」である。自分は「こういうキャラクターとして認知されたい」、「こういう狙いで行動しています」というのを次から次へと見抜いていく。

男性から可愛く見られるための様々な言動、あるいはその反対に、サバサバしていると見られるための言動。人とは違う人間ですアピール、俺、もてるんだよねアピール。とにかく、次から次へと人間の心の痛点が突かれていく。

それが面白いのは、我々の多くがその自意識を共有しているからであり、そういう自意識の暴露を日々心のどこかで行っているからである。



ドラマでは、主人公を壇蜜が演じている(演技は以前よりも良くなっている)。さらに、ライバルのゆるふわちゃん(可愛いを追求する女子代表)は、演技に定評のある、元セクシー女優のみひろ。

他のキャストも原作にかなり忠実で、ファンとしては大満足の第一回目の放送であった。



女性も男性もある一定の社会階層に入ると、なかなか結婚できなくなる。

これは私の周りで明確に起きていることだ。

結婚する経済的理由が少なく、結婚しなければならないという強烈なコンプレックスもなく、「タイミングが合えば、良い人がいれば」が口癖になっている。

つまり、自由を勝ち取った人間である。これは本当に素晴らしいことだ。

かつて日本の社会では、女性は結婚しなければ生活できなかったし、男性も独り身では安定した日常生活を送るのは難しかった。

家事は大仕事で、家族制度は公的にも私的にも人間を縛る、強烈な制度であり、規範だった。

そうした束縛から多くの日本の社会の人々が自由になったのだ!

「アラサーちゃん」はそのことを示唆する。



ところが、そんな現代を生きるアラサーの我々は、いまや自意識の奴隷なのである。

自分の趣味、性的嗜好、社会的ステータスなどなど、とにかく自分のアイデンティティの構築と、パートナー選びが密接になり過ぎて、今度は誰も選べない社会になってしまった。

さらに言えば、友達を作るのも大変だ。お互いの自意識を深読みしすぎて、もう色々面倒なのである。

残酷な「アラサーちゃん」のテーゼはそこにある。



かく言う私もそうだ。とにかく、考えているのは周囲の人間との適切な距離の取り方。

いや、相手には適切でなくても、私の近くに来すぎてくれては困ることがしばしば。

そういうことが私の本業のノイズになる場合、シャットダウン。

でも、私は結婚した。

私は非モテで、アイデンティティが面倒くさいレベルでごちゃごちゃしていて、相手に自分の深い理解を必要としているため、適切な人間の選択の余地がなかった。

逆に言えば、奇跡的に私を受け入れる人がいたので、その人を選んだのである。

大体、私をパートナーとして選ばないわけで、結婚とは歴史的にも、そして現在も制約によって生じるものだ(あるいは、何らかの強烈な支配と拘束によって生じる)ということが、以上の雑な考察から分かる。

テラスハウス:ようやくフランキーによって本質的な部分に至る

2014-07-15 08:51:38 | テレビとラジオ
テラスハウスが話題になってから、私が最も苛立っていたのは、家をシェアすることがそのまま恋愛につながる、という安易で馬鹿げた発想が各所で当たり前のように出始めたからだ。

日本の文化圏の人々は、男女で同じ家をシェアするということに抵抗があるか、無くてもすぐに恋愛に結びつけてしまう。

けれども、実際そうではない。

今回、フランキーという芸術家がいた間のテラスハウスは比較的、家をシェアすることの本質の一部に触れていた。

フランキーはテラスハウスを出ていく段階に至り、こう告げた。

これまで友達を作らない分、創作活動をすることで、少しでも前に進んできたと思った。でも、テラスハウスに来てから、友達との時間を犠牲にして、創作活動の時間をつくるべきではないのではないか、という思うようになった。何もかも犠牲にして得られる成功って何なのだろう、と。

僕も全く同じ考えで研究に打ち込んできた。

そして、留学先でやっぱりフランキーと同じように自分の考えが間違っていたと思い直した。

家をシェアするということは、自分の価値観を他者の価値観とぶつけ、すり合わせ、そして、より洗練されたものにすることにつながる。

自分が正しいと思っていることの大半は思い込みであり、気づいていないだけで利己的なものだ。

けれど、自分を変えるのは難しい。誰だって、自分をさらけ出さずに人と生活するようにしている。

誰かと一緒に暮らすということは、そんな強固な自分に強烈な圧力を加えることだ。

同じくハウスのメンバーで、フランキーの友人となった一平の変化もこれと同じだ。

自分が何をやっているのか、何に向き合っているのか、彼は他者との生活を通じて改めて考えなおしたのである。

こうやって日本でシェアハウスの偏見が無くなっていく、といいなあ。